『相棒season18 第1話「アレスの進撃」』は、右京(水谷豊)の“突然の失踪”という衝撃的な幕開けから始まる、2話連続スペシャルの前編です。
ギリシャ神話の戦神「アレス」が示唆するのは、単なる暴力ではなく、「暴走する正義」が生む悲劇。そしてその象徴こそが、元レンジャー・岩田純(船越英一郎)という存在です。
この記事では、右京の行方、アレスの意味、連続殺人との繋がり、そして舞台となった“信頼と友好の館”の秘密まで、1話のすべてを徹底的に読み解きます。
- 『アレスの進撃』が描く“正義の暴走”の構造
- 杉下右京の不在が意味するシリーズ的転換
- 幻想と現実が交錯する演出の意図と狙い
右京の失踪の理由は?アレスの進撃に隠された意味とは
右京が消えた――。
しかも、一週間も。
これだけで、もう普通の事件じゃないことはわかる。
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右京が北海道・天礼島にいた本当の目的
公式サイトのあらすじでは、「杉下右京が突然、消息を絶って1週間」と記されている。
彼のスマホが秋田の海岸に流れ着き、潮流を逆算するとたどり着くのは、日本最北の孤島「天礼島」――。
なぜ彼はそこにいたのか?結論から言えば、それは“殺人”でも“事件”でもなく、“海岸に打ち上げられるアザラシの死骸”を調査するためだった。
そう、右京はただの警察官ではない。
社会と倫理と生態系のバランスに目を光らせる、「正義の錘」なのだ。
その事実は、島の大学教授・猿若の証言から明らかになる。
猿若:「アザラシの死骸を定期的に監視してもらってた」という言葉が、それを裏付ける。
しかし――。
彼はそこで何か“見てはいけないもの”を見てしまった。
右京を“沈黙”させたロシアンルーレットの正体
物語の中盤、失踪していた右京が発見される。
しかし彼は、正気ではなかった。
白昼夢のような幻想、現実と虚構の境界が曖昧なまま、ただ楽しそうに笑っている。
その理由が「ロシアンルーレット」と呼ばれる脱法ドラッグの摂取だった。
公式情報では明言されていないが、作品中では“キノコの粉末”として描写されている。
これはおそらく、交流施設「信頼と友好の館」で密かに使われていた“催眠的な洗脳装置”とも言える。
右京は何者かにこれを摂取させられ、現実感を奪われていた。
つまり、右京の失踪の本質は、行方不明ではなく「意図的に“無力化”された」ものだったわけだ。
そこには、自分たちの“活動”を見られては困る誰かの意思があった。
右京は「見た」。だから「眠らされた」。
“アレス”=岩田純?それとも正義の暴走のメタファーか
物語のタイトル「アレスの進撃」。
この“アレス”というのは、ギリシャ神話に登場する「戦いの神」である。
その神は、アテナのような知略の神とは違い、暴力、破壊、本能の象徴として知られる。
では、“アレス”は誰を指すのか?
ドラマの中で真っ先に思い浮かぶのは、元レンジャー・岩田純(演:船越英一郎)だ。
彼は特殊部隊の戦闘員としての訓練を受け、格闘では冠城ですら敵わなかった。
娘を奪還するために島に現れ、やがて連続殺人の容疑者として追われる立場になる。
だが。
「アレス=岩田」という公式は、やや単純すぎる。
アレスの進撃――それはむしろ、“正義という名の暴走”そのものではないか。
右京の正義、岩田の父性、館の理念、猿若の監視。
それぞれが“自分にとっての正しさ”を信じて行動する。
しかし、その“正しさ”がぶつかり合うとき、「進撃=暴走」になる。
つまり――。
『アレスの進撃』とは、人の中に潜む“絶対的な正義の危うさ”を描いた物語なのだ。
第1話の終盤で、右京は正気を取り戻し、館内で死体を発見し、物語は連続殺人へと加速していく。
ここから先は、「アレスの“暴走”を誰が止めるのか?」という問いになる。
それは、右京なのか。冠城なのか。あるいは――。
右京と再会するまでの冠城の孤独な捜査
相棒がいない。
それはただの人探しではない。
冠城亘にとって、それは「自分の半分を取り戻す戦い」だった。
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発泡スチロールに包まれたスマホと漂流の謎
右京が姿を消してから、一週間。
彼がロンドンから帰国した記録はある。だが、その後の足取りは忽然と消えていた。
そんな中、秋田の海岸に、右京のスマートフォンが漂着する。
しかも、それは発泡スチロールで丁寧に包まれ、防水処理までされていた。
「誰かが意図的に“届けようとした”もの」、それがこのスマホだった。
潮の流れを逆算すると、出発点は北海道の最果て、架空の孤島“天礼島”。
地図にも名前がないこの島に、右京の痕跡がある。
冠城は、たったひとりでその島へ渡る。
彼のポケットにあるのは、右京が紅茶を飲んでいる写真。
それだけを手がかりに、無数の扉をノックしていく。
こういうとき、彼は絶対に“特命”を名乗らない。
ただ、「杉下右京という人物を探しているんです」とだけ。
相棒とは、そういう存在だ。
「信頼と友好の館」で見えた不穏な空気
冠城が最初に遭遇したのは、若い女性の“拉致未遂”現場だった。
犯人はすぐに逃走するが、残されたのは一人の少女――岩田ミナ。
彼女が暮らすのは「信頼と友好の館」。
日本とロシアの交流を目的とした、共同生活型の民間団体だという。
が、その実態は奇妙だった。
外界との通信は断たれ、携帯電波も届かない。
外部との接触を最小限にし、若者たちが“理想”を掲げて暮らしている。
まるで「洗脳の温室」のように。
その主催者は、甘村井留加という人物。
帝政ロシアの血を引くと自称し、施設を宗教団体ではないと言いながら、絶対的な支配者のように振る舞っている。
冠城の違和感は、そこから膨れ上がっていく。
「なぜ右京がこの施設を訪れたのか?」
「彼はここで何を見て、何を知ったのか?」
その疑念は、のちに連続殺人として現実化する。
猿若教授の発言に見る違和感と伏線
島に住む大学教授・猿若は、「海岸にアザラシの死骸が頻繁に流れ着く」と語る。
そして、それを監視するように「信頼と友好の館」に依頼していたと話す。
だが、ここに大きな違和感がある。
猿若の口から出たのは、すべて“過去形”だった。
「報告をもらっていました」「パトロールしてもらっていました」――。
まるで、もう“報告が来ない”ことを知っていたかのような話し方。
それはただの言い回しなのか?
それとも、教授自身が何かを隠している伏線なのか。
この時点で視聴者にできるのは、“疑うこと”だけだ。
だが、「相棒」というシリーズにおいて、“一見どうでもいいセリフ”こそ、最後に牙をむく。
だからこそ、ここでこの言葉を記憶に残しておくことが重要になる。
右京が“眠らされ”、冠城が“孤独に島を歩く”。
相棒でありながら、それぞれが別々の時間軸を生きている。
だがその時間は、やがて「死体の発見」とともに交差する。
そしてようやく、ふたりは再会する。
だが、事件は終わっていなかった。
交流施設「信頼と友好の館」の正体を暴く
この物語の舞台は、ただの孤島ではない。
人が「正義」と思い込んだ理想がぶつかり合う、密室の世界だった。
その象徴が、“信頼と友好の館”。
平和的な名前を持ちながら、その中で起きていたのは――殺人だった。
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なぜ若者たちは殺されたのか?連続殺人の核心
右京が目を覚まし、最初に見つけたのは甘村井館長の死体だった。
続けて発見される、次々と横たわる若者たちの遺体。
その全員が、「信頼と友好の館」で暮らす若者たちだった。
彼らは夢を語り、理想を掲げ、社会との断絶の中で暮らしていた。
にも関わらず、なぜ彼らだけが選ばれ、命を落としたのか?
手がかりは遺体の状況にある。
館内で見つかった複数の死体には、目立った外傷がない。
だが一部には、“素手で殺害された可能性”を示す痕跡が残されていた。
これは明らかに、「訓練を受けた人間による犯行」を意味している。
そしてそのタイミングで浮上するのが――
岩田純という存在。
元レンジャー岩田純の「父としての正義」が向かう先
岩田純(演:船越英一郎)は、元・陸上自衛隊の特殊作戦群=通称“レンジャー”。
彼は、娘・ミナを救うために、北海道の離島までやって来た。
信頼と友好の館を“カルトに近い団体”と断じ、
彼女を奪還しようと、力ずくで行動する。
それは父親としての正義。
だが、その「正義」は次第に、暴力という手段を選び始める。
彼は言う。
「これは俺の“作戦”だ」
レンジャーの論理、命令、犠牲、目的――。
それが家庭にも流れ込んだとき、“守るべき対象”が、“支配すべき対象”に変わる。
父親としての行動が、殺人犯として疑われる皮肉。
そこに、タイトル「アレスの進撃」の“戦神”が姿を現す。
“正義のために人を殺せる人間”は、戦争の神に最も近い。
甘村井館長の死体が意味する“信頼”の崩壊
甘村井館長(演:団時朗)は、表向きには“日ロ友好の架け橋”を掲げていた。
だがその実態は、若者たちを囲い込み、統制し、理想を盾に自我を封じる閉鎖空間だった。
交流は、目的ではなかった。
「信頼」や「平和」の名のもとに、若者たちの自由を奪っていた。
その“象徴”である館長が、物語中盤で変死体として発見される。
それはつまり――
この館の「理念の崩壊」そのものを示している。
理想を語るリーダーが、最も嘘をついていた。
信頼を叫んだ男が、誰よりも信じられなかった。
だからこそ、彼の死は“信頼と友好の終焉”を意味する。
人は理想を求めて集い、絶望を抱えて去っていく。
その矛盾が、すべてを壊した。
館内に充満する薬物の気配、閉鎖的な支配体制、そして連続殺人。
甘村井の死は、これらの闇をひとつに結びつける“楔”だった。
右京はその現場で立ち尽くす。
冠城は、父親の顔をした戦士・岩田を見つめる。
信頼とは何か? 正義とは誰のためにあるのか?
その答えは、まだ誰にも見えていない。
ロケ地が語るスケール感と「劇場版クラス」の重厚さ
「相棒」史上、この回ほど“劇場版”の空気を纏ったエピソードは他にない。
それを支えていたのが――
北海道ロケという大胆な選択だった。
物語のリアリティを、風景が担っていた。
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奥尻島・室蘭・洞爺湖…12泊ロケが生んだ映像の力
今回の舞台“天礼島”は架空の島だが、実際にロケが行われたのは奥尻島をはじめ、室蘭の地球岬、トッカリショ、イタンキ浜、洞爺湖など。
ロケ期間は12泊。連ドラとしては異例の長期スケジュールだ。
映像には、その努力がしっかりと刻まれている。
潮風にさらされる断崖、荒れる海、港町の生活感、自然光を活かしたロングショット。
それぞれのカットが、“孤立した世界”を語っている。
中でも印象的なのが、冠城が島に降り立つシーン。
視線の先には灰色の海と風に揺れる草原。
「相棒」という日常が、いま“非日常”へと踏み込んだ瞬間だった。
視聴者も、同じようにその景色に引きずり込まれる。
劇場版に匹敵する没入感。
ロケ地の情報は、各公式サイト・ファンブログにより明らかになっており、
チキウ岬灯台、サイロ展望台、有珠山ロープウェイなど、ドラマ内のあらゆる情景が実在の風景とリンクしている。
これは、ただの旅情ではない。
“事件の異質さ”を視覚化するための設計だった。
右京が消えた「現実離れ」した舞台設定の狙い
右京が消えた理由。
それは、誰かに隠されたからでも、自ら逃げたからでもない。
彼は「この島に吸い込まれていた」のだ。
そのイメージを補強するために、スタッフは“非現実的な美しさ”を持つロケ地を選んだ。
たとえば、右京がトリップするシーンでは、
室内の洋館風インテリアが“夢”のように彩られ、光が軟らかく滲む。
あれは現実か? 幻想か?
わからないまま、視聴者は“異空間”を歩かされる。
だからこそ、右京が「どこにいるのか」が掴めない。
物語に漂う“浦島太郎感”――これは、意図的な演出だ。
実際に脚本では、右京がドラッグによって“夢の中の楽園”に閉じ込められていたという描写がある。
その夢を、映像として表現するには、日常ではありえないロケーションが必要だった。
「非現実的な景色 × 精神の混乱」。
このセットが、視聴者の“地に足のつかない不安感”を作り出す。
それはまさに、右京という“絶対の論理”が消えた世界にふさわしい。
私たちは、この島にいる間、“相棒”という安心を一度、手放すことになる。
だが、それは必要な時間だった。
その不安の果てで再び「相棒」が交差したとき。
私たちは、何よりも強く「帰還」の感情を抱く。
ロケ地はただの背景じゃない。
それは、感情を揺さぶる「装置」だったのだ。
“アレスの進撃”に込められた製作陣のメッセージ
右京が消えた。
夢の中で、笑っていた。
この奇妙な第1話は、単なる「事件の前編」じゃない。
“表現としての挑戦”が詰まった回だった。
浦島太郎オマージュと“夢の中の現実”
本作を語る上で欠かせないのが、浦島太郎の構造だ。
右京は、ドラッグで“幻覚”の中に閉じ込められていた。
だがその世界では、穏やかに過ごし、笑い、語り合っていた。
現実から隔離され、時間の流れが歪んだ空間。
まるで「竜宮城」に迷い込んだような描写。
この構造、まさに浦島太郎の物語そのものだ。
本人は心地よい夢の中にいても、現実では“何か”が失われていく。
右京が目を覚ましたとき、仲間は死んでいた。
「現実」とは、甘くはなかった。
製作陣がこの神話をなぞった理由は明確だ。
正義を語る者でも、時に“幻想”に囚われることがある。
それは右京であっても例外じゃない。
幻覚描写が信頼できない世界観を演出する理由
今回の第1話で、視聴者が感じたはずの違和感。
――「何が現実で、何が幻想なのか分からない」。
まさにそれが、演出の狙いだった。
右京の目に映るもの、視聴者が観る映像。
そのすべてが「確かではない」。
“信頼できない語り手”の視点。
これは、ミステリーとして非常に高度な構造だ。
相棒シリーズは、常に「論理」や「証拠」を重んじてきた。
だが今回はその“信頼”すら崩してきた。
この不安定な足場の上で、物語は進んでいく。
視聴者は「信じていい情報」と「信じてはいけない映像」を区別できない。
だからこそ――
後編で現実が一気に回収されるときの衝撃が強くなる。
この“地ならし”としての前編には、まさに脚本家・輿水泰弘の意地が光っている。
かつての“不祥事”を暗示する意図はあったのか
このエピソードを観た一部の視聴者は、こう感じたはずだ。
「これは過去にあった“現実の事件”を意識しているのでは?」
その事件とは――
ある相棒出演俳優が、離島での薬物所持により逮捕された件である。
もちろん、制作サイドがそれを明言することはない。
だが、以下の要素を重ねると、ある“匂い”が立ち上る。
- 物語の舞台が「日本最北端の離島」
- 若者の共同生活
- ドラッグとされるキノコの描写
- 外部との断絶された空間
そして、正義や理想を語る者たちの崩壊。
これらが偶然で構成されたとは、正直思えない。
「理想を掲げた者が最も深い闇に落ちる」
その構造は、あまりにも生々しい。
右京が語る。
「善意と狂気の境界は、時として曖昧ですからね」
これはフィクションだ。
だが、現実を全く踏まえていないとは言い切れない。
相棒というシリーズが、これまで何度も“社会の鏡”であろうとしてきたことを考えれば――
このエピソードもまた、「現実」を見ていたのだろう。
相棒18 第1話「アレスの進撃」の物語構造と見どころ
“アレスの進撃”が見せたのは、暴走する正義だけじゃない。
物語の奥に潜む「構造美」だった。
緻密に仕掛けられた四重構造、豪華キャスト、そして相棒らしからぬ余白。
すべてが、この初回SPを「ただのスタート」以上の作品に押し上げている。
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/心に残る第1話、もう一度噛みしめるなら\
4つの主軸:「失踪」「死骸」「館」「殺人」が交錯する
この第1話には、明確に4つの柱が存在していた。
- ① 右京の失踪
- ② アザラシの死骸
- ③ 信頼と友好の館
- ④ 若者たちの連続殺人
一見すると、バラバラに見えるこれらの要素。
だが、すべては“孤島”という密室で交差しはじめる。
右京は②の調査で島に来ていた。
③の館は②を監視する任を負いながらも、閉鎖された共同体として機能していた。
その館内で④が発生し、すべての引き金は①だった。
この4本の糸が絡まりながら進行する構造。
これが、視聴者に“常に何かが起きている”感覚を与え続けた。
まるで群像劇のように人物とプロットが移動し、
最終的に「信頼とは何か」「正義とは誰のためか」へ収束していく。
これぞ“事件の中に思想を仕込む”相棒の醍醐味だった。
ゲスト俳優の演技力とキャラの背景が物語を支える
この回を語る上で欠かせないのが、ゲスト俳優陣の強さだ。
特に注目すべきは、岩田純を演じた船越英一郎。
“2時間サスペンスの帝王”が、ついに「容疑者」として相棒に登場したインパクトは絶大だった。
その佇まい、その声、その表情。
軍人の冷徹と父親の情熱、その狭間で揺れる姿は、視聴者の感情を何度も翻弄した。
娘・ミナ役の北香那も、決して負けていない。
信念と孤独、希望と不安。
その表現が目の奥に焼きつく。
そして、館長・甘村井を演じた団時朗。
嘘のように穏やかで、嘘のように不気味な存在感。
“支配者”とは笑って近づいてくるものだと、改めて教えてくれる。
この回の重厚さは、彼らの演技力なくして成立しなかった。
“いつもの相棒”と“いつもじゃない相棒”のコントラスト
相棒には“いつも”がある。
花の里、警視庁、紅茶、言い回し。
視聴者はそこに安心を覚える。
だがこの第1話には、“いつもの相棒”がほとんど存在しない。
舞台は北海道の最果て、登場人物はほぼ初対面、
右京は失踪し、冠城は一人。
だからこそ。
右京と冠城が再会した瞬間、“相棒”というタイトルの意味が再定義された。
「ただの刑事コンビ」ではなく、
“帰ってきたとき、何かが戻る存在”。
この再会のシーンにこそ、
第1話最大のカタルシスがあった。
事件はまだ解決していない。
謎は深まり、殺人は止まらない。
だが、相棒は帰ってきた。
そこに、物語が再び“動き出す感触”があった。
それでも父は「守った」と言い張るんだろうな――揺らぐ正義と親子のすれ違い
「正義のために暴力を振るう父」と「自立を願う娘」
岩田純は、自衛隊の元・特殊作戦群。国のために戦うことを“任務”としてきた人間だ。
でも、今回は「国のため」じゃなかった。「家族のため」だった。
だからこそ、彼の正義は危うい。仕事の論理を、家庭にそのまま持ち込んできた。
娘を心配する気持ちは本物だった。でもやっていることは、“作戦”だった。
「回収」「監視」「排除」――。この言葉が、家庭で出てくるとき、それはもう“愛”じゃない。
ミナは、父の手から「自分」を守ろうとしていた。
岩田は、ミナを「守るべき対象」だと思っていた。
どちらも、自分が正しいと思っていた。
でもたぶん、その“正しさ”は一度も交差しなかった。
右京と冠城は「自分の正義」にブレーキをかけられる人
この物語は、“正義”という名の暴走を描いている。
だからこそ、右京がロンドンから帰ってきてまで、アザラシの死骸にこだわっていた理由も見えてくる。
彼は、たった一匹の死にさえも「見過ごせない人」だ。
でも彼は、その正義に飲まれない。調べるけど、断じない。
ブレーキを踏める正義。それが右京の強さ。
冠城もそうだ。彼は熱くなるけど、冷静でもある。
ミナに手を差し伸べるとき、“助けたい”よりも“聞きたい”が先にくる。
岩田と対照的だった。だからこそ、ふたりは“父の正義”に踏み込んでいけた。
観てるこっちの「仕事観」とリンクしてくる怖さ
正直、今回の話はファンタジー要素も多い。
ロシアンルーレットで右京がラリってたり、館が閉鎖的すぎたり。
でも、妙にリアルだったのが「正義を盾にする人の危うさ」。
岩田の言動、なんとなく既視感がある。
「俺は正しい」「これは責任感だ」「これは使命だ」
職場でも家庭でも、似たような“正義の押しつけ”って、たぶん誰もが一度は遭遇してる。
正義は、便利な言葉だ。使えば使うほど、自分が正しいと思い込める。
でも、それを一度手放して「相手の目線」で見られるか。
右京や冠城がやってたことって、実はめちゃくちゃ“地味だけど大事”なことだった。
そう考えると、この“アレスの進撃”ってやつ。
戦神の物語じゃなくて、「正義という名の暴力を、誰が止められるのか」っていう、
めちゃくちゃ日常的で、めちゃくちゃ怖い話だったのかもしれない。
相棒18「アレスの進撃」の謎と真相を考察してみたまとめ
タイトルに込められた“アレス”という言葉。
それは単なるギリシャ神話の戦神ではない。
「暴走する正義の化身」として、この物語全体に暗い影を落としていた。
誰かを守ろうとする力が、いつの間にか他人を傷つける。
それが、父・岩田の「作戦」であり、
それが、館長・甘村井の「理念」でもあった。
そして――
それは、右京の“理想主義”にも潜んでいた。
この第1話は、殺人事件の導入でも、壮大な陰謀の始まりでもない。
「正しさが人を狂わせる瞬間」を描いたプロローグだった。
シリーズの“顔”である右京が失踪し、
舞台は東京から数百キロも離れ、
視聴者は、現実と幻想の狭間に取り残された。
だがそれは、意図的だった。
視点をズラし、“いつも”を壊し、“相棒とは何か”を逆から問うための設計。
だからこそ、この第1話は強烈に記憶に残る。
脚本・演出・演技・ロケーション。
どれか一つが欠けても成立しなかった「異常値の相棒」。
だが、それでも。
どこまでも“相棒”だった。
帰ってきた右京。
待っていた冠城。
再び肩を並べたとき、
物語が、動き出した。
そして僕らはまた、「その続きを見届けたくなる」。
それが“アレスの進撃”という、物語の本当の力だ。
右京さんのコメント
おやおや…実に複雑かつ寓意に富んだ事件でしたねぇ。
一つ、宜しいでしょうか?
この事件で最も看過できなかったのは、「正義」という言葉が免罪符として乱用されていた点です。
岩田氏の“父としての行動”は確かに情に訴えるものがございました。
しかしながら、その裏にあったのは軍隊的な発想――すなわち、“保護”ではなく“制圧”に近いものだったのではありませんか?
そして、信頼と友好の館。理念を掲げたその施設もまた、閉鎖性と統制のもとで若者たちの自由を奪っていた。
理想と現実がねじれ、真実が見えなくなった場所において、誰が本当の“悪”であったか、それを明確に断じることは困難です。
ですが、事実は一つしかありません。
それは、数々の死が「善意」の名のもとに積み重ねられたという事実です。
感心しませんねぇ。
正義の名を借りて人の命を左右するなど、それは“暴力”と何ら変わりありません。
正義とは、自分自身にのみ厳しく適用されるべきものでしょう。
さて…
紅茶を一杯いただきながら、この出来事の余韻に浸ることにいたしましょう。
人は、己の“正しさ”を疑うところから、本当の信頼を築けるのかもしれませんねぇ。
\右京さんの声で聞きたくなる名言集のような一話/
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- 父・岩田の暴走する正義と娘の孤立
- 北海道ロケが生んだ劇場版級のスケール感
- 幻想と現実が交錯する“浦島太郎”構造
- 甘村井館長の死が象徴する理念の崩壊
- 「正義とは何か」を問いかける重厚な構成
- ゲスト俳優たちの演技が緊張感を支える
- “いつもの相棒”を一度壊し、再構築した回
- タイトル「アレスの進撃」が示す内なる戦争
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