Netflix映画『カマキリ』を観るべき3つの理由 “強さとは何か”を問う、優しすぎる殺し屋の物語

カマキリ
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Netflix映画『カマキリ(Mantis)』は、あの名作『キル・ボクスン』のスピンオフとして登場した韓国発のスタイリッシュ・キリングアクション。

主演はイム・シワン。冷酷な殺しの世界に生きながら、“優しさ”を手放さない男ハヌルを演じ、そのギャップが観る者の胸をえぐる。

だがこの作品、本当に観るべきなのか?ただの“バトル映画”ではない、『カマキリ』が語る“強さと弱さの境界線”について、深掘りしていこう。

この記事を読むとわかること

  • Netflix映画『カマキリ』の核心と隠れた魅力
  • ハヌルとジェイの“語られなかった感情”の正体
  • 優しさを捨てない強さが心に残る理由とは?
  1. 『カマキリ』は観るべきか?──“やさしさ”を抱えたまま戦う男の物語
    1. ハヌルの「弱さ」は偽り。愛ゆえの不器用な優しさが光る
    2. “殺し屋スタートアップ”という笑える地獄設定が、逆に刺さる
  2. 『キル・ボクスン』とどう違う?──“母性”から“ライバル愛”へ
    1. 『キル・ボクスン』が描いた「家庭と仕事の二重奏」
    2. 『カマキリ』は「勝てない相手を想い続ける」関係性に主軸がある
  3. アクション映画としてはどうか?──“三つ巴”の決闘に詰め込んだ魂
    1. スタイリッシュ殺陣の美学:両手鎌×片手剣×トンファー
    2. ただし『ジョン・ウィック』と比べてはいけない
  4. キャラで観る『カマキリ』──感情が物語を連れてくる
    1. ハヌルとジェイの「語られなかった言葉」が最後に刺さる
    2. トッコ爺はただの師匠ではない、“旧世界”の象徴だった
  5. 韓国アクション映画の中で『カマキリ』が立つ場所
    1. “業界”という比喩と、“生き残り”というリアリズム
    2. 韓国映画が描く“家族なき戦場”というモチーフ
  6. 「勝ちたかったんじゃない。認めてほしかっただけ」──ジェイという名の孤独
  7. Netflix映画『カマキリ』で語られる“強さ”の正体とは?まとめ
    1. やさしさを隠さずに、強くあろうとした男の物語だった
    2. 観る者の「感情の鎌」をそっと研いでくれる作品

『カマキリ』は観るべきか?──“やさしさ”を抱えたまま戦う男の物語

もし君が『キル・ボクスン』に心を持っていかれたなら、この『カマキリ』は観て損はない。

ただし、同じ熱量を求めると肩透かしを食らうだろう。

それでも観るべき理由が、ここにはある。なぜならこれは、“戦わない強さ”を選んだ男の話だからだ。

ハヌルの「弱さ」は偽り。愛ゆえの不器用な優しさが光る

ハヌルは元MK社のエース暗殺者。両手に鎌を持ち、獲物を華麗に刈る殺しのプロ。

にも関わらず、彼の言動はどこか間の抜けた“ピュアさ”で満ちている。

「弱い」と思わせておいて、本当は最強。でも、その強さを振りかざさない。

この設定だけ聞けば、ベタだ。『シティーハンター』でも『るろうに剣心』でも見てきた“強くて優しい男”の典型。

でも、ハヌルの優しさは“戦場の外でしか語れない”という哀しみを纏っている。

特に印象的なのは、ジェイとの決闘シーン。

彼は自ら「負けたフリ」をすることで、ジェイのプライドを守ろうとする。

その選択が、結果的に自分の評判や立場を失墜させることをわかっていて、だ。

ここで思い出すのは、「誰かのために手を抜く」ことの矛盾と痛み

人は誰かのために強くなることはできるけど、誰かのために「弱くなる」ことは、もっと難しい。

ハヌルはそれを選んだ。

彼の本当の戦場は、武器を交えるところじゃない。

“誰かを傷つけずに、自分を証明するにはどうすればいいか?”を問い続ける、その心の中なのだ。

“殺し屋スタートアップ”という笑える地獄設定が、逆に刺さる

『カマキリ』の中でひとつ異彩を放っていたのが、“殺し屋によるスタートアップ企業”という設定だ。

これはもう、ほぼコメディに近い。

営業先は殺人フェチのIT社長、社員は元殺し屋仲間、そして社名が「カマキリ・カンパニー」。

笑える。けれど、笑っていられない。

なぜならこれは、現代社会のメタファーだからだ。

会社を辞めたエース人材が、仲間を集めて起業する。

でも資金はない。営業もうまくいかない。既存の大企業からは潰されかける。

──これ、殺し屋じゃなくても、我々の日常にありふれた話だ。

ここに“社会への風刺”が潜んでいる。

『キル・ボクスン』では母と子という「家庭の地獄」を描いたが、

『カマキリ』は“起業という戦場”を通して、「自由とは、孤独と背中合わせ」だという事実を描いている。

その自由の代償が、“誰にも頼れない場所で、自分の刃を研ぎ続けること”なのだ。

そう思うと、殺し屋スタートアップのドタバタは、笑いながらも胸が痛くなる。

この映画、アクションに期待して観た人ほど戸惑うかもしれない。

でも、人生のどこかで“自分だけで何かを始めたことがある人”には、ハヌルの姿が沁みる。

彼が最後に見せる本気の“鎌さばき”は、仲間と理想を守るための覚悟。

それは、起業に限らず、誰かの人生を背負うすべての人にとっての「戦い方」なのかもしれない。

『キル・ボクスン』とどう違う?──“母性”から“ライバル愛”へ

『カマキリ』を語るには、やはり『キル・ボクスン』との対比が不可欠だ。

なぜならこのスピンオフは、単なる“世界観の拡張”ではなく、テーマのリレーだからだ。

『キル・ボクスン』が描いたものは「母性と暴力」──家庭と仕事の二重奏。

では『カマキリ』は何を引き継ぎ、何を断ち切ったのか?

それは、“家庭”の代わりに“関係性”を主語にした点にある。

『キル・ボクスン』が描いた「家庭と仕事の二重奏」

『キル・ボクスン』の主人公は、“母であり、殺し屋でもある”というダブルフェイスを抱えたキル・ボクスン。

娘の前では良き母でありたい。

だが裏ではプロフェッショナルな殺人請負人。

このギャップの中で、「正直になれない親の不器用さ」が丁寧に描かれていた。

愛しているのに、それを伝えられない。

守りたいのに、過去が足を引っ張る。

そのどうしようもなさに、多くの人が「わかる」と頷いた。

母性を主軸にした『キル・ボクスン』は、“暴力の中にある情”を描いた。

特にラストで娘に「正体を知られてしまう」ことで、ようやく本音をぶつけ合う。

あの瞬間、ボクスンは殺し屋ではなく、“ただの母親”に戻った。

そのカタルシスが多くの観客の涙腺を緩ませたわけだ。

『カマキリ』は「勝てない相手を想い続ける」関係性に主軸がある

では『カマキリ』は何を描いたのか?

一言で言えば、「ライバル愛の切なさ」だ。

ハヌルとジェイ。

同じMK出身、同じ実力者、同じく業界の中で生き抜いてきた2人。

けれど、どこまでいっても「勝てない」と感じる相手がいる世界。

特にジェイが「負けたくない」と感じながらも、ハヌルにだけは勝てない自分を知っている。

だからこそ、決闘を申し込む。

でも、その本気を、ハヌルは“優しさ”で受け止めてしまう。

これはもう、「恋愛感情を超えた、崇拝にも近い感情」が交錯しているように見える。

しかもそれが、どちらからも言語化されることはない。

言葉にしないまま、剣を交わし、距離を測り合い、心をぶつけ合う。

『キル・ボクスン』が「母子」であったなら、

『カマキリ』は「戦友」であり、同時に「想い人」だった。

ジェイが涙ながらに「同情心が人を惨めにさせる…」と呟いたとき、

それはハヌルの優しさに傷ついたという、ある種のラブレターでもあった。

この感情の複雑さこそが、『カマキリ』の核だ。

勝ちたい、でも勝てない。

嫌いになりたい、でも好きだ。

その“どこにも置けない気持ち”を、映画は剣と鎌で表現してみせた。

『カマキリ』は、わかりやすい愛を描かない。

だけど、「想っているからこそ、斬り合うしかない」関係性の痛みが、観る者の心に刃を立てる。

それは『キル・ボクスン』とはまた違った角度から、私たちの感情の奥に踏み込んでくる。

アクション映画としてはどうか?──“三つ巴”の決闘に詰め込んだ魂

Netflixのアクション映画というラベルを信じて観た人の中には、「物足りない」と感じた者もいるだろう。

確かに、ガチガチの格闘映画と比べると、『カマキリ』のアクションは少なめだ。

でも、その分、一撃に込められた“意味”が濃い。

この作品においてのアクションは、“物理”じゃなくて“心理”。

戦っているのは、腕力じゃなく、信頼、葛藤、そして感情だ。

スタイリッシュ殺陣の美学:両手鎌×片手剣×トンファー

ラストに用意された“三つ巴の決闘”は、まさにこの映画のクライマックスであり、

それぞれのキャラが武器で「自分の人生観」を語っている。

ハヌルの両手鎌は、距離を詰めて一気に相手を切り裂く“接近戦の鬼”。

その戦い方は、まるで彼の性格そのものだ。

人と深く関わりすぎて、逆に傷ついてしまう。だけど離れられない。

ジェイの片手剣は、しなやかで自由。構えも動きも流れるように美しい。

でもその一撃は鋭く、迷いがない。

「私は私のやり方で生きる」──そんな誇りと孤独が剣に宿っている。

そして、トッコ爺のトンファーは、“古きもの”の象徴。

力技でねじ伏せる、まるで昭和のヤクザ映画のような重たさ。

そこにあるのは、「技」ではなく「威圧」と「格」。

この3人が交わる決闘シーンは、たかが5分。されど、5分にすべてが詰まっている。

刃が交わるたびに、“言葉にできなかった想い”が火花を散らす。

この一戦だけで、映画全体が立ち上がる。

ただし『ジョン・ウィック』と比べてはいけない

もしあなたがこの映画に『ジョン・ウィック』的な期待を寄せていたなら、すぐに引き算してほしい。

『カマキリ』は、“アクション映画風ヒューマンドラマ”であって、

“格闘映画”としてのクオリティ勝負はしていない。

例えば、インドネシア映画『ザ・レイド』のような骨太でゴリゴリのバトルもない。

銃撃戦も少なく、肉弾戦にしても手数が多いわけではない。

その代わりにあるのは、感情の「予備動作」だ。

一歩踏み出すまでの間。

斬ると決めるまでの沈黙。

その“溜め”こそが、この作品の見どころ。

“何を思って、その一撃を振るったのか?”

観ているこちらも、いつの間にか心の中で戦ってしまっている。

『ジョン・ウィック』は「殺す快感」を突き詰めた映画だ。

一方で『カマキリ』は、「殺すしかなかった葛藤」を描いた映画。

同じ“殺し”を扱っていても、その温度と意味がまるで違う。

つまり、『カマキリ』のアクションとは──

「決断の物語」なのだ。

この一撃を振るった後、元の自分には戻れない。

そう知りながら、それでも刃を抜く。

その瞬間に宿る、“人間らしさ”こそが、この映画のアクションの正体だった。

キャラで観る『カマキリ』──感情が物語を連れてくる

『カマキリ』という映画は、ストーリー展開だけを追っても、正直そこまで目新しさはない。

だが、それでも“観る価値がある”と感じる理由がある。

それは、キャラクターが感情の熱で動いているからだ。

設定や展開の上に“感情”が乗っているのではない。

むしろ逆。感情が先にあって、それが物語を動かしている。

ここが脚本の設計として美しい。

ハヌルとジェイの「語られなかった言葉」が最後に刺さる

ハヌルとジェイ。この2人の関係性が物語のエンジンだ。

かつて同じ組織に所属し、今は共に起業する仲間。

だが、物語の奥底で動いているのは、“それだけじゃない感情”だ。

ジェイは、いつもハヌルを見ていた。

その強さに嫉妬し、自分にはないものを感じ、でもそれを口にすることはない。

「あなたには一生、勝てない」──この事実を、ずっと胸に抱えてきた。

そしてハヌルも、それをわかっていた。

だからこそ、ジェイを“傷つけない強さ”を選んだ。

けれどその優しさが、彼女にとっては「見下し」に見えてしまう

この“言葉にしない感情のすれ違い”が、ずっと2人の関係を曇らせていた。

終盤、ジェイが流す涙は、後悔や怒りじゃない。

「どうしてあなたは、そんなに優しいの?」という問いへの答えを、自分がもう知ってしまっていたからだ。

同情じゃない。

誇りを守るための嘘じゃない。

ハヌルの本気は、最後の刃に宿っていた。

そしてジェイもまた、その一瞬で全てを悟る。

2人の関係は、けして恋愛ではない。

けれど、それ以上に深い、“魂の競争相手”としての絆があった。

そこに言葉は要らなかった。

むしろ、語らなかったからこそ刺さったのだ。

トッコ爺はただの師匠ではない、“旧世界”の象徴だった

一見、映画を締めるラスボス的存在──それがトッコ爺だ。

だが彼の役割は、ただの“強キャラ”ではない。

トッコ爺は、旧暗殺業界のルールと価値観の象徴だった。

彼が持つのは、技でも知識でもなく、“時代の論理”だ。

「未成年は殺すな」など、かつてあったルールを掲げながらも、

時代が変わってもなお、“俺たちのやり方”を押し通す存在。

それは一種の支配だ。

ハヌルとジェイの新しい会社は、その呪縛からの“自立”を意味していた。

でも、トッコはそれを許さない。

だからこそ、ラストの“三つ巴”の決闘は、“旧体制”と“新時代”の断絶を描いた戦いでもあった。

ハヌルがトッコを殺さずに済ませようとしたのは、“情”ではない。

「もうあなたの時代は終わった」という、宣告だ。

だがそれをジェイが刺してしまったのは、

まだ“感情”が時代に追いついていなかった証だ。

「強さとは何か?」「正しさとは何か?」

それは武器では決着がつかない問いかけだった。

だからこそ、キャラたちが動くたびに、こちらの感情もざわつく。

『カマキリ』という映画の主役は、物語ではなく感情そのものだった。

韓国アクション映画の中で『カマキリ』が立つ場所

『カマキリ』は、“地味な傑作”だと思っている。

ド派手でもない。話題性も限定的。

それでも、この映画は今の韓国アクション映画の「ある地点」を記録した作品だ。

韓国映画はこの10年、“暴力の意味”を問い直してきた。

ただ殺す、ただ復讐する──そういった単純な暴力は、もう観客に届かない。

その中で『カマキリ』は、「殺し屋業界」を比喩として使いながら、現代社会のリアルを描いた。

“業界”という比喩と、“生き残り”というリアリズム

劇中に登場する殺し屋の“業界構造”──これはもう完全に現代社会の風刺だ。

MK社という巨大企業。

そこからスピンアウトした元社員たちが、新会社を立ち上げてサバイブする。

営業、赤字、社員教育、ライバル企業との駆け引き──

それらが全部“殺し屋の文脈”で描かれているのが面白い。

これって、たとえば“映像業界”や“IT業界”にも通じる。

大手から独立し、仲間と共に自分たちのやり方で戦う。

でも、自由の代償として「守ってくれるもの」は何もない。

生き残るか、消えるか。

そういうリアルな「市場の残酷さ」が、この映画には確かに息づいている。

「俺たちは業界に必要とされているのか?」

「力じゃなく、信頼で生きていけるのか?」

ハヌルたちの問いかけは、まさに現代を生きるすべての労働者への問いでもある。

韓国映画が描く“家族なき戦場”というモチーフ

近年の韓国映画が繰り返し描くテーマがある。

それは、「家族という庇護の崩壊」だ。

『パラサイト』しかり、『キル・ボクスン』しかり。

かつて物語の“安全基地”だった家族は、いまや疑念と対立の場になっている。

『カマキリ』にも、家族は出てこない。

ハヌルにもジェイにも、守る家庭はない。

代わりにあるのは、“疑似家族”とも呼べる会社という共同体だ。

だけどその会社もまた、理想だけでは生き残れない。

資金が尽きれば終わり、仲間が裏切れば崩壊。

信頼は紙よりも薄く、裏切りは刃よりも鋭い。

この“不確かな共同体”の中で、登場人物たちは必死に居場所を探している。

ときに戦い、ときに譲り、でも最後には“選ばなければならない”。

誰と一緒に生きるのか。

誰を守り、誰を切るのか。

それがこの映画の根底にある、最もリアルで、最も切ないテーマだ。

『カマキリ』はアクション映画を装った、“選択の物語”なのだ。

愛か、信頼か、理想か、生存か。

その中で揺れながらも、剣を抜いた者だけが、次の時代へ進める。

それはまるで、今の私たちの社会そのものじゃないか。

「勝ちたかったんじゃない。認めてほしかっただけ」──ジェイという名の孤独

この映画、最後まで観て感じた。

主役は本当にハヌルだったのか?と。

確かに物語の中心には彼がいて、彼の選択で物語は動いた。

けど、物語の“感情の起点”は、いつもジェイだった。

彼女はずっと、自分より強い男と歩いてきた。

そのたびに誇りを守る言葉を探して、戦うふりをして、笑っていた。

でも、どんなに剣を振るっても、ハヌルには勝てなかった。

──本当は、勝ちたかったんじゃない。

「同じ場所に立ってるって、あなたに思ってほしかっただけ」

そのプライドと劣等感のせめぎ合いが、彼女を突き動かしていた。

そして、その気持ちが一度も“正面から言葉にならなかった”ところに、リアルな痛みがあった。

たとえば現実でもある。

褒められたいのに、褒めてほしいって言えない。

認めてほしいのに、「気づけよ」と心で叫ぶ。

それでうまくいかなくて、こじれて、離れていく。

そういう“言えなかった感情の亡霊”みたいなものが、ジェイの背中にはずっとついてた。

そして、ハヌルの優しさは、彼女にとっては刃になった。

やさしくされると、自分の弱さがバレる気がして、逆に惨めになる。

ラストシーンでのあの涙。

あれは「勝てなかった」悔しさじゃない。

ずっと一人で抱えてた想いが、ようやく壊れた瞬間だった。

だから刺した。だから離れた。だから託した。

ジェイというキャラクターのすべては、“黙ってしまった感情”の塊だった。

この映画は、感情の刀が何本も交差する物語だ。

でも一番深く刺さってるのは、ハヌルの刃じゃない。

ジェイの「言えなかった想い」なんだ。

『カマキリ』を観るなら、もう一度ジェイの目線で観てみるといい。

あの静かな剣さばきの奥に、“人を想いすぎて壊れていく心”が見えるはずだ。

Netflix映画『カマキリ』で語られる“強さ”の正体とは?まとめ

この映画を観終えたあと、心に残るのは血や暴力ではなく、「優しさと覚悟のあいだで揺れる人間の姿」だった。

殺し屋という極端な職業設定の中で描かれたのは、意外なほどに静かな感情の物語だった。

そしてそれこそが、この映画の強さだった。

やさしさを隠さずに、強くあろうとした男の物語だった

ハヌルは強かった。

けれど、ただ相手を倒すことで証明しようとはしなかった。

“誰かを傷つけないために手加減する”という、もっと難しい選択を続けてきた。

それは、優しさではあるけれど、同時にとても孤独な戦いだった。

ジェイに誤解され、仲間からは見放され、それでもハヌルは信じた。

「人を殺すこの世界でも、優しさは捨てなくていい」と。

そういう強さは、目立たない。

称賛もされない。誤解ばかりされる。

でも、その姿勢こそが、“本当の強さ”だった。

そして、最終決闘でその強さがほんの一瞬、剥き出しになる。

本気で戦ったその一撃に、すべての想いが宿っていた

観る者の「感情の鎌」をそっと研いでくれる作品

この作品を観て感じたのは、暴力の快感ではなかった。

それよりも、「自分も誰かに優しさを装って傷つけていないか」という、静かな問いかけだ。

ハヌルのように、相手を想うがゆえに手を抜いた経験。

ジェイのように、それが「見下し」と受け取ってしまった経験。

誰の中にも、そのどちらの感情もきっとある。

だからこそ、『カマキリ』はただのアクション映画では終わらない。

観た人それぞれの胸の中にある“感情の鎌”を、そっと研ぎ澄ませる。

それは、明日から少しだけ人に優しくなれるような、そんな静かな強さだ。

この映画の強さは、静かで、脆くて、でも確かに心に残る。

そしてきっと、何かに負けそうなとき、思い出すだろう。

「優しさを捨てない選択肢も、ちゃんと“強さ”になるんだ」って。

この記事のまとめ

  • Netflix映画『カマキリ』の核心と見どころ
  • ハヌルの“優しさ”という名の強さ
  • ジェイとの語られなかった関係性の深さ
  • 殺し屋業界=現代社会の比喩構造
  • 三つ巴の決闘に込められた感情の衝突
  • 旧体制vs新世代という世代交代のテーマ
  • アクションに宿る心理戦の美学
  • ジェイというキャラに潜む“崩れそうな感情”
  • 声にならない想いが刃を交えるラストの余韻
  • 「優しさを捨てない選択」こそが本当の強さ

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