「名探偵津田」第4弾 セクシー幽霊は誰?“笑いと色気の境界線”

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バラエティでありながら、まるで一夜の幻想のような緊張感を生んだ「名探偵津田」第4弾。

笑いの中に潜むエロス、仕掛けと演出が生む“現実と虚構のゆらぎ”。その中心にいたのが「セクシーな幽霊」矢埜愛茉だった。

彼女が演じたのは、単なる色っぽい仕掛け人ではなく、「津田が見た幻」そのものだったのかもしれない。この記事では、放送後にSNSを騒がせたこのシーンを軸に、構成・演出・感情の三層からその“魅せ方”を解体していく。

この記事を読むとわかること

  • 「名探偵津田」第4弾で描かれた笑いとエロスの構造
  • 矢埜愛茉の存在がもたらしたリアリティと熱量の理由
  • 水ダウ演出が創り出す“笑いの中の真剣さ”の正体
  1. 「セクシーな幽霊」はなぜ笑いを超えたのか──構造としての“欲望の演出”
    1. 笑いの中に仕込まれた「人間の反応」というリアリティ
    2. 深夜の空気を変えた“演出の間”と“津田の素”
    3. 水ダウが仕掛ける「お笑い×感情操作」の緻密さ
  2. 矢埜愛茉という存在がもたらした“熱量”──キャスティングの妙
    1. 矢埜愛茉の経歴と、表現者としての“二つの顔”
    2. AV女優としての身体性が、番組の文脈に与えた衝撃
    3. 「見せる職業」のプロが、笑いに持ち込む“恥と快楽のリズム”
  3. 「名探偵津田」第4弾に仕込まれた感情構造──100年の祈りと電気仕掛けの罠
    1. “推理”の枠を超えた、津田篤宏というキャラクターの成長線
    2. 劇団ひとりの“死”を笑いに変える脚本構成のバランス
    3. 「100年前」と「現代」のつなぎ方に見る、水ダウの脚本哲学
  4. 視聴者が反応した“セクシーとお笑いの境界線”──SNS分析から見えるもの
    1. 「スケベやん!」に込められた“照れ”の快楽
    2. 「やっと言えました」と語る矢埜愛茉の生配信が映した“裏の素顔”
    3. 炎上しないエロスとは何か──現代バラエティが守る“無邪気さ”の防御線
  5. 名探偵津田という企画の本質──“笑いの中の真剣”を描く装置
    1. 藤井健太郎演出が創る「お笑いドラマ」の進化形
    2. 津田が笑われて、津田が輝く──人間の“照れ”を祝福する番組構造
    3. 観る側の“心の温度差”を利用した、感情の波の設計
  6. 「名探偵津田 セクシー幽霊回」から見える笑いの未来まとめ
    1. 「笑い」と「エロス」は、実は同じエネルギーから生まれている
    2. テレビが失いつつある“ドキッとする感情”を水ダウは再生した
    3. 矢埜愛茉という“幽霊”が、視聴者の記憶に残った理由

「セクシーな幽霊」はなぜ笑いを超えたのか──構造としての“欲望の演出”

「名探偵津田」第4弾を観て、ただ笑っただけで終わった人は少ないだろう。

深夜のバラエティの一幕としてはあまりに濃く、あまりに生々しい。津田篤宏が発した「めっちゃスケベやん!」という言葉に、視聴者の多くは笑いながらも、どこかで“人間の反応”そのものを見せつけられた気分になったはずだ。

なぜこのシーンが、単なるお色気ギャグではなく、笑いとリアリティの境界線を溶かした瞬間として記憶に残ったのか。

笑いの中に仕込まれた「人間の反応」というリアリティ

番組は「幽霊が出る部屋で一夜を過ごす」という設定で始まる。観る側はすでに“仕掛け”を前提としている。だからこそ、津田の反応が芝居なのか本気なのか、誰もが探ろうとする。

しかし幽霊役の矢埜愛茉が登場した瞬間、その構造が崩壊する。彼女が見せたのは、作られた“お色気”ではなく、照明や空気の温度まで支配するような“存在感”だった。

津田が見せたのは、芸人としてのボケではなく、男としての「素」が漏れたリアクションだ。「ええの?」「ありがとう!」という言葉は脚本外のものではないが、そのトーンには“笑い”を超えた無防備さが滲んでいた。

観る者は気づく。これはネタではなく、人間の照れと興奮を可視化した一種のドキュメンタリーだと。

深夜の空気を変えた“演出の間”と“津田の素”

この回のディレクションが秀逸なのは、矢埜の登場を「笑いのリズム」ではなく、「静寂の間」で包んだ点にある。音楽も効果音も最小限。津田が幽霊に対して声を発するまでの約5秒間、画面には“何かが始まる予感”だけが漂っていた。

その静寂が、津田の反応をリアルに変える。人は、緊張と沈黙の中で本音を出す。だからこそ「スケベやん!」の一言が、単なる下ネタではなく、“恐怖と興奮の入り混じった生の感情”に聞こえる。

そして、このシーンで最も興味深いのは、津田が笑いを取ろうとしないことだ。普段の彼ならオーバーリアクションで逃げ道を作る。だがこの回では、完全に“素”の反応を見せている。

その無防備さが、観ている側の羞恥とリンクし、「笑い」ではなく「共鳴」を生む。

水ダウが仕掛ける「お笑い×感情操作」の緻密さ

『水曜日のダウンタウン』の真骨頂は、ドッキリを“構造”としてデザインすることにある。単なる仕掛けではなく、感情の推移を設計していく脚本構成だ。

今回の「セクシーな幽霊」もそうだ。演出は「津田を驚かせる」ことではなく、「津田がどう照れ、どう誤魔化すか」を狙っている。つまり、笑いの主語は仕掛け人ではなく“反応する津田”そのものなのだ。

さらに、幽霊役に矢埜愛茉という“実在感のある人物”をキャスティングしたことが、この構造をより強固にした。彼女の身体性、職業性、そして演技経験すべてが、番組の“現実性”を底上げする。

バラエティという虚構の中で、観客が一瞬だけ「本物の反応」を見たと錯覚したとき、笑いは“リアル”へと進化する

それがこの回の核心であり、「名探偵津田」というシリーズが単なるネタ番組ではなく、“人間の瞬間”を切り取る装置として機能している理由でもある。

幽霊は恐ろしくもあり、魅惑的でもある。その矛盾を笑いに変えるとき、テレビはまだ、観る者の感情を揺らす力を持っている。

矢埜愛茉という存在がもたらした“熱量”──キャスティングの妙

「セクシーな幽霊」の正体が明らかになった瞬間、SNSの空気が変わった。矢埜愛茉――その名前がトレンドに躍り出たのは、ただの話題性ではない。

彼女の登場は、テレビの“仕掛け”にとどまらず、視聴者の中に眠る感情のスイッチを押した。お笑いとエロスの間にある見えない境界線。その線を、彼女は一歩もためらわずに踏み越えたのだ。

このセクションでは、矢埜愛茉という存在の経歴と表現性、そして彼女の身体性が番組の構造に与えた“熱”について考える。

矢埜愛茉の経歴と、表現者としての“二つの顔”

矢埜愛茉は、かつて前田美里という名で活動していた元グラビアアイドルであり、音楽活動も経験している。ガールズユニットからアイドル、そして一般企業勤務を経て、再び芸能界に戻った。2024年に改名し、AV女優としての道を選ぶ。

この経歴の複雑さが、彼女をただの“セクシーな幽霊”に留めなかった。彼女は“見せる職業”としての自覚を持ち、視線の集め方、間の使い方、カメラとの距離感を知っている。

だからこそ、あのワンシーンでの存在感が異様なほどリアルだった。幽霊なのに、生きているように見えた。それは演技の技術ではなく、経験から滲み出る身体の記憶だ。

カメラの前で“視線を奪う”ということがどういうことかを知っている彼女は、ほんの数秒で画面の温度を変えてみせた。

AV女優としての身体性が、番組の文脈に与えた衝撃

バラエティ番組にAV女優がキャスティングされることは珍しくない。しかし「名探偵津田」が見せたのは、そうした起用の“ネタ化”ではなく、表現者としての肉体を文脈に組み込む挑戦だった。

幽霊として登場した矢埜は、恐怖を演じるのではなく、観る者の“恥ずかしさ”を引き出す存在として描かれている。つまり、彼女の身体は「脅かす対象」ではなく「揺さぶる触媒」として機能していたのだ。

津田の「ええの?」「ありがとう!」という言葉が単なるセリフではなく生の反応に感じられたのは、この身体性が観客の想像を突き破ったからだ。観ている側も、津田も、そして演じている彼女自身も、その瞬間、誰もが“演技の外側”に立っていた。

それはまさに、バラエティの中で一瞬だけ生まれた真実の熱だった。

「見せる職業」のプロが、笑いに持ち込む“恥と快楽のリズム”

矢埜愛茉がこのシーンで果たした役割は、視聴者の“恥”を代弁することだった。彼女は幽霊として現れ、津田に迫るが、その間には明確な「距離のリズム」が存在する。

彼女は一歩進み、津田が一歩引く。視聴者はそれを見て笑う。しかし、その笑いの奥で、自分もその場にいたら同じ反応をするという共鳴が生まれる。

この“恥と快楽のリズム”こそ、彼女が持つ最大の武器だ。AV女優としてカメラの前で“見せる”ことを仕事としてきた矢埜は、笑いの中に潜む性的緊張をコントロールできる稀有な表現者である。

だからこのシーンは下品にならず、むしろ純粋に人間臭くなった。笑いとエロスの共存が成立した瞬間だったのだ。

水ダウがこのキャスティングで得たものは、視聴率以上に“人間の反応のリアル”だ。矢埜愛茉という存在が、番組全体の温度を上げ、津田の無防備さを引き出し、結果として「笑いの質」を変えた。

それはつまり、キャスティングが“物語を決定する演出”であることの証明でもあった。

「名探偵津田」第4弾に仕込まれた感情構造──100年の祈りと電気仕掛けの罠

「名探偵津田 第4弾」は、ただのコントドラマではなかった。

その裏に潜んでいたのは、“笑いを使って人間の感情を操る”脚本構造である。タイトルにある「電気じかけの罠」と「100年の祈り」という対照的な言葉は、テクノロジーと祈り、つまり“論理と感情”の対立構図を象徴していた。

本セクションでは、この第4話の脚本構成を「津田のキャラクター成長」「劇団ひとりの死の扱い」「時代を越える物語設計」という三つの角度から読み解く。

“推理”の枠を超えた、津田篤宏というキャラクターの成長線

第1弾から続く「名探偵津田」シリーズの核は、“芸人・津田篤宏がどこまで嘘を信じるか”という実験だ。第4弾では、その信じ込みが最高潮に達する。

今回、津田は「劇団ひとりの死」という明確な“事件”を追う。だが実際には、事件の解決よりも、津田が状況にどう“感情で反応するか”に焦点が当てられている。

このとき、津田は完全に役と同化していた。彼は笑わせるためではなく、“信じきるために動いている”。だからこそ、幽霊の出現や100年前へのリンクといった荒唐無稽な展開にも、どこか切実な感情が滲む。

それは俳優の演技ではなく、芸人が笑いを超えて“物語を信じる”瞬間だ。この真剣さが、視聴者に「津田って、こんな顔をするんだ」と新たな一面を見せた。

劇団ひとりの“死”を笑いに変える脚本構成のバランス

今作の冒頭で、劇団ひとりが電気イスゲーム中に死亡する。この唐突すぎる事件を、脚本は“笑いのスイッチ”として扱う。死という重いテーマを持ち込みながらも、それを「推理の出発点」として再構築するのだ。

この構成の妙は、「死を茶化す」のではなく「死をゲームにする」というバランス感覚にある。水ダウが徹底して避けているのは、不謹慎さではなく“軽薄さ”だ。

ひとりの死は物語上のトリガーであり、津田が探偵として「真実」に触れるための入口にすぎない。だからこそ、物語のテンポは崩れず、笑いと緊張が共存する。

視聴者はその中で、“人が死んでも番組は続く”というテレビの残酷さをうっすら感じ取る。だがそれでも、笑ってしまう。そこにこそ、水ダウの脚本が描く「笑いの哲学」がある。

「100年前」と「現代」のつなぎ方に見る、水ダウの脚本哲学

今回の副題「100年の祈り」は、単なる設定ではなく、作品の構造そのものを暗示している。津田が事件を追ううちに、“100年前に戻る必要がある”と告げられるシーンがあるが、これは時間移動ではなく、「過去と現在の感情を接続する装置」として描かれている。

笑いの番組でありながら、どこか祈りのような静けさが流れるのはそのためだ。人間の“信じたい”という感情を物語の推進力に変え、そこに幽霊、祈り、電気という三つのモチーフを配置する。

電気は理性、祈りは感情、幽霊は記憶。これらが津田というキャラクターを介して交錯するとき、バラエティの枠を超えた“寓話”が立ち上がる。

藤井健太郎演出の特徴は、この「メタ構造」にある。番組内のキャラクターが信じる物語と、視聴者がそれを笑う構図が常に二重化されている。つまり、笑いながら信じ、信じながら笑う

そこには“人は矛盾の中でしか生きられない”という現代的なリアリズムが潜んでいる。津田がどこまで嘘を信じるかという実験は、同時に視聴者がどこまで虚構を楽しめるかの実験でもある。

「100年の祈り」とは、つまり“笑い続けるための祈り”だったのだ。

視聴者が反応した“セクシーとお笑いの境界線”──SNS分析から見えるもの

放送直後、X(旧Twitter)は「セクシーな幽霊」で一色になった。

多くの投稿が笑いと興奮の入り混じったテンションであふれ、タイムラインには「津田のリアクション最高」「幽霊役の子誰!?」といった言葉が連なった。だが、そこにあったのは単なる下ネタ的盛り上がりではない。

視聴者はみな、“テレビの中で人が本気で照れる瞬間”に反応していた。SNSの熱量が高かったのは、笑いではなく“感情のリアル”に共鳴していたからだ。

「スケベやん!」に込められた“照れ”の快楽

「スケベやん!」──津田篤宏が放ったこの一言が、SNS上で何度も引用された。

この言葉には、笑い、驚き、照れ、そしてほんの少しの感謝が混ざっている。津田は芸人としてのリアクションをしているようで、実際には“人間としての正直な感情”を出している。

視聴者はその「素直さ」に惹かれたのだ。バラエティ番組における下ネタは、往々にして“計算された笑い”として消費される。しかしこの回は違った。津田の表情に浮かんだのは、芸人の顔ではなく、「見てはいけないものを見てしまった男の顔」だった。

その生々しさが、観ている者の“照れ”を誘発する。つまり、笑いながら恥ずかしくなる。そこに発生した感情は、“快楽”と“羞恥”の境界線にある、きわめて人間的な感情だった。

SNSで「わかる」「なんかドキドキした」という投稿が多かったのは、視聴者自身が津田の照れに自分を投影していたからだ。

「やっと言えました」と語る矢埜愛茉の生配信が映した“裏の素顔”

放送の裏で、矢埜愛茉本人がYouTubeで生配信をしていた。

「今、名探偵津田を見ております(笑)」「やっと言えました!」と笑いながら語るその姿は、番組中の妖艶な幽霊像とは対照的だった。手が震えていたというコメントからも、彼女自身の緊張と高揚が伝わる。

ここで興味深いのは、彼女のリアクションもまた“演技を終えた人間の照れ”そのものだったことだ。幽霊を演じた後で、彼女自身が“生き返る”ように素の笑顔を見せた。

それを見た視聴者の多くは、「この人、本当に嬉しそうでかわいい」と反応した。つまり、番組内でのセクシーさが、彼女の人間味によって中和されたのだ。

エロスを成立させながらも、嫌悪や不快感を生まなかった理由はここにある。彼女の誠実な“照れ”が、観る者の中に共感を生んだ。

炎上しないエロスとは何か──現代バラエティが守る“無邪気さ”の防御線

SNSで話題になったにもかかわらず、この放送は炎上しなかった。むしろ「面白かった」「津田最高」「矢埜さんプロすぎ」と肯定的なコメントが大半を占めた。

この現象を支えていたのは、“無邪気さ”という防御線である。

津田の反応も、矢埜の演技も、すべて“本気で楽しんでいる”という空気で包まれていた。そこに下心も悪意も感じられない。笑いのトーンが下品に落ちないのは、出演者全員が「遊びとしてのセクシー」を貫いたからだ。

炎上するエロスは、往々にして“支配”や“侮辱”の空気を伴う。だがこの回に漂っていたのは、むしろ「人って照れると面白いね」という純粋な観察の視点だった。

それが、水ダウの持つ“冷静な狂気”の美しさだ。スタッフも、演者も、視聴者も、全員が同じ目線で笑っている。その共有感があったからこそ、SNSの盛り上がりは炎上ではなく祝祭になった。

つまり、現代バラエティが持つべき倫理とは、“真剣な無邪気さ”なのだ。笑いの中に欲望を入れながらも、それを笑い飛ばせる余白を残す。この絶妙なバランスこそが、「セクシーな幽霊」が愛された最大の理由だった。

名探偵津田という企画の本質──“笑いの中の真剣”を描く装置

「名探偵津田」は、単なるドッキリ企画の延長線ではない。

そこにあるのは、笑いという形式を使って“人間の真剣”を描こうとする試みだ。バラエティの皮をかぶりながらも、その中身は脚本、演技、編集、すべてがドラマ的構造で設計されている。

この企画の本質を支えているのは、藤井健太郎の演出哲学と、津田篤宏という稀有な被験体の存在。そして何より、「笑われることで人間を描く」という水曜日のダウンタウンらしい冷徹な優しさだ。

藤井健太郎演出が創る「お笑いドラマ」の進化形

藤井健太郎が手掛ける企画には一貫して「リアルと虚構の交差点」が存在する。名探偵津田シリーズもその代表例だ。彼は笑いを“撮る”のではなく、“設計する”。

そのため、編集にはドラマのリズムが用いられ、BGMの入り方や照明のトーンまでもが緻密に計算されている。今回の第4弾では、特に“間”の使い方が秀逸だった。

矢埜愛茉演じる幽霊が登場するまでの沈黙。津田の戸惑い。そこに効果音はなく、ただ“間”だけが映る。その間こそ、観る者の感情を揺らす装置だった。

藤井の演出は、笑いを爆発させるのではなく、“感情の温度を上げる”タイプの笑いを生む。だから視聴者は、笑いながらもどこか切なく、感動してしまうのだ。

この緻密な温度設計が、「お笑いドラマ」という新たなジャンルを成立させている。

津田が笑われて、津田が輝く──人間の“照れ”を祝福する番組構造

津田篤宏という存在が、この企画の根幹を成している。彼はツッコミとしての鋭さを持ちながら、どこか抜けた愛嬌を併せ持つ。その“人間臭さ”が、番組の中で徹底的に引き出されている。

藤井健太郎は津田を笑わせようとはしていない。むしろ、津田が照れる瞬間、逃げ場を失う瞬間を見せることに集中している。

それは芸人にとって最も無防備な状態だ。だが、その「笑われている姿」が、結果的に津田を輝かせている。彼は笑いの中で“恥ずかしさ”を曝け出す勇気を持ち、その姿が視聴者の共感を呼ぶ。

「笑い」と「恥」は本来同じ根から生まれている。人は恥ずかしいと笑い、笑うと恥ずかしくなる。その構造を番組全体が祝福しているのだ。

つまり、“津田が笑われる”ことは“津田が人間として肯定される”ことに他ならない。

観る側の“心の温度差”を利用した、感情の波の設計

名探偵津田シリーズが優れているのは、視聴者の感情を一方向に誘導しないことだ。常に“温度差”を設計している。

ある瞬間、視聴者は津田を笑い、次の瞬間には同情し、気づけば感心している。その感情の変化はまるで波のような構造で、脚本が意図的にそれを作り出している。

その波を生むために、番組は緻密な編集を施している。カメラの引きと寄り、BGMの間引き、そして津田の沈黙。それぞれが感情の“余白”を作り出す。

この感情の波があるからこそ、ラストに訪れる爆笑や驚きが深く響く。視聴者は笑いながら、同時に何か温かいものを感じる。それは、藤井健太郎が描く“人間の構造”そのものだ。

お笑いの目的が「笑わせること」ではなく、「笑いの中で人間を見せること」に変わった瞬間──それこそが、「名探偵津田」という企画が日本のバラエティの中で異彩を放つ理由である。

笑いと真剣の境界線で、人間を描く。そこにあるのは、テレビがまだ“生きている”という証明なのだ。

「名探偵津田 セクシー幽霊回」から見える笑いの未来まとめ

深夜のバラエティに、ここまで“情緒”が宿るとは思わなかった。

「名探偵津田 第4弾」は、笑いと恐怖とエロス、そして人間味が共存する稀有な作品となった。そこにあったのは単なるネタや演出ではなく、“感情を揺らす笑い”という、テレビが長年探し続けてきた理想形だった。

ここでは、この“セクシー幽霊回”が示した笑いの未来について、三つの視点から振り返る。

「笑い」と「エロス」は、実は同じエネルギーから生まれている

人が笑うとき、そこには「緊張の解放」がある。人がエロスを感じるときも同じだ。どちらも、心の奥にある“禁止”を一瞬だけ破る感覚から生まれる。

今回の幽霊シーンが記憶に残ったのは、津田のリアクションがまさにその解放を体現していたからだ。彼は驚き、戸惑い、そして笑う。その過程すべてが、「見てはいけないものを見たときの快感」を映していた。

つまり笑いとエロスは、表裏一体の表現。どちらも“人間の照れ”から生まれる。この本質を番組は巧みに掴み取っていた。

水ダウのチームは、あえて危うい題材を選ぶことで、笑いを“安全地帯”から引き戻した。今や笑いは配慮と倫理に包まれ過ぎている。しかしこの回は、その中で「人間の根源的な感情」にもう一度火を点けたのだ。

テレビが失いつつある“ドキッとする感情”を水ダウは再生した

近年のテレビは、炎上を恐れて“尖った感情”を排除しがちだ。だがその結果、画面から“ドキッとする瞬間”が消えていった。視聴者は傷つかない代わりに、もう何も心を動かされなくなっていた。

その中で「名探偵津田」は、視聴者の心に再び“生きたリアクション”を届けた。幽霊が現れ、津田が照れ、笑いが起きる。そこにあるのは演出を超えた“体温のある瞬間”だ。

この体温こそが、藤井健太郎演出の真骨頂であり、今のテレビに最も欠けている要素でもある。視聴者は、情報ではなく“人の心が動く様子”を求めているのだ。

水ダウは、その需要を無意識に掴んでいる。台本や演出の上に立ちながらも、最後に残るのは人間の反応だけ。笑いは予定調和ではなく、“予測不能な瞬間の芸術”になっていた。

矢埜愛茉という“幽霊”が、視聴者の記憶に残った理由

幽霊役の矢埜愛茉は、わずかな登場時間で強烈な印象を残した。それは彼女が“セクシー”だったからではない。「一瞬で空気を変える力」を持っていたからだ。

彼女の姿は、恐怖でも快楽でもなく、“生きている人間の温度”を帯びていた。矢埜は幽霊として現れ、画面の中で観る者を見つめ返す。その視線に宿っていたのは、テレビという虚構を貫くリアリティだった。

だからこそ、津田のリアクションは成立した。彼の照れと驚きは、彼女の存在感に対する“誠実な反応”だったのだ。視聴者がそれを笑いながら受け止められたのは、矢埜が“恥ずかしさを共有できる幽霊”だったから。

彼女が去ったあと、画面に残ったのは静けさと、どこか温かい余韻。それは笑いのあとに訪れる、心の呼吸のような時間だった。

結局この回が教えてくれたのは、笑いとは“他人の照れを許すこと”だということ。津田の照れ、矢埜の照れ、そして観ていた私たちの照れ──そのすべてを肯定する装置として、笑いはまだ進化を続けている。

「名探偵津田 セクシー幽霊回」は、深夜のワンシーンを超えて、笑いが“人を観察する芸術”になり得ることを証明した。静かな狂気と、無邪気な誠実さ。そのバランスの上に、これからのテレビの未来が立っている。

この記事のまとめ

  • 「名探偵津田」第4弾は、笑い・恐怖・エロスが交錯する“感情装置”として描かれた
  • 矢埜愛茉の出演が、リアルな照れと熱をもたらし、津田篤宏の“素”を引き出した
  • 番組は笑いの中に“人間の真剣さ”を封じ込め、バラエティを越えた構成を実現
  • 藤井健太郎演出が、ドラマ的間と編集で“感情の波”を設計し、視聴者を引き込む
  • 「スケベやん!」という一言に、笑いと羞恥と誠実さの全てが凝縮されていた
  • 矢埜愛茉の生配信やSNS反響が、笑いを“共感の熱”へと昇華させた
  • 水ダウが再生したのは、テレビが忘れかけた“ドキッとする人間の瞬間”だった
  • この回は、笑いが“人を観察する芸術”であることを証明した象徴的な作品

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