『THE LAST OF US』シーズン2 ネタバレ感想 “赦しなき世界”でなお人間であろうとした者たちの記録

THE LAST OF US
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エリーは“その日”から、ずっと立ち止まっていた。進んでいたようで、傷に引きずられていた。『THE LAST OF US』シーズン2は、そんな彼女が下した選択の“重さ”を問う物語だった。

ただのサバイバルではない。これは、「誰かを守ること」と「誰かを裁くこと」の境界が溶けた時、人間はどこに立つのかというドラマだ。

アビーはなぜジョエルを殺したのか。エリーはなぜ引き返せなかったのか。7話を通して描かれたのは、暴力ではなく、“理解されなかった感情”の応酬だった。

この記事を読むとわかること

  • 『THE LAST OF US』シーズン2の深層にあるテーマと葛藤
  • 登場人物たちの選択と、その裏にある言葉にならない感情
  • ゲームとの違いから浮かび上がる“赦しなき世界”の人間性
  1. 復讐の選択は、誰のためにあったのか?
    1. ジョエルを失った喪失と怒り──それは“誰か”に向けられたものだったか
    2. エリーの「正しさ」が崩れる瞬間──ノラ、メル、そしてアビー
  2. “知ってた”は嘘だった──赦されない過去と向き合うエリー
    1. ジョエルの選択を知った時、エリーが見た世界の変化
    2. 「生かされた」意味を、自分で定義しようとした少女
  3. アビーというもう一人の主人公──怒りを“役割”にされた少女の軌跡
    1. ジョエルを殺しても癒えない“何か”──アビーが抱えたもの
    2. WLFでの立場と葛藤、そして未来への扉
  4. 家族になるはずだったのに──エリーとディーナが描いた“もしも”の未来
    1. 妊娠、劇場、そして帰るべき場所──守るものができた者の選択
    2. 「この世界で、親になるとは」──ディーナが託した希望
  5. ゲームとの違いから見える“ドラマが描きたかったこと”
    1. トミーの改変が意味する「復讐の責任の所在」
    2. オリジナルシーンが際立たせた、エリーの“できなさ”の痛み
  6. すれ違う善意、交差する独善──「正しさ」はいつも誰かを傷つける
    1. ジェシーとエリー、それぞれの“守る理由”と“割り切れなさ”
    2. 善人でいられなかった人たちの、それでも人間であろうとする姿
  7. 言葉にならなかった気持ちと、交わらなかった視線の話
    1. 誰もが「誰かに伝えたかった」ままで終わっていた
    2. 目が合ったのに、心は交差しなかった瞬間たち
  8. 『THE LAST OF US』シーズン2と“赦しなき世界”のなかで見つけた人間性の残火:まとめ
    1. 誰もが間違える世界で、それでも誰かを想った物語
    2. シーズン3に向けて──次はアビーの「罪と祈り」を見る番だ

復讐の選択は、誰のためにあったのか?

誰かを想って怒ることは、誰かを守ることと同じなのか。

『THE LAST OF US』シーズン2のエリーは、復讐の名を借りて“痛みの意味”を探していたように見えた。

この物語が描いたのは、「怒り」が人をどう壊し、「選択」が人をどう定義していくかだった。

ジョエルを失った喪失と怒り──それは“誰か”に向けられたものだったか

あの夜、ジョエルが息絶えた瞬間——世界は一度、終わった。

だがその後にエリーが選んだ道は、「新しい始まり」ではなく、“終わり直し”だった。

『THE LAST OF US』シーズン2は、そんな彼女が「復讐」という名の旅に出た理由を、ゆっくりと、しかし確実に解体していく構成になっていた。

復讐ってのは、正義じゃない。

むしろ、それを選んだ瞬間、人は“理由”より“感情”に従っていることを、このドラマは痛いほど描いている。

たとえばシーズン2第1話、ジョエルの死を経たエリーは、もう“選択”なんてできない状態に見えた。

彼女は「追う」と決めたんじゃない。「止まれなかった」だけだ

エリーの「正しさ」が崩れる瞬間──ノラ、メル、そしてアビー

その道すがら、ノラを追い詰め、殴り、拷問し、「あんたがしたことの報いよ」と言い放つ。

……でも、その顔には、「これが正しい」と言い聞かせてるような苦しみが滲んでた。

復讐の“達成”なんて幻想だ。ジョエルが戻ってくるわけでも、心が軽くなるわけでもない

むしろその過程で、彼女は「守りたかった未来」さえも壊し始めていく。

ディーナとの関係、ジェシーとのすれ違い、そして……メル。

メルの死は、まるで「エリーの正義」が崩れ落ちる瞬間の象徴だった。

自分の子を妊娠していた女を、自分の手で殺したという事実。

しかもそれが“アビーの場所を吐かせるため”という理由だったことは、彼女の復讐が既に目的化していた証明だった。

けれどここで見逃せないのは、エリーの中に一筋の“ためらい”があったこと。

「当然じゃないかも」ってセリフに、彼女がまだ、すべてを割り切れていない心の揺れがある

「正しさ」じゃない。「それしかできなかった」から、選んだ。

それが、エリーの“復讐のリアル”だった。

一方、ジェシーの存在はこの物語に“もうひとつの選択肢”を見せてくれる。

彼は「仲間を守る」ために行動する。だからこそ、セラファイトの子を見捨てた。

その選択が本当に“正しい”のか、ドラマは答えを出さない。

でも、エリーが「私はコミュニティーの一員じゃない」と言ってまで守ろうとしたものの中に、ジョエルの影があったのは間違いない。

エリーの“怒り”は誰かに向いていたんじゃない。

あの時、自分がジョエルを止められなかったこと彼の死を前に何もできなかった自分自身に向いていた。

だからこそ、その怒りは、何をしても終わらなかった。

ドラマ『ラスアス』シーズン2の前半で描かれたのは、“報復劇”ではない。

それは、人が自分の「痛み」を、どうにか形にしようともがく姿だった。

そしてその姿が、俺たちの心を撃った

“知ってた”は嘘だった──赦されない過去と向き合うエリー

「知ってる」とエリーは言った。でもその目は、まだ何も受け止めきれていなかった。

人を許すことと、自分を許すことは別の話だ。この回が描いたのは、その当たり前の“痛み”だった。

過去に意味を持たせたくて、彼女は復讐に生きる。でもその奥には、口に出せない“後悔”があった。

ジョエルの選択を知った時、エリーが見た世界の変化

病院でノラに言われたあの言葉——「ジョエルは、お前のために世界を裏切った」。

この瞬間、エリーの“知ってる”が揺らいだ

知識として知っていたはずの事実が、「他人の口から語られる」というだけで、一気に現実の質量を持ち始める

その言葉は、ただの“真実”じゃない。

それは「あなたの命は、他人の命より重かった」という宣告でもある。

そしてその言葉を突きつけたノラは、ジョエルの殺された仲間だ。

彼女の口から告げられた「事実」は、エリーが無意識に押し込めてきた感情——“私が彼をそうさせた”という罪悪感を引きずり出す。

だからこそ、エリーは鉄パイプを振り下ろす。

そこに怒りはあっても、救いはない

「生かされた」意味を、自分で定義しようとした少女

「免疫がある」って設定は、物語の鍵だった。

でもそれは物語にとってだけじゃない。エリー自身の人生の意味を決める“レッテル”にもなっていた

ジョエルが自分を助けた理由を、「私が特別だから」と思いたかった。

それが“肯定”になるから。

でも、現実はそうじゃなかった。

彼女が生きていたのは、たった一人の男の、たった一人への愛情のため

しかもそのせいで、他の命が犠牲になった。

その現実が、彼女の生存に「意味を与えること」を許さなかった

じゃあ、何のために生きてるのか?

その問いに彼女は答えられないから、復讐にすがる。

過去を処理できない人間は、“怒り”で未来を支えようとする。

そしてドラマの演出はそれをよく知っている。

だから、エリーの夢の中にジョエルを“優しいまま”登場させた。

「Hi, kiddo.」の一言で、彼女の中の“赦されたい気持ち”がにじみ出る

罪を告白しても、贖罪しても、人は“赦されたい”と思う。

でも、この世界はそれを許さない。

このエピソードが見せたのは、赦されない者たちが、それでも赦しの影を探す姿だった。

「知ってた」なんて、きっと嘘だ。

「わかってた」って、自分に言い聞かせてただけ。

ほんとうは、ジョエルが死んだその日から、ずっとわからないままだった

アビーというもう一人の主人公──怒りを“役割”にされた少女の軌跡

復讐は誰にでもできる。でも“その後”を背負う覚悟がある人間は、ほんの一握りだ。

アビーは、その一握りだった。けれど同時に、「怒りの代弁者」として物語に使われた者でもある

彼女の旅路は、ジョエルの殺害という一点に集約されるが、それだけでは語れない“痛みの履歴”が詰まっていた

ジョエルを殺しても癒えない“何か”──アビーが抱えたもの

アビーがジョエルを殺した理由は明快だ。父親を殺されたから。復讐の連鎖だ。

でも、それだけで済むなら彼女はもっと「解放された」はずだ。

なのにアビーの顔には、達成感ではなく、空白だけが残っていた

シーズン2の中盤から終盤にかけて、アビーの旅は“ジョエルの殺害犯”というレッテルを外していく。

レヴと出会い、彼を守るようになったことで、自分の行為が「正義」でも「救い」でもなかったことを知る

それが象徴的に描かれるのが、セラファイトの島での戦いだ。

彼女はWLFでの地位や仲間を失ってでも、レヴを守る。

アビーにとって「誰かを守ること」は、“赦される理由”ではなく、“新しい生きる理由”になっていた

父を奪われた喪失と、ジョエルを殺した罪。

その間にある空白に、レヴの存在が差し込んだのだ。

WLFでの立場と葛藤、そして未来への扉

アビーの葛藤は、単に“復讐”の問題ではない。

それは「組織に与えられた役割」を引き受けることで、自分の個人としての痛みを見失っていたことへの気づきだ。

WLFでは彼女は“優秀な兵士”で、皆から恐れられていた。

でも、その評価は彼女が人間であることを無視した上での“強さ”だった。

自分が何を守りたいのか、誰を想っているのか、そこに目を向ける余裕すらなかった

それが変わるのが、オーウェンとのやり取りだ。

彼の船に行き、無言で語り合うその場面は、アビーが「役割」ではなく「願い」に従おうとし始めた瞬間だった。

そしてその道を決定づけたのがレヴだ。

彼と逃げた後のアビーは、明らかに変わった。

命を奪う側から、命を守る側へと“重心”が移動したのだ。

でも、その選択がエリーとの対決を避けられるわけではなかった。

だからこそ、あの海岸での“最後の戦い”は、ただの報復の延長ではなく、“選択の再定義”だった

エリーを殺せなかったアビー。

その一瞬に、彼女がようやく“怒りの呪縛”から自由になったことが現れていた。

赦されなかったけど、赦すことはできた。

怒りに従った者が、最終的に“祈り”を選んだ瞬間

家族になるはずだったのに──エリーとディーナが描いた“もしも”の未来

“家族”は、つくるものじゃない。“続ける”ものだ。

でも『THE LAST OF US』の世界では、その「続ける」という営みこそが、もっとも壊れやすい。

エリーとディーナは、家族になるチャンスを手にした。だが同時に、それを壊す“痛み”を抱えたまま、前に進もうとした。

妊娠、劇場、そして帰るべき場所──守るものができた者の選択

ジャクソンでの暮らしのあと、二人が向かったのは「劇場」だった。

皮肉なことに、そこで始まったのは、“舞台”ではなく“再現”だった

過去をなぞるように、彼女たちは再び“守るための暴力”に手を染める。

でも今回は違った。

ディーナは妊娠していた。

命を宿す身体で、暴力の中に生きるという矛盾。

それでも彼女は、エリーと共にいた

「どこにも行かないで」と懇願した夜。

それは甘えでも、依存でもなかった。

“共に未来を生きていく覚悟”が、ようやく言葉になった瞬間だった。

けれどエリーは、心をそこに置けなかった。

ジョエルの死、ノラの絶叫、メルの遺体。

すべてが胸の奥で“喉の奥のトゲ”のように刺さったまま。

彼女は復讐を捨てることで、自分を捨てるように感じていた

「この世界で、親になるとは」──ディーナが託した希望

ディーナは、エリーとは違う形で“喪失”を知っていた。

だからこそ彼女は、エリーに「戻ってくる選択肢」を残し続けた

家を建て、畑を耕し、赤子を抱いていたあの光景。

それは「もう一度始められる」と信じた人間の、祈りだった。

でも、エリーはその祈りに応えられなかった。

彼女が家を出た日、全ては変わった

何かを選ぶということは、何かを失うということ。

そして戻ってきたエリーが見たのは、“自分の居場所が空っぽになった光景”だった。

赤子の服はそのままで、音楽の部屋も残されていた。

でも、そこにディーナはいなかった。

復讐に向かった結果ではなく、“それでも帰ると思っていた”自分の傲慢

この描写にこそ、ドラマが伝えたかった痛みがある。

誰かを想って何かをする。それは正しいかもしれない。でも、その“想われた人”が望んでいるかは、また別の話だ

エリーは、もう一つの可能性を失った。

「家族になるはずだった人たち」との記憶だけを残して。

このセクションの最後に、あえて言いたい。

この世界の“優しさ”は、決して暴力に負けてはいなかった

ただ、優しさを手放してしまったのは、自分のほうだったのかもしれない。

ゲームとの違いから見える“ドラマが描きたかったこと”

原作ゲームを知っている者ほど、このドラマの改変に胸を衝かれたはずだ。

違いは“劣化”ではなく、“語る視点の変更”だということに気づけるかどうかが、本作をどう受け止めるかの分岐点だった。

その違いの中には、作り手の問いかけが、確かに生きていた

トミーの改変が意味する「復讐の責任の所在」

ゲーム版のトミーは、エリーの怒りを理解しながらも抑制的だった。

だがドラマ版ではむしろ、復讐に突き動かされる「もう一人の怒れる人間」として描かれる。

その変化は、エリーだけに復讐の罪や決断を背負わせない意図の表れだ。

「行くなよ」と口では言いながら、情報を流す。

「止める理由」を探しながら、心のどこかで「行ってほしい」と願ってしまう。

その矛盾こそ、人間が“自分の正義”を人に預けてしまう怖さだった。

この改変により、物語は“復讐の個人性”を超え、共同体や関係性の中での「怒りの連鎖」という視点へと広がる。

オリジナルシーンが際立たせた、エリーの“できなさ”の痛み

ドラマでは、ゲームにはなかった“静かな時間”が加えられている。

たとえば、ジョエルがギターを教えるシーン。

そして、彼と対話する最期の夜。

これらはすべて、「赦そうとしていたのに、それができなかった」エリーの痛みを強調するための追加だった。

あの夜のエリーは言う。「やり直す努力をする」。

けれど、やり直すチャンスはその夜で終わってしまった

それを知っているからこそ、彼女はジョエルの死に対して、「終わらせる必要」があった。

でも本当は、「終わらせたい」のではなく、「間に合わなかった自分を許したかった」だけなのだ。

ドラマは、戦闘やアクションの量を削ぎ、代わりに“沈黙の時間”を与えた

そしてその時間の中で、キャラクターたちの「言えなかった言葉」「できなかった選択」「戻れなかった分岐点」が、滲み出してくる。

ゲームのインタラクティブ性が、“能動的な罪”をプレイヤーに背負わせたのに対し、

ドラマは“観察者としての共犯性”を、じわじわと観る者に染み込ませる。

だから、痛い。

だからこそ、リアルだった。

すれ違う善意、交差する独善──「正しさ」はいつも誰かを傷つける

善意で人を殺すことがある。独善で命を救うこともある。

『THE LAST OF US』シーズン2は、その境界線を静かに、でも確実に溶かしていく物語だった。

誰かの“守りたい”は、誰かにとっての“奪われた”になる。その残酷さに、人はどう向き合えばいいのか。

ジェシーとエリー、それぞれの“守る理由”と“割り切れなさ”

ジェシーは“善人”だった。冷静で、責任感があって、仲間思いだった。

でも、その“善良さ”が、時に他人を縛ることがある。

エリーが暴走しようとするたび、彼は止めようとする。

だけど、それは“正しさ”で“感情”を制御しようとした行為でもあった。

それが間違ってるとは言わない。

でも、エリーの「それでも行かせてくれ」は、“割り切れない感情”を肯定してほしかった叫びだったのだ。

正しさは、時に冷たすぎる。

そして皮肉なことに、ジェシーは“正しさ”に従って動いた先で命を落とす。

彼の死は、「誠実であること」ではこの世界を生き延びられないという、残酷な現実を突きつける。

じゃあ、間違ってても、生き延びた者の方が報われるのか?

それはきっと、誰にも答えられない。

善人でいられなかった人たちの、それでも人間であろうとする姿

アビーは善人じゃない。エリーもまた、正義の味方ではない。

でも、このドラマが描き続けたのは、「それでも人間であろうとする姿」だった。

メルを殺してしまったあと、エリーが見せた吐き気と涙。

それは、ただのショックじゃない。

「自分がどんどん“人間らしさ”を失っていく」感覚に耐えられなかった証だ。

アビーがレヴを抱えて逃げる時の目も同じだった。

父の死に報いたはずなのに、それでは“空白”が埋まらなかった。

だから彼女は、命を守ることで、自分の人間性を証明しようとした

どちらも、自分を取り戻そうともがいた。

それが「赦し」ではなく、「再構築」だったところに、この物語の深さがある

「正しさ」は誰かを救うかもしれない。

でもその裏で、別の誰かを確実に傷つけていく。

そんな世界でも、人は何かを信じて進まなきゃならない

だから、彼女たちは歩いた。嘘でも希望でもいいから、歩くしかなかった。

その姿が、痛ましくて、美しかった。

言葉にならなかった気持ちと、交わらなかった視線の話

この物語でいちばん重かったのは、「殺した」ことじゃない。

“わかってもらえなかった”ことだ。

そうやって心の奥に澱のように沈んでいった感情が、誰かを撃ち、刺し、壊していく。

誰もが「誰かに伝えたかった」ままで終わっていた

ジョエルは、エリーに謝るタイミングを失ったまま、殺された。

エリーは、ディーナに「自分が壊れていくこと」を言葉にできなかった。

アビーは、オーウェンに「殺しても父は帰ってこない」と伝えられなかった。

誰もが、“言葉にならない感情”を抱えたまま、それでも誰かのそばにいようとした

でも、それはいつもすれ違っていた。

このドラマがリアルだったのは、その「伝わらなさ」まで描いているところだった。

人は、こんなにも愛しながら、ちゃんと伝えられない

その不器用さに、きっと多くの視聴者が見覚えを感じたはずだ。

目が合ったのに、心は交差しなかった瞬間たち

この作品には、“目”の演出がやたら多い。

殺す瞬間の目。見送る目。泣きながら耐える目。

でも、そのどれもが「見ているようで、見えていない」

アビーがレヴを見つめる時、そこにようやく“つながる”感覚が生まれる。

だが、それまではほとんどの登場人物が、「相手ではなく、自分の中の感情」を見つめていた

それはリアルだ。

俺たちも普段、相手を“見てる”つもりでも、「どうしてわかってくれないんだよ」って気持ちで心がいっぱいな時、たぶん相手は見えてない

本作は、暴力の物語に見せかけて、その実、「わかってほしかったけど、わかってもらえなかった人たちの話」だった。

そして、その“わかってもらえなさ”は、死よりも痛い。

たとえば。

エリーがアビーを見下ろすラストのシーン。

目は合っていた。

でも、あのとき心が交差したとは到底思えない。

互いが互いを「もう見てない」状態で、ただ“許しとは何か”を問う瞬間だけがあった

言葉にならないまま終わった感情、交わらなかった視線。

それが、この物語の一番リアルな部分だった

『THE LAST OF US』シーズン2と“赦しなき世界”のなかで見つけた人間性の残火:まとめ

この物語に、救いはなかったかもしれない。

でも、絶望だけでもなかった。

焼け跡に残っていたのは、間違えたままでも人を想おうとした「心の残火」だった

誰もが間違える世界で、それでも誰かを想った物語

エリーは、ジョエルの死を止められなかった。

アビーは、父の死を止められなかった。

ディーナは、エリーを救えなかった。

そして俺たち視聴者も、彼らが選ぶ行動を、肯定も否定もできないまま見届けるしかなかった

でも、それでも良かったんだと思う。

「正しいかどうか」じゃなく、「誰かを想った」ことだけが、真実だったから。

この世界には赦しがない。ないけど、人は“赦しに似たもの”を誰かの手のひらに残したくて生きている

それがギターだったり、手紙だったり、黙って見送る視線だったりする。

それでしか、人は人を想えない世界だった。

シーズン3に向けて──次はアビーの「罪と祈り」を見る番だ

シーズン2は、エリーの喪失と怒り、そして破壊の旅だった。

だがその最後に、アビーという“もう一人の主役”が静かに立っていた。

父を奪われた少女が、復讐を終え、レヴと共に海の向こうを目指す。

彼女の“償い”は始まったばかりだ。

次に描かれるのは、おそらくその祈りの物語。

罪は消えない。でも、その罪を抱えたまま誰かと生きようとする姿こそが、人間の強さだと思う。

赦されない世界。

でも、その中で赦しに手を伸ばす人たちの姿が、俺たちの心を撃ち抜いた

それこそが、『THE LAST OF US』シーズン2という作品が、ただの“サバイバルドラマ”ではなく、魂を削るような人間ドラマだった理由だった。

そして、その続きを俺たちは、また待ち続ける。

この記事のまとめ

  • 『THE LAST OF US』シーズン2の核心テーマをキンタ視点で考察
  • 復讐と赦しの狭間で揺れる人間のリアルな感情を掘り下げ
  • ゲーム版との違いから見える“ドラマが語りたかったこと”を分析
  • 言葉にできない感情と交わらない視線が生む痛みを描写
  • 登場人物の選択やすれ違いを通じて、正しさの残酷さを浮き彫りに
  • エリーとディーナの関係に見る、もう一つの失われた未来
  • アビーの視点から始まる「祈りの物語」への導線を示唆

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