WOWOWドラマ『シャドウワーク』第2話は、単なるDV被害者の物語ではない。そこには「人間の善悪の境界」を測るような思考実験が用意され、登場人物たちは己の倫理観を丸裸にされていく。
昭江が語る「一生に一度だけ他人を押しのけていい」という哲学。その言葉の裏には、被害者が“生き延びるために選ぶ暴力”の正当化が潜んでいる。
紀子、薫、奈美──三人の女性がそれぞれの地獄を抱えながらも、“生きる”という行為に意味を取り戻そうとする姿が、第2話の核だ。
- 『シャドウワーク』第2話に込められた“思考実験”の意味と危うさ
- 昭江・紀子・薫たちが抱く「生きるための罪」とその覚醒の瞬間
- 優しさと支配が交錯する人間ドラマの核心と、視聴者への問い
「思考実験」は洗脳か、それとも救済か──第2話の核心に潜むテーマ
第2話を見終わったあと、胸の奥に残るのは静かな違和感だった。
「これは本当に思考実験なのか?」──そう問い返したくなるほどに、昭江の導き方は理性的でありながら、どこか冷たい。
人間の倫理観を試すような問いを与えながら、その場に漂うのは教育でも癒しでもなく、“統率”の匂いだった。
🧠 善悪の境界が溶ける瞬間を見逃すな
“思考実験”が優しさを狂気へ変える。
考えることを促されながら、支配されていく人間たち。
静かな言葉ほど、最も危険な洗脳になる。
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善悪を問う実験が、心の支配へと変わる瞬間
提示された問いは二つ。
ひとつは「村人を救うか、犯人を守るか」という王殺しの寓話。もうひとつは「仲間が夫に居場所を漏らしたらどうするか」という、あまりに生々しい心理実験。
前者は倫理、後者は信頼──二つの実験は、人間の“判断”の根源をえぐるように設計されている。
紀子が悩み、他の女性たちが即答する。そのときの空気には、どこか「正解を出さなければならない」という圧が漂っていた。
思考実験とは、本来「自分の中の価値観を確かめるための対話」だ。だが、この場ではそれが“群れの意見”を形成し、異論を許さないムードに変わっていく。
問いが武器になった瞬間だった。
紀子が「犯人を助ける」と口にしたとき、昭江は優しく微笑むでもなく、淡々と告げた。
「自分の頭で考えなさい」
その言葉は正論に聞こえる。けれど、言葉の刃は鈍く光っていた。
“自分で考えなさい”という命令ほど、皮肉なものはない。
考える方向さえ、すでに掌の上にあるからだ。
「自分で考えなさい」──昭江が放つ言葉の真意
昭江は暴力の被害者でありながら、同時に“思想の支配者”でもある。
彼女が作り上げた施設は、痛みを共有する場であると同時に、罪を理論化し、許しを構築するシステムにも見える。
「一生に一度だけ他人を押しのけていい」──この言葉を旗印にしたとき、それは救済にもなりうるが、同時に“許可された暴力”でもある。
つまり、彼女の哲学は「生きるために仕方ない」という免罪符を与える。
そして、その思想が施設の中で繰り返されることで、被害者たちは知らぬ間に“加害の側”の思考を学んでいく。
紀子はまだそれに気づかない。だが、夜のレクリエーションで投げられる問いの数々に、彼女の中の何かが軋み始める。
善悪を選ばされるうちに、彼女は誰かの価値観で生きている自分を悟るのだ。
昭江の「考えなさい」は、自由のようで不自由だ。
考えることを促すことで、逆に思考の枠を狭めていく。
それは、暴力ではなく言葉による拘束。洗脳の一歩手前にある。
けれど、それでも誰も彼女を責められない。なぜなら、昭江の言葉の奥には確かに“愛”があるからだ。
愛とは、ときに支配と似ている。
だからこの物語は、単なる被害者の癒しの物語ではない。
「人を救おうとする者が、いつのまにか神になってしまう」、その危うさを描いている。
この第2話の“思考実験”は、視聴者に問いかけている。
──あなたは、誰の声で考えているのか?
紀子の覚醒:「押しのける」権利を与えられた被害者
紀子という人物を語るうえで欠かせないのは、「被害者でありながら加害者の側に立ってしまう」という複雑な心理構造だ。
夫・清明の暴力を受けながらも、彼女はその理由を「自分が悪いから」と内面化していく。殴られるたびに「私がもっと頑張れば」と思い、痛みを自己責任に変換する。それは、長年にわたる心理的支配の結果であり、DVの典型的な構図だ。
だが第2話では、その“歪んだ愛”が少しずつ解体されていく。昭江の施設に身を置き、他の女性たちの傷跡と向き合ううちに、紀子の中の沈黙が軋みはじめるのだ。
🔥 「生きるために誰を押しのける?」その問いがすべてを変える
被害者であることをやめた瞬間、人は生まれ変わる。
優しさも愛も、彼女を救えなかった。
紀子が選んだ“我儘”は、罪か、それとも解放か。
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夫の暴力を“愛”と誤認する罪悪感の構造
暴力の後にやってくる謝罪──「ごめん」「お前がいないとダメなんだ」。
この繰り返しが、紀子の中で「愛の確認」のような錯覚を生む。殴られることは、存在を確かめられる行為に変わっていく。彼の暴力は、彼女の「必要とされたい欲望」と結びついていた。
だからこそ紀子は、清明を責められない。彼の涙を見ると、罪悪感の方が先に立つ。自分が壊れていくのを感じながらも、「私が支えなければ」と思ってしまうのだ。
この心の構造を、ドラマは過剰な説明を避けながら丁寧に描いている。ほんのわずかな表情の揺れで、「被害と愛情の境界線が溶けていく瞬間」を見せているのが印象的だ。
昭江や路子たちとの出会いは、紀子にとって“他者の痛み”を通して自分を照らす鏡になった。彼女たちの言葉を聞くたびに、紀子の中で「我慢しなくていい」という新しい概念が芽生えていく。
その小さな変化こそが、覚醒の始まりだった。
昭江の“25年前の一度”が示す、生き延びるための選択
昭江は、静かに語る。「人は長くは生きられない。だから、一生に一度だけ他人を押しのけていい」
この言葉を聞いたとき、紀子は息を呑む。自分の人生を守るための“暴力の免罪符”に思えたからだ。
だが昭江の表情は穏やかだった。そこには開き直りでもなく、悟りに近い静けさがあった。
25年前、昭江はその「一度」を使ったという。詳しい経緯は語られないが、その“行為”が彼女をこの施設の創設へと導いた。つまり、昭江にとって“押しのける”とは、殺すことではなく生きることだったのだ。
紀子は、その話を聞いて初めて“自己保存”という概念を理解する。いままで彼女にとって「他人を押しのける」は、わがままや裏切りの象徴だった。だが昭江の言葉を通して、それが“生存の条件”へと変わる。
生きるために誰かを傷つけてもいい瞬間がある。その倫理のグレーゾーンが、紀子の中でゆっくりと形を取っていく。
彼女の覚醒は、決して派手ではない。怒鳴り声も涙もない。だが、心の中で何かが静かに切り替わる。
「私は生きるために、何を押しのけるのか?」──その問いが、彼女の目を覚まさせる。
第2話の終盤、紀子が昭江のファイルを覗き見るシーンは、その“答え”を予感させる伏線のように見える。資料の中には、夫・清明の名。そして“死亡”と書かれた別の男の記録。
昭江の「一度」は本当に25年前の出来事なのか? それとも、今も続いているのか?
紀子が“押しのける側”になる未来が、静かに始まりを告げている。
薫と奈美、それぞれの「逃げ場なき現実」
「逃げたはずなのに、まだ追われている。」
この第2話に登場する薫と奈美は、それぞれ異なる形でこの言葉を生きている。
DVから逃れた彼女たちは“自由”を手にしたはずだった。だが、外の世界には別の形の暴力が待っていた。社会の冷たさ、制度の壁、そして何よりも自分の中に残る「恐怖の記憶」だ。
🚪 逃げても、現実は追ってくる
正義を訴えた者が孤立し、恐怖を数で測る者が息を繋ぐ。
生き延びるとは、ただ“逃げない勇気”のこと。
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薫:正義の裏に潜む社会的制裁と孤立
薫は警察官の夫をDVで訴えた女性だ。相手はエリート警察官、しかもその父は元刑事局長。彼女の告発は、組織の体面を傷つける“裏切り”と見なされた。
結果、薫は「被害者でありながら、職場では加害者扱いされる」という二重の地獄に落ちる。
同僚たちは彼女を避け、陰では“警察の恥”と囁く。職務上の能力ではなく、「夫を訴えた女」というレッテルでしか見られない。正義を信じて行動した者が、最も深く孤立していく構図だ。
そして、物語の終盤に描かれる“暴漢による襲撃”。あの場面は単なる事件ではない。薫が社会的に抹殺されていく象徴だ。
防犯ブザーを鳴らし、茂みに投げ込む。あの瞬間、彼女は生存本能だけで動いていた。助けを呼ぶためではなく、“生きることを諦めないため”にスイッチを押したのだ。
この行為は、昭江の哲学──「生きるために一度だけ他人を押しのけていい」──の延長線上にある。
薫は、誰かを押しのける代わりに“正義”を押しのけた。つまり、理想を犠牲にして現実を生き延びたのだ。
それは敗北ではない。むしろ、「正しさより、生きることを選んだ瞬間」こそが、薫の再生の始まりだった。
奈美:恐怖が染みついた日常を、数を数えることで克服する
奈美の物語は一見静かだが、その沈黙の中に凍りついた痛みがある。
彼女は、金銭を数えるという日常的な行為に恐怖を抱いていた。かつて夫に暴力を受けた際、現金を数えるたびに怒号と拳が飛んできた。その記憶が神経に焼き付いている。
だから今も、数字が脳内で溶ける。途中で何を数えていたのか分からなくなる。それはPTSDの典型的な反応であり、彼女の中で「計算=恐怖」という結びつきがまだ断ち切れていない証だ。
それでも奈美は、あえてレジの仕事に就いた。避けるのではなく、真正面から恐怖を見つめるために。
「克服ではなく共存」という言葉が似合う。彼女は恐怖を消そうとせず、それと共に生きる道を選んだのだ。
奈美が“数を数える”という行為は、観念的には祈りに近い。数を数えるたび、過去の自分を一人ずつ弔っているようでもある。
そんな奈美を見つめる紀子の表情が印象的だ。彼女は奈美の姿に、「痛みを抱えながらも自分を責めない」という新しい生き方を見出していく。
この施設に集まる女性たちは、互いの痛みを通して自分の輪郭を取り戻していく。奈美の沈黙は紀子の心を映す鏡であり、薫の孤立は彼女の未来の影でもある。
つまり、この第2話のテーマは「連鎖」だ。
暴力の連鎖、記憶の連鎖、そして救済の連鎖。
それぞれの女性が違う形で“逃げ場のない現実”を生きながらも、ほんのわずかな希望の糸をつかもうとする。
その光は弱く、かすかだ。けれど確かにそこにある。
彼女たちはまだ壊れていない。いや、壊れたままで立っている。
「生きるため」の言葉が持つ、危うい優しさ
昭江が口にする「生きるためよ」という言葉は、どこまでも優しく響く。
けれどその優しさの中には、強烈な支配の種が眠っている。
人は“生きるため”と理由をつければ、どんなことでも正当化できてしまう。暴力でさえも、逃避でさえも──その一言で赦される世界が、この施設にはあった。
🌙 優しさの奥に潜む“支配の呼吸”を見抜け
「ここでは我慢しなくていい」──その言葉は救いか呪いか。
共感と支配の境界線が曖昧になる夜。
優しさはときに、最も静かな暴力になる。
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昭江の施設が抱える“共依存の連鎖”
レクリエーションの夜、昭江は女性たちを前に静かに言う。「生きるためにやっている。それだけよ」
一見、救いの言葉のように聞こえる。だがその裏側には、「生きること」さえ目的化された閉鎖空間の歪みが潜んでいる。
この施設は、暴力に傷ついた女性たちを保護する場所でありながら、同時に“過去を失った者たちの檻”でもある。昭江の存在があまりに強すぎるのだ。
彼女は自分自身の痛みから逃げず、それを理念に変えた。けれど、その理念がいつしか他者の自由を奪っていく。
昭江の優しさは、共感ではなく統制へと変わり始めている。
「一生に一度だけ他人を押しのけていい」──その哲学は、初めは被害者を解放するための言葉だった。だが繰り返し口にされるうちに、“他人を押しのける権利”という新たな力を生んでしまった。
支配と救済の境界が曖昧になるとき、共依存は生まれる。救う側と救われる側が、互いに離れられなくなる。
昭江と紀子の関係は、まさにその予兆だった。昭江は紀子を導きながら、同時に“自分の正しさ”を確認している。紀子は昭江を慕いながら、彼女の価値観に飲み込まれていく。
それは、暴力とは違う形の支配──「救済という名の拘束」だ。
「ここでは我慢しなくていい」という言葉が導くもの
奈美が紀子にかけた「ここでは我慢しなくていい」という言葉。この一言に、第2話の根幹が詰まっている。
我慢しなくていい。逃げてもいい。泣いてもいい。その許しの言葉は、確かに救いだった。
だが一方で、それは「ここでしか自分を出せない」という依存の入り口にもなる。
この施設の中では、“弱さを見せること”が正義に変わる。強くなろうとする者ほど浮き、再び沈黙へと追いやられていく。
つまり、「我慢しなくていい」が「成長しなくていい」に変わる瞬間が訪れるのだ。
紀子は少しずつその違和感を感じ取っていく。優しさの奥に潜む無言の圧力──“ここにいれば安心”“外に出たらまた傷つく”。
その心理の渦が、彼女の心を締め付けていく。
昭江が倒れ、紀子が彼女の資料を覗き見たシーンは、この優しさの崩壊を象徴していた。守られていた空間が、“知らなくていい真実”によって壊れていく瞬間だった。
昭江が隠してきたのは、過去ではなく、理念の歪みそのもの。彼女にとってこの施設は“救済の場”ではなく、“贖罪の装置”だったのかもしれない。
だから、紀子が見たファイルの中に「夫の名」を見つけたとき、それは単なる偶然ではなかった。
「ここで我慢しなくていい」という言葉の代償が、ついに可視化された瞬間だったのだ。
この第2話が痛烈なのは、暴力や悲劇を描くだけでなく、“優しさの暴力”を暴いていることだ。
優しさは、時にナイフよりも鋭い。
そしてその切っ先は、救われたいと願う者自身に向けられている。
第2話の結末が示す、“思考実験”の真の意味
夜の静寂の中、紀子が手にしたファイルには、封じられた真実があった。
昭江の倒れる音に導かれ、無意識のまま開いた引き出し。その奥からこぼれ落ちた紙束には、男たちの過去、そして死の記録が並んでいた。
その中に、紀子の夫・清明の名を見つけた瞬間、彼女の表情は凍りつく。自分の人生が、他人の“研究”の中で扱われていたのだと気づくからだ。
そして、別のファイルに貼られていた死亡記事──それは、昭江の「一生に一度」の使い道を暗示していた。
🔍 真実を知る者は、もう被害者ではいられない
“思考実験”は終わらない。
その問いは、いまもあなたの中で続いている。
考えることをやめた瞬間、支配が始まる。
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紀子が見たファイル──その中に刻まれた「死」と「罰」
あの資料群は、単なる記録ではない。昭江たちが“手を下した”証拠のようにも見える。
「救済」という名の下で行われた、もうひとつの正義。
紀子はその瞬間、世界の構造を反転させて見てしまう。ここは“逃げ場”ではなく、“審判の場”なのかもしれないと。
昭江が掲げた「一度だけ押しのけていい」という思想が、実際にはどんな結果を生んだのか──その“現実”が目の前に並んでいる。
貧血だと笑いながら立ち上がる昭江。その笑みには、どこかに覚悟があった。紀子が何を見たかを察していながら、何も問わない。まるで「あなたもここまで来たのね」と告げるように。
その沈黙の対話こそが、この第2話の頂点だ。
思考実験とは、本来“仮想の罪”を想像して己を知るためのもの。
だが昭江の施設では、その“仮想”が現実と交差してしまっている。問いの中で考えた“もしも”が、現実の選択へとつながっていく。
紀子はもう気づいている。「思考実験」は、彼女たち自身の過去を再演する儀式だったということに。
村人を救うか、犯人を守るか──あの問いに込められていたのは、“自分を救うか、夫を許すか”という現実の二択だ。
そして“仲間が夫に居場所を教えたらどうするか”という問いは、信頼と裏切りの境界を試す呪文でもあった。
紀子がその問いに「私の仲間はそんなことしない」と答えたのは、信念ではなく祈りだ。
けれど、その祈りが昭江の目には“未熟さ”に映る。だから彼女は、思考実験を通して“真実を知る勇気”を与えようとしていた。
暴力の記録を読む者は、いつか加害者にもなるという皮肉
この結末で描かれたのは、「知ることの暴力」だ。
真実を知るという行為は、必ずしも解放ではない。むしろ、知った瞬間に人はその罪を継承してしまう。
昭江が持っていた資料を覗いた紀子は、もはや「被害者のまま」ではいられない。見てしまった以上、彼女も“この思想の一部”になる。
それは、昭江が25年前に犯した罪と同じ構造だ。
人を救うために誰かを押しのける。
この連鎖が終わらない限り、彼女たちはどこまでも“思考実験”の中で生き続ける。
そして、その“実験”は視聴者にも及んでいる。
もし、あなたが紀子の立場だったら──真実を見たあとでも、昭江を信じられるだろうか?
第2話のラストシーンは、答えを出さないまま闇の中に消える。だが、その静けさこそがメッセージだ。
「考えることをやめた瞬間、人は支配される。」
思考実験は終わらない。昭江の問いは、紀子を通して、いま私たちの中でも続いている。
──“生きるために、何を押しのけるか”。
それがこの物語の、そして私たち自身の、永遠の思考実験なのだ。
「優しさの裏にある“観察者”の視線」──沈黙の中で誰が見ているのか
癒す者は、いつのまにか“観察者”になる
その視線の中で、ほんとうに自由は生まれるのか
この物語の中で、いちばん怖いのは暴力ではない。見守るという名の観察だ。
昭江の施設にいる女性たちは、誰もが「見られている」。言葉の端々、沈黙、視線の揺れ──すべてが評価され、記録され、思想の中に組み込まれていく。
それは明らかな監視ではなく、優しい観察。だが、優しさほど人の自由を奪うものはない。
昭江は彼女たちに「考えなさい」と促しながら、その思考の過程をすべて見ている。誰がどんな答えを出すか、どんな表情を浮かべるか。その全てを観察することで、昭江は自分の“理念の正しさ”を確認している。
救済は、彼女にとっても生きるための装置だ。紀子を導くことが、昭江の「生き延びる理由」になっている。
だからこそ、この施設の空気には妙な静けさがある。表面は穏やかだが、底の方では思想と感情がせめぎ合っている。
紀子がファイルを開いた瞬間に感じた寒気──あれは、“見られていた側が、見る側へと立場を反転させる瞬間”だった。
被害者は観察の対象として救われる。だがその救いの中で、彼女たちは自分の感情を整理し、語り、理解される存在になる。つまり、「物語の中の登場人物」として扱われていく。
そしてそのプロセスは、現実の私たちにも似ている。SNSでもニュースでも、誰かの痛みを「見て」「理解したつもり」になる瞬間がある。だがそれは、本当に理解しているわけではない。安全な場所からの観察に過ぎない。
昭江の思想の恐ろしさは、そこにある。暴力の加害者のような明確な悪意ではなく、“正しさ”という名のフィルターで他人を観察してしまう無意識。
この第2話を見ていて感じたのは、「観察者になることの罪」だ。
紀子もまた、昭江を観察しはじめた。ファイルを開き、彼女の思想を読み取る。そのとき紀子は、もう被害者ではない。観察者の側に立ったのだ。
つまりこのドラマは、「被害者が観察者に変わる物語」でもある。
その転換こそが、この作品の異様なリアリティを支えている。
人は傷つくと、他人の傷に敏感になる。でもその敏感さが、いつか“観察する側”の冷静さへ変わっていく。その境目に立つとき、人はもう一度、自分がどちらの側なのかを問われる。
昭江が仕掛けた思考実験は、もしかするとそれを見極めるための儀式だったのかもしれない。
生きるとは、他人を見つめ、見つめられること。その視線の中で、人はようやく自分の形を思い出す。
──そして、誰かを“救おう”とした瞬間、もう一度、観察者になってしまう。
シャドウワーク2話の考察まとめ|生き延びることは罪なのか
「生きる」という言葉ほど、残酷な優しさを内包した言葉はない。
第2話『シャドウワーク』が描いたのは、ただのサバイバルではない。そこには、“生き延びた者が背負う罪”という、倫理と本能の狭間に横たわる問いがあった。
昭江が語った「一生に一度だけ他人を押しのけていい」という哲学は、あまりにも人間的だ。だからこそ、観る者の胸に重く沈む。なぜなら、その一度を行使した瞬間、人は“生き残った者の責任”と向き合わなければならないからだ。
🕯️ 「生き延びる」とは、最も静かな戦いだ
罪でも正義でもない、“意志”としての生。
誰を押しのけ、何を守るのか。
その答えは、あなたの中にしかない。
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“一生に一度の我儘”が許される瞬間
昭江の「一度だけ押しのけていい」という言葉は、単なる免罪符ではない。
それは、人が生きるために踏み越えなければならない“最終ライン”を示している。誰かを救うために誰かを犠牲にする。愛する人を守るために、別の誰かを見捨てる。──人はその選択から逃れられない。
この第2話は、「生き延びることの正しさ」と「他人を押しのけることの罪深さ」の狭間で、視聴者を立ち止まらせる。
紀子は、夫の暴力に苦しみながらも、なお「自分が悪い」と思い込んでいた。だが昭江の哲学に触れた瞬間、初めて「自分の人生を取り戻すために、誰かを押しのけてもいい」と理解しはじめる。
それは覚醒であり、同時に堕落でもある。
“一生に一度の我儘”とは、最も美しく、最も危険な決断なのだ。
この物語の恐ろしさは、視聴者にも同じ問いを突きつける点にある。
もしあなたが紀子の立場だったら、誰を押しのけるだろうか?
この問いの前で、私たちは誰も「正しい」とは言えない。なぜなら、生き延びることそのものが、他者を犠牲にして成り立っているからだ。
思考実験という名の鏡が、視聴者に突きつける選択
昭江が仕掛けた“思考実験”は、登場人物たちの内面をあぶり出すための装置だった。しかしその構造を見つめ直すと、それはむしろ「視聴者への鏡」だと気づく。
村人を救うか、犯人を守るか。仲間を信じるか、裏切りを許すか。──これらの問いは、ドラマの登場人物だけでなく、私たち自身の倫理観を試している。
思考実験とは、本来“安全な場所で罪を想像する行為”だ。だが『シャドウワーク』では、その安全圏が崩されている。
観る者もまた、無意識に実験の被験者にされている。
昭江の言葉に共感した瞬間、私たちは彼女の思想の一部になる。紀子の迷いに涙したとき、私たちは同じ矛盾を抱え込む。それこそが、この作品の恐ろしい構造だ。
“思考実験”という名の装置は、誰もが「正解のない現実」を突きつけられる場所だ。
そして、答えを出せない自分を見つめたとき、人は初めて人間になる。
第2話の終わりに残る静寂は、敗北の音ではない。それは、“生きるために迷うこと”そのものが人の証だと教えている。
『シャドウワーク』は、暴力や救済の物語ではない。人が「考えながら生きる」ことの痛みを描いた哲学劇だ。
そして、この第2話が示す結論はただひとつ──
生き延びることは、罪ではなく意志である。
その意志を、あなたはどんな“我儘”で貫くだろうか。
- 第2話は「思考実験」を通して人の倫理と支配を描く構成
- 昭江の「一度だけ他人を押しのけていい」という思想の危うさ
- 紀子が被害者から“生きるために選ぶ者”へと変化する過程
- 薫と奈美が見せる「逃げ場のない現実」と“生きる本能”
- 施設に漂う優しさが、同時に共依存と洗脳を生む仕組み
- 紀子が目にしたファイルが示す“救済と罰”の二重構造
- 思考実験は登場人物だけでなく視聴者自身を試す鏡である
- 優しさの裏に潜む「観察者の視線」という支配のテーマ
- 生き延びることは罪ではなく、“意志”であるという結論
- ドラマが突きつけるのは、「あなたは誰を押しのけて生きるのか」という問い




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