その銭湯に、彼のぬくもりがまだ残っている気がした。
映画『ババンババンバンバンパイア』は、450年を生きるバンパイアと純粋すぎる高校生が織りなす、奇妙で切ない恋の物語。その舞台となったロケ地には、スクリーンを超えて“あの気持ち”が残っている。
今回は「ばばば」の世界を感じられるロケ地7選を、エモと余韻たっぷりにご紹介します。聖地巡礼に行く前に、心の準備を──。
- 映画『ババンババンバンバンパイア』のロケ地全7か所の詳細
- 各ロケ地が映す登場人物の感情や関係性の変化
- 聖地巡礼を“感情の続きを探す旅”として楽しむ視点
“あの恋”の始まりは、銭湯から──「こいの湯」こと練馬・たつの湯
映画『ババンババンバンバンパイア』の物語が動き出す場所──それが、練馬区にある銭湯「たつの湯」だった。
何気ない日常の風景に見えて、あの場所にはふたりの秘密と、ときめきと、哀しみが静かに溶け込んでいた。
今回はそのロケ地「こいの湯」として描かれた空間に込められた感情の残像を、私なりの言葉でたどっていく。
李仁のぬくもりを感じられる、レトロで優しい空間
練馬区石神井台にある「たつの湯」は、昔ながらの宮造りの佇まいで、映画の雰囲気そのままのロケーション。
李仁が働いていた銭湯「こいの湯」は、まさにこのたつの湯が舞台だった。
木の下駄箱、男湯と女湯を分けるのれん、ふわりと香る石鹸の匂い──どこか懐かしい空気が、映画の“温度”を再現してくれる。
李仁の優しさは、この銭湯の湯気のように、誰かの心にふんわりと届く。
映画を観たあとに実際にたつの湯を訪れると、あの世界の中に自分が少しだけ紛れ込めた気がする。
そこに蘭丸が立っていたんじゃないか──そんな妄想をしてしまう。
「バンパイアと高校生のラブコメ」というユニークな設定なのに、この銭湯という舞台が物語に深みを与えていた。
ただ笑えるだけじゃない、誰かを想うって、こういうことなんだと、思わされる場所。
「ババンババン」最大の名シーンは、湯気の中にあった
思い出してほしい、蘭丸が李仁に対して「君は今のままで美味しい」と告げる、あの湯気に包まれたシーン。
それは単なるギャグではなく、恋と保護欲と、切なさが混じった複雑な感情の告白だった。
バンパイアである蘭丸にとって、李仁の“純潔”は究極のごちそう。
でも彼は、食べたいより、失いたくないと思ってしまった。
その葛藤と、李仁の無垢な眼差しが交差するのが、銭湯という“裸”の場所だったのが象徴的。
人は裸になると、心も無防備になる。
だからこそ、あのシーンは──言葉以上に「気持ち」が伝わる。
“好き”の形をまだ知らないふたりの、不器用で真剣な駆け引きが、あの銭湯で描かれた。
そして私たちは、そのやりとりを覗き見ることで、自分の過去の恋や未熟さを、そっと思い出すのだ。
たつの湯というロケ地は、まさに“心を洗い流す場所”。
湯気に包まれた言葉の中に、映画の本質がこっそり隠れている。
もしも、ふたりの恋のはじまりをもう一度感じたいなら──
たつの湯の湯船に、そっと足を浸けてみてほしい。
きっとその瞬間、あなたの中にも「恋の記憶」が蘇るはずだから。
ふたりの距離が縮まった場所──奥山橋とおおさわ公園(東京都日野市)
何気ない通学路の途中、いつも渡る橋。
映画『ババンババンバンバンパイア』で描かれた、奥山橋とおおさわ公園のシーンは、“日常”が恋に変わる瞬間を丁寧に切り取っていた。
その場所は、静かで、風が少しだけ気持ちよくて、でもなぜか心の奥に残る。
“いつも通り”が特別に変わる日──橋の上の青春
奥山橋は、東京都日野市の住宅街にある小さな橋。
このロケ地に選ばれたのは、ただ“撮影しやすい”からじゃない。
ふたりの距離が変わる場所には、少しの揺らぎと、変化の予感が必要だったのだと思う。
橋の上というのは、目的地に向かう“通過点”だけれど、その途中で交わす会話や沈黙が、どれほど心を揺らすか。
李仁の「好きって何?」という問いに、蘭丸はすぐに答えられなかった。
でもそれでよかった。
人を想う気持ちは、簡単に言葉にできるものじゃない。
そのもどかしさを、風と水の流れが、静かに代弁してくれていた。
あの橋を渡るふたりは、まだ恋人でも親友でもなかった。
ただ、「誰かを気にする」ことがどれほど尊いか、まだ知らない少年と、知ってしまった吸血鬼。
その交差点のような場所が、奥山橋だった。
おおさわ公園は、心がゆるむ“余白”のロケ地
奥山橋から歩いて5分ほどのところにある、おおさわ公園。
ベンチ、遊具、住宅街の静けさ──ここには物語のクライマックスはないけれど、ふたりの感情が静かに育つ“余白”がある。
公園って、特別なことが起きない場所に思える。
でも、それがいい。
何もないからこそ、素直になれる。
「最近、なんか変わった?」
李仁が、ぽつりと蘭丸に聞いたあのシーン。
それは、相手の変化に気づけるくらい、大切に思っている証拠だった。
変化を感じてしまうのは、好きだから。
そして、答えを急がず、ただ隣にいる時間を大事にするのも、また恋のかたち。
日野の住宅街にあるおおさわ公園には、その静けさを味わいに行く価値がある。
何も起こらないようで、心の中では確実に“何か”が芽生えている。
映画を観たあとに歩くこの道は、もはやただの“風景”じゃない。
スクリーンの向こうで交わされたまなざしが、ふいに自分の記憶と重なる。
そして思うのだ。
あの場所で、あのふたりは、確かに恋をしていたと。
高校生たちの“日常の舞台”──足利市(栃木県)
映画『ババンババンバンバンパイア』のなかで、高校生たちが生きている“日常”は、どこかで見たようで、でももう戻れない、あの季節。
その時間が息づいていたのが、栃木県・足利市。
制服を着たまま自転車で走る道、下校途中にふと見上げた空──
この街には、「何も起こらないようで、でも恋が生まれてしまう」空気がある。
制服と夏の汗と、叶わない恋の匂い
足利市では2024年の夏、高校生役のエキストラが多数参加したロケが行われた。
その光景を思い浮かべるだけで、あの映画の中の“熱”を思い出す。
夏の制服って、なんであんなに甘くて苦しいんだろう。
汗ばむ肌、日焼け止めの香り、かき氷の色がまだ唇に残っていて、隣の誰かの距離がほんの少し近く感じる。
李仁が、クラスメイトの篠塚葵に恋をしたのも、この空気のせいだったのかもしれない。
「一目ぼれ」って、本当にある。
それは外見だけじゃなくて、相手が放つ空気、声の温度、仕草のすべてが、「あ、好きかも」と思わせる。
足利の街で、李仁のそんな瞬間が撮られていたなら──
そこはもう、恋が始まった場所として、特別な聖地になる。
そして蘭丸の胸に走る焦りと寂しさ。
吸血鬼である彼には、恋の終わりが「血を吸えないこと」だった。
でもそれよりもずっと切ないのは、李仁が誰かを本当に好きになってしまうことだった。
エキストラの記憶から浮かぶ、リアルな青春の断片
撮影に参加したエキストラの多くは、実際の高校生や大学生。
彼らが映し出す「青春のリアル」は、演技以上に“本物”だった。
カメラが回っていないときの笑い声、出番を待つ間のLINEチェック、たまに視線がぶつかるときのあのドキドキ。
その全部が、映画の背景にある“気配”として画面の奥に残っている。
足利市の学校や通学路が具体的にどこだったのかは明かされていない。
でも、あの夏の暑さ、制服のしわ、風の音がちゃんと記憶の中にある人たちがいた。
それだけで、このロケ地は“意味のある場所”になる。
観客の私たちが思い出すのは、映画のストーリーと一緒に、自分自身の高校時代。
好きだった人、振られた夏、何もできなかったあの日。
足利市でのロケは、そんな記憶と映画を静かに重ね合わせてくれる。
だから、たとえ具体的な撮影場所がわからなくてもいい。
その街の空気に触れたとき、「ここかもしれない」と思えたら、それで十分なのだ。
都会のざわめきの中で、蘭丸は何を思ったのか──渋谷区・横浜市のロケ地
東京の渋谷、神奈川の横浜──どちらも“光”と“音”が溢れた街。
そんな喧騒のなか、映画『ババンババンバンバンパイア』は静かに、蘭丸という孤独な吸血鬼の心を映し出していた。
街がにぎやかであればあるほど、ふたりの静かな想いが、際立っていた。
夜のネオンと孤独なバンパイアの“居場所探し”
横浜・中区で行われた撮影では、通行人や鑑識官役のエキストラが配された。
繁華街のネオン、スーツ姿のサラリーマン、酒場の喧騒。
そのど真ん中で蘭丸は、まるで「ここではないどこか」を探しているような目をしていた。
彼は450年生きてきたけれど、まだ「居場所」を見つけていなかった。
人に溶け込もうとするほど、異質さが浮かび上がる。
夜の街って、自由で刺激的に見えるけど、誰もがどこか“ひとり”なんだと、蘭丸の後ろ姿が教えてくれる。
そして、そんな都会の中に紛れても、彼の心にはずっと李仁がいた。
“血”としてではなく、“大切な存在”として。
だからこそ、李仁の心が葵に向かう瞬間が近づくたび、
自分の存在意義が、ぐらぐらと揺らいでしまう。
群衆の中で、ふたりだけが違う鼓動をしていた
渋谷での撮影シーンもまた、“群衆”がキーワードだった。
通行人役として20名以上のエキストラが動き回る中、蘭丸と李仁がすれ違うシーンが、妙に印象に残る。
お互いに見ているはずなのに、気づかないふり。
でもその視線の軌道は、確かに相手を捉えていた。
「気づいて」と願う心と、「気づかないで」と願う矛盾が、渋谷の街の喧騒に溶けていく。
ふたりの鼓動だけが、他の誰とも違うテンポを刻んでいた。
都会のロケ地って、本来“日常を切り取る場所”のはずなのに、
『ババンババンバンバンパイア』においては、ふたりの非日常を際立たせる装置になっていた。
喧騒、光、群衆、それらすべてが背景に回るほど、
“君が君を好きになる前に、僕が止める”という蘭丸の想いが際立つ。
場所は渋谷区のどこか。
でも、もしかするとそれは「どこでもいい」のかもしれない。
あの時の気持ちを思い出せるなら、それが“聖地”だから。
ふたりが出会い、すれ違い、それでもまた戻ってくる──
そんな物語の“間”が、都会の夜に美しく浮かび上がっていた。
銭湯の“裏側”と、笑って泣いた日々──江戸川区の撮影現場
表からは見えないけれど、大切なことってだいたい“裏側”にある。
映画『ババンババンバンバンパイア』の舞台となったもうひとつの銭湯、それが江戸川区での撮影現場だ。
ここで描かれたのは、主役たちがいない時間、けれど確かに物語を支えていた“日常のにぎわい”だった。
お客さんたちの何気ない表情が、背景を支えていた
2024年8月、江戸川区で行われた撮影には銭湯のお客さん役のエキストラが参加していた。
彼らはセリフもなく、ただお湯につかっていたり、風呂上がりに牛乳を飲んでいただけかもしれない。
でも、それがよかった。
銭湯の「生活感」や「ぬくもり」は、主役じゃない人たちの動きで生まれる。
映画の中で、蘭丸と李仁のやりとりがどんなに突飛でも、
周りにいる人たちの自然さが、その空間に“リアル”を与えていた。
たとえば、脱衣所でふと目が合うだけのシーン。
そこに漂っていたのは、言葉にならない「共存の空気」だった。
「この人たちにとって、銭湯は日常」
──でも、李仁と蘭丸にとっては、“始まりの舞台”だった。
銭湯=日常、だけど“特別”に変わる魔法の場所
銭湯って、不思議な場所だ。
裸になって、知らない人と隣に並び、同じ湯に浸かる。
そこには「肩書き」も「立場」もない。
だからこそ、心もすこしだけ開く。
蘭丸が李仁に向ける眼差しも、この銭湯の空気の中ではどこかやわらかい。
「好き」と言わない代わりに、温度で伝える──それが、この場所の言語。
江戸川区の撮影は、そんな銭湯の“表情”をさりげなく切り取っていた。
とくに印象的だったのは、李仁が背中を流されるシーン。
あれは、ただのバイトじゃない。
言葉よりも深く、「信頼」や「親しみ」がにじみ出ていた。
そしてそれが、蘭丸の“独占したいけど壊したくない”という葛藤を引き出すきっかけにもなっていた。
銭湯は、日常そのもの。
だけど、“誰かと出会い直す”には十分すぎるくらいの場所。
江戸川区で行われた撮影が、そんな奇跡の瞬間を後押ししていたと思う。
行ってみたら、ただの銭湯かもしれない。
でも、あの空間に残っているのは──
ふたりの気持ちが、すれ違いながらも優しく響いていた記憶。
だから今も、湯気の中にそっと溶け込んでいる。
恋が動き出す音がする──夏祭りの街、調布市
好きって気持ちは、音から始まる。
遠くから聞こえてくる太鼓の音、誰かの名前を呼ぶ声、花火が上がるときのざわめき──
映画『ババンババンバンバンパイア』でその“音”が鳴り始めた場所、それが調布市の夏祭りのシーンだった。
浴衣姿と提灯の光、その全部が“君を好きだ”のBGM
2024年8月、調布市で行われたロケには、140人の通行人エキストラが参加した。
それぞれが、金魚すくいを楽しんだり、りんご飴をかじったり、友達とはしゃいだり──
だけど画面のどこを切り取っても、私の目はやっぱり李仁と蘭丸の距離に吸い寄せられる。
浴衣姿の李仁が少し照れながら歩く後ろを、蘭丸が静かについていく。
その姿は、まるで自分の「本音」に追いつこうとしているようだった。
提灯の柔らかい光が、ふたりの影を長く伸ばす。
「今、この時間が終わらなければいいのに」
ふたりとも、きっとそんなことを思っていた。
140人の通行人の中に、ふたりの想いが溶けていた
夏祭りって、人の声や音で溢れてるのに、不思議と「静かな気持ち」になれる。
人混みの中で手が離れそうになった瞬間。
偶然のような、必然のような肩と肩の接触。
そのすべてが、「君を好きだ」と心が勝手に言ってしまうBGMだった。
李仁が、葵に心を奪われそうになる一方で、
蘭丸の心にも“何かを失いそうな痛み”がこみ上げていた。
それは、バンパイアとしての葛藤ではなく、
「好きになった相手が、自分じゃない誰かを見ている」苦しさ。
祭りのざわめきの中にその痛みは紛れたけれど、
私たち観客にはちゃんと届いた。
140人の中のたったふたり──それだけで十分、世界が揺れる。
調布市でのロケは、きっとキャストやスタッフにとっても“かけがえのない時間”だったはず。
だからこそ、その空気がちゃんと映像の中に残っていた。
聖地巡礼でこの地を歩くなら、夕暮れ時がいい。
祭りはなくても、心の中ではきっと──
恋が動き出す音が、また聴こえてくるから。
「誰かのために変わる」って、本当はすごく怖い
『ババンババンバンバンパイア』って、恋とか血とかコメディが前面に出てるけど──
実はめちゃくちゃ深いテーマが隠れてる。
それは「変わる」ってこと。
蘭丸ってさ、450年も生きてて、自分が何者かなんてとうに分かってるのに。
李仁と出会ってから、ちょっとずつ変わっちゃってる。
血を吸いたいはずなのに、それ以上に守りたくなってる。
欲望のままじゃいられなくなってる。
これって、誰かを大切に思ったときに人間がぶち当たる“変化の痛み”なんだと思う。
欲望より優しさが勝ってしまったバンパイア
「童貞の血が最高」って最初はギャグっぽいけど、
蘭丸がそれを“あえて選ばなかった”シーンって、ただの選択じゃない。
自分の存在理由そのものを揺るがす行動。
それを自然にやっちゃうくらい、李仁に惹かれてる。
好きって感情が、自己保存より強くなった瞬間が、あの映画には何度もあった。
血より優しさが勝ってしまったバンパイア──って、ちょっと詩的じゃない?
李仁もまた、無意識に誰かを変えてしまう存在だった
一方の李仁、彼もただの「守られる側」じゃなかった。
蘭丸を変えたってことは、彼自身が“誰かの人生に影響を与える力”を持ってたってこと。
これ、普段は気づかないけど、実はけっこう重要で。
自分では普通だと思ってる優しさやまっすぐさが、
誰かを揺さぶって、変えてしまうことがある。
でもそれって、ものすごく責任のあることでもある。
だからこそ、蘭丸が変わっていく姿を見て、李仁も何かに気づき始めた。
「誰かを守ることって、守られる側も変わらなきゃいけないんだな」って。
この気づきがあったからこそ、ラストの選択にも納得できる。
そう、『バババ』は“変化することの怖さと美しさ”を描いた青春映画なんだ。
『ババンババンバンバンパイア』ロケ地を巡ることで、映画をもう一度好きになるまとめ
映画館を出たあとも、ふたりの物語は終わっていなかった。
東京の街角に、栃木の坂道に、銭湯の湯気の中に──あの恋の続きを感じる場所が、ちゃんと残されている。
それが『ババンババンバンバンパイア』の“ロケ地の力”だ。
聖地巡礼は、ただの記念写真じゃない
もちろん、写真は撮ってもいい。
だけど、それだけじゃもったいない。
聖地巡礼は、「その気持ちをもう一度感じに行く旅」なんだと思う。
あの橋を渡るとき、李仁の心の揺れを少しでも感じられるかもしれない。
たつの湯の入口に立ったとき、蘭丸がこっそり見せた“あの微笑み”が思い出されるかもしれない。
そして祭りのざわめきがない街を歩いても、
ふたりの気持ちのざわめきだけは、確かに聴こえてくる。
“スクリーンの余白”を、あなたの感情で埋めに行こう
映画は、すべてを語らない。
その代わりに、余白をくれる。
「このあと、ふたりはどうなるんだろう?」
「あのとき、どんな気持ちだったんだろう?」
その想像を育てるのが、ロケ地という名の“物語の余白”だ。
ふたりが歩いた道を、あなたも歩く。
同じ景色を見て、同じ風を感じる。
そのとき、映画はあなたの中で“現在進行形”になる。
『ババンババンバンバンパイア』というちょっとふざけたタイトルの奥には、
恋の本質と、誰かを大切に想う痛みと、成長の一歩が、ちゃんと描かれていた。
だから私は、もう一度ロケ地を巡りたい。
もう一度、ふたりの気持ちを信じたいから。
- 映画『ババンババンバンバンパイア』の主要ロケ地を7か所紹介
- 各ロケ地で描かれた感情と物語の背景を丁寧に解説
- 聖地巡礼は“気持ちを確かめに行く旅”という視点を提示
- ロケ地ごとに蘭丸と李仁の関係性の変化を深掘り
- 追加セクションでは「変わることの痛み」に着目
- “血よりも優しさが勝ったバンパイア”という独自視点を展開
- 記事の締めくくりではロケ地を巡る意味の再定義を試みる
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