2025年NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第45話「その名は写楽」。
江戸の出版界を揺るがせた“謎の絵師・写楽”が、この夜、生まれた。けれどそれは、ただの浮世絵師の誕生ではない。蔦重(横浜流星)の中で燻る「表現への怒り」と「仲間を想う痛み」が、形を変えて筆を握った瞬間だった。
恋川春町の死、松平定信の冷たい企み、そして再び動き出す歌麿(染谷将太)との絆――この回は、芸術が権力に抗う覚悟を描く、静かで激しい革命譚である。
- 写楽誕生に隠された蔦重の“もう一人の自分”の物語
- おていの静かな行動が創作と命をつなぐ意味
- 芸術が権力に抗う“反逆の筆”として描かれる理由
写楽とは誰なのか――“名もなき筆”が時代を裂いた夜
江戸が眠りにつくころ、蔦重の心は燃えていた。
第45話「その名は写楽」は、芸術が権力とぶつかる夜を描く。筆一本で時代を切り裂こうとする男の息遣いが、画面から伝わってくる。彼の名は蔦屋重三郎――蔦重。書物を売り、物語を広め、そして“絵師”たちを世に出した男だ。
だがこの夜、彼は出版人ではなかった。筆のない絵師だった。描けぬまま、叫ぶように時代を見つめる人間だった。
定信の命と蔦重の拒絶
松平定信(井上祐貴)が差し出したのは、一橋治済への復讐の誘いだった。
蔦重の瞳が一瞬だけ揺れる。かつて彼の仲間であった戯作者・恋川春町を自害に追い込んだのは、ほかでもない定信。その手に再び協力などできるはずもない。
「関われば、自分だけでなく、仲間も危険に晒すことになる」――蔦重の言葉は、震えていた。それは恐れではなく、覚悟の重みだった。
だが定信は、冷ややかに言い放つ。「そなたはもう関わっておるのだ。諦めろ」。
この瞬間、蔦重は悟る。権力に刃向かえば潰される。だが、沈黙はもっと残酷だと。
春町を救えなかった自分を赦すために、彼は“何か”を生み出さなければならなかった。
“源内生存説”と“嘘”から始まる真実
定信は次に、奇妙な命を下す。「平賀源内が生きているという噂を広めよ」。
それは民心を操るための策略。歴史を歪め、庶民を支配するための巧妙な“嘘”だった。
蔦重の胸の奥に、静かな怒りが灯る。「ならば、その嘘を俺が利用してやる」と。
彼は嘘を“芸術”に変える覚悟を決めた。
ここから、物語は一気に色を変える。蔦重の反逆は、筆のない反乱だった。
彼が選んだ武器は、絵師でもなく、刃でもない。“噂”そのものだった。
そして、その噂の中から“写楽”が生まれる。まだ誰も知らぬ、名もなき筆の影として。
蔦重の胸中にあったのは、「描けないなら、描かせてみせる」という狂気にも似た決意。
この瞬間、写楽は誰かの手ではなく、蔦重の叫びの中に誕生したのだ。
“写すことは、生きること”――それはまだ言葉にはならぬ信念だった。
この第45話の序盤は、筆がまだ動かぬ静けさの中に、嵐の予感が満ちている。
定信の冷徹な笑み。蔦重の沈黙。そして遠くで、江戸の夜がざわめき出す。
歴史が変わる瞬間とは、いつも「心が折れなかった夜」に訪れる。この夜、蔦重はひとり立ち上がったのだ。
曽我祭の熱狂、そして写楽誕生
江戸の町が久々に息を吹き返した。太鼓の音が遠くで響き、町人たちが踊る。空気が躍るような祭の夜――曽我祭だ。
倹約令と取り締まりで沈んだ芝居町に、久々の“笑い声”が戻ってくる。けれど、その熱の中に、蔦重は別の火を見ていた。燃えるような怒りと、創作の衝動。彼の中で「祭」と「反逆」が重なりはじめていた。
曽我祭の賑わいは、蔦重にとって革命の舞台だった。
芝居町の息吹を取り戻す“策”
「曽我祭が開かれる」――その知らせに蔦重の目が光る。山車が連なり、人気役者たちが通りで踊る。江戸の民にとって、これは“生きる喜び”そのものだった。
「この熱気を使えないか?」その問いが、彼の頭を貫く。芸術が奪われた時代に、民の手に再び“文化”を返すにはどうすればいいか。蔦重が出した答えは、祭の熱を絵に閉じ込めることだった。
「役者の素顔を、蘭画風の絵にして出そう。源内先生の作品だと噂を流す。」
その一言で、空気が変わる。北尾政演、北尾重政、大田南畝、喜三二――文化人たちが次々と集まり始めた。
定信からの金。仲間たちの創作魂。そして江戸の熱。すべてが一本の導火線になって繋がる。
彼らが描こうとしているのは、ただの役者絵ではない。
それは、「声を奪われた民の肖像」だった。
「しゃらくさい」から生まれた伝説
集まった面々の中で、蔦重は提案する。「この架空の絵師に名をつけよう」。
沈黙を破ったのは、狂歌師・朋誠堂喜三二(尾美としのり)。
「しゃらくさい、ってのはどうだ?」
その言葉に一瞬、場が笑いに包まれる。だが次の瞬間、蔦重がゆっくり呟いた。「写楽……この世の楽しみを写す。ありのままを写すのが楽しい――写楽」。
その瞬間、江戸の空気が変わった。笑いが止まり、全員が息をのむ。たかが洒落、されど洒落。
蔦重が求めていたのは、笑いと怒りの境目にある“真実”の筆名だった。
「しゃらくさい」とは、うるさい・生意気という意味。だが、その語感には、江戸の生き様そのものがあった。上を見上げて笑い、下を向いて泣き、それでも日々を楽しむ。そんな庶民の反骨が、ひとつの名に宿ったのだ。
祭りの太鼓が遠くで鳴り響く中、蔦重は胸の中で確信する。
「写楽とは、俺たち全員の名だ。」
“写す”とは、支配に従うことではなく、現実を暴く行為。
そう信じる者たちの心が一つになった夜、写楽は誕生した。まだ筆を取る者は決まっていない。だが、絵はもうそこにあった。
笑いながら、怒りながら、描く。祭のざわめきが、まるで筆の音のように響く。
江戸の庶民たちの息遣いが、絵に命を吹き込む。曽我祭は、ただの祭りではなかった。
それは、芸術が再び目を覚ます“宣戦布告”の夜だった。
蔦重の迷い、そしておていと歌麿の再会
祭が終わっても、蔦重の胸の炎は鎮まらなかった。
あの夜、確かに「写楽」は生まれた。だが、誰の手がその筆を握るのか。何を、どんな心で描くのか。――それだけが、決まらなかった。
彼の机の上には、いくつもの下絵と、破り捨てられた紙が散乱している。絵師たちは次々に筆を入れたが、蔦重の口から出たのは、ただ一言。「違う」。
彼が探していたのは絵ではなく、“心”だった。
筆が止まる男と、描けない理想
「お前が、写楽の絵を思い描けていないなら、俺たちは描けるはずがない。」
北尾政演の言葉が、鋭く蔦重を刺した。
彼は分かっていた。自分の中で、まだ何かが足りない。写楽という名は生まれたが、その魂が見えていない。
定信に逆らう怖さ。仲間をまた危険に晒す恐れ。そして、自分がかつて見捨てた春町への贖罪。そのすべてが胸の奥で絡みついて、筆を鈍らせていた。
夜更け、灯の下で蔦重は独りごちる。「俺に、絵は描けねぇのか」。
誰に問うでもなく、ただ吐き出したその声に、涙が滲む。
創造は、いつも孤独の中でしか生まれない。
蔦重が見つめていたのは、紙ではなく“自分の影”だった。
おていの祈り、歌麿の覚醒
そんな彼を、ただ黙って見つめる人がいた。おてい(橋本愛)だ。
かつて、彼女は夫の情熱を信じ、誰よりも近くでその夢を見てきた。だが今の蔦重は、燃え尽きた炭のように静かだった。
おていは思い立つ。もう一人、彼を知る男がいると。
彼女は喜多川歌麿(染谷将太)のもとを訪ねる。かつて蔦重と共に“浮世の粋”を描いた絵師。だが今は、沈黙の時間に沈んでいた。
おていは深く頭を下げ、手に一枚の絵を差し出す。
それは「歌撰恋之部」。歌麿が下絵を描き、蔦重が仕上げたものだった。
「これほど歌さんを理解している本屋は、蔦重だけです。あの人にとっても、あなた以上に心を通わせた絵師はいません。」
その声は、涙を含んでいた。おていは、蔦重のためではなく、“二人の絵”のために頭を下げたのだ。
歌麿はしばらく黙っていた。灯の揺らぎが、彼の頬を照らす。やがて小さく笑う。
「おていさんが、そこまで言うなら」――その言葉に、筆が息を吹き返した。
蔦重と歌麿が再び繋がる瞬間、それは写楽に“心”が宿った瞬間だった。
絵を描くということは、誰かを救うことではなく、誰かの痛みを分かち合うこと。おていはそれを知っていた。
そして、その橋を渡したのが、彼女自身の“信じる力”だった。
蔦重の迷いは、まだ晴れない。だが、再び動き出した筆の音が、江戸の夜を震わせる。
人の想いが絵になるとき、時代はまた一歩、動く。
芸術とは、誰かを描くことではなく、誰かを生かすこと。
この夜、写楽は絵師の名を超え、“心を持つ存在”となった。
権力の影と、命を懸けた創作の炎
江戸の空が曇っていた。風の中に、冷たい権力の匂いが漂う。
一橋治済(生田斗真)は、将軍・徳川家斉(城桧吏)に命じる。「多くの子をもうけよ」。
その声はまるで、血で未来を縛る鎖の音のようだった。権力が人の命を繁殖の道具としか見ていない――そんな時代の空気が、画面の隅々にまで沁みていた。
一方で、大奥を去った大崎(映美くらら)が再び一橋家に仕官を願い出る。彼女の瞳に映るのは、忠義ではない。この狂った世界の中で、せめて誰かを救いたいという静かな祈りだった。
その同じ時、蔦重もまた“描く”という形で抗っていた。
彼の筆は、刃よりも鋭い。権力に殺された仲間の声を、紙の上に蘇らせようとしていたのだ。
一橋治済の冷酷な支配
幕政の頂点に立つ治済は、民の幸福よりも家の血筋を選んだ男だった。彼の命は「愛」ではなく「命令」。将軍の寝所にまで、政治の影が差し込んでいた。
「この国は私が繋ぐ。血でな。」――その台詞が放たれた瞬間、空気が凍る。
治済の世界には、笑いも涙も存在しない。あるのは支配の構図だけ。彼にとって命は数、子は戦略、女は道具。そこに情はない。
それに対して、蔦重の世界は正反対だった。
一冊の本に、ひとりの笑顔を刻むこと。
一枚の絵に、ひとつの魂を宿すこと。
芸術とは、権力に奪われた“人間らしさ”を取り戻すための灯だった。
治済が子を量産して「未来」を支配しようとするのなら、蔦重は「記録」で未来を残そうとした。
どちらも時代を刻む行為だが、その意味は正反対。
ひとつは支配の記録、もうひとつは希望の記録。
絵筆でしか抗えない時代
祭の熱も冷め、江戸の町は再び灰色を取り戻していた。だが蔦重の胸の中だけは、まだ燃えていた。写楽の筆――その一本の線に、命を賭けるほどの執念が宿っていた。
「描くとは、生きること」――その信念が、彼を動かす。
写楽という名を冠した絵は、まるで鏡のようだった。描かれる役者の顔には、笑いも涙も、そして虚無も映っていた。
それを見た江戸の庶民は、気づかぬうちに自分たちの姿を重ねていた。
「これは、俺たちの顔だ」――そう感じたとき、写楽はひとりの絵師ではなく、江戸という民衆の象徴になった。
だがその光は、すぐに闇に狙われる。定信の命に背き、治済の怒りを買えば、命はない。それでも蔦重は止まらない。
恐怖の中で筆を動かす――それこそが、真の自由だった。
彼の中ではもう、芸術と命は分かち難く結びついていた。
描くことで死を遠ざけ、描くことで時代を刺す。蔦重の写楽は、権力に届く叫びだった。
一橋治済が血を操るなら、蔦重は“心”を操る。
紙の上に描かれた役者たちは、まるで魂を持つかのように笑い、泣き、怒った。
それを見た庶民は、知らず知らずのうちに息を吹き返す。
「俺たちは、まだ生きている」と。
創作とは、見えない戦争だ。
筆を取る者は、いつも命を懸けている。
蔦重が立ち上げた“写楽”という仮面は、恐怖と希望の両方を抱いた人々の“避難所”だった。
その筆は、権力を笑い、時代を暴く。江戸という檻の中で、たった一枚の絵が自由の象徴になった。
描くことは、抗うこと。沈黙しないための最後の手段。
その炎が、次の夜を照らす。――曽我祭の変へ。筆と命が交錯する夜が、静かに近づいていた。
“写楽”というもう一人の自分――蔦重が生み出した影の芸術
写楽は、蔦重が生んだ架空の絵師。でも、本当に“架空”だったのか?
この第45話を見ていて、ふと感じた。あれは単なる偽名でも、仕掛けでもない。あれは蔦重自身の“裏側”だ。
権力に屈せず、正義を語りながらも、実際には自分を守るために黙ってきた過去。春町を救えなかった後悔。
その全部を、蔦重は「写楽」という影に押し込めた。
写楽とは、彼の中の“もう一人の自分”なんだ。
表では商人として笑い、裏では絵師として叫ぶ。
蔦重は二人にならなければ、生きていけなかった。江戸という時代において、「生き延びる」ためには、自分を分裂させるしかなかったんだ。
「笑う俺」と「怒る俺」――江戸の中で裂かれる心
江戸の町は華やかに見えて、実は常に“沈黙の圧”が漂っている。
笑うことが生き延びる術。怒ることが死に近づく危険。
蔦重はその狭間で生きた。笑う俺と、怒る俺。どちらも本当。どちらも必要。
だからこそ、彼は“写楽”というもう一人を生んだ。
写楽の筆跡には、怒りの線がある。蔦重が口にできなかった言葉が、あの曲線の中に封じ込められている。
「しゃらくさい」って言葉が響いた瞬間、あれは蔦重の心の底から出た“叫び”だったんだろう。
現代に通じる“影の人格”というリアル
これって現代にも通じると思う。
会社での自分、SNSでの自分、誰かの前で作る自分――どれも本当なのに、どれも“本当の自分”じゃない気がする。
蔦重もそうだった。彼は時代の中で、もう一人の自分を創ることでようやく呼吸できた。
「写楽」は逃避ではなく、生存だった。
心がすり減る社会の中で、もう一人の自分を立ち上げてでも“描き続ける”こと。
その姿勢こそ、べらぼうという物語の根っこにある“狂気と優しさ”だと思う。
蔦重にとっての写楽は、時代に抗うための仮面であり、同時に自分を守るための防具。
でもその仮面の裏こそが、本当の顔なんだ。
写楽という名は、彼が自分の弱さを芸術に変えた証拠。
もし今、俺たちが何かを創る理由があるとしたら、それは“耐えるため”かもしれない。
時代の圧に押されながら、それでも筆を取る。
蔦重の描いた写楽は、その生き方そのものを、絵として遺したんだ。
おていという“静かな革命”――支える女の手が、時代を動かした
写楽が生まれた夜、蔦重の背中を押したのは、誰でもない。おていだった。
蔦重が迷い、筆を止め、沈黙に飲まれかけたとき。誰も届かない場所に、ただ一人、彼女の声が届いた。
その声は大きくなかった。でも確かに、物語の流れを変えた。
おていは、泣かない。怒らない。けれど、“見る”ことができる人だ。
蔦重の苦しみも、春町の死の重さも、歌麿の筆の迷いも。すべて見抜いていた。
彼女がしたのは、「支える」ことじゃない。
あれは、一緒に戦うという意思表明だった。
蔦重を動かした“理解する力”
「あなたを理解できるのは蔦重だけです」――あの台詞を、おていは涙で言わなかった。
静かな確信として言った。そこに彼女の強さがある。
この物語の女性たちは、何かを“守るため”に動く。だが、おていは違う。
彼女は、何かを“生み出すため”に動いた。
守る愛ではなく、動かす愛。それが、おていという人間の根だ。
蔦重の世界は男たちの言葉で満ちているけれど、あの夜、真に物語を動かしたのはおていの沈黙だった。
彼女が歌麿に向けた“信じる視線”が、筆を再び動かしたんだ。
“支える”という、もう一つの創作
支えるという行為を、軽く見てはいけない。
おていの「お願い」は命令より強く、彼女の祈りは策よりも深い。
彼女がいなければ、写楽は生まれなかった。絵は描かれなかった。
つまり彼女は、直接筆を取らずに、時代を描いた人だ。
男性が前に立ち、女性が後ろで支える――よくある構図だ。
でも、この物語の彼女は、後ろに見えて“下ではない”。
おていは、蔦重の“影”ではなく、“もう一本の光”。
彼女が信じた“蔦重と歌麿の再会”は、単なる仲直りじゃない。
あれは、創作という行為そのものを“もう一度信じる”ための儀式だった。
時代の圧に押されても、彼女は折れない。
権力に屈しない蔦重の背には、必ずおていの手があった。
創作の現場には、必ず“見えない手”がある。それをこの回は、丁寧に描いていた。
おていのように、誰かの言葉をもう一度立ち上がらせる力。
それは筆を握るより難しく、そして尊い。
このドラマの本当のテーマは、“書く人”よりも、“書かせた人”の勇気なのかもしれない。
江戸の夜を照らしたのは、筆の火だけじゃない。
その火を絶やさぬよう、静かに風を送った、おていという名の光だった。
べらぼう第45話「その名は写楽」まとめ――名もなき者の反逆が、時代を変える
筆が止まり、息が震え、心だけがまだ動いている。そんな夜が、誰にだってある。
『べらぼう』第45話「その名は写楽」は、そんな“止まった心”を再び動かす物語だった。
描けぬ者が描こうとし、言葉を奪われた者が噂で抗い、権力に押しつぶされそうな町が笑い声で息を吹き返す。
その中心にいたのが、蔦屋重三郎だった。
彼が生んだ「写楽」という名は、ただの画号ではない。
それは時代の“もう一つの顔”だった。
蔦重の“写楽”は、絵師ではなく、思想だった。
彼が筆を持たずに創った架空の絵師は、民の心の中にだけ存在した。
描いたのは、権力の仮面をはがすための風刺。
笑いと痛みを紙の上に刻みつけたその絵は、江戸の呼吸そのものだった。
写楽とは、蔦重の魂の影。
彼が春町に果たせなかった贖罪。おていの信じる力。歌麿の再起。
そのすべてが、筆先に宿り、線となって時代を貫いた。
第45話を貫くテーマは明確だ。
“創作は、反逆の最も静かな形である。”
人は言葉を奪われても、絵を描ける。声を押し殺されても、心を写せる。
蔦重が選んだ戦い方は、剣ではなく筆。血ではなく墨。暴力ではなく、芸術だった。
写楽という存在は、江戸の庶民が抱えていた鬱屈と、ほんの少しの希望を描き出した。
彼らが笑うために、彼ら自身を描いた。
そしてその絵を通して、彼らは初めて気づくのだ。
――自分たちは、まだ“生きている”と。
治済の血の連鎖に対し、蔦重は文化の連鎖で抗った。
それは決して派手な革命ではない。だが、時代の奥深くに染み込む力を持っていた。
筆一本で、人の心を変える。それが蔦重という男の戦い方だった。
そしてこの回の最後に残るのは、静かな余韻だ。
曽我祭のざわめきが遠ざかり、絵の中の役者たちがこちらを見つめている。
まるで、問いかけるように。
「お前は、何を写す?」
それは物語を越え、私たち自身に向けられた質問でもある。
誰もが、時代に一枚の絵を残している。
日々の言葉、行動、選択――それがすべて、“自分という写楽”の作品なのだ。
べらぼう第45話は、芸術と生き方の境界を消した回だった。
筆で笑い、墨で泣き、絵の中で生きる。そんな人間の美しさと愚かさが、江戸の夜に燃えていた。
次回、第46話「曽我祭の変」――筆と命が重なり、ついに物語は炎に包まれる。
写楽の筆が描いたのは、まだ誰も見たことのない“真実の江戸”だった。
- 第45話「その名は写楽」は、蔦重が筆を通じて権力に抗う夜を描く
- “しゃらくさい”の洒落から生まれた写楽は、民の魂を映す象徴
- 蔦重の迷いとおていの静かな行動が、創作の炎を再び灯す
- 歌麿との再会が、写楽に“心”を宿らせた転換点となる
- 一橋治済の冷酷な支配と、蔦重の筆が対を成す構図
- 写楽=蔦重の“もう一人の自分”という心理的側面を描く
- おていは“支える者”ではなく、“創らせた者”として時代を動かす
- 「描くとは生きること」というテーマが物語全体を貫く
- 写楽は芸術と反逆の象徴、そして現代にも響く“自由の筆跡”である




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