年越し特番『おもしろ荘2026』で第2位に輝いた23歳トリオ・生姜猫。漫才「サウナ」で見せたのは、熱と冷たさを往復する“感情のリズム”だった。
彼らは小学2年からの幼なじみで、ネタづくりも、人生の歩幅も共有してきた3人。川﨑、ケージュ、カンサイ──それぞれの個性が絡み合い、ツッコミ不在のまま絶妙な温度差を生み出す。
ネットで「不祥事」と検索されるほど話題を呼んだ彼らの漫才は、ただの笑いではない。若さ特有の“痛み”と“希望”を同居させた、生のユーモアの記録だ。
- 『おもしろ荘』第2位・生姜猫が注目を集めた理由
- ツッコミ不在でも成立する独自の“整う漫才”の仕組み
- 23歳トリオが描く、若さと感情の新しい笑いの形
生姜猫の「サウナ」が刺さった理由──熱と冷たさの間で笑いを生む構造
『おもしろ荘2026』で第2位に輝いた生姜猫の漫才「サウナ」は、単なる若手の快進撃ではなかった。
熱と冷たさ、テンションと無表情、寄せと引き──そのすべてを「感情の温度差」で設計した漫才だった。
その構造を理解すると、彼らがなぜ23歳という若さで、笑いの“新しい整い方”を提示できたのかが見えてくる。
ナイナイが体感した“整う”瞬間
生姜猫のネタ「サウナ」は、熱い言葉をかけられた後に冷たい言葉を浴びると心身が整う、という発想をベースにしている。
舞台上ではケージュとカンサイが勢いよく“熱波”を送り、最後に川﨑が無表情で“冷水”をぶっかける。
その瞬間、観客もMCのナインティナインも笑いながら一種の“整い”を体験していた。
熱と冷たさのコントラストで、感情を一度リセットする。その設計が、彼らの漫才の最大の武器だ。
この“温度の循環”は、見ている側に「笑ったあとに少し静かになる」余白を与える。漫才というより、感情のサウナ体験だ。
ナイナイの矢部浩之がツッコミではなく“体感者”として笑っていたのが象徴的だ。ツッコミを観客やMCに“委ねる”構成こそ、彼らが提示した新しい漫才のフォーマットである。
トリオなのにツッコミがいないという選択
一般的にトリオ漫才には“指揮官”のようなツッコミ役が存在する。
だが、生姜猫にはそれがいない。代わりにあるのは、幼なじみ特有の“対等な距離感”だ。
誰かが仕切るのではなく、三者三様の呼吸でネタが進む。
そのバランスは不安定に見えて、実は非常に精密だ。ひとりが暴走しても、他のふたりがツッコむのではなく「見守る」ことで笑いの“余熱”を残す。
ツッコミ不在の漫才はリスクが高い。しかし、彼らはそれを“若さ”で押し切るのではなく、無秩序を秩序に変える会話リズムとして成立させている。
カンサイが繊細なリードを取り、ケージュが大胆にかき回し、川﨑が最後に冷たく落とす。三人がそれぞれ別の温度を保ったまま、ネタ全体が一つの「気候」として機能している。
漫才の構造としては異端。だが、その異端さこそが令和の観客の感情にフィットしている。
鬼越トマホークとは違う“感情の温度差”漫才
熱い言葉をぶつけ合い、最後に一発の“冷却”で笑いを取る。その構図だけ見れば、鬼越トマホークに近い。
だが、生姜猫の「サウナ」は、怒りや対立ではなく“共鳴と沈黙”の笑いだ。
観客を攻撃しない漫才。むしろ観客を“巻き込んで整える”漫才。
彼らの冷たさは暴力ではなく、救済のニュアンスを帯びている。
23歳という年齢で、笑いを“温度の体験”として設計する発想。それは技術というより、感情の観察力だ。
ネタが終わる瞬間、舞台に残るのは静かな余白。その静寂に、観客の笑いがもう一度反響する。
熱狂のあとに残る静けさ。そこに、彼らの漫才が“刺さる”理由がある。
23歳のトリオが掴んだ、お笑いの“未開地”
生姜猫が立っている場所は、まだ地図に名前のない場所だ。
『おもしろ荘』で見せた漫才も、『M-1グランプリ2025』準決勝まで進んだ勢いも、単なる若手の勢いでは片づけられない。
彼らの中にあるのは、“まだ正解が見つかっていない領域で笑いをつくる”という野心だ。
トリオ漫才という形式の限界を感じながらも、その限界線を自分たちの笑いで上書きしていく──23歳の若さがそのまま武器になっている。
トリオでM-1準決勝──誰も見つけていない「正解」へ
『M-1』の歴史の中で、トリオが決勝に進出した例はまだない。
それを知った上で、カンサイは「(正解が)まだ見つかっていないのはデカい」と言った。
この言葉の奥にあるのは、“前例がないなら、自分たちが最初になればいい”という、静かな反骨だ。
M-1準決勝では、前の出番が決勝準優勝のドンデコルテ。その圧倒的な熱量の後に登場しながら、彼らは自分たちのペースで空気を作り直した。
爆笑ではなく、「お、この三人、何か違うぞ」と思わせる余白。その“異質さ”こそが、審査員の記憶に残る武器になった。
結果としての準決勝進出ではなく、存在そのものを刻んだステージ。そこから『おもしろ荘』での爆発に繋がる。
幼なじみが作る、上下関係のない笑いの現場
生姜猫の関係性には、上下がない。
小学2年からの幼なじみだからこそ、ボケもツッコミも“競う”のではなく“遊ぶ”。
舞台の上に立っても、空気が学生時代の延長線上にある。
ネタ中にどれだけ言い合っても、根底にあるのは「お前となら笑える」という信頼。
漫才やコントの枠を越えて、三人の関係性そのものが“笑いの装置”として機能している。
リーダーもいない。ツッコミもいない。あるのは“気配の共有”だけ。
その曖昧な距離感が、観客を包み込むような安心感を生んでいる。
まるで舞台を囲む観客全員が、幼なじみの輪の中に一瞬だけ混ざるような感覚。
それが、彼らのネタがどんな空気の中でも“刺さる”理由のひとつだ。
「ツッコまれたくない若さ」こそが武器になる
彼らはインタビューで、「まだ若いし、ツッコまれたくない」と語っている。
この言葉は、ただの照れ隠しではない。
若さゆえの未完成さを、自覚したうえで表現に転化しているという意思表明だ。
完成された笑いよりも、成長途中の“ぐらつき”に観客が惹かれている。
漫才のテンポも、ツッコミの省略も、彼らにしか出せない“未熟の美学”。
大人の芸人が計算で作る笑いではなく、その場で呼吸している感情のままの笑い。
それを“トリオ漫才”という未開地の中で成立させているのが、生姜猫の現在地だ。
この「若さのまま笑う」姿勢は、芸歴を重ねるほど再現が難しくなる。
彼らはその刹那を、全力で燃焼させている。
笑いに正解がないのなら、自分たちの“温度”が正解になるまでやる──そんな覚悟を、彼らのステージから確かに感じる。
ネタの裏側にある3人の履歴──それぞれの役割が生む“歪なバランス”
生姜猫のネタには、明確なリーダーも設計図もない。
だが、その無秩序に見える舞台の下には、3人それぞれが持つ“履歴”が折り重なっている。
川﨑、ケージュ、カンサイ──幼なじみというだけでなく、性格も役割もまったく違う。
バランスではなく“歪み”によって成り立つトリオ。その歪さが、ネタに異常なリアリティを与えている。
カンサイ:発想と繊細さの狭間にいる脚本家
カンサイはネタの設計者だ。100あるアイデアのうち、100を自分で書く。
彼の発想は、どこか“異常な観察眼”に支えられている。
TikTokの短い動画を何百本も見て、流行の切り口を分解し、そこから新しいフォーマットを作る。
インスピレーション源は映画でも文学でもなく、SNSのノイズ。
彼にとってお笑いは“映像の速度”を言語化する作業だ。
それでいて、舞台に立つと慎重で臆病。人前で声が少し震える。だがその繊細さがネタの温度を保つ。
観客を爆笑させるより、少しだけ心拍を上げて帰らせる。それが彼の目指す笑いの形だ。
アイデアを練るとき、彼は常に「まだ誰もやってないか?」を問い続けている。
だから生姜猫のネタには、どこか“静かな狂気”が漂っている。
ケージュ:どんなスベりにも折れない胆力
ケージュは、トリオの“熱源”だ。
NSC時代、観客の前で大スベりした日、舞台袖で彼が最初に言ったのは「まだ成長できるわ」だった。
普通なら沈む。だが彼は笑っていた。
この異常なほどのメンタルの強さが、トリオの空気を明るく保っている。
彼は観客に“ウケたい”よりも、“空気を動かしたい”と思っているタイプだ。
笑いよりも空気の変化を観察する芸人。
その大胆さは、漫才中にも現れる。誰よりも声を張り、誰よりもリズムを崩す。
だが、その破壊があるからこそ、川﨑の冷たさが生きる。
彼の存在は“混ぜる力”。まとまりかけた瞬間に混ぜ返す。
ステージ上での役割は、実は最も危険で、最も自由だ。
彼の「成長できるわ」という言葉が、チームの精神の根幹になっている。
川﨑:“客観視の男”が作る静かな終止符
川﨑は、舞台上で最も感情を見せない。
無表情で一言放つ。その冷たさが観客の笑いを再起動させる。
彼はトリオの“冷却装置”であり、脚本家の第三者目線でもある。
彼には「芸人らしい野心」よりも、「観客の目線でネタを見る冷静さ」がある。
その姿勢が、三人のバランスを保つ支点になっている。
ケージュが暴れ、カンサイが構築する。その間に川﨑が呼吸を整える。
笑いが熱を持ちすぎたとき、彼の無感情な一言が、会場全体のリズムをリセットする。
それはまるで、サウナの水風呂のような効果だ。
観客の体温が一瞬下がり、その直後に笑いがもう一度湧き上がる。
川﨑の冷たさは、感情を殺しているのではなく、笑いを整えている。
三人がそれぞれ別方向を向いているようで、同じ一点を見ている。
その一点とは、「まだ誰も笑わせていない温度」だ。
歪みを恐れずに立ち続ける3人の姿が、今の生姜猫を唯一無二にしている。
「不祥事」検索の真相──誤解すらも笑いに変える構造
『おもしろ荘2026』の放送直後、「生姜猫 不祥事」という検索ワードがネット上に踊った。
23歳の若手芸人が、一夜にしてスキャンダルか──そんな憶測が走った。
だが、実際には何の不祥事も起きていない。
原因は、彼ら自身の漫才ネタ「“あんなことしたのに”」にあった。
つまり、誤解さえも笑いに変えてしまったという話だ。
ネタ「あんなことしたのに」が招いた誤検索
このネタは、川﨑を「あんなことしたのに」と責め立てる構成になっている。
観客は当然、“あんなこと”とは何なのかを気にする。
だがネタは最後までそれを明かさない。
この“語られない罪”が、観客の想像を暴走させた。
放送後、視聴者が「あんなこと=不祥事」と勘違いして検索をかけた結果、「生姜猫 不祥事」というワードがトレンド入りしたのだ。
つまり、彼らの笑いは放送後も観客の頭の中で“続いていた”。
ネタが終わったあとに検索される漫才。それ自体が、彼らの構成力の高さを示している。
これは炎上ではない。観客の想像力を利用した、ポスト舞台型の笑いだ。
誤解が拡散しても、そこに残った“印象の強度”
ネットの誤解が拡散しても、彼らは動じなかった。
むしろそれを笑いの延長線として受け止めている。
ケージュはSNSで「不祥事の件? ネタの中だけです(笑)」と軽やかに対応。
それがさらに“彼ららしい”と称賛を呼んだ。
怒らず、慌てず、ネタに還元する。それがいまの時代における芸人の強さだ。
一歩間違えれば炎上だったかもしれないが、彼らはそれを“笑いの副産物”として処理した。
この姿勢に、SNS世代の観客は強く共感している。
生姜猫の笑いは「笑わせる」ではなく、「考えさせて笑う」。
ネタを見た人が、後から思い出してニヤつく。その“遅延型の笑い”が、いま最も新しい形のバズだ。
炎上でもスキャンダルでもない、“記憶に残る漫才”
「不祥事」という誤解は、むしろ彼らの存在を際立たせた。
笑いを消費する側ではなく、笑いを循環させる側に回ったからだ。
観客がSNSでネタの続きを議論し、検索する。そこまで含めてひとつの構成。
彼らは、舞台を降りたあとも観客の中で“生き続ける漫才”をつくっている。
「あんなことしたのに」という台詞は、罪の告白ではなく、“余白の演出”だった。
情報過多の時代に、言葉を削って笑いを増やす。
それは、ある意味で令和の“間”の哲学だ。
彼らは意図せず、SNS文化に最適化された笑いの構造を実現していた。
誤解されてもいい。むしろ誤解されることで、ネタが“もう一度見たい”と思われる。
それこそが、彼らが狙わずに掴んだ最大の成果だ。
そしてこの“誤解を笑いに変える構造”こそ、次の時代の芸人が最も欲している武器かもしれない。
“生姜猫っぽさ”とは何か──彼らがつくる新しい漫才の温度
「生姜猫っぽい」──この言葉が、彼らを語るうえで最もしっくりくる。
漫才でもコントでもない、けれど確実に笑いの真ん中を射抜いてくる。
そこには、技術では説明できない“温度”がある。
熱すぎず、冷たすぎず、絶妙な37℃。観客の体温とほぼ同じ、その中庸の温度こそが“生姜猫っぽさ”の正体だ。
コントよりも難しい漫才に挑む理由
彼らはコントが得意だ。3人の関係性やキャラクターを最大限に活かせる。
だが、あえて漫才に挑み続けている。
理由は明確だ。「漫才には“人間の深み”が必要だから」。
カンサイは言う。「同じことを話しても、おっさんが言うほうが説得力ある。でも僕らが言うと、どこか軽く聞こえる」。
だからこそ、彼らは“若さ”という説得力のなさを前提に設計している。
成熟していない人間が、成熟を演じようとする不器用さ。そのギャップにこそ笑いがある。
完成を目指さない漫才。その未完成さが、彼らの武器になっている。
コントのように物語を構築するのではなく、漫才で“感情のグラデーション”を描く。
そこにあるのは「笑いの技術」ではなく、「生きている温度」だ。
若さゆえの説得力のなさを逆手に取る
観客が彼らを見るとき、最初に感じるのは“軽さ”だ。
見た目も声も若い。発する言葉に重みはない。
しかし、その“軽さ”を自覚している彼らは、そこに重みを足そうとしない。
むしろ、軽いまま突き抜ける。
「軽さのまま真剣にやる」──その矛盾が笑いを生む。
たとえば、ネタの中で彼らが語る恋愛話や人生論は、どこか空っぽだ。
だが、その“空っぽさ”を観客は笑いながら受け入れる。
なぜなら、誰もが通ってきた「若さの通過点」を、彼らは無防備なまま差し出しているからだ。
それは失敗を笑われることではなく、失敗を共有する優しさに近い。
若い芸人が語る言葉にしては異様なほど、観客が“共犯的”に笑っている。
それが、“生姜猫っぽさ”という空気の正体だ。
「熱い」と「冷たい」の中間にしか生まれない笑い
生姜猫の漫才には、必ず“温度の差”がある。
ケージュが全力で熱く語り、カンサイが少し冷静に乗り、川﨑が最後に冷やす。
この温度差の往復が、観客の体温を微妙に上下させる。
それは笑いのリズムであり、呼吸の誘導でもある。
観客は笑うとき、実際に息を吐く。そのリズムをコントロールできる芸人は少ない。
彼らは感情を直接操るのではなく、呼吸の間で笑わせる。
だからこそ、見終わったあとに疲労ではなく“整い”が残る。
生姜猫の笑いは、感情を爆発させるものではなく、感情を撫でるものだ。
舞台を降りたあとに「もう一回見たい」と思わせる静かな余韻。
それは、熱狂の反対側にある“冷たい優しさ”の笑い。
今の観客が求めているのは、まさにその温度なのかもしれない。
生姜猫は、笑いを“爆発”から“体温”に変えた最初のトリオだ。
生姜猫の現在地と、未来に見える輪郭
『おもしろ荘』第2位──その肩書きは、若手芸人にとって夢のようなチャンスだ。
だが、生姜猫にとってそれは“通過点”にすぎない。
3人はこのステージを、ゴールではなく“実験の途中経過”として見ている。
笑いの正解がないなら、自分たちが地図を描く。その覚悟が、彼らの歩みを止めない理由だ。
賞レースで掴んだ“手応え”と“空白”
2025年の『M-1グランプリ』準決勝進出。『NHK新人お笑い大賞』準優勝。『UNDER5 AWARD』決勝進出。
結果だけを見れば、若手としては十分すぎる実績だ。
だが、彼らはどこか物足りなさを感じているように見える。
カンサイはインタビューで「めちゃウケる漫才ができた」と語りつつも、その目は次を見ていた。
彼らにとって“ウケた”はゴールではない。
「どうウケたか」「どんな温度でウケたか」を検証する、感情の研究者のような姿勢だ。
『おもしろ荘』で爪痕を残した今、彼らが目指すのは「爆笑よりも記憶に残る笑い」だ。
空白を怖れない。その静けさの中に、笑いの余韻を置いていく。
トリオとしての“空白”をどう活かすか──その試行錯誤が、彼らの進化の原動力になっている。
大阪から全国区へ──劇場の熱量をどう持ち出すか
生姜猫の拠点は大阪・よしもと漫才劇場(マンゲキ)。
劇場では、彼らの漫才が終わったあとに必ず“静かなざわめき”が残る。
観客が笑い終わっても、まだ何かが胸に残っているような時間。
それは関西のお笑いの文脈では、異質な余韻だ。
関西はテンポと瞬発力の文化。笑いは短く、鋭く、リズミカルだ。
だが生姜猫は、笑いを“間”で引き延ばす。観客の心拍数を上げ下げしながら、笑いのタイミングをずらす。
その構造を全国ネットに持ち出せるか──ここが、彼らの次の壁になる。
地上波の尺では、彼らの“呼吸”が短くされてしまうリスクがある。
だが逆に言えば、そこを保ちながら笑わせられれば、新しい時代のテレビ漫才を作れる。
大阪の空気感を壊さずに、全国へ。彼らがいま挑んでいるのは、笑いの“翻訳”だ。
彼らの「おもしろさ」は、まだ更新中だ
トリオ結成から3年。芸歴でいえば、まだ少年期だ。
それでも『おもしろ荘』で第2位に入り、名を広げた。
だが、本人たちは一様に「まだ何者でもない」と語る。
ケージュは「『おはよう朝日です』に出たい」と夢を語り、川﨑は「イッテQ!」の海外企画を志願。
カンサイは「月30万円を1年間安定して稼ぐ」と現実的な目標を掲げる。
この温度差が、実はチームを強くしている。
夢の熱と、生活の冷たさ。その振り幅の中で、彼らの笑いは生まれている。
3人の目標が一致することはない。だが、それがいい。
彼らは同じ場所を目指していないのに、同じ舞台で笑っている。
その“ねじれ”こそ、生姜猫の現在地だ。
未来の地図は、まだ描きかけ。
だが、観客の心の中にはもう、“生姜猫”という温度が確かに刻まれている。
笑いは、熱くても冷たくてもいい。ただ、生きている温度であれば。
その温度を更新し続ける限り、彼らの「おもしろさ」は終わらない。
- 『おもしろ荘2026』第2位の23歳トリオ・生姜猫に注目
- ツッコミ不在で感情の温度差を操る“整う漫才”が話題
- 「サウナ」ネタで熱と冷たさの対流を生み出す構成力
- 幼なじみ3人の歪な関係性が笑いにリアルを与える
- 「不祥事」誤検索すら笑いに変える構造的ユーモア
- 若さを未熟ではなく“純度”として武器化する姿勢
- 大阪発、呼吸するように笑わせる新時代の漫才トリオ
- 爆笑よりも“整い”を残す、感情の新しい温度




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