静かな夜に響いた爆発音。それは単なる事件の始まりではなく、「正義の形」が問われる音だった。
『相棒season23 第2話 警察官A~逆転殺人!真犯人は二人いる!!』は、前篇で描かれた「再会」の物語から一転、誰もが信じていた“正義”そのものが裏返る。
右京・亀山・高田創――三つの正義が交錯する中で明らかになるのは、「真犯人は二人いる」という事実以上に、“罪を共有する社会”という残酷な現実だった。
- 『警察官A~逆転殺人!真犯人は二人いる!!』の核心テーマと構成
- 高田創の成長が示す“正義の継承”とその痛み
- 権力の闇と沈黙の共犯が描く現代社会のリアル
「逆転殺人」が突きつけたのは、“正義は一つではない”という真実
第1話で描かれた「救済」の物語が、ここで鮮やかに反転する。
『警察官A~逆転殺人!真犯人は二人いる!!』が提示したのは、単なる犯人のトリックではない。“正義は一つではない”という現実の痛みだ。
ひとりの警察官が殺人者となったとき、そこにあったのは悪意ではなく、恐怖と絶望だった。
そしてその恐怖を見て見ぬふりをした者たちこそが、もう一人の“真犯人”だった。
この物語は、法の外にある人間の本能と、法の内にある正義の境界を、静かに、しかし容赦なく描いている。
犯人は誰かではなく、なぜ“警察官”が殺人者になったのか
事件の表層にあるのは、一見シンプルな殺人事件だ。
しかし右京が見抜いたのは、そこに潜む“恐怖の心理”だった。
加害者となった警察官は、強い憎しみから刃を振るったのではない。
抵抗され、相手がなかなか倒れず、恐怖のあまり何度も刺してしまった──。
その心理を語るシーンに、「正義と恐怖の紙一重」という主題が凝縮されている。
人間は、恐怖に追い詰められた瞬間、どこまで理性を保てるのか。
職務と本能の狭間で揺れるその姿は、もはや善悪の区別を超えて“人間の限界”を映していた。
そして右京の視線は、犯人そのものよりも、彼を追い詰めた環境へと向かう。
上司の無関心、組織の形式主義、同僚の沈黙。
その連鎖が、ひとりの警察官を孤独にした。
つまり、“真犯人”は人ではなく、制度そのものだった。
警察の内部に潜む「見て見ぬふり」の連鎖
この第2話が優れているのは、警察組織の闇を告発しながらも、個人の責任を切り離さない構成にある。
殺人を犯した警察官を責めるだけでなく、彼を追い詰めた構造を描き出す。
そしてその構造の中には、誰もが無意識に加担している“沈黙の共犯”が存在している。
上からの圧力、現場の疲弊、内部告発のリスク。
正義を信じた者ほど孤立し、沈黙が最も安全な選択になる。
この構造の中で、誰もが「自分は正しい」と信じたまま、ゆっくりと歪んでいく。
右京の言葉が鋭く響く。
「正義は、制度の中で守られるものではありません。心の中で守られるものです。」
その一言で、観る者は気づく。
“真犯人が二人いる”というタイトルは、単なるトリックではなく、個人の罪と社会の罪、両方を裁くための構造なのだと。
高田創の存在も、このテーマを際立たせる。
かつて「少年A」と呼ばれた彼は、社会の外にいた。
今は「警察官A」として社会の中にいる。
だがその中でも、彼はまた別の孤独を抱えている。
誰かを守るために立ったはずの場所で、再び人の罪と向き合う。
その苦しみこそが、警察官である前に“人間であること”の証だ。
右京が放った一言、「正義は一つだと思いますよ」の意味
クライマックスで右京が口にした一言が、このエピソードの全てを総括している。
「正義は一つだと思いますよ。ただし、それを貫ける人間が少ないだけです。」
この言葉は、犯人への説教ではない。
むしろ視聴者への問いかけだ。
私たちは、誰かを裁く資格を持ちながら、どれほど自分の正義を信じているのか。
社会の構造が歪んでも、個人の心に残る“微かな倫理”だけが、最後の防波堤になる。
右京はそれを知っている。だから彼はいつも冷静に、そして悲しげに事件を見つめる。
“正義が一つである”という信念は、彼の揺るがない哲学であり、同時に痛みでもある。
『逆転殺人』が突きつけたのは、正義を信じ続けることが、どれほど孤独な選択かという現実だ。
そしてその孤独を抱えながらも歩き続ける者を、人は“相棒”と呼ぶ。
“警察手眼”と150年の系譜──過去と現在が交わる瞬間
第2話では、現代の事件と並行して「警察の原点」を象徴する“150年の影”が静かに映し出される。
明治時代に警察制度を築いた川路利良。その理念は「秩序の維持」だった。
しかし150年を経た今、その言葉は形骸化し、秩序はいつしか“支配”にすり替わった。
『警察官A』というタイトルの裏には、150年続いた警察という組織の「罪と誇り」が同居している。
制度を守る者が、いつの間にか人間を見失う。その連鎖を断ち切るために、右京たちは歩き続けている。
明治の警察官・川路利良が遺した教えと、今を生きる警官の葛藤
川路利良は、「人を治めるとは、まず己を律すること」と言った。
この理念こそ、警察の精神的支柱であり、右京の生き方そのものでもある。
しかし現代の警察官たちは、その原点を忘れつつある。
数字、昇進、報告書、世論──全てが“評価”に縛られる中で、「人を守る」という根源的な目的が遠のいていく。
今回の事件で描かれたのは、まさにその象徴だった。
ひとりの警察官が、組織の歪みに押し潰されていく過程。
彼は悪ではない。ただ、川路の言葉を“忘れてしまった者”だった。
右京が静かに呟く。
「人を守るための力が、人を追い詰めるものになってしまっては、本末転倒です。」
その一言は、警察150年の歴史全体への批評にも聞こえる。
力の行使を正当化するのではなく、その裏にある“良心の責任”を問い直す。
まさに右京の存在が、現代の川路利良であるかのように。
150年史の影にある「正義の亡霊」
この物語の核心は、150年前の理想が、いまや“亡霊”になっているという皮肉にある。
川路の時代における「警察の正義」は、国家の安定を守るためのものだった。
だが現代においては、それが時に市民を縛る“管理の正義”へと変貌している。
つまり、制度が正義を腐らせる。
そして腐った制度の中で、それでも信念を貫こうとする人間だけが、真に“警察官”と呼ばれる。
高田創がその象徴だ。
彼はまだ若く、経験も浅い。だが、誰よりも「人を守りたい」と思っている。
その純粋さこそ、明治の警察官が掲げた理想の残り火だ。
150年の系譜は、形式としてではなく、「信じることをやめない者たちの記録」として受け継がれている。
この第2話で描かれる“逆転殺人”は、単なる事件の逆転ではなく、歴史そのものの逆転だ。
権力と秩序のために作られた警察という組織が、再び「人のために働く場所」に戻れるのか──。
右京が現場で紅茶を口にする姿は、静かな祈りのようでもある。
冷静さの奥にあるのは、150年の重みと、それでも正義を信じる小さな意志。
その一点に、このエピソードの美しさが宿っている。
だからこそ『警察官A』というシリーズは、単なる刑事ドラマでは終わらない。
それは、“国家と人間の関係”を再構築する物語なのだ。
150年前の川路が見た夢を、いま高田創が引き継いでいる。
そしてその背後には、時を越えて歩き続ける二人の影――杉下右京と亀山薫がいる。
正義の歴史は、過去ではなく、いまも呼吸している。
高田創という希望──“少年A”が“警察官A”へ変わる瞬間
前篇で救われた少年が、今度は誰かを救う側へ立つ。
『警察官A』というタイトルが二話にわたって使われた意味は、単なる続編ではなく、「変化の証」として描かれている。
高田創(加藤清史郎)は、“無戸籍児”という社会の外側にいた存在から、“警察官”という制度の内側へと移動した。
その移動は、彼自身の再生の物語であると同時に、社会が一人の人間を受け入れることの難しさを映している。
だが今回の創は、もうかつての“守られる存在”ではない。
彼は、自分の信じた正義を貫こうとし、その過程で痛みと向き合う覚悟を見せる。
右京と亀山に救われた少年が、今度は誰かを救う側へ
第2話の創は、序盤から異質だ。
捜査の最中、上司の指示に背き、危険な判断を下す。
だがその衝動には、ただの若さではない、“誰かを守りたい”という切実な動機が宿っている。
右京が冷静に「あなたは何を守ろうとしているのですか?」と問うとき、創は答えられない。
それでも、行動が言葉の代わりに語っていた。
彼が救おうとしたのは、目の前の命ではなく、かつての自分のように、誰からも見放された者たちだった。
『少年A』の時、右京と冠城が見せた“信じる力”が、6年半を経て彼の中で形になっている。
それは立派な正義ではない。
未熟で、危うく、誰よりも人間的な正義だ。
この成長の描写に、加藤清史郎の表情がすべてを語っている。
少年の透明さを残しながら、目の奥に宿る強さと哀しみ。
それは、ただの成長ではなく、“痛みの継承”だ。
彼が右京たちと別れて歩き出すラストシーン。
その背中に、視聴者は「少年A」から「警察官A」への変化だけでなく、“人を信じる勇気”を引き継いだ姿を見ている。
相棒とは、“信じたい正義”を共有する者
右京と亀山にとって、創は“もう一人の相棒”でもある。
彼の存在は、二人が追い続けてきた「正義」の純粋な形を映す鏡のようだ。
亀山が感情で動き、右京が理性で導く。
その間に立つ創は、二人の哲学を同時に継承する新しい世代の象徴として描かれている。
彼が右京に「あなたのようにはなれません」と告げる場面には、深い意味がある。
それは拒絶ではなく、宣言だ。
「あなたのようにはなれないけれど、あなたの信じたものは信じたい」──その想いが、創の中で新たな正義として芽生えている。
相棒とは、似ている者ではなく、互いの欠落を補い合う者。
右京が冷静でいられるのは、亀山の熱があるから。
亀山が迷わず進めるのは、右京の理があるから。
そして、創がその狭間で揺れることで、“相棒”という関係が未来へと続いていく。
この構図が、シリーズの継承そのものだ。
『警察官A』の二話を通して描かれたのは、「少年が大人になる物語」ではなく、
“正義を信じ続ける痛み”を受け継ぐ物語だった。
右京も亀山も、そして創も、それぞれ違う形で迷いながら歩いている。
だが、その迷いこそが、“生きた正義”の証拠なのだ。
だからこそ、右京が最後に微笑むあの一瞬が、何よりも重い。
あの微笑みには、教えでも説教でもない。
ただ、「信じろ」という祈りがある。
少年Aはもういない。
だが、“警察官A”という希望が、その場所に立っている。
権力の闇と命の軽さ──利根川が映した日本の“正義の歪み”
第2話の中で最も静かで、最も冷たい存在。それが利根川幹事長(でんでん)だった。
彼の台詞には、怒号も、激情もない。ただ淡々とした言葉が、まるで社会の空気のように広がっていく。
この人物が象徴しているのは、“権力”というより、“正義を語ることに慣れた人間”だ。
本作の真の恐怖は、悪意を持つ者ではなく、正義を都合よく使う者に宿っている。
利根川の存在は、相棒シリーズが長年描いてきた「政治と警察の距離感」というテーマを、より現実的な形で突きつけてくる。
フィクサーの言葉に見える「政治と警察の距離感」
利根川の描写は露骨ではない。だが、言葉の一つひとつに“支配の余裕”が滲む。
彼は誰かを直接脅さない。
代わりに、言葉の中に“従わざるを得ない空気”を作り出す。
その圧力は暴力よりも静かで、しかし深く人を縛る。
右京が対峙したとき、彼は笑いながら言う。
「私は正しいことしかしていませんよ。少なくとも、あなたのように理想主義ではいられません。」
この一言が、右京の沈黙を生む。
政治という現場では、正義は「結果」で測られ、過程の倫理は切り捨てられる。
そこに漂うのは、“正しさの空洞”だ。
そして、その空洞の中で命が軽く扱われていく。
正義が数値化され、命が統計の中に埋もれる社会──それが利根川の象徴する現代の日本の姿だ。
権力者の悪意は見えない。だからこそ、最も危険なのだ。
市民の無関心こそが、最大の首謀者だった
タイトルの「真犯人は二人いる」という言葉は、もう一つの意味を持っている。
それは、事件の裏に“もう一人の共犯者”がいるという暗喩──つまり、無関心という名の大衆だ。
ニュースを見て「また警察の不祥事か」と呟き、スマホを閉じる。
怒りも悲しみも数秒で流れ、翌日には別の話題へ移る。
その繰り返しの中で、正義は“消費”されていく。
右京はそんな現実を見つめながらも、あえて語らない。
沈黙の中に、視聴者への問いがある。
「あなたは、本当に関係ないと言い切れますか?」
この一言は、政治ドラマの枠を超え、現代の我々そのものに突き刺さる。
第2話が秀逸なのは、権力批判を真正面から描くのではなく、“見て見ぬふりをする社会全体”を真犯人として描いた点にある。
そしてその無関心の連鎖の中で、最も犠牲になるのは、いつも“信じる者”だ。
警察官として命を懸けた者、未来を信じた若者、そして真実を追い求めた右京たち。
彼らが失うのは地位や名誉ではない。
信じる力そのものだ。
利根川という男は、そんな社会の冷たい鏡だ。
彼の存在があるからこそ、右京たちの信念が際立つ。
光を描くために、闇は必要なのだ。
だがその闇は、もはや政治家の中にだけあるわけではない。
それは視聴者一人ひとりの中にも潜んでいる。
正義を語らなくなった瞬間、私たちは“もう一人の真犯人”になる。
でんでんの演技は、まるで温度のない炎のようだった。
怒らず、叫ばず、ただ燃え続ける。
その静けさが、最も怖い。
権力の恐ろしさとは、人を支配することではなく、人が考える力を奪うこと。
そしてこの国の正義がその手の中で揺らぐたびに、右京はまた、静かに紅茶を口にする。
それはあきらめではなく、「それでも信じる」という最後の抵抗だ。
警察官Aが残した教訓──裏切りの果てに見えた希望
この物語のラストシーンは、爆発音や銃声よりも静かだった。
そこにあったのは、破壊でも復讐でもない。
ひとりの若い警察官が、絶望の中で掴んだ“希望のかけら”だった。
第2話の高田創は、迷いながらも最後に一つの選択をする。
それは「正義のため」ではなく、「誰かのため」に行動するという決意だった。
この違いこそが、“警察官A”が本当に成長した証だ。
正義を掲げることは簡単だ。
だが、信じる者が傷つき、それでも前を向く姿にこそ、本当の正義が宿る。
正義を信じることは、孤独と痛みを引き受けること
高田創は、右京や亀山のように論理的でも情熱的でもない。
むしろ、そのどちらにも届かない“中間の人間”として描かれている。
彼は時に判断を誤り、時に人を疑い、それでも歩き続ける。
その姿は不器用だが、真実味がある。
なぜなら、正義を信じるとは、間違えることを恐れず、信じ続ける勇気を持つことだからだ。
右京が彼に向けて語った言葉が、そのすべてを物語っている。
「あなたが選んだ道が間違いであったとしても、それを認める勇気があるなら、あなたはもう立派な警察官です。」
この言葉を聞いた創の表情には、後悔ではなく静かな覚悟が浮かんでいた。
それは“正しさ”よりも、“人としての強さ”を選ぶ瞬間だった。
創の孤独は、彼自身が背負う贖罪のようなものだ。
だがその孤独の中で彼は、確かに光を見つけた。
それが「自分の中の良心」だ。
正義の形は人の数だけある。だが、良心の声だけは誰にも偽れない。
未来に残すのは“制度の正しさ”ではなく、“人の温度”
第2話の結末は、視聴者によって受け取り方が違うだろう。
だがその曖昧さこそが、この物語の真価だ。
右京と亀山は、創の選択を咎めない。
彼の中にある“何かを守りたい気持ち”を、ただ見つめる。
それは師弟でも、親子でもない、“信頼”という名の静かな絆だ。
かつての右京なら、彼を論理で導いたかもしれない。
だが今の右京は、ただ「見守る」。
正義を押しつけるのではなく、他者の中に芽生えた正義を信じるという行為。
それこそが、長年の経験が彼に教えた“成熟”なのだ。
亀山はその後ろで、小さく頷く。
右京の沈黙の意味を理解している。
彼もまた、創の中に“かつての自分”を見ている。
そして創は、歩き出す。
制服の背中が夜の街に溶けていく。
その姿は、“正義の継承”そのものだった。
制度は変わらなくても、人は変わる。
それが『相棒season23』が描いた最大の希望だ。
「少年A」だった少年が、「警察官A」となり、
そして「刑事A」へと進化する──。
その道の先にあるのは、完璧な正義ではなく、人の温度を取り戻す社会だ。
右京が最後に小さく呟く。
「人は、どれほど間違っても、再び正しい場所に戻ることができるのです。」
それが、このシリーズ全体に通底する祈りだ。
裏切りの果てに見えたのは、絶望ではなく、人がまだ信じられるという“奇跡”。
『警察官A』は、その奇跡を描いたドラマだった。
正義の継承、その裏にある“痛みの共有”──沈黙の中に宿る相棒の呼吸
この第2話を観終えて、妙に静かな余韻が残る。
それは派手な推理の爽快感でも、正義が勝ったという安堵でもない。
むしろ、心の奥に沈殿する“痛み”のようなものだ。
正義を信じるという行為が、どれほど孤独で、どれほど他者を傷つけるか──その現実を、この物語は真正面から突きつけてくる。
そして気づく。『相棒』という作品の根底にあるのは、“正義”ではなく、“痛みの共有”だということに。
沈黙でしか通じない“信頼”の形
右京と亀山の関係は、もはや言葉では語れない領域に入っている。
互いの目の動きや、わずかな呼吸の変化で、何を考えているかが伝わる。
長い時間を共にしてきた二人にしかわからない、静かな信頼。
その空気の中に、高田創が入ってくる。
まだそのリズムには馴染めず、焦りながらも、必死に追いつこうとする。
右京と亀山が沈黙で語る世界で、彼だけがまだ“声”で繋がろうとしている。
だが、それでいい。
彼はまだ若く、痛みを言葉にしなければ潰れてしまう。
だからこそ、この三人の距離感が美しい。
沈黙は成熟の証、言葉は再生の証。
そして“相棒”とは、その両方を認め合う関係なのだ。
右京の沈黙には、亀山の熱を信じる余裕がある。
亀山の言葉には、右京の冷静さを求める優しさがある。
そして創は、その二つの呼吸の間で、自分の正義の温度を探している。
痛みを引き受ける勇気、それが“相棒”の本質
この物語の中で、本当に痛みを背負っているのは誰か。
それは、罪を犯した者でも、被害者でもない。
事件を見届け、なおも信じ続ける者たち──つまり、特命係だ。
彼らは誰かを裁くためではなく、誰かの痛みを“背負う”ために存在している。
その姿は、もはや刑事ではなく、祈りに近い。
正義の継承とは、理念を受け継ぐことではなく、痛みを分かち合うこと。
右京が紅茶を淹れるあの一瞬の静けさの中に、誰にも言えない重さがある。
亀山が肩を叩く仕草には、長年の哀しみが滲む。
創がそれを見て、息を呑む。
この三人の間にあるのは、信頼よりも深い、“痛みの連帯”だ。
正義を貫くことの代償は、孤独だ。
だが、その孤独を誰かと分け合えるなら、人は少しだけ強くなれる。
相棒という言葉の本当の意味は、きっとそこにある。
第2話の終盤、夜の街を歩く創の背中を見つめる右京と亀山。
あの一瞬、三人の間に言葉はなかった。
だが、沈黙の中で確かに呼吸が揃っていた。
それが“相棒”という関係の最終形なのだ。
正義は語られるものではなく、分かち合うもの。
痛みを恐れず、沈黙を恐れず、誰かの隣に立ち続けること。
その静かな勇気こそが、このエピソードの最も深い答えだった。
相棒season23 第2話「警察官A~逆転殺人!真犯人は二人いる!!」の余韻とまとめ
静けさの中に、重さが残るエピソードだった。
第1話が「再会と希望」なら、第2話は「赦しと継承」。
そして両者を繋ぐのは、“正義を信じ続ける痛み”という共通のテーマだ。
『警察官A~逆転殺人!真犯人は二人いる!!』は、事件の真相を暴く物語ではない。
それは、正義を選び取る人間たちの、心の物語だった。
再生の物語から、赦しの物語へ
高田創が「少年A」から「警察官A」へと歩んだ道は、ただの成長譚ではない。
右京と亀山という二つの正義の象徴に囲まれながら、彼が辿り着いたのは、“赦し”という最も静かな強さだった。
人を赦すこと。自分を赦すこと。
そして、間違いを認めること。
それは警察という組織の中で最も難しく、最も人間的な行為だ。
右京は論理で、亀山は情で、創は痛みで、その真実に辿り着く。
だからこそこの第2話は、どんな説教よりも優しく響く。
正義とは、誰かを裁くことではなく、誰かを赦す勇気のこと。
誰もが“もう一人の警察官A”であるという問い
タイトルにある「真犯人は二人いる」は、結局のところ、私たち自身のことでもある。
無関心であること。沈黙を選ぶこと。
それもまた、小さな裏切りの積み重ねだ。
第2話は視聴者に向けて、こんな問いを投げかけている。
「あなたは、自分の中の正義をどこに置いていますか?」
その問いは、ドラマの外に出ても消えない。
ニュースを見て、理不尽を感じ、それでも行動できない私たち。
その葛藤を、“もう一人の警察官A”として描いている。
だからこそ、この物語は終わらない。
事件が解決しても、真実は残り続ける。
それは、視聴者の中で静かに呼吸を続ける“問い”だからだ。
第1話で生まれた希望が、第2話で痛みに変わり、やがてその痛みが“生きる力”へと変わっていく。
この流れこそが、『相棒season23』という長い物語の導入部にすぎない。
そして右京が残した沈黙は、言葉よりも深く響く。
「正義とは、声高に語るものではなく、静かに守るもの」──その信念が、今も特命係の部屋の中に灯っている。
この2話を通して描かれたのは、制度の中で生きる人間たちの苦悩であり、
それでも希望を捨てない者たちの物語だった。
『警察官A』は、終わりではない。
それは、正義の始まりを再び問い直すためのプロローグだ。
紅茶の香りの中で、右京は静かに微笑む。
その瞳には、未来への確信が宿っていた。
「人は必ず過ちを犯す。けれど、その過ちを恐れずに正義を語れるなら、まだ世界は救える。」
『相棒』が今も変わらず愛される理由は、その言葉の中にある。
右京さんのコメント
おやおや……またしても、興味深い事件でしたねぇ。
一つ、宜しいでしょうか?
今回の事件は、「正義」を語る者たちが、いかにその言葉を軽く扱ってきたかを暴き出しました。
権力者も、組織も、そして警察官さえも……。皆、自らの立場を守るために“正義”を都合よく使っていたのです。
ですが、そんな中で唯一その重さを知っていたのは、まだ若い高田創君でした。
彼は迷い、恐れ、時に間違いながらも、人を信じる勇気を失わなかった。
つまり、彼が犯した過ちは“信じるための痛み”であり、責められるべき罪ではないのです。
なるほど……そういうことでしたか。
本当の“逆転”とは、犯人の入れ替わりではなく、正義の形が反転することを指していたのでしょう。
力の正義から、心の正義へ。命を奪うことでなく、命を見つめ直すことで初めて、この事件は完結したのです。
いい加減にしなさい!
人の命を数字で語り、制度の陰に隠れて責任を曖昧にするなど、感心しませんねぇ。
正義とは、立場ではなく、覚悟によって支えられるべきものです。
結局のところ、真実は一つしかありません。
それは――人が人を思う、その心です。
今回の事件で誰が救われたのかと問われれば、答えは簡単ではありません。
しかし、誰かが誰かの痛みを受け止めた瞬間、そこに“再生”が芽生えた。
それが、この悲劇の中に残された唯一の希望でしょう。
さて……
紅茶を一杯淹れながら考えてみましたが、どうやら我々が守るべきものは、法律でも秩序でもなく、“人間の良心”のようですねぇ。
それを忘れたとき、私たちはもう“警察官A”ではなくなってしまうのです。
- 第2話は「正義は一つではない」という痛みの真実を描く
- 高田創が“少年A”から“警察官A”へと成長する物語
- 権力の闇と無関心が生む“もう一人の真犯人”の存在
- 150年の警察史と現代の倫理が交錯する構成
- 右京・亀山・創が示した“信じる痛み”の継承
- 正義とは制度でなく、人の良心に宿るもの
- 沈黙と痛みを共有する“相棒”という絆の深化
- 裏切りの果てに見えた、赦しと希望の光
- 誰もが“もう一人の警察官A”であるという問いかけ



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