「好き」は、評価されないのかもしれない。『人事の人見』第6話では、就活生・新山健太郎の真っ直ぐな想いが、不採用という結末を迎える。
その光景をただの通過点にせず、“違和感”として抱え込んだ人見廉。彼の行動は、企業の採用基準という曖昧な正義に、感情という名の異物を投げ込んでいく。
この第6話は、“誰を採るか”ではなく、“誰を信じたいか”を問う物語だった。キンタの思考で、この一話を読み解いていく。
- 『人事の人見』第6話が描いた“選ばれなかった熱意”の行方
- 採用という制度に潜む感情と対話の重要性
- 安藤冶真のリアルな演技が与えた感情の衝撃
「想い」は基準にならないのか──人見が見た採用という矛盾
「好きな会社に入れないなんて、そんなの理不尽すぎる。」──そう感じた視聴者も多かったはずだ。
第6話で描かれたのは、就活生・新山健太郎の“本気の熱意”が通用しなかった現実。
その姿に、ただの“面白いドラマ”では片付けられない痛みが走った。
“熱意”は数値化できない。それでも何かが心に残る理由
新山が語ったのは、どこかで見聞きしたような「志望動機」じゃなかった。
「文房具が好き」「子どもの頃からこの会社に入りたかった」という、まっすぐで不器用な言葉。
それは、就活の現場でよく見かける“整った熱意”とは違っていた。
数値化も分析もできないその言葉が、なぜか心に残る。
それはたぶん、彼の声が“好きという感情の原点”を突いていたからだ。
そこに嘘がないことを、人見は誰よりも敏感に察知していた。
でも現実は冷たい。
選考というフィルターの中で、「好き」はときに“主観的すぎる”“子どもっぽい”と見なされる。
熱意は測れないからこそ、評価の対象から外されやすい。
それでも忘れられない言葉や人がいる。
心に残るということは、もうそれだけで「何か」を超えてる。
人見が反応したのは、その“残り方”の確かさだった。
選考に落ちた学生と向き合う人見の姿が教えてくれるもの
面接後、再び新山と偶然出会った人見は、つい「きっと大丈夫」と言ってしまう。
その言葉には、人見自身の信頼と希望が込められていた。
でもその後、新山の名前は通過者リストになかった。
人見は「これは間違いだ」と感じた。
それは制度や仕組みに対する怒りではなく、“一人の想いが無視された”ことに対する違和感だった。
そして彼は動く。選考から外された学生たちにもう一度会おうと決めた。
このシーンが胸を打つのは、人見が「評価」ではなく「対話」を選んだからだ。
人と人としてもう一度話したい、それは面接ではなく、真の“出会い直し”だった。
彼のその行動が、「選ばなかったこと」に対する責任を引き受ける姿にも見えた。
選考とは、本来“線引き”ではなく、“関係性”の始まりであってほしい。
その可能性を人見は信じていた。
そしてそれは、私たちがこの社会で忘れかけている希望のカタチかもしれない。
「もう一度話したい」──それは評価ではなく、対話だった
「話す」って、こんなにも希望になるんだなって思った。
人見が選考から漏れた学生たちに会いたいと思ったのは、「評価」を覆したかったわけじゃない。
ただ、あの瞬間に芽生えた“気になってしまった”という感情に、正直でありたかっただけなんだ。
再会が生んだ“バーベキュー採用面談”という異例の展開
舞台はオフィスじゃない。スーツもない。肩書きも、選ぶ/選ばれるも、そこにはなかった。
バーベキューという場を選んだ時点で、人見はもう「就活の文脈」を捨てていた。
それは“面接の延長”ではなく、“関係性のリセット”だった。
炭火の匂い、笑い声、焼ける音。
あの空間は、ただの慰めでもやり直しでもなく、「聞けなかった声に、もう一度耳を澄ませる」場所だった。
誰かの言葉をちゃんと受け取ること、それは“評価”ではなく、“承認”だ。
たった一度の不採用で、すべてが決まってしまうわけじゃない。
だからこそ、再び語り合う場所をつくる人見の姿勢は、就職活動の“別の正解”を示していた。
選ばなかった側が「間違っていたかも」と思うことの尊さ
このエピソードの本質は、“人見が熱意ある学生を拾い上げた”という英雄譚ではない。
「選ばなかった側が、立ち止まった」ことに価値があるんだ。
選考って、往々にして「通した人=正解、落とした人=間違いじゃない」って構造になってる。
でも本当は、その判断が正しかったかなんて、すぐには分からない。
そして、疑うことすらしないまま進んでしまうのが、採用という制度の怖さだ。
そこに「違ったかもしれない」と思える余白を持つこと。
それは、人間として“誠実であろうとする態度”のひとつだと思う。
人見の「もう一度話したい」は、過ちを正すこと以上に、“一度すれ違った心と、また繋がろうとする優しさ”だった。
それが人事の仕事であり、人としての本懐なのだと、この物語はそっと教えてくれる。
ウジンの“転職面接”に映る、もうひとつの選ばれない痛み
この第6話の裏側で、もうひとつの「選ばれない物語」が静かに描かれていた。
それが人事部のウジン自身の転職活動だった。
会社の“顔”であるはずの人事担当が、自分の将来には「NO」を突きつけられていたという構図が、皮肉にも胸に刺さる。
自分を“クリエイティブじゃない場所”に押し込められた人
ウジンが望んでいたのは、人事ではなく、もっと“ものづくり”に近いフィールドだった。
でも気づけば、彼は自分を「採る側の人間」として押し込めていた。
本当の自分が求めていたものと、今の自分が与えられている役割とのギャップ。
これは“やりたいこと”がある人間なら、一度はぶつかる壁だ。
ウジンはそれに抗おうと、転職面接に挑んでいた。
でもそこでも、思うような評価は得られず、自信を失いかけていた。
新山の“熱意が報われない”という出来事に、人見が動かされたように。
ウジンは、自分が“報われない側”であることを痛いほど知っていた。
だからこそ、人見の「もう一度話したい」という言葉に、静かに共鳴してしまったのだ。
夢と現実の狭間で心が折れそうなとき、誰が隣にいてくれるか
ウジンは人見に誘われる形で、選考に漏れた学生たちとのバーベキューに参加する。
表向きは“お手伝い”だが、実は彼自身がその場に必要だった。
誰かのために動いているようでいて、それはウジンの“再起動”でもあった。
心が折れそうなとき、そこにいてくれる人の存在が、どれほど大きいか。
自分を“ひとりの人間”として見てくれる誰かがいること、それは何よりも力になる。
ウジンにとってその誰かは、人見だった。
この一話の美しさは、「人事」が「人間」としてのまなざしを取り戻していく過程にある。
採る/採られるではなく、響き合う関係性を選んだ彼らの姿勢に、人の可能性が宿っていた。
そして私たちは、その光景に、自分自身の居場所を少しだけ重ねてしまう。
安藤冶真という原石──役を超えて届く“まっすぐさ”の衝撃
ドラマにおいて、「役を演じている俳優」がふと“役そのもの”に見える瞬間がある。
第6話でそれを体現したのが、新山健太郎を演じた現役高校生・安藤冶真だった。
カメラの前にいたのは、役者というより、“夢を語る若者”そのものだった。
「日の出鉛筆が好き」と言える清さに、心がざわつく理由
安藤が演じる新山は、企業研究を頑張ったわけでも、自己分析を武器にしたわけでもない。
ただ、「小さい頃からこの会社で働きたかった」とまっすぐに言った。
その言葉に、思わず視聴者は息をのんだ。
就活という名の戦場では、「まっすぐさ」はときにリスクになる。
でも、そこに混じり気のない“好き”があった。
それは、社会のフィルターをまだくぐっていない人間だけが出せる音だった。
安藤の演技が響いたのは、その“音”を彼が確かに持っていたからだ。
見ていて、恥ずかしくなるくらい清らかで、でもまっすぐで、まるで初恋の告白を聞いたときのようなざわつきが心に残った。
それは演技力とは違う、原石の存在感だった。
16歳が放った、リアルな“就活生”としての存在感
まだ16歳、ドラマ経験も少ない彼が、なぜこんなにも“リアルな就活生”に見えたのか。
それは、彼自身が“選ばれること”に対して真剣だったからだと思う。
現場でも緊張していたと語る安藤は、決して「演じてやろう」とはしていない。
彼はただ、「新山として、あの場に存在する」ことを選んだ。
だからこそ、その一言一言が空気を変えた。
台本以上の“想い”が、その声のトーンや視線に乗っていた。
人見が彼に惹かれたのも、きっとそれが“本物”だったからだ。
演技を超えて、まっすぐに届いた想い。それを受け止めることで、人見というキャラクターも変わっていく。
そして私たちも、その変化に心を動かされる。
「誰を採るか」じゃなくて、「誰と働きたいか」という本音
就活って、つい「選ぶ/選ばれる」っていう二択で語られがちだけど、実際の職場ってもっと“ぐちゃぐちゃ”してる。
一緒に働いてて「この人、正直スキルないけどなんか好きだな」とか、「仕事できるけど話すと疲れるな」って感じたこと、ないですか?
“相性”という名の正体のない正解
今回の新山くんも、ウジンも、決して“能力が足りなかった”わけじゃない。
むしろ「何かに懸けてる熱」や「変わりたいという思い」を持っていた人たちだった。
でも、それが「会社の空気に合うか?」という目に見えない物差しにハマらなかっただけで、弾かれてしまう。
職場って、実は“能力”より“相性”でまわってるところがある。
その“相性”の正体ってなんなの?って考えると、「この人と、しんどい月曜朝を乗り切れるか」だったりする。
「選ばれる」より、「一緒に働きたい」と言われたい
人見が新山に惹かれたのは、彼の能力や答え方じゃなくて、「この人となら、同じ空間にいたい」っていう感覚だったと思う。
それって、“正解”とか“合否”を超えた、もっと人間くさい選び方。
そういう視点を持てる人が「人事」にいることって、実はとても大事なんじゃないかと思った。
採用とは、制度の話に見えて、すごく感情的な作業である。
なぜなら、一緒に未来をつくる仲間を探してるわけだから。
だから人見の「もう一度、ちゃんと話したい」っていう姿勢に、私たちは心を動かされる。
その奥にあるのは、「あなたと働いてみたい」という、静かだけど確かな本音なのだ。
『人事の人見』第6話が私たちに残したもの──採用されなかった感情のまとめ
この一話は、単なる「就活ドラマ」じゃない。
“人を選ぶ”という行為に潜む、感情のすれ違いや、見落とされた想いに光を当てた物語だった。
そしてそれは、今の社会で働く私たち一人ひとりに、静かに問いを投げかけてくる。
“誰かを信じる”ということが、選考を超えた瞬間
人見が新山を信じたのは、「内定が出るレベルの人物かどうか」じゃなかった。
ただ、“この人の言葉を信じたい”と思った。
そこに評価も条件もなかった。
「信じる」という行為は、本来とても個人的で、曖昧で、理屈ではない。
でもその瞬間にこそ、人と人の“関係”は始まる。
人見がやろうとしたのは、“採用活動”じゃなくて、“関係づくり”だった。
あのバーベキューは、たぶん面接よりもずっと“人を見る場所”だった。
だから私たちの心に、強く残る。
「不採用=不正解」ではない世界の在り方
このエピソードの核にあるのは、「落ちた人の人生は、そこで終わらない」という当たり前の事実だ。
でも社会は、つい“選ばれなかった人”にレッテルを貼ってしまう。
人見の行動は、それに「待った」をかけるものだった。
不採用という判断に、必ずしも“正しさ”があるとは限らない。
むしろ、その選択の余白にこそ、物語が生まれる。
そして私たちも、いつだってその余白の中にいる。
選ばれなかった経験は、決して「間違いだった過去」じゃない。
そこから何を拾い、どう動くかで、未来はいくらでも書き換えられる。
第6話はそう語っていた。静かに、でも確かに。
そしてその声を聞いた私たちは、少しだけ優しくなれる。
- 新卒採用で落とされた“熱意”が物語の中心
- 人見の「もう一度話したい」が心を動かす
- バーベキュー面談が「対話」の本質を描く
- ウジンの転職活動も“選ばれない痛み”を照射
- 高校生俳優・安藤冶真の純度高い演技が光る
- 「選ばれなかった側」へのまなざしの再発見
- 就活の裏にある“相性”というリアルな選択
- 不採用=不正解ではないという優しい提示
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