書くってのは、命懸けだ。
世に風刺をぶち込めば、そりゃ火の粉も降ってくる。
だが、命張っても書くやつらがいた。
『べらぼう』第36話は、そんな“命より筆”な奴らの、最期の咆哮だ。
- 『べらぼう』第36話に込められた戯作者たちの覚悟
- 春町・喜三二・東作それぞれの死と生き様の意味
- 笑いと風刺が時代を動かす力を持つという事実
定信、ぶちギレの巻
笑いは時に、人を救い、時に、人の怒りを買う。
蔦重が売り出した黄表紙が、ついに越えてはいけない一線を越えた。
第36話、最初の山場は――江戸の改革者・松平定信が、自分への風刺に気づき、激怒する場面だ。
おうむ返しがブーメラン。定信、地雷を踏む
「皮肉ってねえですよ」――そう飄々と返す蔦重の姿に、誰もが笑った。
が、その風刺の相手・越中守様こと松平定信は、笑ってなどいなかった。
むしろ、怒りに煮えたぎっていた。
定信は、戯作『鸚鵡返文武二道』を読んでいた。
これは、彼が心血を注いだ「文武奨励策」がことごとく空回りする様を、見事に風刺した作品。
たしかにユーモア満載だったが、内容は痛烈。
読み終えた定信は、無言のまま、ページをビリビリに破り捨てた。
彼の中で何かが、ぷつりと切れた瞬間だった。
「これは謀反と同じである!」という怒号と共に、蔦重が出版した三作の黄表紙は即時絶版、奉行所が動き出した。
あれだけ売れてた黄表紙が、まさかの焚書
蔦屋へ奉行所が乗り込むと、問答無用で棚から書物を引き剥がし、押収していった。
『鸚鵡返文武二道』も、『天下一面鏡梅鉢』も、『文武二道万石通』も、すべてが表から姿を消した。
「こりゃ越中守様に直に訴える良い折だ」と蔦重が言った時、誰もが息をのんだ。
普通なら黙って嵐をやり過ごす。
でも、蔦重は違う。
彼にとって黄表紙はただの商売道具じゃない。
江戸の民に笑いを届ける“武器”だった。
しかも、権力に媚びず、民の声をすくうそのスタイルは、彼なりの忠義だったのだ。
ところが、鶴屋はそれをたしなめた。
「老中ってのは、田沼様のように町人と話すことはしない」
「派手に動けば、他の問屋まで潰されかねない」
江戸という都市は、権力と庶民の絶妙なバランスの上に成り立っている。
それが今、グラつき始めた。
黄表紙は「毒」か?それとも「薬」か?
定信の怒りには、それなりの理由があった。
文武奨励、倹約令、財政再建――どれも真面目に国を思っての政策だった。
しかし、その実直さが空回りし、民の暮らしに重くのしかかったのも事実。
そんな中で、風刺という形で世を映す黄表紙が出た。
定信にしてみれば、自分の努力を笑いものにされたも同然だ。
「忠義とは、持ち出しでも黙ってやることだ」と語る定信に、現実は冷たかった。
家臣たちは持ち出しの苦しさに音を上げ、賄賂が再び蔓延し始めていた。
田沼時代と同じ地獄が、また口を開けていたのだ。
――「そなたこそが田沼病と笑われはせぬか?」
一橋治済の皮肉が、定信の胸に突き刺さる。
それでも定信は、自らの正義を信じ、黄表紙を「毒」と断じた。
だが、本当にそうだったのか?
それは“笑い”を知る者たちの視点では、まったく違って見えていた。
民は、ただ笑いたかった。
苦しい世の中を、笑いでやり過ごしたかった。
その笑いを奪われたとき、民の心は、いったいどこへ向かうのだろうか。
喜三二、静かなる撤退
“筆を折る”という言葉が、これほど重く、これほど粋だったことがあるだろうか。
朋誠堂喜三二――本名、武士。身分を隠し、戯作者として笑いと風刺を届けてきた男が、ひとつの決断を下す。
だがそれは、完全なる終幕ではなかった。名を捨て、筆を隠し、新たな始まりへと向かう“粋な撤退”だった。
武士、笑いに生きて、武士として帰る
蔦重のもとに、春町と共に現れた喜三二。
彼は淡々と語る。「素性がバレた。国へ帰る」
それは逃げでも、敗北でもなかった。
あくまで“武士のけじめ”として、戯作の世界に背を向ける。
だが、その表情には悔いがなかった。
なぜなら、彼は筆の力で、世の中に何かを届けるという本懐をすでに果たしていたからだ。
奉行所に名を知られ、江戸の風刺を打ち続けるには危険が増した。
だが喜三二は、どこか達観していた。
「笑わせた。それでいいじゃねぇか」――そんな声が聞こえてくるようだった。
名を変えりゃ、また書ける。戯作の魂は死なない
送別会の席、駿河屋で開かれたささやかな宴。
そこに現れたのが、山東京伝こと北尾政演。
彼が喜三二に向かってこう頼んだ。
「“北里喜之介”でサインをくださいな」
会場が一瞬静まり返る。
しかし、それは次の瞬間、笑いと拍手に包まれた。
つまり、こういうことだ。
- “朋誠堂喜三二”は筆を置いたが、
- “北里喜之介”として、また筆を取るかもしれない。
笑いの中にこそ、希望がある。
人は死ぬが、筆は死なない。
名を変え、場所を変え、戯作の灯火は受け継がれていく。
そして蔦重たちは、それを誰より理解していた。
「喜三二さんがまた書いてくれるなら、俺ぁそれでいい」
蔦重のその言葉が、すべてを物語っていた。
“戯作者の魂”は、名刺じゃなくて、覚悟で決まる
江戸の市井に根差した“笑い”は、ただの娯楽じゃない。
権力の矛盾を暴き、弱き者の味方をする。
だからこそ、命がけになる。
喜三二が筆を置くことで守ったもの。
それは、春町の逃げ道であり、蔦重の言論であり、江戸の“余白”だった。
「それでも、また書く日が来るかもしれねぇ」
名を変え、姿を変えてでも、筆が生き延びるなら、それでいい。
“名刺”じゃない、“覚悟”が、戯作者を決める。
それが、喜三二が背中で教えてくれたことだった。
あの静かな撤退にこそ、武士と戯作者、両方の魂が宿っていた。
春町、まさかの“本懐”
「逃げようと思えば、逃げられたはずだ」
でも春町は、選ばなかった。武士として、戯作者として、“死”を選んだ。
そこにあったのは絶望じゃない。むしろ、人生を締めくくるための“最後の演出”だったのかもしれない。
隠居のはずが、まさかの切腹
春町は、定信からの呼び出しを受けた。
「このままでは主君に迷惑がかかる」と察した彼は、蔦重に相談する。
「いっそ、ほんとに死んじまうってのはどうです?」
最初は冗談だった。
でもそれが、最も潔く、美しい終わり方だと気づいてしまった。
主君に申し出ると、彼は言った。
「そなたの筆が生き延びるのであれば、頭などいくらでも下げようぞ」
その温かい言葉に、春町は平伏し、涙をこらえる。
このシーンは、第36話で最も美しい対話だった。
春町は死ぬと決めた。
でも、それは逃げではなく、“表現者の最期”だった。
辞世の句と豆腐の角──ふざけて、泣かせる
やがて、蔦重たちの元に届いたのは、春町切腹の報せ。
皆、言葉を失った。
ていの話では、蔦屋耕書堂の前で立ち尽くす春町に声をかけたら「豆腐でも買って戻るとする」と言って去ったという。
春町の辞世の句はこうだった。
我もまた 身はなきものとおもひしが
今はの際は さびしかり鳧けり
“鳧(けり)”は鴨。
第36話のサブタイトル「鸚鵡のけりは鴨」につながる、見事なオチだ。
しかし、唐来三和が書き換えた。
我もまだ 実は出ぬものとおもひしが
今はの側が 恋しかり鳧けり
これは、お腹を壊した句。
死者を冒涜するかのような改変に、仲間たちは激怒した。
が、三和は叫ぶ。
「ふざけねえとやってられねえじゃねえかよ!」
そのとき、蔦重が気づく。
春町の頭には、豆腐の欠片が乗っていた。
「豆腐の角に頭ぶつけて死ぬ」
まさか、本当にそれを“再現”したのか?
ふざけて、ふざけて、最後までふざけて逝く。
それが春町という男だった。
真面目すぎた男の、最期の“ふざけ”
春町は真面目だった。
忠義を重んじ、武士としての責任を全うしようとした。
でも、それと同時に、戯作者として、ふざけていたかった。
だからこそ、豆腐で死んだ。
いや、“豆腐で死んだことにした”。
最期の瞬間まで“笑い”を仕込んで、逝った。
蔦重たちは、涙を流しながら笑った。
笑って、泣いて、それでも笑って、春町の魂を送った。
それは江戸の“粋”であり、“覚悟”であり、“愛”だった。
源内の影、東作の死、そして蝦夷地
第36話は、個の終わりと、時代の転換点が交差する。
平秩東作の死、アイヌ蜂起、そして幕政の変化。
そこに浮かび上がるのは、一人一人の命の灯が、巨大な流れに呑まれていく切なさだった。
源内が迎えに来た?東作、笑って逝く
重病の報せを聞き、南畝、蔦重、市兵衛の三人が東作を見舞う。
布団にくるまるその顔は青く、身体は骨のよう。
けれど、口だけはまだ達者だった。
「源内が呼んでる気がしてな」
ふっと、そんな冗談を言う。
“あの男”が好きだったのだ。破天荒で、常識外れで、痛快で。
源内もまた、時代に殺された。
笑わせすぎた罪、やりすぎた自由。
東作も、その“後を追う”ように逝った。
彼の目には、何が映っていたのか。
仲間と過ごした吉原の夜か、笑いで泣かせた黄表紙か。
それとも、笑って死んだ春町の背中か。
アイヌ蜂起と、風刺が火をつけた蝦夷問題
一方、江戸では蝦夷地を巡る動きが本格化していた。
クナシリ・メナシの戦い──アイヌたちが苦境に立ち上がった。
定信は松前藩を排し、蝦夷地を幕府直轄にすることを決定。
その理由の一端に、ある“黄表紙”があった。
恋川春町の『悦贔屓蝦夷押領』。
田沼意次の功績を皮肉交じりに持ち上げ、定信の政治を遠回しに貶したその内容。
風刺が、まさか政策に影響を与えるほどの力を持っていた。
それは、権力にとっては恐怖だったろう。
だが、庶民にとっては希望だった。
言葉が力を持つ。
戯作が、ただの戯れではなくなった瞬間だった。
定信の焦りと孤独──「田沼病と笑われぬか?」
一橋治済が定信に言う。
「越中守、お主こそ“田沼病”と笑われぬか?」
皮肉だ。皮肉以外のなにものでもない。
理想に生き、清廉を貫いたはずの定信。
その改革が空回りし、田沼意次と同じ道を歩んでいるという指摘。
彼の胸の奥に、どれほどの焦りが渦巻いていただろう。
春町を取り調べるよう命じたのも、怒りではない。
自分の正しさを、誰かに証明したかっただけかもしれない。
だが、その矛先が、命を懸けて笑いを描いた者たちに向けられてしまった。
それはもう、“笑い”では済まされなかった。
平秩東作の死。
春町の死。
定信の孤独。
この第36話は、時代の断末魔だ。
言葉を操る者たちが去り、言葉を憎む者が政を執る。
そんな江戸の“未来”の訪れを、我々は今、目撃している。
「お前の筆は死んでねぇ」──蔦重の慟哭
言葉で人を笑わせ、泣かせる。
それが、蔦屋重三郎が信じてきた“戯作”の力だった。
けれど今、その言葉を紡いできた仲間たちが、次々と逝く。
春町が死に、東作が逝き、蔦重は一人になった
春町の死は、戯作界に大きな穴を開けた。
追い打ちのように、東作も源内の“幻”に呼ばれるようにして逝った。
仲間たちが次々と筆を折り、命を終えていく中、蔦重だけが、まだこの世に残っていた。
彼が信じていたもの──
笑いの力。言葉の刃。紙の上で誰かの心を変える力。
それが、今や時の権力に“焚書”されようとしていた。
店には、人が来ない。
黄表紙はすべて回収され、戯作界は一気に“冬”を迎えた。
「笑いなんざ、もういらねぇってのか…」
蔦重の言葉は、どこか宙を彷徨っていた。
残された筆の意味──「死んだのは、お前じゃねえ」
春町の辞世の句に感動した市兵衛が、「まるで芝居のよう」とつぶやく。
すると、蔦重が声を荒げる。
「ふざけんな!」
「死んだのはな、春町じゃねえんだよ!お前らの“筆”の方だ!」
この台詞が、第36話で最も胸に刺さった。
春町は命を懸けて筆を握っていた。
笑いを、風刺を、民の声を、紙に込めていた。
死んでいったのは、その覚悟だ。
筆を握る“魂”を持った者たちが、いなくなること。
それこそが、最も恐ろしい死だと、蔦重は知っていた。
だからこそ叫んだ。
「死んだのは春町じゃねぇ、死んだのはお前らの筆だ!!」
その言葉に、南畝も、市兵衛も、凍りついた。
誰より笑っていた蔦重が、誰より泣いた。
その涙は、仲間の死ではなく、言葉が殺されていく現実への慟哭だった。
それでも言葉は残る。誰かが書き続ける限り
黄表紙は焼かれ、戯作者たちは去った。
でも、物語は終わらない。
なぜなら、言葉は“次の誰か”に託されていく。
北尾政演がいる。
南畝がいる。
いや、遠くない未来、落語、漫才、小説、映画…あらゆる表現の中に、春町の筆は生きている。
蔦重は、それを信じていた。
自分たちが世に送り出した言葉たちは、死なない。
笑って、怒られて、それでもまた笑って──
いつか誰かの胸を突く“一本の筆”になっている。
それが“言葉の宿命”であり、
“戯作”という文化の、しぶとさだった。
ふざけて、ふざけて、それでも守った──唐来三和という「道化」
あの場面、笑ったか?
辞世の句を勝手に書き換えて、しかも腹壊したみてぇな句にして、周囲の怒りを買ったあの男。
唐来三和。
あいつをただの無礼者で済ませるには、惜しすぎる。
むしろ、この回で一番“春町の魂”を受け取っていたのは、あいつかもしれねぇ。
「ふざけねえとやってられねえじゃねえかよ」──これが答えだった
辞世の句を書き換えるなんざ、不謹慎の極み。
そりゃ蔦重も、市兵衛も、怒鳴るだろう。
でも唐来三和は言った。
「ふざけねえとやってられねえじゃねえかよ!」
あのセリフ、笑いじゃねぇ。
あいつなりの“鎮魂”だった。
春町は、死ぬ間際まで「ふざけて」いた。
豆腐の角に頭ぶつけて死んだって、どこの落語だよ。
でもそれが、あいつの美学だった。
だったら、三和はそれを正面から受け止めて、笑い飛ばしてやったんだ。
死んだ奴の“芸”に、ちゃんと乗っかった。
こいつ、まさかの春町のラスト漫才の“相方”じゃねぇか。
ふざけ続ける者は、実は一番まともだ
怒った南畝、涙を流した蔦重。
それらはもちろん本物の感情だ。
だけど唐来三和の「ふざけ続ける」という行動。
それは、覚悟がなきゃできない。
空気を壊す。怒られる。嫌われる。
でも、それでもやる。
死んだ春町に、ちゃんと笑ってもらうために。
実際、蔦重も最後に豆腐の欠片を見つけて、ふっと笑ったじゃねぇか。
つまり、唐来三和の“ふざけ”は届いた。
あいつは道化じゃない。ふざけという仮面をかぶった、真面目な送り人だ。
ふざけ続ける奴は、実は一番まとも。
誰より人の死をわかってて、誰より「その死にふさわしい笑い方」を探してる。
唐来三和、ただのボケじゃねぇ。
この物語の“温度”を守った奴だ。
まとめ──命を削って、笑わせた奴らがいた
『べらぼう』第36話は、ただのドラマじゃない。
言葉で立ち向かい、筆で世を撃ち抜いた男たちの鎮魂歌だった。
春町は豆腐の角で死に、東作は笑いながら源内を追いかけ、喜三二は名を捨てて筆を隠した。
そして、蔦重が一人残された。
笑わせるために命を懸けた奴がいて、
それを守ろうと怒鳴り、叫び、泣いた奴がいた。
風刺は、武器だ。
だけど、それを手に取るには覚悟が要る。
この回は、その覚悟を全身で見せた者たちの“遺言”みたいな一話だった。
そして我々にも、問いが投げられている。
- 言葉は、まだ信じられるか?
- 笑いは、人を救えるか?
- 筆を持つって、どういうことか?
あんたが何かを書こうとするとき。
ふと、春町の辞世が浮かぶかもしれない。
あるいは、豆腐の角に頭ぶつけてでも笑わせたその“粋”を思い出すかもしれない。
それでいい。
あの筆は、まだ生きてる。
物語は、まだ続いてる。
たとえこの時代に焚書があったとしても。
――筆が、言葉が、笑いが、死んでいなければ。
- 『べらぼう』第36話の核心は「筆に生き、筆に殉じた者たち」
- 春町は切腹で笑いを貫き、豆腐で死ぬという最期の演出を選んだ
- 喜三二は筆を折って去るも、別名での再出発を匂わせる
- 黄表紙は風刺として政を動かす力を持ち、定信を揺さぶった
- 東作の死に源内の幻影が重なり、時代の終焉を象徴
- 唐来三和は“ふざけ続ける”ことで死者の魂を守った
- 蔦重の慟哭が物語のテーマ「言葉の覚悟」を強烈に突きつける
- 風刺・笑い・筆の力が、今なお現代に通じる命題を投げかける
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