「人は、鏡に映る自分の姿をどこまで信じられるのか。」
ドラマ『緊急取調室2025』第2話「鈍色の鏡」は、人気キャスター・倉持真人(山本耕史)とその妻・利律子(若村麻由美)、そして父・磯貝信吾(竜雷太)の歪んだ関係を通して、“真実”と“虚像”の境界を鋭く突きつけた回だ。
天海祐希演じる真壁有希子が見抜くのは、事件の裏に潜む「報道という鏡」が映し出す人間の虚飾。車椅子キャスターという「立場」と、「立てる」という事実の対比が、まさにタイトルの“鈍色の鏡”を象徴していた。
この記事では、第2話のストーリーを紐解きながら、キントリが描く“報道倫理”と“父子の断絶”を深掘りする。
- 『緊急取調室2025』第2話「鈍色の鏡」の核心と人物関係
- 倉持真人・利律子・信吾が映す“嘘と真実”の構図
- 鏡を通して現代社会の虚構と倫理を読み解く視点
第2話「鈍色の鏡」の核心:犯人は“誰”ではなく、“何を隠していたのか”
この回の『緊急取調室2025』は、単なる殺人事件ではない。真壁有希子が追い詰めたのは、人を殺した“犯人”ではなく、自分自身を偽って生きてきた人間たちの“嘘”そのものだった。
舞台は、再開発をめぐる国家プロジェクトと、それに関わる報道の世界。だが事件の中心にいたのは、ニュースの最前線で「真実を伝える」ことを使命にしてきた人気キャスター・倉持真人(山本耕史)だった。
その倉持の父・信吾(竜雷太)が殺害され、容疑は倉持の別居中の妻・利律子(若村麻由美)にかかる。──しかし真壁は見抜く。これは単なる家庭内の悲劇ではなく、“虚構の報道”という現代社会そのものの鏡だと。
車椅子キャスター・倉持真人の「虚構の報道」
倉持は「日本初の車椅子キャスター」として注目を浴びていた。ニュースの現場で毅然と座り、真実を語る姿は、多くの人々に“誠実さ”を印象づけた。
しかし、その誠実は偽装だった。彼は実際には杖を使えば立ち上がれる身体だったのだ。“弱さ”を演じることで強く見せる──それが倉持の選んだ生き方だった。
この設定は、まさに「鈍色の鏡」そのもの。光を反射しきれない鏡のように、彼の報道は真実を映すようで、どこか濁っていた。
「報道とは、誰のためにあるのか。」
それは、倉持が父・信吾から受け継げなかった問いでもある。父は現場主義のジャーナリスト。息子はスタジオの中の象徴。
二人の間に横たわるのは、職業としての「報道」と、人間としての「真実」の断絶だ。
ドラマの中で印象的なのは、倉持が放送局で誇らしげに語る場面だ。
「僕は父のような古いジャーナリストにはならない。新しい伝え方で、真実を見せるんです。」
だが、真壁有希子はその言葉の裏を見抜いている。
“真実を見せる”とは、自分が見たい現実を作ることではない。
車椅子という演出、完璧な笑顔、SNSで拡散される「善人の象徴」。それらすべてが、倉持のキャリアを支える“虚像”だった。
父・信吾が語った「嘘で塗り固めた人生」の予言
父・信吾は、息子のそんな生き方を見抜いていた。
老いた彼の言葉は、どこか皮肉で、しかし鋭く真実を突いていた。
「あいつは鏡の中でしか生きられねぇ。嘘で塗り固めた人生を生きていくのは、ぞっとするな。」
それはまるで、事件の前にすでに“結末”を見通していたようだった。
この台詞が「鈍色の鏡」というタイトルの核にある。
父は、息子に殺されることを予感していた──いや、もしかすると“そうならざるを得ない”と悟っていたのかもしれない。
息子が父を殺したのは、暴力でも復讐でもない。
それは、真実を暴かれる恐怖に対する自己防衛だった。
「立てる」ことを知られれば、すべてが終わる。
キャスター・倉持真人の“信頼”というブランドが崩壊する。
父はそれを知っていた。だからこそ、彼は挑発したのだ。
「杖をつけば歩けるんだろ。お前は報道を利用してるだけだ。」
その瞬間、息子の中で何かが切れた。
鏡が割れたのだ。
そして「父殺し」という行為は、報道の世界で生きる彼が“嘘を守るために選んだ最後の報道”だった。
真壁はその“報道の構造”をも見抜く。
人間は誰しも、都合のいい鏡の前で生きている。
社会に映す自分を美化することで、現実の痛みから目を逸らす。
だからこそ、真壁の言葉が重く響く。
「あなたの“真実”は、視聴率のために編集された嘘です。」
この台詞にすべてが凝縮されている。
倉持が守ろうとしたのは“報道の正義”ではなく、“自分が作り上げた物語”だったのだ。
──犯人は“誰”ではない。
本当の犯人は、「真実を映さない鏡」。
それは、視聴者の中にも、我々の社会の中にも存在している。
夫婦の鏡像関係:利律子と真人が映し合う“罪”と“赦し”
第2話「鈍色の鏡」が最も深く抉り出したのは、倉持真人と利律子の夫婦関係だ。二人は互いを愛しながらも、同時に憎んでいた。まるで“合わせ鏡”のように、相手の中に自分の欠落を見てしまう関係。それこそが、この物語のもう一つの殺意の構造だった。
利律子は、社会的に成功した夫を支えながらも、その影で“妻”としての自分を失っていった。彼女は語る。「ほんとは家に戻りたかった」と。
だが、その言葉には哀しみよりも、埋もれていた怒りが滲んでいた。
彼女にとって義父・信吾は、古い価値観の象徴だった。「妻は夫を支えるもの」という時代錯誤な言葉が、彼女の心を締め付ける。
それでも利律子が本当に憎んでいたのは、義父ではなく、その言葉を否定できなかった自分だったのかもしれない。
別居の理由と「悔しい」という言葉の裏側
取調室で真壁が「あなたは以前、義父と距離を置いていたのに“悔しい”と言った。なぜですか?」と問う場面がある。
この質問こそが、利律子という女性の“真実”を暴くトリガーだった。
悔しさとは、愛の裏返しだ。完全に見捨てた人間には、もう悔しさすら残らない。
つまり、彼女の中にはまだ“戻りたい”という願いがあった。
だが、その願いを受け止めるはずの夫・倉持は、報道の現場にのめり込み、彼女を“ニュースの素材”としてしか見られなくなっていた。
彼は“現実の妻”よりも、“理想の視聴者”に愛されたかった。
報道を通して「完璧な夫」を演じるその姿は、利律子の中に「妻としての存在意義」を消し去っていく。
だからこそ、利律子が語る「悔しい」は、愛を求めた最後の言葉だった。
そしてその悔しさが、いつしか“殺意”へと転化していく。
「義父を殺したのは私です」──彼女の自白は、罪の告白ではなく、夫を取り戻すための“最後の愛の叫び”だったのだ。
“愛情”が動機に変わる瞬間──利律子の歪んだ帰巣本能
人は、愛する相手の中にしか居場所を見いだせない時がある。
利律子にとって倉持は、同時に“愛”であり“牢獄”でもあった。
彼女はその牢獄を壊そうとした──だが、壊した先に自分の帰る場所がないことも、知っていた。
事件当夜、利律子はスニーカーを履き、男性のように振る舞った。
その行動には、計画性よりも“自分を夫と同化させたい”という衝動があったように見える。
まるで「彼の罪を自分が背負う」ことで、二人が再び“鏡の中”で繋がることを願っていたように。
そして、真壁が静かに語る。
「夫婦は合わせ鏡です。あなたが倉持さんを映し、倉持さんがあなたを映してきた。どちらかが嘘をつけば、もう一方も歪むんです。」
この台詞は、事件そのものよりも痛烈だった。
“夫婦の嘘”とは、愛を守るために作られる最初の罪だ。
それはいつか、真実を映さない鏡になってしまう。
利律子は最後に、結婚指輪を外し、倉持に突きつける。
その仕草は離別ではなく、赦しだったのかもしれない。
彼女はようやく、自分の罪と夫の罪を“同じ鏡”の中で受け止めたのだ。
──愛とは、ときに赦しよりも残酷な形で終わる。
「悔しい」と言った彼女の心に残っていたのは、憎しみではなく、もう一度“愛されたかった”という未練だった。
父と子の断絶:報道と家族の境界線
第2話「鈍色の鏡」で最も痛烈だったのは、父と子の対話だ。
倉持真人が実父・磯貝信吾を殺した理由は、単なる暴力の衝動ではない。
それは、「報道」という世界の中で、自分が築いてきた“真実”を守ろうとした結果だった。
父・信吾はかつて、世界を飛び回る現場主義のジャーナリストだった。
母を顧みず、家族を犠牲にしてでも“真実”を追った男。
一方、息子・真人はスタジオからニュースを届ける「象徴的な報道者」。
同じジャーナリズムに身を置きながら、彼らは正反対の“真実”を信じていた。
父にとって真実は「現場に転がっているもの」だった。
息子にとって真実は「カメラの前で編集されたもの」だった。
──二人の間には、埋めがたい断絶があった。
「杖をつけば歩けるだろ」──暴露される息子の偽装
父が息子を見限るきっかけとなった言葉がある。
「お前、杖をつけば歩けるんだろ。そんな嘘で視聴者を騙すのか。」
その瞬間、倉持の中で何かが崩れた。
父にとっての“真実”は、息子にとっての“生きる手段”だったのだ。
車椅子キャスターという「虚構」は、同情ではなく象徴として作られたキャラクター。
社会的信用の象徴であり、同時に彼自身の“防具”でもあった。
倉持にとって、それを暴かれることは、自分の死と同義だった。
だから彼は父に手をかけた。
殺意ではなく、“虚構を守るための本能的な行動”だった。
彼が語る「父は僕の部屋で寝ていた」──この一言にも象徴性がある。
父が息子の部屋、つまり「報道の世界」に踏み込んだ瞬間、彼らの関係は終わった。
父は報道を信仰のように扱う息子の世界を壊し、息子は父の“古い真実”を拒絶した。
嫉妬か愛か、父の沈黙が意味したもの
信吾のキャラクターは、単なる「毒親」では終わらない。
彼は息子に嫉妬していた──それは確かだ。
だが同時に、彼の沈黙には愛が滲んでいた。
ラスト近く、真壁が語る台詞がある。
「お父さんは嫉妬なんかしていません。あなたを立派なジャーナリストにしたかっただけです。」
この一言で、物語の重心が静かに転がる。
父が最後に口にした「嘘で塗り固めた人生」という言葉は、皮肉ではなく“遺言”だった。
「報道という鏡に映るお前が、いつか本当の自分を見つけられますように」と。
父が最後に食べた「親子丼」は、ただの食事ではなかった。
それは象徴的な“和解の儀式”だったのだ。
親と子が一つの器で混ざる──そのメタファーを、倉持は最後まで理解できなかった。
報道とは、事実を切り取る行為だ。
だが、切り取られた真実には、いつも「語られなかった痛み」がある。
信吾はそれを知っていた。
そして、息子が“報道”という名の仮面の下で息をしていることにも気づいていた。
だから、父は挑発した。
「鏡の中にいるお前を、壊せ」と。
その挑発を本気で受け止めた息子は、父を殺し、同時に“嘘の自分”をも殺した。
しかし、真実は逆だった。
壊した鏡の破片には、父の顔ではなく、自分自身の姿が映っていたのだ。
──「報道」と「家族」は、どちらも“信頼”で成り立つ世界だ。
だがその信頼が一度ひび割れれば、どちらの世界も同じ結末を迎える。
鏡のように割れ、鋭く、人を傷つける。
真壁有希子が事件の結末を告げるとき、静かに放たれる一言がすべてを締めくくる。
「真実を伝えるってことは、自分の嘘とも向き合うことなんです。」
父と子の断絶は、報道と現実の断絶でもあった。
そしてそれを繋ぎ直す役目を担うのが、いつも“取調室”という小さな空間なのだ。
真壁有希子が見抜いた“鏡の真相”
『緊急取調室2025』第2話「鈍色の鏡」で、最も印象的だったのは、天海祐希演じる真壁有希子の“沈黙”だ。
彼女は言葉をぶつけるのではなく、相手に自分の言葉を返させる。
その瞬間、取調室は“尋問の場”ではなく、“自己対話の鏡”に変わる。
倉持真人という男は、報道を通して“真実”を映すはずの人間だった。
しかし、彼が本当に映していたのは、社会に向けた“自分の虚像”だ。
真壁は、その鏡の曇りを拭い取るようにして、彼の心を剥がしていく。
「あなたは父を殺したんじゃない。あなたが殺したのは、自分の中の嘘ですよ」
──この言葉に、彼女の哲学が凝縮されている。
立ち上がる倉持──“報道の正義”は誰のものか
クライマックスで、倉持はついに立ち上がる。
車椅子のキャスターが“立つ”瞬間は、彼の虚構が崩れ落ちる瞬間でもあった。
社会が称賛した「車椅子の報道者」というブランドは、真実を隠すための装置にすぎなかった。
だが、彼が立ったとき、有希子の目には“赦し”の光が宿る。
なぜなら、その行為こそが「真実を直視する勇気」だったからだ。
報道は、社会を映す鏡だ。だが、その鏡を覗く覚悟がない人間に、真実は語れない。
真壁は倉持に問いかける。
「あなたの報道は、社会を映していたんですか? それとも、自分を守るための照明でしたか?」
この質問は、報道だけでなく、私たち視聴者にも突き刺さる。
SNSの発信、企業の広告、ニュース番組──誰もが“自分を正しく見せたい鏡”の中に生きている。
真壁の言葉は、それを暴くナイフのように鋭い。
倉持は沈黙する。
だがその沈黙は、敗北ではなく“覚醒”だった。
彼はついに理解する。
「報道とは、誰かに見せるためのものではなく、自分の嘘を映すための鏡なんだ」と。
「夫婦は合わせ鏡」──キントリが突きつけた倫理の境界
事件の真相が明らかになった後、真壁は利律子に静かに語りかける。
「夫婦は合わせ鏡です。あなたが映す倉持さんが歪めば、倉持さんの鏡も歪む。」
この一言が、ドラマ全体を貫く主題そのものだった。
“合わせ鏡”──それは人間関係の本質だ。
私たちは誰かを通してしか、自分を見られない。
だから、愛の歪みも、憎しみも、結局は“自分自身の投影”なのだ。
真壁は、夫婦の歪んだ鏡を修復することはできなかった。
だが、二人の沈黙の中に、“もう一度自分を映し直す機会”を残した。
取調室の光が、まるで新しい鏡面を磨くように、二人の顔を照らす。
そして真壁の瞳には、一瞬の哀しみが映る。
彼女自身もまた、かつて“夫婦という鏡”を失った人間だからだ。
だからこそ、誰よりも優しく、誰よりも鋭い。
事件が終わったあと、梶山が呟く。
「また大騒ぎになるかもな……」
真壁は少し笑って言う。
「鏡が割れたら、また磨けばいい。映したいものがある限りね。」
この言葉が、“キントリ”という物語の魂だ。
真実とは、完全に映る鏡ではなく、曇りながらも光を反射し続ける存在。
真壁有希子は、そんな不完全な人間の“光と影”を照らすために、今日も取調室に座り続けている。
──鏡の中に映るのは、他人ではなく、自分。
その事実に気づいたとき、人はようやく「真実」と向き合えるのかもしれない。
社会が映る“鈍色の鏡”:報道・虚飾・SNS時代の告白
「真実を語ること」と「正しく見せること」は、似て非なる行為だ。
『緊急取調室2025』第2話「鈍色の鏡」が描いたのは、個人の罪ではなく、“現代という社会全体の鏡”だった。
報道番組のキャスターである倉持真人は、父を殺したときだけでなく、カメラの前に立つたびに“別の自分”を演じていた。
それはニュースキャスターという職業の宿命でもあり、現代人の縮図でもある。
私たちはみな、SNSやメディアという鏡の前で、“理想の自分”を演じ続けている。
──けれど、その鏡が鈍く曇り始めたとき、何が映るのか。
それが、この物語が投げかけた最大の問いだった。
「見られること」に依存する時代の恐怖
現代社会における“注目”は、かつての“信頼”を凌駕してしまった。
フォロワー数、再生回数、視聴率──数値が人格を証明し、真実を凌駕する。
倉持が「車椅子のキャスター」という虚構を守ったのは、まさにこの“数字の魔力”だった。
彼は社会の期待を裏切らないように、自分自身を裏切り続けた。
「正しく見られること」が「正しく生きること」よりも重要になってしまった。
それは現代人の誰もが抱える病でもある。
真壁有希子がこの事件を通して暴いたのは、個人の偽装ではなく、社会の構造的偽装だ。
「本当の自分を見せたい」という願いと、「他人に好かれたい」という欲望が、同じ鏡の中で衝突している。
倉持はその鏡の割れる音を聞きながら、自分の中の“報道の正義”を失っていった。
SNS社会では、誰もが小さなキャスターであり、誰もが小さな編集者だ。
そして私たちが切り取る“真実”は、いつも自分に都合のいい角度から照らされている。
真壁の視線は、その構造を知っている人間のまなざしだった。
「あなたの真実は、あなたが選んだカメラの角度に過ぎない」
──その言葉が、現代の鏡を撃ち抜く。
真実よりも“映える”正義──現代社会の報道病理
『緊急取調室2025』の脚本が秀逸なのは、倉持というキャラクターを“悪人”として描かない点だ。
彼は、時代の中で歪められた「正義の形」を体現していた。
報道が“視聴率”に縛られ、政治が“支持率”に縛られるように、
個人もまた、“好感度”という鎖に縛られて生きている。
だから彼の嘘は、視聴者の嘘でもあった。
報道を消費する私たちは、いつも「綺麗な真実」だけを求めている。
血の匂いを消したニュース、整えられた正義──それが視聴率になる。
だが、その無臭の世界には、もう“人間の体温”が残っていない。
真壁が倉持に語った最後の言葉が、それを象徴していた。
「あなたは報道を信じていた。でも報道の本当の目的は、正義を見せることじゃない。人を見つめることよ。」
この台詞は、ドラマの中だけでなく、現実のニュースを見つめる私たちへの“問い”でもある。
私たちは本当に「人」を見ているだろうか。
それとも、「正義を演出する報道」という鏡に酔ってはいないだろうか。
報道もSNSも、そしてこの社会も、結局は“誰かの鏡”でできている。
だからこそ、その鏡をどんな手で磨くのかが、今の時代の倫理なのだ。
──“鈍色の鏡”とは、濁っていても光を反射する鏡。
そこに映るのは完璧ではない現実だが、だからこそ、人間らしい。
倉持が割った鏡の破片の中には、社会の姿と、私たち自身の顔が重なって見えていた。
真壁有希子が最後に静かに呟く。
「鏡は、嘘をつく人間がいなければ、ただの光の板です。」
──この言葉がすべてだ。
鏡を曇らせるのは、いつだって人間。
そして、それを再び磨き直せるのも、人間だけなのだ。
取調室の外にある“鏡”──日常に潜む、もう一つの鈍色
ドラマを見ながら、ふと思う。
取調室の鏡って、俺たちの職場や日常にもあるんじゃないかと。
会議の場で、上司の前で、あるいはSNSのタイムラインで──
人はそれぞれ、自分がどう映っているかを気にしながら生きている。
それは報道キャスターの倉持だけの話じゃない。
誰もが“自分を編集して生きる時代”の登場人物だ。
上司に「大丈夫か?」と聞かれて「問題ないです」と答える。
本当は心が擦り切れているのに、笑顔を貼りつける。
その瞬間、人は“鈍色の鏡”の前に立っている。
鏡の中では、素直な自分がぼやけて、他人に見せたい自分だけが鮮やかに映る。
それが今の時代のリアルな“虚構”だ。
「見せたい自分」と「見失った自分」
倉持は報道の現場で“真実”を語っていたが、実際には最も嘘を恐れていた。
だが、それは彼だけの業ではない。
俺たちも、日常の中で似たことをしている。
職場では“できる自分”を演じ、家庭では“穏やかな自分”を演じる。
そのどちらも嘘じゃないけれど、どちらも本当じゃない。
人間関係って、そういう“二重露光”でできている。
そして、どちらの顔にも光を当てられる人が、本当の意味で“立てる人間”なのかもしれない。
倉持が立ち上がった瞬間に感じたのは、罪悪感じゃなくて、
「もう隠さなくていい」という安堵だったように見えた。
誰かに理解されたいと思う気持ちは、いつだって嘘の始まりでもあり、真実の入口でもある。
その曖昧さを肯定する勇気を、このドラマは静かに突きつけてくる。
取調室という“内側”を持てるか
真壁有希子の強さは、正義感じゃない。
彼女は人の嘘を暴くプロじゃなく、「人が嘘をつく理由」を聴ける人間だ。
それはつまり、他人の鏡を覗き込む力。
そして、覗き込んだ自分の顔からも逃げない力だ。
俺たちにもそれが必要だ。
仕事や人間関係に揉まれて、自分を見失いそうなときこそ、
心のどこかに“取調室”を持っておくべきだ。
静かに自分を問い詰められる場所。
そこに映るのは、かっこよくも、美しくもない顔。
けれど、その顔だけが、まだ生きている証だ。
──鏡は誰の前にもある。
問題は、それを見ようとするか、見ないふりをするかだけだ。
倉持も利律子も、そして俺たちも、
鈍く曇った鏡の中に、まだ映っている。
【緊急取調室2025】第2話「鈍色の鏡」まとめ:鏡の中の罪を見つめ直す
『緊急取調室2025』第2話「鈍色の鏡」は、殺人事件を描きながら、最終的には「自分をどう映すか」という人間の根源的な問いに行き着いた。
登場人物たちは誰もが嘘をついたが、それは他人を欺くためではなく、自分を保つための嘘だった。
車椅子キャスター・倉持真人。
彼は“立てる男”でありながら、“立つ勇気”を持てなかった。
妻・利律子は、愛されたいという渇望を“自白”という形でしか表現できなかった。
そして父・信吾は、息子を信じたかったのに、最後まで厳しさでしか愛を伝えられなかった。
それぞれが自分の鏡の前に立ち、曇りを拭えないまま生きていた。
だが、取調室という密室の中で、真壁有希子が放った光が、その鏡を少しだけ照らした。
その光は、彼らの罪を赦すものではない。
しかし、もう一度“自分を見つめ直す機会”を与えるものだった。
虚構に酔う人間、真実を問う刑事
このドラマが強いのは、勧善懲悪の物語に留まらないことだ。
真壁有希子は、犯人を断罪するために取り調べをしていない。
彼女は、人間の中に眠る“真実”を掘り起こす。
その姿勢が、観る者に“痛みのある正義”を感じさせる。
倉持にとって、報道は「正義」だった。
だが、彼の正義は、いつしか“演出された理想”へと変わっていく。
そしてそれは、報道を消費する我々にも突きつけられた警告だった。
「真実を求める側にも、嘘を選ぶ責任がある」──このテーマが、鈍色の鏡に反射していた。
有希子の冷静な声が響く。
「あなたが映していたのは、社会じゃない。あなたの恐れよ。」
それは倉持だけではなく、私たち視聴者への言葉でもある。
SNSで他人の正義を“リポスト”する私たちも、知らぬ間に自分の恐れを鏡に映している。
“立てる容疑者”が示した、現代の報道への警鐘
「車椅子の容疑者は大抵立てる」──レビューサイトの言葉が象徴的だった。
だがその皮肉の裏には、“立つ”ことの意味を問うメッセージが隠されている。
立つとは、真実を直視すること。
自分の弱さを認め、それでも光の中に出ること。
倉持は最後に立ち上がった。
それは“報道者”としてではなく、“ひとりの人間”としての再生だった。
父を殺した罪は消えない。
だが、その瞬間だけ、彼は鏡の中で本当の自分を見ていた。
そして、真壁有希子は静かに呟く。
「鏡は、どんなに曇っていても、光があれば必ず映ります。」
この言葉が、すべての救いだった。
人は嘘をつく。逃げる。隠す。
それでも、光を求めて鏡を磨き続ける限り、再び“真実”を映すことができる。
──「鈍色の鏡」は、完璧な反射をしない。
だがその濁りこそが、人間の生きた証だ。
そして、そこに映る“私たち自身の影”を見つめるとき、ようやく物語は終わる。
第2話は、事件を超えて、“見ること・映すこと・信じること”の意味を問いかけた。
それは、現代を生きるすべての視聴者にとっての、静かな鏡の物語だった。
- 『緊急取調室2025』第2話「鈍色の鏡」は、“真実と虚構”を鏡で描いた回
- 車椅子キャスター・倉持真人の「嘘」と「立つ勇気」が物語の軸
- 妻・利律子との合わせ鏡のような関係が、愛と罪を映し出す
- 父・信吾との断絶は、報道と家族の間にある「真実の境界線」そのもの
- 真壁有希子は、取調室を“心の鏡”として人の嘘と向き合う
- 社会全体が“映える正義”に酔う現代への静かな警鐘
- 取調室は「自分を問い直す場所」として象徴的
- 鏡の曇り=人間の弱さを肯定し、再び光を映す希望で締めくくられる
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