恋が終わっても、街はそのままそこにある。ドラマ「すべての恋が終わるとしても」のロケ地は、ただの撮影場所ではなく、登場人物たちの“心の残り香”が漂う場所です。
神戸学院大学や神戸芸術工科大学、メリケンパーク「BE KOBEモニュメント」、そして東京・有明北緑道公園や浜松町クレアタワー。どの場所にも、由宇と真央のすれ違いと再生の記憶が息づいています。
この記事では、これまでのロケ地を、“感情のシーン”とともに辿ります。あなたの胸に残る“終わらなかった恋”を探しに行きましょう。
- ドラマ「すべての恋が終わるとしても」のロケ地と物語の繋がり
- 神戸と東京が象徴する“恋の距離”と再生の意味
- ロケ地が語る、恋の終わりと新しい始まりの哲学
「すべての恋が終わるとしても」ロケ地の核心:神戸と東京が描く“距離の物語”
恋の終わりを描くドラマは数あれど、「すべての恋が終わるとしても」が特別に胸を締めつけるのは、舞台となる街が、まるで登場人物の一部のように呼吸しているからだと思う。
神戸と東京。ふたつの都市は、由宇と真央という恋人の「距離」と「成長」を象徴している。ロケ地を歩くたび、画面の向こうの彼らの痛みと希望が、自分の心にも重なるように感じるのだ。
このセクションでは、彼らの物語を支えた二つの街——神戸と東京——がどのように“恋の季節”を映し出しているのかを、静かにたどっていきたい。
神戸——恋が育ち、離れていった場所
神戸の空は、いつもどこか切ない。由宇が通った神戸芸術工科大学のキャンパスは、夢にまっすぐな彼女の瞳を映す鏡のようだった。丘の上に立つその校舎からは、港の光が見える。彼女が一人で絵を描く姿を想像すると、あの風の冷たささえも胸に残る。
そして、真央が彼女を見送った神戸学院大学ポートアイランドキャンパス前のバスターミナル。あの場所は、ただの「別れの風景」ではない。“夢を追うために背中を押す”という優しさの象徴なのだ。
神戸ポートターミナルやメリケンパークの「BE KOBE モニュメント」は、二人が再び出会うための約束のように輝いている。あの文字の前で微笑む二人の姿は、まるで「この恋が終わっても、あなたを忘れない」と囁いているようだった。
港町・神戸には、潮風とともに“未練”が漂う。恋が終わった場所ではなく、愛が形を変えて生き続ける場所。だからこそ、この街がドラマの中心に選ばれたのだろう。
歩道橋の上で語り合う二人の姿も、神戸という街の“時間の緩やかさ”があってこそ成立する。都会の喧騒から少し離れたこの場所で、彼らは初めて“恋を失うことの意味”に触れていた。
アユミとして私が思うのは、神戸の景色は「恋の始まり」よりも「恋の静かな終わり」を美しくする。夕陽のオレンジがゆっくり沈むとき、二人の時間も、静かに過去へと溶けていくのだ。
東京——再会と現実を突きつける街
一方、東京の景色は冷たくて現実的だ。だけどその冷たさが、由宇が大人の女性へと変わっていくための背景になっている。
第2話で登場した日本生命浜松町クレアタワー前。あの場所で、再び真央と出会うシーン。光沢のあるガラスに映る由宇の表情は、かつての少女ではなかった。そこには、愛を失ってもなお歩こうとする「今の私」が立っていた。
有明北緑道公園の海沿いは、東京の中でも特別な静寂を持つ。由宇が電話で別れを告げられたあのシーンは、海風が彼女の涙を奪っていくようだった。“終わり”を受け入れる瞬間にこそ、愛の純度は最も高くなる。
そして、東京の夜景。ガラス張りのビルが光るたび、由宇と真央の時間が、ほんの一瞬だけ重なるような気がした。再会は奇跡ではなく、人生がもう一度彼らを試している瞬間なのかもしれない。
神戸が“恋を信じた場所”だとすれば、東京は“恋を手放す場所”。ロケ地として描かれたこの二つの街は、恋愛の始まりと終わりを静かに分ける境界線のようだ。
だけど、そのどちらの風景にも、同じ風が吹いている。それは、由宇と真央をつなぐ“まだ終わっていない想い”の風。彼らが別々の街で同じ空を見上げる限り、その恋は「すべての恋が終わるとしても」のタイトルを越えて、生き続けている。
だから私は思う。このドラマのロケ地は、単なる舞台ではなく「感情の記録」そのものなのだと。歩けば、思い出す。恋した自分、泣いた自分、そして今も誰かを想っている自分。その全部が、街の中に息づいている。
印象に残るロケ地ベスト5|“恋の余韻”を感じる聖地
ロケ地をただの撮影場所として見るのではなく、登場人物の感情が残る“心の風景”として辿ると、「すべての恋が終わるとしても」はまったく違う表情を見せてくれる。
物語の中で由宇と真央がすれ違い、見つめ合い、そして離れていった瞬間。その一つひとつに寄り添ってきた場所が、静かに彼らの記憶を語っている。
ここでは、その中でも特に“恋の温度”を感じる5つのロケ地を紹介したい。訪れるたびに、心の奥の柔らかい場所をそっと撫でてくれるはずだ。
1. メリケンパーク「BE KOBEモニュメント」——記憶を刻む風の中で
神戸の港、潮風に包まれるように立つ「BE KOBEモニュメント」。この場所で由宇と真央が写真を撮ったシーンは、恋の象徴そのものだった。
「BE KOBE」の白い文字の前で笑い合う二人。あの笑顔には“未来への希望”と“別れの予感”が、同時に宿っていたように思う。青い空と海の境目で撮られたカットには、言葉にできない静かな祈りがあった。
このモニュメントが印象的なのは、単に観光名所だからではない。「誰かと一緒に生きる」という願いを形にした街の象徴だからだ。由宇と真央の恋が終わっても、この文字は消えない。恋は終わる。でも、愛した記憶は風になって残る。そんなメッセージが、この海辺には確かにある。
夕暮れの光が沈む瞬間、「BE KOBE」の白がオレンジに染まる。その光を見ていると、まるで彼らの心が“過去と現在のあいだ”をさまよっているように感じる。この場所は「終わり」を受け入れるための場所であり、同時に“また誰かを想いたくなる”優しい始まりの場所でもある。
もしあなたがここを訪れるなら、写真を撮るよりも、少し風を感じてみてほしい。潮の香りの中に、由宇の笑い声と真央の息づかいがまだ混ざっているような気がするから。
2. 神戸学院大学ポートアイランドキャンパス——背中を押す「さよなら」
由宇が神戸へ旅立つとき、真央が見送ったバスターミナル。神戸学院大学ポートアイランドキャンパス前のあの場所は、ドラマの中で最も“愛のかたち”が純粋に描かれた瞬間だったと思う。
由宇の目には涙が浮かび、真央は笑顔を崩さなかった。あの「行ってこいよ」という一言には、恋人ではなく“人生の伴走者”としての愛が込められていた。ドラマファンTokyoの記事では、「夢を追う彼女を応援する真央の姿が印象的だった」と書かれていたけれど、まさにその通り。
彼の優しさは、残酷でもあった。誰かの夢を応援することは、自分を置き去りにすることでもあるから。由宇の背中を見送りながら、真央の心にはどんな痛みがあったのだろう。
実際のロケ地は、ポートアイランドの穏やかな海に面していて、潮の香りと学生たちの笑い声が混ざる。晴れた日には、港を出入りするフェリーの音が遠くに聞こえる。その音が、まるで二人の「またね」を包み込むように響いていた。
アユミとしてこの場所に立つと、“別れ”の裏にある“祝福”がはっきりと感じられる。恋が終わる瞬間は、確かに苦しい。けれど、それを「新しい始まり」として送り出すことができたなら、その恋は決して失敗ではない。
神戸学院大学の正門前から見える青空は、由宇と真央が一緒に見上げた未来そのもの。恋人を見送ったことのある人なら、きっとこの景色に胸を打たれるはずだ。あの時の「さよなら」は、永遠の別れではなく、“あなたの幸せを願う”という祈りの言葉だったのだと。
そう思えた瞬間、このバスターミナルは、あなた自身の過去の恋をそっと抱きしめてくれるだろう。
ロケ地が語る「すべ恋」のテーマ:終わりは始まりの別の名前
ドラマ「すべての恋が終わるとしても」は、恋の終焉を描きながら、“別れ=喪失”ではなく、“再生の始まり”としての終わりを見つめている。舞台となったロケ地のひとつひとつが、その哲学を静かに語っているように思う。
神戸の海沿いでの笑顔も、東京のオフィス街での再会も、どちらも「今を生きる」ための儀式だった。愛が続くことよりも、「どう終わらせるか」が問われるこの物語。そこに、私たちが誰もが避けて通れない“人生の距離”が描かれている。
ここからは、ロケ地を通して見えてくる“すべ恋”の核心を、二つの視点から紐解いていきたい。
“距離”が壊すもの、そして育てるもの
恋人を想う距離。それは時に希望を生み、時に不安を増やす。神戸と東京というふたつの街を舞台にしたこのドラマでは、距離が二人の心を壊すものではなく、成長させる試練として描かれている。
由宇が暮らした神戸のアパート「ハイツminiとまとB」は、彼女の“孤独の象徴”だった。あの小さな部屋で、彼女は恋の余熱と現実の冷たさのあいだで揺れていた。部屋の壁に射す夕陽は、もう真央ではなく、未来を見てほしいという“世界からのサイン”のようだった。
一方で、真央が暮らした府中の家や東京の歩道では、彼が“過去を抱えたまま進む姿”が描かれていた。二人は同じ空の下にいながらも、違う時間を歩いていた。そのズレが、恋の痛みを際立たせる。
でも、私は思う。距離は、愛を試すためではなく、愛を成熟させるために存在する。近くにいれば安心できるけれど、離れて初めて見えるものがある。相手の強さ、自分の弱さ、そして“自分の人生”というもう一つの愛の形。
ロケ地で言えば、神戸ポートターミナルの広い空と、浜松町のビルの谷間の空。それぞれに違う色があるけれど、どちらも同じ空の延長線上にある。由宇と真央の心のように、離れていても繋がっている関係がそこにある。
この距離が二人を壊したように見えて、実は育てていた。だからこそ、彼らは再会したときに「もう一度、恋人として」ではなく、「ちゃんと自分として」向き合えたのだと思う。
“あと2年”という静かな祈り
第2話のラストで、真央が手帳を見つめながら呟いた「あと2年」。その言葉を聞いた瞬間、多くの視聴者が息をのんだ。この“2年”とは何を意味するのか。
それはきっと、死のカウントダウンではない。過去を終わらせるための時間、自分を再生させるための祈りのような期間。真央は由宇を忘れるためではなく、“もう一度、愛せる人になる”ために、自らに期限を課したのだと思う。
神戸大橋の上で彼が抱きしめた由宇の背中。その震えは、「また恋をしよう」という約束ではなく、「この恋をちゃんと終わらせよう」という覚悟の震えだった。
私には、この“あと2年”という言葉が、人生そのもののメタファーに聞こえた。人はいつも、心のどこかで“終わり”を意識しながら生きている。だからこそ、今を愛せるのだ。
東京の有明北緑道公園で、由宇がひとり海を見つめるシーン。彼女の頬を撫でる風は、きっと真央の「生きていてほしい」という想いそのものだった。距離があっても、時間が経っても、祈りだけは届く。それが“すべ恋”という物語の本質だと私は思う。
「終わりは、始まりの別の名前」。ロケ地が教えてくれるのは、その静かな真実だ。神戸の海も、東京の空も、彼らの恋を包み込みながら、こう語りかけてくる——。
たとえすべての恋が終わっても、あなたの物語はまだ終わらない。
“地図に残らない風景”——恋が終わったあとに見えるもの
ロケ地を辿ると、ふと思う瞬間がある。ドラマの中に映らなかった景色の方が、心に残っていると。
カメラが切り替わったあと、由宇がひとり歩いた道。真央が振り返らずに歩き去った後ろ姿。その続きの風景は、もう映像としては存在しない。けれど、見ていた誰もが頭の中で「このあと」を想像している。
たとえば、神戸大橋の下の歩道。ふたりが別れを抱きしめたそのあと、きっと由宇は少し泣いて、すぐに前を向いたはずだ。その目の奥に映る神戸の夜景こそ、“ロケ地の続き”なんじゃないかと思う。
ドラマが終わっても、恋が終わっても、街は変わらず光っている。けれど、そこに立つ自分はもう同じではいられない。ロケ地は変わらない、変わるのは自分のほうだ。
ロケ地に残るのは“形”じゃなく“温度”
「すべ恋」のロケ地を見ていると、どの場所にも人の体温が残っている気がする。珈琲達磨堂のカウンターに残るカップの輪染み。浜松町のビルに映った空の色。神戸の風に混じるチョークの粉の匂い。それらは、恋の残り香みたいなものだ。
キンタの目で見ると、このドラマのロケ地は「再現のための場所」じゃない。もっとリアルな、人が“生きた証”を置いていく場所なんだと思う。
由宇が通ったキャンパスのベンチに腰を下ろしても、そこにはもう彼女はいない。でも、その木の感触が、少しだけ温かい気がする。人が本気で生きた時間って、消えないんだ。恋も同じで、終わったあとにようやく“何を大事にしてたか”が見えてくる。
恋の終わりを“風景”として受け取る
多くの人は、恋が終わると「失敗だった」と言う。でも、「すべ恋」のロケ地を歩くと、それが違うことに気づく。恋の終わりは、ただの結果じゃない。それは風景のように心に積もる記憶なんだ。
神戸の海辺、有明の夜風、目黒の居酒屋の灯り。そこに映るのは「誰かを想っていた時間」そのものだ。忘れたくない記憶は、場所に残る。だからロケ地を訪れるという行為は、過去に戻るためじゃなく、“過去と今をつなぎ直す儀式”に近い。
恋が終わっても、生きていく街がある。街が変わっても、心に残る景色がある。そのどちらも本物で、どちらも嘘じゃない。ロケ地とは、そういう“現実と記憶の交差点”だ。
由宇と真央がいなくなったあと、残るのは風の音と街の光。そして、それを見つめる自分の心だけ。その静けさの中にこそ、恋の真実がある気がしてならない。
「すべての恋が終わるとしても」ロケ地で見つける、あなた自身の物語【まとめ】
ロケ地を歩くという行為は、ただ“ドラマの舞台を追体験すること”ではない。自分の過去の恋や、胸の奥に置き忘れてきた想いを、静かに拾い上げる時間なのだと思う。
神戸の海辺、東京の街角。そこに刻まれた由宇と真央の記憶をたどることで、私たちはいつの間にか、自分の心の中の“すべ恋”と向き合っている。終わった恋の痛みも、今となっては生きる糧に変わっているのかもしれない。
ドラマのタイトル「すべての恋が終わるとしても」は、冷たい宣告のように聞こえるけれど、その響きの奥には、“それでも人は恋をする”という温かな希望がある。ロケ地を巡る旅は、その希望を確かめるための小さな儀式なのだ。
ロケ地は“記憶を映す鏡”
たとえば、メリケンパークの「BE KOBEモニュメント」に立ったとき。潮風の中に、由宇の笑い声が混じっているように感じる瞬間がある。それは錯覚ではなく、心が共鳴している証拠だ。
神戸学院大学のバスターミナルを訪れると、遠くでバスが走り出す音に胸がざわつく。東京・有明北緑道公園では、海に反射する夕陽が、誰かの涙のように見える。その一瞬一瞬が、ロケ地を“あなた自身の記憶のスクリーン”に変える。
だから私は思う。聖地巡礼とは、好きな作品を追うことではなく、“自分の心の欠片”を探す旅なのだと。由宇や真央に重ねた誰かの顔。忘れられない声。あのとき言えなかった一言。ロケ地は、それらを静かに映し出す鏡のような場所だ。
人は風景の中に、いつも“自分”を探している。だからこそ、物語の舞台を歩くとき、懐かしさと痛みが同時に胸を打つ。それは、過去があなたの中でまだ生きている証だ。
終わった恋の続きを、生きていく
由宇と真央の恋は終わった。けれど、終わりは消滅ではない。終わりの中にこそ、“生き続ける想い”が息づいている。彼らのように私たちも、それぞれの街でそれぞれの時間を生きている。
神戸の空に沈む夕陽を見たとき、東京の夜に光るビルを見上げたとき、そのどちらにも「今を生きる」という力が宿っている。恋の終わりを経験した人は、もう一度優しくなれる。それは、誰かを想い続ける勇気を知っているから。
ロケ地を巡る旅の最後に、私はふと足を止めて思う。“すべての恋が終わるとしても、私の人生はまだ終わらない”と。
そう気づいた瞬間、街の景色が少し違って見える。風が柔らかくなり、空の青が深くなる。由宇と真央が歩いた道は、もう二度と戻らないけれど、その道の先に、あなた自身の新しい物語が待っている。
終わった恋を抱きしめながら、今日を生きること。それが、このドラマが教えてくれた、最も美しい“ロケ地の意味”なのかもしれない。
- ドラマ「すべての恋が終わるとしても」のロケ地は、神戸と東京の“心の距離”を映す舞台
- 神戸は恋が芽生え、別れを受け入れる街として描かれる
- 東京は再会と現実、そして成長を象徴する場所
- メリケンパーク「BE KOBE」や神戸学院大学など、愛の記憶が残る聖地が多数登場
- 真央の「あと2年」は、別れではなく“再生の祈り”を意味する
- ロケ地は登場人物の感情が息づく“記憶の風景”
- 恋が終わっても、街と心は繋がり続けるという余韻を残す
- 歩けば、由宇と真央の記憶を越えて“自分の物語”が始まる
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