Netflixの衝撃作『モンスター:エド・ゲインの物語』。全8話を通して描かれるのは、実在の墓掘り殺人鬼エド・ゲインの歪んだ愛と、母への執着に食い尽くされた人間の末路だ。
最終回第8話では、死と再生、罪と赦し、そして「母」という名の呪縛が極限まで描かれる。フィクションと史実の狭間で、視聴者の倫理をえぐる構成は、まさに“Netflix版サイコ”と呼ぶにふさわしい。
この記事では、第8話のネタバレを含めつつ、エド・ゲインがなぜ怪物になったのか──そして、なぜ私たちはその怪物に惹かれてしまうのかを、キンタの視点で解体していく。
- 『モンスター:エド・ゲインの物語』最終回の衝撃的な結末と母への執着の意味
- 史実とフィクションを交錯させた“理解されたい殺人鬼”の構造
- 愛・狂気・赦しを通して描かれる“人間の中のモンスター”というテーマ
最終回第8話の結末:エド・ゲインは“母の声”と共に死ぬ
最終回第8話──それは「怪物の終焉」という言葉では片付けられない、静かで残酷な幕引きだった。物語の中でエド・ゲインはもはや殺人鬼ではなく、“母という概念に取り込まれた男”として描かれている。FBIとの面会、かつての恋人アデラインの再訪、そして母との再会。全てが幻覚のように交錯し、現実と妄想の境界が溶けていく。この最終話の美しさは、血でも狂気でもなく、“孤独の形”にある。
FBIへの協力──虚構の中に見える「贖罪願望」
1970年代。エド・ゲインのもとを訪れたFBI刑事が、「テッド・バンディの捜査協力」を求める。これは史実では存在しない完全なフィクションだが、ここに脚本の本質が潜んでいる。つまり、“理解されたい殺人鬼”という自己救済の夢だ。エディはバンディの情報を語りながら、自らがかつて犯した罪を語り直すようにして、赦しを求めているように見える。
FBIという“国家”を相手に語ることで、彼は母の声ではなく“社会”に向かって初めて懺悔する。しかし、それもまた妄想だ。彼の話す全ては、幻聴の中の“母”が紡ぐ言葉。現実の赦しを得られない男が、自分の心の中で裁判を開いている。それがこのシーンの恐ろしさだ。
アデラインとの再会──愛ではなく“幻覚”としての救い
アデラインが面会に訪れる場面は、視聴者にとっても一瞬の希望の光のように映る。だが、その光は偽物だ。アデラインは史実に存在しない。つまり、彼女の再会は完全な幻覚、あるいは自己投影である。彼は「なぜ今まで来てくれなかった」と問うが、それはアデラインではなく、“母”への問いかけでもある。
彼にとってアデラインは愛する女性ではなく、母性の残響、つまり“許す母”の幻影だ。過去、母オーガスタが「女はすべて悪だ」と刷り込んだ呪いを、彼はアデラインという幻想で塗り替えようとする。だがその幻想は彼を救わない。むしろ、幻想の温もりが現実の寒さを際立たせる。彼は最後まで、誰かを本当に愛することができなかった。それが“モンスター”という言葉の本当の意味だ。
死の瞬間、母と再会するという最終形の“安堵”
肺がんに蝕まれ、病院の白いベッドで息を引き取る直前。エドの脳裏に浮かぶのは、やはり母オーガスタの姿だ。そこには血も暴力もない。ただ穏やかな笑みを浮かべる母と、幼子のようなエドの微笑みだけが残る。この瞬間、彼はようやく“母に抱かれる”ことを許されたのだ。それが彼にとっての天国であり、同時に地獄でもあった。
この最終シーンは、観る者に深い違和感を残す。殺人鬼に安らぎを与えていいのか? しかし、そこにこそこの作品の危険な魅力がある。“赦されてはいけない者の救い”を描くことで、観客自身の倫理を試してくるのだ。エド・ゲインは母と共に死んだのではない。母の中に溶けていったのだ。怪物の死とは、つまり「愛の完成」だった。
史実との乖離が描く、“フィクションの倫理”とは何か
『モンスター:エド・ゲインの物語』の最終話を見終えたあと、心の奥で鳴り止まなかった問いがある。──なぜ私たちは、“真実ではない殺人鬼”に、こんなにも惹かれてしまうのか。史実のエド・ゲインにはアデラインはいなかった。FBIへの協力もなかった。だが、創作者たちはあえて“虚構の嘘”を差し込み、そこに人間の救いと悲哀を描き出した。その手法は危険で、しかし恐ろしく誠実でもある。
アデラインという“存在しない女”が象徴する観念的母性
アデラインという女性は、物語の鍵であり、最大の嘘だ。彼女は史実にいない。だが彼女の存在があることで、エド・ゲインという男の内面が、単なる狂気ではなく、“母への愛をどう処理できなかったか”という形で視覚化される。アデラインは“理想の母”であり、“欲望の対象”であり、“贖罪の相手”でもある。つまり、彼女はエドの心の断片を具現化した多層的な幻影なのだ。
この虚構の女性が存在することで、観る者は「彼も人を愛せたのでは?」という一瞬の希望を抱く。しかしその希望こそが罠だ。観客自身が“加害者の人間性”を見たいと望んでしまう。その構造を脚本は冷酷に突きつけてくる。アデラインという“嘘の温もり”を通して、私たちはモンスターの中に自分を見つけてしまう。
FBI協力エピソードの嘘が語る「観客の罪」
最終回で描かれたFBI協力のくだり──あれは完全な創作でありながら、作品全体の主題を最も鮮やかに浮かび上がらせるシーンだ。バンディという“次世代の怪物”を語るエド・ゲイン。その姿はまるで、“狂気の継承”を自覚する老人のようだ。彼は自分の行為を正当化するでもなく、誇るでもなく、ただ語る。その“語る”という行為こそが、救いを求める祈りなのだ。
しかし観客は、その祈りを見て感動してしまう。そこに倫理の歪みが生まれる。本来なら非難されるべき行為に、人間的共感を抱くという危険な転倒。このドラマが挑んでいるのは、単なるホラーではなく“視聴者の道徳”そのものなのだ。虚構の中のエドがFBIと話す姿は、現実の私たちがスクリーンを通じて“怪物と対話している”構図の写し鏡にほかならない。
虚構によってしか語れない、狂気の人間像
事実に忠実であることが“正しさ”だと信じられてきた時代に、このドラマはそれをあえて裏切る。エド・ゲインという実在の怪物を描くために、史実を削ぎ、嘘を足す。それは歪んだ行為のようでいて、実は最も人間的な描写の方法だ。なぜなら、人間の狂気や欲望は、数字や証拠では語れないからだ。創作は、事実を超えた“感情の真実”を掘り起こすためのスコップだ。
アデラインやFBIというフィクションを通じて、視聴者は“本当のエド・ゲイン”には決して届かない。しかし、それこそがこの作品の美学だ。虚構の中にしか存在しない“真実の輪郭”を描き出すために、創作者たちは現実をあえて歪める。狂気を理解することは許されない──だが、理解しようとする行為そのものが、私たちの中の“怪物性”を照らしてしまうのだ。
この作品が問いかけているのは、エド・ゲインの罪ではない。“物語を観る私たち”の罪である。虚構の血を通してしか、私たちは現実の痛みを感じることができない。その構造を知ってもなお、私たちは次のエピソードを再生してしまう。──それがモンスターシリーズ最大の恐怖であり、最大の魅力だ。
母の声に囚われた男:エド・ゲインの“狂気の構造”
エド・ゲインという名を聞くと、多くの人は「墓荒らし」「皮膚のランプ」といった猟奇的なイメージを思い浮かべるだろう。だがこの作品が掘り下げたのは、そうした行為のグロテスクさではない。彼の狂気は“行動”ではなく、“構造”として描かれている。つまり彼は、母という宗教の信者だったのだ。母の声が教義であり、母の姿が神であり、母の死が世界の崩壊だった。第8話の中で彼が母と再会するシーンは、狂気が完成する瞬間でもあり、信仰の成就でもある。
キリスト教的罪悪感と性欲抑圧が生んだモンスター
エド・ゲインの狂気の源泉にあるのは、強烈なキリスト教的罪悪感だ。母オーガスタは、彼に「肉体的欲望は悪」「女は罪の化身」と刷り込み続けた。エドはそれを“信仰”として受け入れ、やがて“女”を罰しながら愛するという矛盾に取り憑かれていく。この構造は現代的に言えば“マインドコントロール”だが、もっと原始的で神話的でもある。
彼の行為──遺体を掘り起こし、皮膚を身にまとうこと──は、性的倒錯ではなく、“母の体に戻ろうとする本能的な儀式”に見える。エドにとって“女の皮”は罪の象徴であると同時に、救いの象徴でもあった。罪を背負うことでしか母に近づけない。矛盾が狂気を産み、狂気が彼を守っていた。だから彼は決して“悪人”ではなく、“信者”だった。
母の愛=支配という構図がもたらした“反転した愛情”
母オーガスタの支配は絶対的だった。彼女はエドを愛していたが、それは“所有する愛”だった。息子の世界を閉じ、他者との接触を禁じ、神の名のもとに自由を奪う。つまり彼女は、彼を「善に縛ることで地獄に落とした」母だ。この反転した愛情こそが、彼の狂気の原型である。
母が死んだ瞬間、彼の中で世界は崩壊した。だが彼女の声だけは消えなかった。エドは「母を取り戻すために墓を掘る」という行為で、世界を再構築しようとした。死体を家に持ち帰ることは、母の欠片を集める“祈り”でもあった。彼の狂気は暴力ではなく、喪失を修復するための行為なのだ。母を愛することが罪であり、同時に生きる理由でもあった。彼は母を殺したわけではない。母に永遠に殺され続けていたのだ。
人間の形をした死体が“母の代わり”になった理由
作品の中で最も象徴的なのは、家の中に飾られた“母の椅子”だ。そこに座るのは、母の代わりに掘り起こされた死体たち。彼は死体を家具や衣類に変えることで、「母の気配を再構成」しようとしていた。だがそれは決してグロテスクな趣味ではない。むしろ、“愛する者を手放せない悲しみの極致”なのだ。
彼にとって死体は死ではなく“母の断片”。そこに触れることでしか安心できない。死体は彼にとっての言葉であり、語れぬ痛みを表す手段だった。だからこそ、あの家は彼の聖域でもあり、墓でもあった。母の椅子、皮のランプ、頭蓋骨の皿──それらは罪の証拠ではなく、“母への祈りの遺物”だったのかもしれない。
この作品が描いたエド・ゲインは、ただの殺人鬼ではなく、愛を間違えた詩人だった。母という神を信じ、愛という牢獄から出られなかった男。その声は今もなお、静かに響いている──「私を見なさい、エド」。その言葉が消えぬ限り、彼の狂気は永遠に続く。
モンスターシリーズが描く「狂気の系譜」
Netflixの『モンスター』シリーズは、ただの実録犯罪ドラマではない。そこにあるのは、「狂気は連鎖する」という現代の寓話だ。ジェフリー・ダーマー、メネンデス兄弟、そしてエド・ゲイン──三者はいずれも異なる時代に生きながら、“家庭という檻の中で生まれた怪物”である。シリーズが一貫して描くのは、悪の遺伝子ではなく、“愛の欠損が作り出す歪んだ人間像”だ。『エド・ゲインの物語』は、その系譜の中で最も宗教的で、最も悲劇的な作品として位置づけられる。
『ダーマー』から『エド・ゲイン』へ──罪の再演と映像の中毒性
シリーズ第1作『ダーマー』は、現代アメリカが抱える孤独と偏見を、食人という極限の行為を通して描いた。第2作『メネンデス兄弟の物語』は、“家族という制度の崩壊”をテーマにしていた。そして第3作『エド・ゲイン』では、さらに深い層──“母と子の宗教的共依存”にまで踏み込む。これらの作品は互いに鏡のように響き合いながら、“人間の心が壊れる瞬間”を何度も再演している。
この再演こそが、シリーズを観る者を虜にする中毒性の源だ。私たちは毎回、もう見たはずの「狂気」を再び覗き込みに行く。なぜか。そこに映っているのが、犯罪者ではなく“私たち自身の欠けた部分”だからだ。モンスターシリーズはホラーではない。これは、人間という病を診断する連続心理カルテなのだ。
監督たちがエド・ゲインを描き続ける理由
エド・ゲインという存在は、映画史の裏側に長く影を落としている。『サイコ』のノーマン・ベイツ、『悪魔のいけにえ』のレザーフェイス、『羊たちの沈黙』のバッファロー・ビル──すべてが彼の“残響”から生まれたキャラクターたちだ。だからこのドラマが“エド・ゲインの物語”をあらためて描くことは、“ホラーというジャンルの原罪を直視する行為”でもある。
監督ライアン・マーフィーはこの作品で、恐怖ではなく「理解」を描こうとした。殺人鬼を理解しようとすること自体が倫理的に危うい試みだが、そこにこそ創作の誠実さがある。彼はエドを責めるでも、擁護するでもなく、“人間の構造としての狂気”を見せることで、観客に問いを返している。つまり、「あなたの中のエド・ゲインはどこにいる?」という問いだ。監督にとってエドは題材ではなく、鏡なのだ。
「悪の継承」としてのモンスター・ユニバースの可能性
このシリーズが興味深いのは、作品同士がゆるやかに世界観を共有している点だ。『ダーマー』の記者が『エド・ゲイン』の時代背景を調査していたり、次作の伏線としてFBIの登場が暗示されたりと、まるで“悪のユニバース”が形成されているようだ。だが、ここで描かれる「継承」は単なる物語上のつながりではない。“狂気そのものが文化として受け継がれていく”というメタ的な構造なのだ。
現代の視聴者は、悪に恐怖するよりも“理解したい”と願う。そこにシリーズの本当の恐怖がある。理解という名の共感が、いつの間にか赦しに変わる。そして赦しが、次のモンスターを生み出す。ライアン・マーフィーはその連鎖を、静かに警告しているのだ。『エド・ゲインの物語』のラストで描かれたFBIのシーンは、その“悪のバトン”の象徴だ。
つまり、モンスターシリーズとは単なる犯罪実録ではなく、“悪を観察することで自己を省みる装置”である。エド・ゲインはもう死んだ。しかし彼の声は、ダーマーの冷蔵庫の中にも、メネンデス兄弟のリビングにも、そして私たちの心の奥にも、まだ囁いている。「私を理解しようとするな。それが、お前をモンスターにする。」
『モンスター:エド・ゲインの物語』最終回が突きつける“人間の残酷さ”とは
最終回のラストシーンを見届けたとき、胸の奥に重く沈んだのは恐怖ではなく、奇妙な「共感」だった。母の幻影に微笑みながら息絶えるエド・ゲイン。その姿を見て、なぜか安らぎを感じた自分に、ゾッとする。そう、この作品が本当に描いているのは、殺人鬼の異常ではなく、私たちの“共感という残酷さ”なのだ。視聴者は彼の狂気に怯えながらも、その奥にある人間的な哀しみを感じ取ってしまう。それこそが、最も危険な瞬間だ。
狂気は感染する──観る者の心に芽生える“共感の恐怖”
エド・ゲインという存在は、観る者の中に潜む「理解したい欲望」を刺激する。彼がどんな過去を持ち、なぜ母に囚われたのか。その理由を知ろうとするほどに、観客は彼の視点へと引きずり込まれる。つまり、“狂気は伝染する”のだ。作品はその感染のメカニズムを、冷たく、しかし詩的に描いている。
最終話では、FBIに協力する“理性的なエド”が登場するが、それも妄想の産物だった。だが、その姿に「彼も更生したのでは」と錯覚する瞬間がある。そこに観客の倫理の境界線が崩れる。理解と同情の間に立つ一瞬の曖昧さ──それこそが、モンスターシリーズの最大の恐怖装置だ。狂気を拒絶できない心、それ自体が人間の残酷さを証明している。
「理解してはいけないもの」を理解してしまう瞬間
このドラマを観ていると、ふとした瞬間に“彼も被害者だったのではないか”と感じてしまう。母による虐待、孤独、信仰による抑圧。確かにそれらは彼を怪物にした要因だ。だが、その“理解”の先にあるのは赦しではない。理解とは、悪を人間に変えてしまう行為なのだ。
作品が危険なほど魅力的なのは、観客が無意識に「彼を理解してあげたい」と思ってしまう構造にある。これは創作上の罠だ。理解の名を借りた愛情が、いつの間にか加害者への共感に変わる。倫理と感情の境界線が溶ける瞬間──それがこの作品の真の“ホラー”だ。血よりも、殺戮よりも、私たちの心が壊れていく様を描く。人間は、理解した瞬間に、モンスターになる。
それでも目を逸らせないのは、私たちの中にも怪物がいるから
では、なぜ人は“怪物”を見たいのか。なぜ、エド・ゲインのような存在に魅せられるのか。答えは単純だ。私たちの中にも、同じ闇があるからだ。誰かを理解したいと願う心の奥には、支配したいという欲望が潜んでいる。愛も、信仰も、優しさも、紙一重で暴力になる。この作品はその“境界線の脆さ”を突きつけてくる。
エドが母を愛したように、私たちもまた誰かを愛しすぎることがある。その愛が過剰になったとき、人は簡単にモンスターへと変わる。最終回で描かれる母との再会シーンは、血塗られたエンディングではなく、“愛の成仏”としての終焉だ。それは観る者の感情を麻痺させるほど静かで、美しい。
『モンスター:エド・ゲインの物語』は、狂気のドラマではない。これは人間の中の“理解という残酷さ”を描いた詩だ。理解してしまうことの恐怖──それが、この物語の最後に残る最大の問いである。モンスターは画面の中にいない。彼は、私たちの心の奥で、今日も静かに息をしている。
静かな狂気の中で——“理解されたい”という人間の業
ここまで観てきて感じるのは、エド・ゲインという男の物語が、結局は“モンスター”の話なんかじゃないってことだ。もっと言えば、これは俺たちの物語でもある。誰だって、自分の中にちょっとした“理解されたい”という渇きを抱えてる。職場でも家庭でも、誰かに認めてほしくて、つい言葉が強くなる瞬間がある。そこには必ず、愛と支配が同居してる。エドが母に縛られたように、俺たちもまた、見えない誰かの声に縛られて生きてる。
このドラマを観ていて怖いのは、血や死体じゃない。ふとした場面で、自分の“優しさ”とエドの“狂気”が同じ根っこにあると気づく瞬間だ。誰かを守りたい、理解したい、その純粋さが行き過ぎると、相手を支配してしまう。それを愛と呼んでしまう。この作品が突きつけてくるのは、そんな人間の“構造的な狂気”なんだ。
“わかってほしい”という願いが狂気を呼ぶ
エドが母にすがったのは、単なるマザコンでも宗教でもない。彼にとって「母」は、“自分を理解してくれる唯一の存在”だった。だから彼は、母の死を受け入れられず、死体を通してその理解を再現しようとした。狂っているようで、実は誰よりも人間らしい。理解を求める心ほど、危ういものはない。理解されたいという渇望こそが、人をモンスターに変える。それはエドだけの話じゃない。俺たちも、SNSで「共感してほしい」と言葉を吐き続けている。違う形で、同じ狂気をやっている。
その“理解の暴力”に気づくかどうかで、人間の在り方は変わる。エドは気づけなかった。母の声を外せなかった。俺たちは、どうだろう。誰の声を、心の中で繰り返している?
日常の中に潜む“エド・ゲイン的瞬間”
たとえば職場で、後輩にかけた何気ない一言。恋人に対しての「お前のためを思ってるんだよ」というセリフ。そのどれもが、善意の皮を被った支配かもしれない。“自分の正しさ”を押し付ける行為こそが、エド・ゲイン的な狂気の入り口だ。愛を信じすぎること。正しさを疑わないこと。それらが静かに人を壊す。
ドラマの中でエドは母の声に従って行動していたけれど、現代の俺たちはもっと巧妙だ。声は外からじゃなく、内側から聞こえてくる。「こうあるべき」「これが正しい」「あの人は間違ってる」。その声の正体は、過去に誰かから植え付けられた価値観だ。母の声が消えないのは、俺たちも同じなんだ。
“理解される”より“見逃される”ほうが、人は救われる
結局、エド・ゲインが求めていたのは理解じゃなく、“無条件の存在の許し”だった。母の視線が彼を追い詰め、社会の視線が彼を怪物にした。理解されることが救いになるとは限らない。むしろ、完全に理解されたとき、人は逃げ場を失う。理解されることが、監視になる瞬間がある。エドはそれに気づかないまま、永遠の母の腕に還った。
もしかしたら、俺たちが他人にできる最高の優しさは、“理解しようとしないこと”なのかもしれない。理解ではなく、見逃すこと。それが、他人にも、自分にも、最後に残された自由なんだと思う。
『モンスター:エド・ゲインの物語』は、そんな気づきを残して去っていく。狂気の話をしているのに、やけに静かで、やけに人間くさい。その余韻の中で、自分の中の“母の声”を静かに聞く夜があってもいい。狂気とは、きっと誰かを深く愛したことがある人にしか、理解できない感情だから。
モンスター エド・ゲインの物語の最終回を観て感じた“恐怖と共感”のまとめ
全8話を通して描かれた『モンスター:エド・ゲインの物語』は、単なる犯罪実録ドラマではなく、“人間とは何か”という問いを突きつける宗教劇だった。母の声、愛の誤解、赦しの幻覚──そのすべてが静かな終末へと収束していく。最終回を見終えたあとに残るのは、血の臭いではなく、理解してはいけないものを理解してしまったという後味の悪い快感だ。エド・ゲインという存在は、現実と虚構の狭間で、人間の“善悪の曖昧さ”を語り続けている。
虚構で描かれた真実:母への愛と赦しの果て
史実のエド・ゲインにはアデラインも、FBI協力も存在しない。だが、その“嘘”の中にこそ、このドラマの本当の真実がある。彼が最終回で母と再会するシーンは、死後の幻想でありながらも、愛の成就として描かれている。母への執着、罪の意識、孤独の終焉──それらがすべて“赦し”という幻想に変わる瞬間、観客は思わず涙を流す。しかしその涙は、彼への同情ではない。自分の中にも同じ「赦されたい欲望」があることに気づく涙だ。
ドラマは、実在の悪を描きながら、むしろ“人間の弱さ”を肯定している。だからこそ怖い。悪を悪と断罪するのは簡単だ。だが、本作はそうした単純な構図を拒否し、赦しの危うさを描く。理解することと、許すことの境界線──それがこの物語のテーマであり、最終話における最大の罠だ。
狂気の中に映る“人間らしさ”こそが最大のホラー
この作品の恐怖は、血や死体ではなく、「彼の中に自分を見る」瞬間にある。エド・ゲインは異常者ではない。むしろ、極端に“純粋”だった。母を愛し、孤独を恐れ、理解されたいと願った。それは誰の心にもある普遍的な感情だ。つまり、この作品は“普通の人間がどこで狂気に変わるのか”という境界を見せている。
観る者はいつの間にかエドの視点に同化し、彼の痛みに共鳴する。そうして気づけば、自分の中にも“母の声”が響いている。愛、欲望、信仰──それらはすべて狂気の種になり得る。このドラマが描いたのは、人間の持つ構造的ホラーだ。モンスターとは、異形の存在ではなく、“愛の方向を誤った人間”のことなのだ。
モンスターシリーズが次に描く“悪”への期待と不安
Netflixの『モンスター』シリーズは、もはやひとつの神話体系を形成しつつある。『ダーマー』では孤独、『メネンデス兄弟』では家族、『エド・ゲイン』では母性。次に描かれる“悪”は、おそらく現代社会の中に潜む、より匿名的で無機質な狂気だろう。SNS、戦争、AI、そして宗教。どのテーマも、すでに現実がフィクションを超えている。私たちはすでにモンスターの時代に生きているのだ。
だが、どんな次作が来ても、この『エド・ゲインの物語』を超えるものは簡単には生まれないだろう。なぜなら本作は、“悪の描写”ではなく、“人間の理解欲そのもの”を描いてしまったからだ。理解しようとする行為そのものが罪であると気づいたとき、私たちはようやくスクリーンの向こう側に映る自分の姿を見つめ直す。エド・ゲインは死んだ。しかし、モンスターは今も、私たちの中で生きている。
そしてラストに残るのは、恐怖でも怒りでもない。静かな理解だ。狂気を見つめることでしか、人間は自分を知ることができない。──それが、『モンスター:エド・ゲインの物語』が私たちに残した、最も残酷で美しい真実だ。
- Netflix『モンスター:エド・ゲインの物語』は、実在の殺人鬼を通して“母の呪縛”と“理解されたい欲望”を描く
- 最終回では、母との再会が“狂気の安堵”として描かれ、観る者に倫理の揺らぎを突きつける
- 史実と虚構の境界をあえて歪め、“フィクションの倫理”を問う構成が核心
- 母への愛と支配、理解と赦しの曖昧さが人間の残酷さとして浮かび上がる
- エド・ゲインの狂気は“理解されたい人間の業”として現代にも通じるテーマ
- モンスターシリーズ全体が描くのは、“悪”ではなく“人間の構造的な狂気”
- 理解することの危うさ、共感の感染性を通して“私たち自身の怪物性”を暴く
- キンタ視点では、狂気とは愛の形のひとつであり、“理解されること”の残酷さを示している
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