「すべての恋が終わるとしても」第1話は、葵わかなと神尾楓珠がW主演を務める切なさ全開の群像ラブストーリー。
運命のように出会った由宇と真央。チョークの粉にまみれた青春は、やがて現実の風にさらわれていく。高校・大学・社会人──時間が愛を試すたび、2人の距離は近づき、そして遠ざかる。
この記事では、第1話のネタバレを交えながら、由宇と真央の“愛が終わる瞬間”に潜む希望を、キンタの視点で解き明かしていく。
- ドラマ「すべての恋が終わるとしても」第1話の核心と構成
- 由宇と真央の“遠距離恋愛”に込められた意味と痛み
- 恋の終わりを「喪失」ではなく「変化」として描く美学
すべての恋が終わるとしても第1話の結論:恋の終わりは「失う」ではなく「変わる」だった
「すべての恋が終わるとしても」第1話を見終えたとき、胸に残るのは“終わり”ではなく、“続いていく”という静かな確信だった。
由宇(葵わかな)と真央(神尾楓珠)が過ごした年月は、ただの恋の軌跡ではない。時の流れに削られながらも、互いを信じようとする姿が痛いほどリアルで、まるで自分のかつての恋がスクリーンの中で再生されているようだった。
高校、大学、そして社会人。人生のフェーズが変わるたびに、2人は“愛の形”を試されていく。だが、この物語が伝えたかったのは、恋は終わっても、心は終わらないということだ。
遠距離が教えたのは「愛し続ける勇気」
神戸と東京、物理的な距離はやがて“感情の距離”へと変わっていく。由宇は新しい環境で絵を描きながら、真央を思い続ける。画面の中の彼女はいつも、誰かの光になろうと懸命だった。
でも本当は、夜の静けさの中で何度も不安に押し潰されそうになっていたはずだ。スマホの画面に表示される「既読」の文字が、彼の気持ちを計る唯一の温度計になる。そんな夜を、彼女はどれだけ過ごしたのだろう。
遠距離恋愛という試練は、信じることよりも、“疑わない勇気”を問う。誰かを想い続けるには、根拠のない強さが必要だ。それは恋というより、もはや「信仰」に近い。
真央の夢は“アートカフェを開くこと”。それを聞いた由宇の瞳には、確かな光が宿っていた。彼女はその夢を、自分の未来の一部にしていたのだ。離れていても、同じ夢を見られる関係。それはきっと、最も成熟した愛の形だと思う。
別れを選んだ由宇の“決断”に込められた祈り
しかし、第1話の終盤で、由宇は限界を迎える。就職活動と卒業制作、会えない時間の積み重ね。心の余白がひび割れ、そこから“寂しさ”という名のノイズが入り込んでいく。
恋は、静かに壊れる。叫び声を上げることもなく、気づけば“最後の会話”が訪れている。由宇が下したある“選択”は、裏切りではなく祈りだった。彼女は自分の弱さを認めながら、真央にこれ以上嘘をつかないために、別れを選んだのだ。
その姿は、恋の終わりを美しく描くという、ドラマの核心だった。恋を“終わらせる勇気”こそが、愛の証明なのだ。
由宇が泣きながらも前に進む姿に、観る者は“過去の自分”を見つけるだろう。どんなに強がっても、人は誰かを失うたびに、少しずつ違う自分へと変わっていく。恋の終わりは、喪失ではなく変化なのだ。
そしてその変化こそが、次の恋を生み出す。このドラマの第1話は、まさにその始まりの一歩だった。
高校の校舎で始まった、たった一度の“運命の恋”
それは、どこにでもある放課後だった。けれど、由宇にとっては人生を変える瞬間だった。
校舎の壁一面に、チョークで描かれた巨大な絵。粉の匂い、夕陽のオレンジ、白い粉が舞う空気の中で、黙々と絵を描く少年──大崎真央。彼の背中を見た瞬間、由宇の世界は一瞬で塗り替えられた。
それは「恋」というよりも、もっと原始的な衝動に近かった。“この人の見ている景色を、自分も見てみたい”。ただそれだけの思いが、彼女の心の奥で火をつけた。
真央が描いたチョーク画が、由宇の世界を塗り替える
真央の絵は、完成した瞬間に消される。ホースの水で、ためらいもなく洗い流されていく。由宇はその光景に息をのむ。描くことに命をかけていながら、終わりを恐れない姿。そこには、儚さの中にある強さがあった。
彼は“残らない美しさ”を描いていた。だからこそ、彼の絵は記憶の奥に焼きつく。由宇はその瞬間、自分も絵を描きたいと思った。真央の世界を理解するために、彼女はチョークを握った。
人は誰かに恋をすることで、自分の中の“眠っていた感情”を呼び覚ます。由宇にとってそれが絵であり、創造すること=愛することだった。
真央は無意識のうちに、由宇の人生のキャンバスに最初の色を置いたのだ。
絵を通じて生まれた「2人だけの言葉」
由宇はチョークを走らせながら、少しずつ真央に近づいていく。描くことを通じて会話が生まれ、やがて言葉よりも深い“理解”が育まれていく。筆跡の癖、色の選び方、線の震え方──それらすべてが心の言葉になった。
恋が始まるとき、人はよく「相手のことが知りたい」と言う。でも本当は、“自分の知らない自分”に出会いたいのだ。真央と出会った由宇は、まさにそれを体験していた。
彼と絵を描く時間は、世界から切り離された小さな宇宙だった。話すよりも、見つめ合うよりも、線を引くたびに心が通じる。由宇の筆跡の先には、真央の呼吸があった。2人はいつの間にか、“絵”という共通言語で愛を交わしていたのだ。
やがて、卒業式の日。由宇は真央に想いを伝える。長い沈黙の後、真央は小さく笑って「ありがとう」と言った。その一言は、まるでチョークが砕ける音のように、優しく心を打った。
恋の始まりは、言葉ではなく「視線」と「間(ま)」だ。第1話はその“間”を丁寧に描いていた。すれ違いの予感を孕みながらも、2人の絆は確かにそこに存在していた。
そして視聴者は思う──もしこの瞬間が永遠なら、恋は終わらなかったのかもしれない、と。
「好き」を守るための距離──神戸と東京、2カ月ごとの再会
恋が“永遠”に見えるのは、近くにいられる間だけだ。距離が生まれた瞬間から、恋は「試練」に変わる。
神戸の美大へ進学した由宇と、東京に残った真央。2人が会えるのは2カ月に一度。新幹線の車窓に映る自分の顔を見つめながら、由宇はいつも心の中で“数える”──あと何日で彼に会えるのか。あと何回、同じ空気を吸えるのか。
恋は距離によって深まることもある。だが、それは同時に、寂しさを美化する力を持っている。会えない時間を「試練」と呼ぶことで、痛みを正当化してしまう。第1話の由宇は、まさにその葛藤の中にいた。
寂しさと期待が交錯する“遠距離のリアル”
由宇は神戸の街で、新しい友人や刺激に囲まれながらも、心は常に東京の真央に向かっていた。授業で描くデッサン、夜に一人で見る絵画展。どんな時間も彼の影を探してしまう。
スマホ越しの会話は、やがて“習慣”になっていく。話題のない会話、遅れる返信。恋の熱が「生活」に変わる瞬間だ。由宇はそれを感じながらも、笑顔を作る。恋を守るために、感情を抑える術を覚えていく。
一方の真央も、東京での仕事に追われながら、彼女を思い続ける。だが、画面越しの「元気?」の裏にある彼の本音を、由宇はもう読み取れない。愛しているのに、言葉が減っていく。そこに、遠距離の“沈黙の暴力”が潜んでいる。
そして、2カ月ぶりの再会。互いに会いたかったはずなのに、どこかぎこちない。距離は埋まったはずなのに、心が追いついていない。抱きしめた瞬間、2人は気づく。──恋は“時間”ではなく、“温度”で育つのだと。
アートカフェという“夢”が2人をつなぐ希望
そんな中で、真央が口にした「アートカフェを開きたい」という夢が、由宇の支えになる。彼の言葉は、遠く離れた彼女の心を灯す光のようだった。
由宇は、自分も絵の道で生きたいと決意する。恋人の夢を自分の未来と重ねることで、彼女は孤独を希望に変えていった。恋を“待つ時間”から、“育てる時間”に変える。それが彼女の愛のかたちだった。
しかしその希望も、現実の重みの前では少しずつ揺らいでいく。就職活動、卒業制作、社会への不安。由宇は“夢”を信じながらも、日々の疲れに押し流されていく。恋の未来を語るたび、どこかで「この夢が叶っても、隣に自分はいないかもしれない」と感じてしまう。
それでも彼女は笑う。真央の夢を応援する自分であり続けようとする。恋を“支える”という形でしか、愛を示せない。そんな由宇の姿は、観る者の胸を静かに締めつける。
「距離」が2人を試したように見えるが、実はそれは“愛を純化する過程”でもあった。恋が現実に削られるたび、そこに残るのは“本当に大切なもの”だけ。由宇と真央の物語は、まさにその真実を描き出している。
好きだからこそ離れ、夢を見ることで繋がる。──それが第1話に込められた最も静かなメッセージだった。
時間は恋を試す──3年後、由宇の“限界”が訪れる
時間は、恋の真実を暴く鏡だ。どんなに深い想いでも、現実という波にさらされれば、少しずつ形を失っていく。
大学生活3年目、由宇の生活は一変していた。卒業制作と就職活動、将来への不安。キャンバスに向かう時間よりも、履歴書の文字に追われる日々。真央との通話は減り、メッセージの返信も遅れがちになっていく。
遠距離恋愛を「支え合い」と呼んでいた時期は終わった。そこに残ったのは、現実と理想の摩擦音だった。
就職活動と卒業制作、現実が恋を削っていく
夜遅くまで作品を描いても、思うように評価されない。面接では「なぜ絵を続けているのか」と問われ、答えを探すたびに、真央の顔が浮かぶ。彼がいたから、ここまで来られた。けれど、いまの自分は──何のために描いているのだろう。
現実は、恋の美しさを試すためにある。時間は愛を成熟させることもあれば、摩耗させることもある。由宇の筆先は次第に鈍くなり、心の中に“疲れ”が積もっていった。
「恋を支える」と言い聞かせてきた日々の中で、彼女は少しずつ、自分自身を見失っていく。真央の夢を追いながら、いつの間にか“自分の夢”を描けなくなっていたのだ。
そんな中、就職内定の知らせが届く。新しい現実が、恋の輪郭を曖昧にしていく。再会の約束をしても、会える日がどんどん遠のいていく。由宇の心に広がるのは、「このままじゃいけない」という焦燥だった。
「そばにいたい」──その衝動が運命を動かす
恋は、理性よりも衝動で動く。冷静な判断よりも、“今すぐ会いたい”という叫びの方が、ずっと正直だ。由宇は気づけば、夜行バスに乗っていた。真央のいる東京へ。何を話すかも決めずに。
けれど、その衝動の先に待っていたのは、現実だった。仕事に追われる真央、会うたびに増える沈黙。互いに責め合うことはしない。ただ、もう昔のようには笑えない。
愛している。なのに、うまくいかない。その矛盾が、人を最も苦しめる。
由宇は、真央のそばにいたい一心で、ある選択をしてしまう。それは“彼のため”でもあり、“自分のため”でもあった。誰かを救おうとした瞬間、人は自分を壊してしまうことがある。その夜、彼女の中で“恋”が静かに終わり始めた。
翌朝、曇った窓の外で雨が降り始める。由宇はその音を聞きながら、心の中でつぶやく──「恋は、終わるものじゃなく、変わるものなんだ」と。
この瞬間、由宇はようやく理解する。恋を“続ける”ことが愛ではない。自分の人生を取り戻すことこそが、愛の終わらせ方なのだ。
第1話は、そんな由宇の決断を淡々と、しかし確実に描いていた。涙を流す彼女の姿に、視聴者はきっと自分の過去を重ねたはずだ。あのとき言えなかった言葉、終わらせたくなかった恋──すべてがこの瞬間に重なっていく。
“終わり”は、いつも静かに訪れる。ドラマはそれを、派手な別れではなく“日常のほころび”として見せてくれた。そのリアリティこそが、この作品の真の痛みであり、美しさでもある。
8人の愛が交差する群像ドラマの幕開け
第1話のラスト、由宇と真央の物語の影で、もうひとつの風景が静かに動き出す。それは8人の男女が、それぞれの“恋の余熱”を抱えて生きる姿だった。
物語は単なるラブストーリーではなく、“人が恋に何を求めるのか”を問う群像劇として広がっていく。恋は終わっても、人は愛をやめられない──そのテーマを体現するように、8人の人生がすれ違い、絡み合い、やがて一つの円を描いていく。
西颯、莉津、蒼、沙知、駿太郎、郁子…それぞれの“恋の余熱”
真央の幼なじみ・西颯(藤原丈一郎)は、彼の恋の影を知る数少ない存在。由宇を遠くから見つめる彼の目には、“届かない想いを抱く者の静かな痛み”が宿っている。彼の物語は、恋の「傍観者」が抱える苦しみを描いている。
一方で、真央の妹・大崎莉津(本田望結)は兄を尊敬しながらも、その影に押しつぶされそうになっている。兄のように誰かを強く愛したい、でも怖い。莉津の存在は、“恋の模倣から自分の愛を探す”という、若者特有の揺らぎを象徴している。
さらに物語の別軸では、由宇と真央の母校に通う高校生・蒼(山下幸輝)と沙知(大塚萌香)が登場。彼らの関係は、まだ名前のない“初恋”の匂いを残している。見つめ合うだけで世界が変わる、その未完成な純粋さが物語全体に希望の光を射す。
そして社会人組──野北駿太郎(白洲迅)と宮内郁子(市川由衣)。仕事に追われ、心を擦り減らしながらも、どこかで「もう一度誰かを愛したい」と願っている。彼らの恋は、“諦めた大人たちの再生”として描かれている。
この8人が織り成すのは、まるで一枚の巨大な絵画のようだ。それぞれが違う色を持ちながら、同じキャンバスの上で滲み合う。由宇と真央の恋が“中心の光”だとすれば、彼らはその周囲で燃える“残光”だ。
「終わり」と「始まり」を繰り返す愛の構造
「すべての恋が終わるとしても」というタイトルには、二重の意味がある。ひとつは“すべての恋はいつか終わる”という現実。そしてもうひとつは、“終わっても、人はまた恋をする”という希望だ。
第1話で描かれた8人の群像は、まさにその構造を象徴している。誰かが恋を失い、誰かが新しい恋を始める。失恋と出会いが同時に進行するその構図こそ、人生そのもののリズムなのだ。
恋は永遠ではない。だが、終わりがあるからこそ美しい。終わりを描くことは、始まりを信じることでもある。ドラマはその哲学を、複数の登場人物の人生を通して静かに提示している。
特に印象的なのは、8人それぞれの“愛の形”に優劣がないことだ。報われる恋もあれば、報われない恋もある。だがどの恋も等しく“生きる理由”を持っている。恋の価値は、長さではなく、熱量で決まる。
ラストシーンで流れる静かな音楽の中、由宇の涙と同時に他の登場人物たちの表情が交錯する。その演出が伝えていたのは、「誰の恋も無駄ではない」というメッセージだった。
すべての恋が終わるとしても──人はまた、恋をする。その循環こそが、このドラマの核であり、視聴者の心を最も強く揺さぶる瞬間だった。
すべての恋が終わるとしても第1話の感想と考察
このドラマの凄さは、恋の「始まり」よりも「終わり」を美しく描くことにある。
多くのラブストーリーがハッピーエンドを目指す中で、「すべての恋が終わるとしても」は、終わることの痛みを肯定的に描く。
それが本作に漂う“美学”だ。
第1話を見終えたあと、胸の奥に残るのは喪失感ではない。
それは、“終わりがあるからこそ、美しい”という静かな確信だ。
恋が永遠ではないからこそ、今という瞬間が輝く──この真理を、物語は一貫して語っていた。
物語のトーンは決して派手ではない。
むしろ淡く、静かに、観る者の感情に寄り添うように流れていく。
画面の中で誰かが泣くたびに、その涙が観る者の記憶の奥を叩く。
まるで“自分の恋”を再上映しているような感覚。
この作品は、恋愛ドラマというより“恋の記録映画”に近い。
「終わり」を描くことで見せる“恋の美学”
監督が選んだ色彩設計も印象的だ。
チョークの白、夕陽のオレンジ、雨のグレー。
すべての色が、“移ろいゆく感情”を象徴している。
由宇と真央の恋は、時間とともに色を失うのではなく、グラデーションのように変化していく。
その描写の繊細さが、本作の美学の核だ。
特に印象的なのは、「描いて、消す」というモチーフ。
真央が壁にチョークで絵を描き、それを水で洗い流すシーン。
あの一連の動作は、まるで“恋の縮図”だ。
描くことは出会い、消すことは別れ。
それでも彼は描くことをやめない。
そこに、“終わりを受け入れながらも生きる力”が宿っている。
この美学は、脚本の構成にも現れている。
一見淡々と進む物語の中に、セリフではなく“沈黙”で語る場面が多い。
会話よりも視線。言葉よりも距離。
恋を語るのではなく、恋の“余韻”を描く。
この緊張感が、作品全体を詩のようにしている。
葵わかなと神尾楓珠が体現する“壊れそうな純度”
葵わかなの演技は、静かでありながら圧倒的だった。
彼女の目は、涙を流さずに痛みを語る。
由宇というキャラクターが抱える矛盾──愛しているのに離れる苦しみ──を、彼女は表情だけで表現していた。
その繊細さは、まさに“壊れそうな純度”だった。
一方の神尾楓珠は、真央の複雑な内面を、抑えた演技で魅せた。
激情を爆発させるのではなく、抑え込む。
その沈黙の奥にある優しさが、視聴者の心を揺らす。
彼の「大丈夫」という一言に、どれほどの孤独が滲んでいたか。
まるで筆圧の強い線のように、彼の心情が画面を貫いていた。
2人の間にある空気感──それがこのドラマの真の主役だ。
言葉を交わさなくても成立する“関係の密度”。
それは恋というより、もはや“魂の共有”に近い。
第1話でここまで深い情感を描けるドラマは稀だ。
そして何より、2人の演技が視聴者に“自分の記憶”を呼び起こす。
忘れていた恋の痛み、あの日の選択、言えなかった一言。
このドラマの力は、視聴者の感情を“再生”させることにある。
恋の終わりを描きながら、観る者の中で恋を甦らせる──それが、この作品の最大の魅力だ。
「すべての恋が終わるとしても」第1話は、終わりの中に希望を描いた。
恋が壊れる瞬間、その痛みを恐れず見つめることこそが、“愛する”という行為の本質なのだ。
終わりを恐れるのは、恋じゃなく“自分の変化”なんだ
恋が終わるとき、人は「もう一度やり直したい」と言う。
でも本当は、あのときの“自分”を取り戻したいだけなんだ。
第1話の由宇も、まさにその真ん中で揺れていた。
真央を失うことが怖いのではなく、“真央といる自分”が消えていくのが怖い。
恋って、他人を愛してるようでいて、実は「その人といるときの自分」を愛してる。
だから別れの瞬間、いちばん痛いのは“相手”じゃなく“自分”の変化なんだ。
ドラマが秀逸なのは、その心の構造を丁寧に見せるところ。
由宇が絵を描けなくなっていく過程は、まさに恋の終焉のメタファーだった。
描く力が消えていく=愛する力がすり減っていく。
でも、描くことをやめたとき、人は初めて“自分の本音”に触れる。
その痛みを、由宇は恐れながらも受け入れていく。
恋が終わる瞬間、人はようやく「本音」で生き始める
第1話で印象的だったのは、由宇が涙をこらえて笑うシーン。
あれは“まだ強がっていたい”という防衛でもあり、“もう嘘をつけない”という限界でもあった。
恋が終わる瞬間、人はようやく“自分の正体”に気づく。
誰かに愛されたいのではなく、“誰かに必要とされる自分でいたい”。
それが恋の根っこ。
けれどその幻想が崩れたとき、初めて人は“自立”という形で再生する。
由宇が選んだ「終わり」は、逃げじゃなく再出発だった。
恋を終わらせたのではなく、“恋の自分”を手放したんだ。
誰かを失っても、世界は終わらない
真央がいなくても、朝は来る。
絵は描けるし、風は吹く。
そんな当たり前の現実を、由宇はようやく自分のものにしていく。
恋をしている間、人は“誰かの世界”で生きる。
でも恋が終わると、自分の世界に戻される。
その帰還こそが、本当の成長なんだ。
ドラマのタイトル「すべての恋が終わるとしても」は、悲しみの宣告じゃない。
むしろ“恋が終わっても生きていける”という赦しだ。
恋は人生の目的じゃない。
ただの通過点であり、心を更新していくための装置。
終わるたびに、人は少しずつ柔らかく、そして強くなる。
恋が終わることを恐れなくなったとき、人はようやく“愛する準備”ができる。
第1話は、その入り口に立つ物語だった。
すべての恋が終わるとしても第1話ネタバレまとめ:終わりを受け入れたとき、恋は物語になる
恋の終わりは、いつも突然だ。けれどそれは、悲劇ではなく“物語の誕生”だと、このドラマは静かに教えてくれる。
第1話「すべての恋が終わるとしても」は、恋が生まれ、揺れ、そして消えていく過程を、極限まで丁寧に描いた。葵わかな演じる由宇の視線は、恋を「続ける」よりも「記憶に残す」ことの尊さを語っていた。神尾楓珠演じる真央の笑顔は、永遠ではなくても確かに存在した“愛の証拠”だった。
タイトルが示すように、すべての恋はやがて終わる。だがこのドラマの核心は、「終わる恋にも意味がある」という希望だ。終わることを恐れるのではなく、終わりを通して“自分を取り戻す”──それが本当の愛の形だ。
恋の痛みを恐れず、ただ“感じきる”こと
恋が終わるとき、人は必ず痛みを感じる。連絡が減った夜、会えない寂しさ、すれ違いの沈黙。誰もが経験するあの“胸の重さ”を、このドラマは決して軽く扱わなかった。
由宇は痛みから逃げなかった。愛しているのに離れるという矛盾を受け入れた。その選択の奥にあるのは、誰かを失う怖さではなく、“自分を大切にする勇気”だ。
恋の終わりを描く物語は多い。しかしこのドラマの凄みは、悲しみを“美化”しないことにある。涙を流す由宇は決して弱くない。むしろ彼女は、痛みを引き受けることで“愛の本質”に触れていた。
人は恋をすると、自分の輪郭を他人に預けてしまう。だからこそ、終わりが来ると“自分が消えてしまうような喪失”を感じる。だが、その空白の中にこそ、新しい自分が生まれる余地がある。痛みを感じきることが、次の愛への準備なのだ。
第1話のラストで由宇が見せた小さな笑顔は、まさにその再生の象徴だった。悲しみを受け入れた人間にしか浮かべられない、あの静かな微笑。そこに、このドラマの“希望”が宿っていた。
由宇と真央の恋が教えてくれる「終わる勇気」
真央は最後まで優しかった。けれどその優しさが、時に刃にもなった。彼の「大丈夫」という言葉の裏で、由宇は何度も泣いた。優しさが嘘になる瞬間を、彼女は見逃さなかった。
恋を続けるよりも、終わらせる方が難しい。だが由宇は、自分の心に嘘をつかない道を選んだ。“終わりを選ぶ勇気”こそ、愛の最も成熟した形なのだ。
終わることでしか届かない言葉がある。離れることでしか伝わらない愛がある。2人が別れたあの夜、視聴者はそれぞれの記憶の中にある“自分の恋の終わり”を思い出したはずだ。
「すべての恋が終わるとしても」は、ただのラブストーリーではない。それは、人生そのものの寓話だ。出会い、惹かれ、すれ違い、終わる──その繰り返しの中で、人は少しずつ優しくなっていく。由宇の涙の意味は、その優しさの証だった。
恋は終わる。でも、愛は残る。第1話のエンドロールが流れるとき、胸の奥にその言葉が静かに残る。
このドラマが描くのは、「終わり」ではなく「継承」だ。由宇と真央の恋が終わっても、彼らが残した想いは次の誰かの恋へと受け継がれる。それが、群像劇という構造の意味でもある。
恋は消えない。形を変えて、誰かの中で生き続ける。──“終わり”を受け入れたとき、恋は初めて物語になるのだ。
- 葵わかな×神尾楓珠が描く、終わりから始まる恋の物語
- 第1話は由宇と真央の“遠距離の痛み”と成長を軸に展開
- 恋の終わりを「喪失」でなく「変化」として描いた構成
- チョーク画や沈黙が象徴する“儚さの美学”
- 8人の登場人物が交差し、恋の連鎖を映し出す群像劇
- 葵わかなの繊細な表情と神尾楓珠の静かな孤独が印象的
- 終わる勇気、痛みを受け入れる強さがテーマ
- 恋は終わっても愛は残る──そんな余韻を残す第1話
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