Netflixで話題沸騰中の韓国ドラマ『イカゲーム3』第5話は、シリーズ全体のテーマを“命と選択”で再定義する怒涛の展開。
ギフンが背負った贖罪、フロントマンの涙、そして赤ちゃんが優勝するという衝撃的なラストが迫る中、第5話はシリーズ最高レベルの“感情と構造の交差点”に突入する。
この記事では、第5話の核心ネタバレと共に、「なぜギフンは殺さなかったのか?」「人間性は死のゲームで守れるのか?」という問いに、キンタの視点で切り込みます。
- ギフンとフロントマンの最終的な対比構造
- 「守る」という行為に潜む人間の欲望と揺らぎ
- 赤ちゃん優勝が示す未来と倫理の余白
ギフンはなぜ誰も殺さなかったのか?──“人間であること”を選んだ理由
ギフンはナイフを手にしていた。
それはフロントマンが用意した“ラスト・チャンス”だった。
寝静まった参加者たちを今のうちに殺せば、赤ちゃんと一緒に生き残れる──それは確かに、勝利の切符だったはずだ。
幻影のセビョクが語りかけた「おじさんはそんな人じゃない」
だが、ギフンの手は動かなかった。
その刹那、彼の前に現れたのは幻影のセビョクだった。
「おじさんは、そんな人じゃない」──その言葉は、単なる幻覚ではない。
それはギフンの中に微かに残った“人としての記憶”の声だ。
シーズン1で命を落とした彼女が、ここで語りかける意味。それは、ギフン自身が「自分の本質」に引き戻された瞬間だった。
「生き延びる」ことが勝利ではなく、「人間であり続ける」ことがギフンにとっての“最後のゲーム”だったのかもしれない。
ギフンはここで勝ちを捨てたのではない。
人間としての尊厳を、最後まで守る決断をしたのだ。
フロントマンの涙が物語る“信じる側の痛み”
この回でもう一つ印象的だったのが、フロントマンの涙だ。
監視カメラ越しにギフンの姿を見たフロントマンは、確かに目に光るものを浮かべていた。
彼はなぜ涙を流したのか。
それは、かつて自分もギフンのように“人間性”を捨てきれなかったからだ。
シーズン1で“オ会長”に試され、結果として他の参加者を殺して生き残った彼は、その罪を背負ったまま運営側に回った。
ギフンが人を殺せずに立ち尽くす姿は、かつての「イノ自身」を思い出させたのだろう。
それは希望と同時に、苦痛でもあった。
「信じる」ことは時に、自分の弱さを晒す行為だ。
ギフンを信じたフロントマンは、同時に「自分は信じきれなかった」という事実とも対峙させられた。
そう考えると、フロントマンのあの涙は単なる“感情”ではない。
“後悔”と“憧れ”が同居した、極めて複雑な人間の証明だったのだ。
この一連のやり取りには、シリーズ全体のメッセージが凝縮されている。
死のゲームの中でも、人間性を保つことは可能なのか?
ギフンはそれに「YES」と答えた。
そしてその選択が、誰かの心に火を灯し、物語を次の段階へと押し進めていく。
「勝ち方」を選べる者こそが、最後に“勝者”なのかもしれない。
第5ゲーム「大縄跳び」は何を描いたのか?──“生きる意志”と“狂気”の対比
『イカゲーム3』第5話で提示されたゲームは「大縄跳び」。
だが、それはただの遊びではない。
“命を賭けて飛び越える鉄の縄”──その構造が物語っているのは、「生きる理由の強さ」が試される瞬間だ。
ミンスのドラッグ狂とナムギュの破滅
第5ゲームに突入してまず描かれるのは、“狂気の加速”である。
ミンスが橋にドラッグの容器を投げ、それに飛びついたナムギュが足をすくわれて落下──。
このシーンは「欲望に囚われた者の終わり」を、わずか数秒で表現していた。
ナムギュは「飛ぶ」ためではなく、「ドラッグに触れる」ために飛んだ。
つまり、彼の生存意志は、生きるためではなく“依存するため”に存在していたのだ。
この対比は、第5ゲーム全体にわたって巧妙に織り込まれていく。
他の参加者たちは「生き延びるため」に縄を跳び、「人を押し落とすため」に渡る。
一方でミンスとナムギュは、“死の中に快楽”を求めていた。
彼らにとって、このゲームは「自傷のための遊び場」に過ぎなかった。
ギフンの跳躍は“過去の贖罪”への宣言だった
そんな狂気の舞台で、ギフンはまったく別の跳躍を見せる。
彼は足を怪我したジュニに「赤ん坊は任せろ」と言い、1番目に縄を飛んだ。
この「最初に飛ぶ」という選択は、単にクリアを目指すだけではない。
過去に“仲間を守れなかった自分”を乗り越えるための儀式だった。
ギフンの背負う罪──それはデホを殺してしまった後悔、反乱の失敗、そしてジュニたちを守れなかった自責。
その全てを、この一歩で断ち切るように見えた。
まるで「生きて償うこと」を、自らに課したような跳躍だった。
彼の跳躍には、恐怖ではなく決意が宿っていた。
だからこそ、視聴者の心にあのジャンプは焼きつく。
対照的に、96番は渡り切ったあと他の参加者を押して落としていく。
勝つためには何をしてもいい。それがこのゲームの“表のルール”だ。
だがギフンは「人としてどう跳ぶか」という、“裏のルール”を選んだ。
大縄跳びという遊びに仕込まれた、この恐ろしい装置──。
それは生きるための意志が、どのような形で現れるかを試す劇場だった。
狂気の中で、正気を貫いた人間だけが「人間としての勝利」をつかめる。
ギフンはそれを、この跳躍で見せてくれたのだ。
ミョンギの選択が示す「歪んだ正義」──“子どもを守る”は本当か
『イカゲーム3』第5話の核心には、「誰を、なぜ守るのか?」という問いがある。
それを体現しているのが、かつて仲間を裏切り続けてきた男──ミョンギだ。
彼はここで、「この子は僕の子です」と叫び、“守る側”に立つ。
ジュニの死と“守る”という言葉の重み
ジュニが赤ちゃんを産み落としたとき、この物語は一気に別の次元へ移行した。
それまで「個の生存」が賭けられていたゲームに、「次の命」が登場したからだ。
この変化に最も強く反応したのが、ジュニとクムジャだった。
2人は迷路の中で命を賭けて赤ちゃんを守り、ついにジュニは自ら命を落とす。
この選択は、視聴者の胸に深く突き刺さる。
「自分はこれで、この子を守る」──これほど明確で、清らかな“意志”があるだろうか。
対してミョンギの「守る」は、あまりに色が違う。
それは演技であり、計算であり、保身のための「保護」だった。
ミョンギの「この子は僕の子です」が意味する虚構
最終ゲームでギフンと赤ん坊が標的にされかけたとき、ミョンギは言う。
「この子は僕の子です」
──その瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
これは守る者の台詞ではなく、“自分が殺されないための台詞”だった。
第3話までに描かれたミョンギの行動──味方を見殺しにし、自分の利益のために役割を交換してきた過去を思い出せば、この発言の“嘘くささ”は明らかだ。
「守る」という行動が、常に“誰かの犠牲”と引き換えになっている男。
彼にとっては、この赤ちゃんすら「生き残るためのカード」に過ぎないのだ。
本当に守りたかったなら、なぜジュニが死のうとしていたときに止めなかったのか?
なぜ彼は、最後まで「自分だけがクリアする」ルートを選んでいたのか?
──その矛盾は、物語の終盤でギフンとの衝突として表面化する。
ミョンギの「正義」は、常に誰かを利用した上に成り立っている。
それは、正義のように見えて、実はただの“欺瞞”だった。
この対比が残酷なのは、ジュニの「死」が本物の“守る意志”であったことだ。
彼女は命を懸けて、次の命をこの世界につなごうとした。
そしてその意志が、ギフンに受け継がれていく。
一方ミョンギの「僕の子です」という発言は、命を“盾”に使った欺瞞。
同じ「守る」という言葉でも、誰が、どんな動機で口にするかで意味が全く変わる。
この第5話で問い直されたのは、「守ること」と「利用すること」は紙一重なのかという、人間の根源的な倫理だった。
最終章への橋渡し──名簿、裏切り、そしてノウルの覚悟
物語はいよいよ終幕へと向かう中、“運営側の記録”と“個人の記憶”が交差する場面が描かれる。
その中心に立ったのが、ノウル。
彼の選択が、物語を“復讐”から“再生”へと変える転機となった。
データ抹消に込めた“北朝鮮の娘”への鎮魂
ノウルが奪い取った参加者データファイル。
その中に、彼自身の娘──ハン・ソンイの死亡記録があった。
北朝鮮での絶望の記憶と、名前を消された娘の存在。
その事実を目にした瞬間、彼は声も出せないほどの絶望に飲まれる。
だが、そこで終わらなかった。
彼はデータを“破棄”するという選択をする。
これは「事実の否定」ではなく、「事実に支配されない決意」だった。
名簿は、命を記号に変える。
それを破棄することで、ノウルは娘の存在を“人間”として取り戻そうとしたのだ。
記録からの解放が、彼にとっての供養だった。
部隊長との対決で明かされた「臓器売買」の裏構造
ノウルはデータ破棄のため、島の最上階へと向かう。
そこで立ちはだかったのが部隊長。
彼は語る──「俺も北朝鮮で腎臓1つのために大切な人を失った」と。
ここで明かされるのが、『イカゲーム』に隠されたもうひとつの構造。
ゲームはただの殺し合いではなく、“臓器収集”という非人道ビジネスの温床だったのだ。
敗者の死体は売買され、支配者の延命に使われる。
命の価値が、札束と交換されていく構図。
その全てに、ノウルは銃を向ける。
しかし部隊長もまた“被害者”だった。
腎臓と引き換えに、愛する人を差し出さざるを得なかった彼は、いまやシステムの歯車になっていた。
──ここには善も悪もない。
ただ、運営側に搾取されてきた者同士が、立場を違えて撃ち合う現実があるだけだ。
ノウルは脇腹を刺されながらも、なんとか部隊長を殺害する。
そして、最上階で名簿を破壊する。
それは“記録”よりも、“記憶”を信じる決断だった。
この瞬間、ノウルはようやく復讐者ではなく「生き残った者」として物語に再登場する。
娘は死んだ。名前も、存在も、消されかけた。
だが、自分の手でそれを終わらせる。
この行動こそが、ノウルの“覚悟”だった。
フロントマンとギフン、二人の終着点はどこか?──“運営側”と“参加者”の交差点
『イカゲーム3』第5話で、最も張り詰めた空気が流れたのは、フロントマンとギフンが再び対峙する場面だ。
一方はゲームの運営者。もう一方は、血と涙の果てに辿り着いた参加者。
2人の「立場の差」は、もはや善悪では測れない。
ギフンに託されたナイフは“過去の罪”を刻む刃か
第5話の終盤、フロントマンはギフンに1本のナイフを渡す。
「夜のうちに他の参加者を全員殺せば、お前と赤ん坊は助かる」──。
その刃には、フロントマン自身の過去が封じ込められている。
かつて彼もこの提案をされ、生き延びるために他者を殺した。
つまりこのナイフは、「過去の罪を次に継がせる道具」でもあった。
それをギフンに渡すことは、“人間性を諦めること”を強いる儀式だったのかもしれない。
だが、ギフンはその刃を使わなかった。
殺すどころか、自らを刺し、「俺たちは馬じゃない。人間だ」と叫び、落下していった。
これはただの自死ではない。
その刃に「過去の繰り返しを断つ意志」を刻んだ、最後の反逆だった。
ギフンの自死は「拒絶」ではなく「最後の主張」
ギフンの行動を、“逃避”や“絶望”で片づけることはできない。
むしろ彼は、すべてを受け止めた上で「それでも殺さない」ことを選んだ。
この選択は、かつて誰も見せなかった“希望”の形だった。
この世界に蔓延する論理──「勝つために殺せ」「生きるために裏切れ」──に対し、ギフンは命を引き換えにNOを突きつけた。
彼の死は、システムの敗北だった。
それを見ていたフロントマンの目にも、涙が浮かんでいた。
人間であることを捨てた男が、人間のまま死ぬ者を見送る。
その視線の交差にこそ、物語最大の皮肉と余韻がある。
フロントマンはギフンを殺さなかった。
むしろその死を“敬意”とともに見届けた。
だからこそ彼は、赤ん坊を救出するという“運営側のルール違反”に踏み切る。
ギフンの死は、ただの脱落ではなかった。
ゲームの規範を揺るがす、システム全体へのメッセージだった。
そしてその波紋は、ノウルやジュノ、さらには視聴者の胸にも届いている。
「それでも、人は人のままで死ねる」──。
それを証明したギフンの落下は、物語全体の“倫理の逆転”として、深く焼きついた。
誰かを“守る”と言いながら、自分が救われたかった人たち
第5話で描かれた「守る」という言葉には、ずっと引っかかるものがあった。
ジュニは、赤ちゃんを守るために命を投げ出した。
クムジャは、息子のヨンシクを“殺される役割”から救おうとして、自らを犠牲にした。
そしてミョンギは、「この子は僕の子です」と叫んだ。
同じ「守る」でも、それぞれ全く違う色をしている。
「守りたい」は、時に「自分を許したい」なのかもしれない
クムジャやミョンギを見ていて思った。
あの人たちは、本当は誰かを守ることで、自分を“もう一度やり直したかった”んじゃないか。
子を守る親という正しい姿に戻ることで、これまでの後悔や傷をなかったことにしたかった。
つまり、「守る」という行動の裏側にあるのは、“自分自身を救いたい”という願いだったんじゃないかと思う。
これは職場や家庭でもある感覚だ。
誰かをサポートしたい、助けたい──そう言って動くとき、
実は自分の「役に立てる自分でいたい」「必要とされたい」という気持ちに支えられていたりする。
「守る」は一方通行じゃなくて、いつも揺れている
ジュニの命が終わる瞬間、赤ちゃんに向けた視線はまっすぐだった。
でもミョンギの「守る」は、どこか迷っていて、どこか計算していた。
それが人間だと思う。
誰かを守る行為には、常に“揺らぎ”がある。
完全な善意なんてものは、たぶん少なくて、
ちょっとだけ自分のためでもあって、それでも一歩踏み出したとき、初めて本物になる。
だからミョンギが「この子は僕の子です」と言ったとき、
どこか嘘っぽくて、でも、ほんの少しだけ本気も混ざっていた気がした。
その混ざりものの感情が、人間らしくて、苦しくて、見ていて忘れられなかった。
【イカゲーム3 第5話まとめ】命が消費される世界で、人間性を取り戻す闘い
第5話は、ただのクライマックス前の通過点ではなかった。
命を「ゲームのコマ」として扱うこの世界で、人間性を死守しようとした者たちのレクイエムだった。
そして、皮肉にも赤ん坊が優勝者となったことで、最も深い問いが私たちに突きつけられた。
赤ちゃん優勝は“未来への布石”か、“絶望の象徴”か
ジュニの赤ちゃん、つまり「222番」は、参加者全員が消えた後に唯一生き残った存在として優勝者となる。
その結末に、視聴者は希望と不安、両方の感情を抱くことになる。
「未来が託された」と感じる人もいれば、「この世界では命を知らぬ者だけが生き残る」という残酷な寓話だと受け取る人もいるだろう。
それはまさに、この作品の二重構造を象徴する終わり方だ。
ギフンが命と引き換えに繋いだ“バトン”は、まだ言葉も知らぬ命に渡された。
それは希望か?それとも、もう選択肢すら与えられない絶望の象徴か?
その答えは視聴者に委ねられている。
キンタ的考察:この作品が突きつけた「希望の在り方」とは
この第5話を見終えて、私の中に残ったのは言いようのない静かな怒りと、しずかな光だった。
それは怒り=人間性が「商品」になっている構造そのものへの憤り。
だが同時に、その中でも“あらがい”、命を差し出しながらも尊厳を守る者たちの美しさに、目を奪われた。
ギフンの死、ノウルの決断、ジュニの出産。
全てが“無意味な犠牲”のようでいて、それぞれが「人間であることを手放さない」戦いだった。
このドラマが訴えていたのは、勝ち負けではない。
「自分がどう在るか」に対して、どれだけ誠実でいられるかという問いだった。
イカゲームは“選ばれなかった人生たち”の群像劇だ。
だが第5話において、私は初めてこう思った。
この作品は、選ばれなかった者たちが「選び直す物語」なのだと。
ギフンは選び直した。ジュニも、ノウルも、フロントマンさえも。
たとえ死が待っていようとも、「選び直す権利」だけは誰にも奪えない。
だからこの物語は終わらない。
なぜなら、私たちもまた、この世界で選び直すことができる存在だからだ。
第5話は、その“余白”を、血と涙で開いてくれた。
- 『イカゲーム3』第5話のネタバレと感情分析
- ギフンが人間性を貫いて自死を選んだ理由
- 大縄跳びゲームに見る狂気と意志の対比
- ミョンギの「守る」が抱える欺瞞と自己都合
- ノウルが記録を破棄することで得た救い
- フロントマンとの対比で浮かび上がる倫理の分岐
- 赤ちゃんの優勝が象徴する希望と不確かさ
- 「守る」という行為の裏にある人間の揺らぎ
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