ドラマ「天城越え」ネタバレ感想 30年後の再会──少年の罪と、赦しの不協和音

天城越え
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松本清張原作『天城越え』の最新ドラマ版は、数ある映像化の中でも異質だった。生田絵梨花演じるハナの可憐さと、罪を背負う少年の成長が描かれる一方で、「30年後の再会」という新要素が賛否を呼んでいる。

なぜあの結末は必要だったのか。ハナの“笑顔”に込められた意味とは何か。私たちは、この物語に何を見せられたのか──。

この記事では、ドラマ『天城越え』2024年版を、感情・構造・演出という3つのレイヤーで解き明かしながら、ラストシーンの是非に迫っていく。

この記事を読むとわかること

  • 『天城越え』最新映像化の核心と賛否の正体
  • 少年の罪と沈黙を選んだ女の交錯する感情
  • 30年後の再会が映し出す赦しと違和感の行方
  1. 結論:30年後の再会は「救い」ではなく「赦しの演出」だったのか
    1. 再会が描かれることで曖昧になる“贖罪”の輪郭
    2. ハナの笑顔は赦しだったのか、それとも忘却か
  2. 少年の“罪”が物語の軸──殺意と感情の交差点
    1. 母と叔父の背徳を重ねた“土工殺し”の動機
    2. 氷室に残された足跡──無垢さの喪失を示す証拠
  3. ハナという存在の“陰影”──遊女か、母か、それとも…
    1. 生田絵梨花のハナに“妖しさ”が足りなかった理由
    2. ハナが罪をかぶった真意と、その沈黙の重み
  4. 過去作との比較で見えてくる「壮絶さ」の希薄
    1. 田中裕子版との対比──過酷な取り調べがもたらした緊迫感
    2. 土工役の“恐ろしさ”が作品全体に与える影響
  5. なぜNHKはこの構成を選んだのか──演出と時代性の読み解き
    1. 和田勉のいない時代、ドラマは“優しさ”を選んだ?
    2. 制作費と演出の「淡白さ」がもたらす温度の違い
  6. 「天城越え 感想」から見えてきた、視聴者の評価と葛藤
    1. SNSでは賛否両論──“救われたようで救われない”最終回
    2. 物語に必要だったのは「再会」ではなく「沈黙」だった?
  7. 罪を抱えたふたりが交わさなかった“たったひとつの言葉”
    1. “言えなかった”じゃなく、“言わなかった”
    2. “言葉”がない関係は壊れやすい。でも、壊れたものにしか宿らない信頼もある
  8. 少年の罪と、ハナの沈黙が照らし出す『天城越え』という物語の本質まとめ

結論:30年後の再会は「救い」ではなく「赦しの演出」だったのか

あの再会は、私たち視聴者にとって救いだったのか、それとも「赦し」という名のごまかしだったのか──。

30年という歳月を経て、かつて罪に巻き込まれた少年と、罪をかぶった女が再び出会う。

けれどその場面が描かれたとき、私は思わずテレビの前で呟いてしまった。「……それ、ほんとに必要だった?」と。

再会が描かれることで曖昧になる“贖罪”の輪郭

『天城越え』の本質は、少年の“罪”と、ハナの“沈黙”にある。

土工を殺めたのは少年だった。でもその罪を、何も語らぬまま、ハナが抱えて消えていった

そこには言葉にできない哀しみと、残酷な優しさがあった。

だからこそ、この物語には「語られないこと」が重要だったはずだ。

にもかかわらず──30年後の次郎が、再びハナと再会してしまう。

あの瞬間に、物語が持っていた“贖罪という名の静けさ”が、一気にノイズに包まれたような気がした。

贖罪とは、許されることではない。許されないまま、ただ生き続けることだ

それがこの作品が抱えていたはずの“十字架”だった。

だからこそ、あの再会──それも、印刷工場で微笑むハナと、それを見て少し肩の荷が下りたような次郎の姿──は、あまりに“解決”されすぎているように見えた。

贖罪の物語において、「解決」は毒なのだ

ハナの笑顔は赦しだったのか、それとも忘却か

それでも、あのシーンに価値がないとは言い切れない。

むしろ、あの笑顔が刺さるのは、我々が「赦されること」にどこか飢えているからかもしれない。

ハナは次郎の罪を知っていた。あの夜、氷室に残された小さな足跡が、誰のものかを。

けれど彼女は語らなかった。罪を抱えた少年が、大人になってどんな人生を歩んでいるのかを、黙って見つめていた

そして30年後、目の前に現れた彼が、後悔と記憶を携えて、自分の足で会いに来た。

その姿に、ハナは何を見たのか。

あの笑顔は、「あなたが生きていて良かった」という母のような微笑みでもあり、

「もう、罪は十分背負ったでしょう?」という赦しでもあった

だが、そこに“忘却”の影が差していたのも事実だ。

ハナは笑った。次郎もまた微笑んだ。だけど──罪の記憶が語られることはなかった。

この「語られなさ」が、物語に残された最後の“棘”だった。

それが許しなのか、あるいは記憶から目を背けただけなのか。

観る者の解釈に委ねる、というよりも、答えを濁したまま幕を閉じた。

だからこそ、観終わったあとに残るのは爽快感ではない。ぬるくない、けれども熱くもない、曖昧な感情の残滓なのだ。

──それを「薄味」と言うのは簡単だ。

でも私は、あの最後の笑顔に、“語らないという選択”の強さを見た気がしてならない。

赦しとは、言葉で伝えるものじゃない。ただそこに微笑みがあること。 それだけで、物語は終わっていいのかもしれない。

少年の“罪”が物語の軸──殺意と感情の交差点

「少年が人を殺す」──それだけ聞けば、センセーショナルな見出しだ。

だが『天城越え』が描いたのは、そんな即物的な驚きじゃない。

この物語は、“殺意がどこから生まれるのか”を、息が詰まるような静けさで掘り下げていく。

土工を刺した刃は、単なる凶器ではない。

それは、思春期の少年が心に抱えきれなかった“感情”そのものだった。

母と叔父の背徳を重ねた“土工殺し”の動機

望月次郎が家を飛び出したのは、母親が自分の叔父と関係を持っている場面を目撃したからだ。

この一点だけで、彼の人生は音を立てて崩れていく。

母への嫌悪、裏切られたという感情、そしてその“代わり”を他人に重ねてしまう危うさ

ハナに出会ったとき、彼は無意識のうちに彼女に母性を求めていた。

だがそのハナが、土工と身体を重ねる。

その瞬間、彼の中に沈殿していた感情が決壊する

──「また、母を奪われた」

それは理屈ではない。

恋でもなければ、正義感でもない。

ただ、「奪われた」という感情だけが、刃を突き刺したのだ。

土工が何者だったかは問題ではない。名前も、背景も、関係ない。

彼は、少年にとって「母を汚す存在」という象徴に過ぎなかった。

だからこそ、この殺人は偶発ではない。

少年が抱えたトラウマと未熟な感情が“爆発”した結果だった

氷室に残された足跡──無垢さの喪失を示す証拠

事件後、次郎は氷室で一晩を過ごす。

雪の中に残された足跡は、九文半という小ささだった。

田島刑事はその足跡をハナのものと信じたが、それは誤りだった。

あの足跡こそ、次郎の“無垢が崩れた瞬間”を示す証拠だった

血のついた刃物、凍える寒さ、静寂の中に立ち尽くす少年──。

彼が踏みしめた一歩一歩が、「普通の子ども」でいられた日々との決別だった。

この作品が素晴らしいのは、殺人という出来事を、あくまで「心の断層」として描いた点にある。

次郎は悪人ではない。

でも、善人でもいられなかった。

氷室に一晩潜み、震えながら朝を待ったその時間が、彼の“第二の誕生日”だったのかもしれない

その後の30年、彼は罪を語らず、背負い続けた。

語ることのなかった罪、救われることのない自責。

だからこそ、視聴者は彼の“成長”よりも、“十字架”の重さを見てしまう

そして思うのだ。

──この物語は、少年が“殺したこと”ではなく、“生き続けること”を描いたのだと。

あの足跡は、彼が背負って歩き出した罪の始まりだった。

私たちは、誰しもあの雪の中に、自分だけの足跡を残しているのかもしれない。

ハナという存在の“陰影”──遊女か、母か、それとも…

彼女は、女だった。

母でもなく、姉でもなく、恋人でもなく──ただ“女”という存在として、そこにいた

『天城越え』におけるハナとは、少年にとって、そして我々視聴者にとって、何者だったのか。

遊女という職業の輪郭はあっても、彼女自身の正体は最後まで霞がかかっている。

その曖昧さこそが、ハナという存在の“陰影”だった。

生田絵梨花のハナに“妖しさ”が足りなかった理由

今回のNHK版でハナを演じたのは生田絵梨花。

彼女の演技には、真摯さがあった。少女のような透明感もあった。

だが──「遊女ハナ」の持つ“妖しさ”は希薄だった

それは演技の問題ではない。

生田絵梨花という女優が持つ「可愛さ」が、ハナという役にとっては毒にも薬にもなっていたのだ。

遊女という存在に宿るはずの“業の深さ”、そして“男を惑わす力”が、どこか希薄に感じられる。

むしろ、ハナは“遊女にさせられた普通の娘”として描かれていた

そのアプローチが悪いわけではない。

だが、少年がハナに母性と妖艶を重ね、やがて憎悪と欲望を混同していくというこの物語の核心に対し、少しパンチが弱かった。

田中裕子版のハナには、「観てはいけないものを観てしまった」という生々しさがあった。

その“業”の深さが、少年の心を揺さぶる装置になっていたのだ。

今回のハナは、むしろ“救いの象徴”として処理されていたように感じる。

だからこそ、観る者の心には刺さらず、残らず、ただ美しく去っていった

ハナが罪をかぶった真意と、その沈黙の重み

それでも、ハナの「沈黙」だけは、今回の映像化でも強く響いた。

なぜ、彼女はあの時、何も語らなかったのか。

警察の取り調べは続き、次郎が「わからない」と言ったその後、ハナは“突然”自白する

だがその裏には、明確な意志があった。

──この子を守りたい

自分を犠牲にすることで、少年の未来を守ろうとした。

それは母性か? いや、もっと根源的なもの──「生き延びろ」という命のバトンのようなものだった。

罪をかぶることで、彼女は“自由”を捨てた

だがその沈黙こそが、彼女の「生き方」だった。

遊女として、生きる価値を外部に委ねられてきた彼女が、最後の最後で、自分の意志で何かを守った

それは、尊厳だったのかもしれない。

裁判では無罪となったが、ハナはすでに“社会的な死”を経験していた。

だからこそ、30年後に笑うハナの姿は、赦しではなく「私の人生はこれでよかったのよ」という静かな抵抗にも見える

遊女だったのか。母性の象徴だったのか。それとも、少年の幻想だったのか。

ハナという存在は、常に“ひとつの言葉”では捉えられない

だからこそ彼女は、語らず、ただ黙って、そして笑ったのだ。

その笑みは、痛みの層を何枚も重ねた“沈黙の微笑”だった。

過去作との比較で見えてくる「壮絶さ」の希薄

「あれ? こんなにあっさりしてたっけ?」

──それが、今回の『天城越え』2024年NHK版を観たあと、正直に湧いた感想だった。

物語の骨格はしっかりしている。脚本も破綻していない。演技も丁寧だ。

それでも、全体に漂う“淡白さ”が、心に爪痕を残すほどの衝撃を与えなかった

では、なぜそう感じたのか。その理由は、過去の映像化作品と比べることで浮き彫りになる。

田中裕子版との対比──過酷な取り調べがもたらした緊迫感

1983年の田中裕子主演版『天城越え』は、今でも記憶に焼き付いている人が多い。

とくに印象深いのは、取り調べの“地獄のような時間”だった。

画面越しに伝わる湿度、汗、声にならない呻き──。

拷問と紙一重の尋問に、田中裕子演じるハナが堪えきれず崩れていく姿は、もはや“芝居”の域を超えていた。

観ているこっちが息を止めてしまうほどの圧

その場面には、「女が罪を問われる」という社会的暴力の象徴すら見えた。

対して、2024年版の取り調べシーンは、どこか演出的にも“軽やか”だった。

過酷なシーンを避けたのか、それとも意図的にトーンを抑えたのか。

理由はわからない。

だが結果として、「この女が背負わされたものの重さ」が、あまり観客に届いてこなかった

ハナの沈黙が選択なのか、強制なのか、そのニュアンスもぼやけてしまった。

物語において「圧」がないというのは、致命的なことなのだ。

土工役の“恐ろしさ”が作品全体に与える影響

そして、もう一つ重要なのが“土工”というキャラクターの描かれ方だ。

過去作──特に大谷直子主演の1978年版では、佐藤慶演じる土工が“恐ろしい存在”として際立っていた

無言でも滲み出る暴力性。

女性を「買う」ことに慣れきった、あの視線。

観ていて背筋が凍るほどの“生理的嫌悪感”があった

だが今回の土工(奥野瑛太)はどうだろう。

存在感は決して薄くない。

しかし、“加害性”の描写が徹底的に削ぎ落とされていた

セリフも少なく、危険性も演出されず、どこか“ただの通行人”のようだった。

それでは、なぜ次郎が殺意を抱いたのか、その感情のトリガーが希薄になる

殺人に至るには、相手が“恐怖”や“嫌悪”の対象である必要がある。

土工という人物に、“憎まれるべき属性”が足りなかった

それが結果として、次郎の殺意を視聴者が咀嚼しにくくしてしまった。

物語全体の“推進力”がどこかで止まってしまう原因は、この“敵の輪郭”の弱さにある。

松本清張作品の魅力は、“見えない悪”が濃く、粘り気のある恐怖として描かれること。

その粘性が、今回の作品ではやや希薄だったのだ。

だから、物語が最後に到達する「救い」も、「贖罪」も、どこか軽やかに映ってしまった。

それは時代のせいかもしれない。

演出のトーンかもしれない。

だが、視聴者は“あの深さ”を、どこかで確かに期待していたのだ。

そしてそれが無かったことに、気づかないふりをして帰った。

なぜNHKはこの構成を選んだのか──演出と時代性の読み解き

今回の『天城越え』を観終えて、多くの人が感じた違和感。

「悪くない、でも物足りない」──この宙ぶらりんな感覚の正体は、単に演技や脚本の問題ではない。

もっと根本的な、“今という時代が映像作品に求める温度”に関わっている。

なぜNHKはこの構成を選んだのか。

なぜ、この語り口になったのか。

そこには明確な意図があったはずだ。

和田勉のいない時代、ドラマは“優しさ”を選んだ?

かつて、和田勉という男がいた。

演出家。映像の魔術師。破天荒。

彼が演出した清張作品──たとえば『天城越え』大谷直子版には、映像のすみずみに“狂気”が宿っていた。

空気が湿っていた。光が鈍く、音が不穏だった。

和田勉のカメラは、人の“業”を照らすのではなく、えぐり出した

だが時は流れ、2024年のNHKは、“過剰さ”を意図的に避けた。

抑えた色味、説明的な台詞、優しく包むような音楽──。

それは、「過激なものが刺さりにくい時代」への配慮だったのかもしれない。

映像作品に「優しさ」が求められる時代

視聴者の心が、過剰な暴力や情念を拒む傾向が強まっている。

だからこそ、『天城越え』でさえも、“やさしい語り口”で包み直された。

でも、それは果たして清張作品にふさわしい手触りだったのだろうか?

人間の業や狂気を描く作品において、「やさしさ」はときに毒になる

制作費と演出の「淡白さ」がもたらす温度の違い

もうひとつ見逃せないのが、制作費の問題だ。

再放送された旧作と比べて、今回のNHK版にはどこか“スケールの小ささ”が滲んでいた。

セット、照明、美術──どれも丁寧だが、“切迫感”や“息づかい”が映像から伝わってこない

どこか舞台劇のような印象。

これはカメラワークの選択にも関係している。

寄らないカメラは、感情の内側に踏み込めない。

あえて引きで撮るのは一つの美学だ。

でも、それが「余白」ではなく「空虚」に映ってしまうと、作品が弱く見える。

『天城越え』という物語には、“息が詰まるような密室感”が必要だった

罪を抱えた人間たちが、言葉にならない感情をぶつけ合う空間。

それを感じさせる演出は、今回の作品では影を潜めていた。

また、音楽の存在も語っておきたい。

全体的に優しく、情緒を和らげるような音楽だった。

だが、それは逆に、罪の重さや、沈黙の苦しみを軽くしてしまう効果もあった。

ドラマが“きれいに”まとまってしまったのは、こうした演出と予算の現実が生んだ副作用でもある。

──だから思う。

「この構成は間違いだった」と言い切ることはできない。

ただ、“過去の映像化と同じ熱量”を期待していた者にとっては、肩透かしだった

時代が変わった。

映像の語り口も変わった。

でも──物語の「魂」だけは、変わってほしくなかった。

「天城越え 感想」から見えてきた、視聴者の評価と葛藤

ドラマが終わった直後、X(旧Twitter)には感想が溢れた。

「切なかった」「綺麗に終わった」「でも何か引っかかる」──そんな言葉が並んでいた。

そう、この作品は視聴者に“感動”を与えたというより、“感情の置き場をなくさせた”のだ。

共感と違和感、救いと不満。

その“ねじれ”こそが、今回の『天城越え』に対する正直な受け止め方だった。

SNSでは賛否両論──“救われたようで救われない”最終回

SNSを見渡せば、「感動した」とする声と、「物足りなかった」とする声が、ほぼ半々だった。

とくに多かったのは、ラストの“再会”に対する違和感である。

「30年ぶりの再会なんて要る?」

「少年は贖罪のまま終わるべきだったんじゃ?」

「あれで帳尻が合うのか?」

観る者の多くが、「綺麗すぎる終わり」に首をかしげた。

あまりに静かで、あまりに整ったエンディングは、逆に“真実味”を欠いてしまったのだ。

人はそんなに綺麗に赦されない。

30年ぶりに現れた彼女が、笑って「元気そうね」と微笑む──。

それはドラマ的には成立するかもしれない。

でも、現実の感情は、もっといびつで、歪で、言葉にできないものだ。

だからこそ、この最終回を「感動的」と捉える人と、「軽すぎる」と見る人の分岐点は、“リアリティの温度”にあった。

感じすぎた人ほど、納得できなかった。

物語に必要だったのは「再会」ではなく「沈黙」だった?

あの再会シーンがなかったら、どうだったろう。

30年後、次郎はハナの消息を聞く。

彼女が郷里で生きていることだけを知り、そっとその地に向かう。

そこで、彼は印刷所の前に立ち、ただその扉を見る。

そして、何も言わずにその場を去る──。

そんなラストだったら、“赦し”は視聴者の内側に宿ったのではないか

物語にとって、語らないこと、会わないこと、触れないことは、時に最も強いメッセージになる。

『天城越え』という作品が描いてきたのは、まさに「語られない罪」だった。

再会してしまったことで、それが一気に“答え合わせ”のようになってしまった。

それが作品の余韻を、少しばかり狭くしてしまったように思えてならない。

ネット上の声でも、次のような言葉が目立った。

  • 「沈黙のまま終わってほしかった」
  • 「観たあと語れない、でも残る──そんな作品が良かった」
  • 「美談にするには、背負ってるものが重すぎた」

語ることは救いか、暴力か。

この問いに対する答えは、視聴者一人ひとりの“人生”の中にある。

今回の『天城越え』は、その問いを私たちに投げかけてきた。

そして最後のシーンで、そっとそれを“笑顔”に変えようとした。

その笑顔に救われた人もいれば、違和感を抱えたまま、画面を見つめた人もいた

どちらも正しい。

ただひとつ言えるのは、このドラマは、誰かの心を“動かした”ということだ。

そして、それこそが清張作品の宿命だと私は思う。

罪を抱えたふたりが交わさなかった“たったひとつの言葉”

あの二人は、最後まで「ごめん」を言わなかった。

30年という時の中で、何度も頭の中でリピートしたであろう言葉なのに。

それでも、口には出さなかった。

少年だった次郎と、女だったハナ。

ふたりは交わることのない線のように見えて、実は“沈黙”という一点で深く結ばれていた

この物語を観終わって、強く残ったのは「言葉にしなかったものたち」の輪郭だった。

“言えなかった”じゃなく、“言わなかった”

「ありがとう」でも「ごめんね」でも「君のせいじゃない」でもない。

ただ黙って、時間だけが過ぎていく。

次郎にとって、あの一件は人生を変えたトラウマだ。

でも同時に、“救われるきっかけ”でもあった。

殺したことで、大人にならざるを得なかった。

逃げられなくなった瞬間に、彼は少年じゃなくなった。

一方でハナは、沈黙を選んだことで“名前のない罪”を背負った。

自分がやったわけじゃないけれど、自分が黙ったことで、何かが守られた。

その自覚が、彼女の背筋をまっすぐにさせていた。

誰かのために罪を被るのは、綺麗事じゃない。

それは、痛みと引き換えにしか成立しない選択だ。

だからふたりは、どちらも「謝らなかった」。

相手に免罪符を与えてしまう気がしたのかもしれない。

「あの時、ごめんね」と言った瞬間に、30年間、心の奥で飼いならしてきた罪が崩れてしまう

だからこそ、ふたりは黙ったまま、視線だけで通じ合う道を選んだ。

“言葉”がない関係は壊れやすい。でも、壊れたものにしか宿らない信頼もある

普通、人間関係って言葉でできている。

「おはよう」「ありがとう」「またね」って言葉があるから、距離を測れる。

でも、ハナと次郎にはその道具がなかった。

彼らの関係は、“言葉を手放した後に残った何か”でつながっていた。

壊れた関係。

壊した記憶。

壊させた沈黙。

それらを“壊れたまま”抱えて生きてきたふたりが、30年後に出会ったとき──

ほんの少し笑った。

それが「赦し」だったのか、「諦め」だったのか、「ありがとう」だったのか。

答えは観る者に委ねられているけれど、ひとつだけ言える。

“壊れた関係にしか生まれない信頼”が、そこにはあった

もう言葉はいらなかった。

あの一歩、あのまなざし、あの笑み。

それだけで、十分だった。

少年の罪と、ハナの沈黙が照らし出す『天城越え』という物語の本質まとめ

人は、罪とどう向き合うのか。

そして、誰かの罪をどう背負うのか。

『天城越え』という物語は、その問いを静かに、しかし容赦なく差し出してくる。

少年・次郎が抱えた“衝動”は、衝動であるがゆえに正当化できない。

けれど誰もが一度は心に灯してしまったであろう、「どうしようもない感情」の原型がそこにはあった。

ハナが選んだ“沈黙”は、ただの美談ではない。

それは、自分自身の人生を「誰かの未来」に差し出すという、生々しい選択だった。

彼女が語らなかったことで、物語は動き、少年は生き延びた

この構造自体が、すでに清張の凄さだ。

だが、今回の映像化で私たちはその構造の“優しさ”に出会ってしまった。

30年後の再会──。

それは、観る人によって「救い」にも「薄さ」にもなり得る二重構造だった。

だから、結末の解釈はバラバラだった。

でも、それでいい。

『天城越え』という作品の本質は、“答えが出ない感情”を描くことだから。

どれだけ説明しても、どれだけ言葉を尽くしても、本当に伝えたいことは語られない。

あの時、あの場所で、ふたりが“言わなかったこと”

それこそが物語の核であり、視聴者に託された問いだった。

そして我々はその問いに対して、こうしか言えない。

「わかる。でも、わからない。」

人生の多くはそういう感情でできている。

『天城越え』はそのことを、罪という極限状況の中で描いた。

だからこそ、30年後の“微笑み”が、赦しにも、後悔にも、祈りにも見える

ひとつの事件が起き、ひとりの少年が罪を犯し、ひとりの女が沈黙を守った。

ただそれだけの話だ。

だけど──その“それだけ”の中に、私たちの中にもある「壊れたまま抱えている感情」が、透けて見えた

それが『天城越え』の正体だと思う。

語られないことで語られてしまった、ひとつの罪と、ひとつの人生。

私たちは、その沈黙を、いまも心のどこかで聞き続けている。

この記事のまとめ

  • 松本清張『天城越え』の最新映像化の核心分析
  • 少年の罪とハナの沈黙が交差する心理劇
  • 30年後の再会がもたらす赦しか違和感か
  • 演出の変化と時代性による“優しい天城越え”
  • 過去作との比較で見えた壮絶さの希薄
  • 視聴者の感想に宿る解釈のゆらぎ
  • 言葉にならなかった関係性の信頼と重み
  • “語られなかったこと”こそが語る物語の本質

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