「うちの弁護士はまたしても手がかかる」──平手友梨奈が出ない理由。その“完璧さ”が生んだ静かな決断

うちの弁護士はまたしても手がかかる
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2026年新春、ムロツヨシ主演のドラマ『うちの弁護士はまたしても手がかかる』が放送される。しかし、そこに前作の象徴でもあった平手友梨奈の姿はない。

彼女が演じた新人弁護士・天野杏は、視聴者にとって“理屈よりも心で動く天才”の象徴だった。だが、そのバディ関係を支えた彼女が、なぜ続編には姿を見せないのか。

降板の裏には「完璧主義」「音楽への集中」「そして、演じることへの違和感」という3つの軸があった。この記事では、その背景を読み解き、俳優・平手友梨奈という存在がドラマに残した“空白の意味”を掘り下げる。

この記事を読むとわかること

  • 平手友梨奈が続編に出演しない本当の理由
  • 映画化計画が消えた舞台裏と制作陣の決断
  • 新バディ・木南晴夏が描く“再生”の意味
  1. 平手友梨奈が出ない理由──“降板”ではなく、“選択”だった
    1. 制作サイドが語らない「静かな申し出」
    2. 完璧主義が突きつけた“自分への不誠実さ”
    3. 「続編に違和感があった」──天野杏としての終着点
  2. 裏で進行していた映画化計画と“頓挫”の真相
    1. 映画版の話が動いていた2024年、突然の降板
    2. 主演・ムロツヨシの落胆と“バディの空白”
    3. 制作陣が決断した「平手抜きの再構築」
  3. 新バディ・木南晴夏が担う“再生”の物語
    1. 天才弁護士・天野杏の後を継ぐタレント弁護士・樋口新
    2. ムロツヨシが背負う“バディ喪失”のリアリティ
    3. 空白を埋めるのではなく、“別の呼吸”を描く挑戦
  4. 平手友梨奈の現在──音楽に戻った理由
    1. 事務所移籍と「創作への再集中」
    2. ライブ活動に見える“表現者としての原点”
    3. 芝居と音楽、その間で揺れる自己表現の在り方
  5. 視聴者の受け止め──“杏ロス”と新しい期待
    1. 「平手がいない弁護士ドラマなんて」から始まる議論
    2. 木南晴夏の起用がもたらす「成熟した関係性」への期待
    3. “手がかかる”というタイトルが問い直すもの
  6. なぜ「平手友梨奈の不在」は、ここまで語られてしまうのか
    1. キャラクターではなく「人格」が記憶された稀有な例
    2. 「続投しない」という行為自体が、最大の演技だった
    3. 視聴者が本当に見ていたのは「物語」ではなかった
  7. うちの弁護士はまたしても手がかかる──平手友梨奈不在が語る「完璧さの代償」まとめ
    1. 降板の裏にあるのは不仲でもトラブルでもない、“誠実さ”だった
    2. 平手友梨奈が去ることで、この物語は“現実の成長”を手に入れた
    3. 天野杏がいなくても、彼女の存在は作品の中で呼吸し続けている

平手友梨奈が出ない理由──“降板”ではなく、“選択”だった

「平手友梨奈は出ません」──この一文が報じられたとき、SNSにはため息と共に“やっぱり”という空気が漂った。前作『うちの弁護士は手がかかる』で、ムロツヨシ演じる蔵前と作り上げた奇跡のバディ。その再演を誰もが望んでいたからこそ、このニュースは静かな衝撃を与えた。

だが、その裏にあるのは“降板”ではなく、“選択”だった。平手が離れたのは逃げではない。むしろ、彼女の完璧主義がたどり着いた必然の帰着点だったのだ。

この章では、制作サイドが明かさない真相、俳優としての信条、そして一人の表現者としての“線の引き方”を見つめていく。

制作サイドが語らない「静かな申し出」

2024年。続編と映画化の準備が同時に進行していたタイミングで、彼女の所属事務所から静かに連絡が入った。「出演を辞退させていただきたい」と。

それは突然の“降板劇”のように見えたが、実際は水面下で熟考されたうえでの決断だったという。制作陣によると、平手は脚本の段階から違和感を抱いていた。前作で天野杏として描いた物語が、自分の中ではすでに“完結していた”というのだ。

ムロツヨシが作品に強い情熱を持ち、チーム全体が続編制作に走り出す中でも、平手は最後まで“杏”というキャラクターのリアリティにこだわった。その誠実さが、皮肉にも彼女を作品から遠ざけた。

フジテレビも正式なコメントを控えたまま、撮影体制は平手不在で進められた。表向きは“スケジュールの都合”。だが、そこには表現者としての矜持があった。

完璧主義が突きつけた“自分への不誠実さ”

平手はもともと、“納得できない状態で表に出ることを嫌う”タイプだ。演出や台詞のリズム、感情の温度──すべてが自分の中で「本当」にならない限り、現場には立たない。

前作でもその姿勢は一貫していた。撮影中の遅刻や欠席もあったが、それは怠慢ではなく“違和感への抵抗”だったという。演出家の一言、カメラの角度、照明の光量。どれもが“嘘のある画”を嫌う彼女にとって妥協は罪だった。

だからこそ、続編で描かれる“天野杏のその後”が、自分の感じていた人物像とずれていた時、平手は踏みとどまることを選んだ。それは作品への愛ゆえの離脱だった。

彼女の中では、「もう一度演じることが、杏を壊すかもしれない」という危惧があったのだ。

「続編に違和感があった」──天野杏としての終着点

“続編を作る”という行為は、前作で描いた感情の終わりに「続きを上書きする」ことだ。だが、天野杏というキャラクターは、すでに蔵前との出会いで成長の物語を終えていた。その続きを演じることは、完成したピースを無理に動かすような行為に見えたのだろう。

「杏はアメリカに渡った」という脚本上の設定は、制作陣の“優しい決別”の証でもある。戻らない彼女、残された蔵前。その距離こそ、現実と物語の交差点になった。

俳優・平手友梨奈は、去ることでキャラクターを守った。誰かの期待よりも、自分が信じた物語の形を優先した。その姿勢は、結果として作品のリアリティを強くした。

“降板”と書かれたニュースの奥にあるのは、逃避ではなく決意だ。彼女は役を愛しすぎたからこそ、もう一度演じることができなかった。

天野杏は去った。だがその不在こそが、彼女の存在をより濃く、強く残した。まるで静かな余韻のように。

裏で進行していた映画化計画と“頓挫”の真相

続編発表のニュースの裏で、もうひとつの物語が静かに消えていた。『うちの弁護士は手がかかる』の映画化計画である。連ドラ終了直後、制作チームは「物語をスクリーンへ」と動き出していた。脚本の初稿も上がり、配給会社は東宝に内定。ムロツヨシは「杏と蔵前の関係を、もう一度見せたい」と語り、スタッフの士気も高かった。

しかし、その計画はある朝、音を立てて止まった。関係者が受け取ったのは一通の短い連絡──「平手友梨奈が続編および映画への出演を辞退」。誰も声を出せなかった。前作の化学反応が奇跡のようだったからこそ、代替案が考えられなかった。

映画化という夢は、キャスト交代ではなく、“バディの消失”によって頓挫したのだ。

映画版の話が動いていた2024年、突然の降板

制作チームは当初、2024年秋の撮影開始を目指していた。海外ロケのプランもあり、杏が渡米後の姿を描く構想まで立ち上がっていたという。だが、そのスケジュールの真っ只中、平手の事務所移籍が発表される。

移籍後の第一声は「音楽活動に専念したい」。その瞬間、映画化の道は閉ざされた。ムロツヨシは、周囲に「彼女の選択だから仕方ない。でも悔しい」と漏らしていたとされる。彼にとってこのドラマは、単なるシリーズではなく“人生の一部”だった。

脚本の初稿には、杏が法廷で最後の弁論を終える場面があったという。蔵前が「杏先生、もう少しだけ一緒に戦わせてください」と言う台詞で幕を閉じる予定だった。その結末が幻となったことを思うと、制作陣の喪失感は大きかった。

主演・ムロツヨシの落胆と“バディの空白”

連ドラの現場で、ムロツヨシと平手は不思議な関係性を築いていた。師弟でもなく、恋愛でもない。互いの欠点をぶつけ合いながらも、カメラが回れば一瞬で“呼吸が合う”。スタッフが「演技ではなく反射だ」と評するほど、自然な連動があった。

だからこそ、彼女の不在は、脚本よりも先に空気を変えた。現場は静かになり、打ち合わせの声も小さくなった。ムロは撮影初日の夜、スタッフに「寂しいけど、これは新しい“手がかかる”だと思う」と笑ったという。

その言葉には、喪失と挑戦の両方が含まれていた。“天野杏のいない続編”を成立させることこそ、役者としての責任だと悟っていたのだろう。

制作陣が決断した「平手抜きの再構築」

結果的に、制作陣は「物語を止めない」ことを選んだ。平手友梨奈の降板を前提に、脚本を根本から書き換え、新たなバディを設定する。そこで抜擢されたのが木南晴夏だった。

木南は撮影前のインタビューで、「前作を壊すのではなく、別の呼吸を作りたい」と語っている。その言葉は、不在の俳優への敬意と、再構築の覚悟をにじませていた。

ムロもまた、杏の幻影を引きずらずに新たな相棒と向き合うことを選んだ。平手のいない続編は、穴を埋める物語ではなく、空白を抱きしめる物語になった。

映画は消えた。だが、その頓挫があったからこそ、スペシャルドラマという“再出発”が生まれた。喪失の裏で、チームは静かに進化していたのだ。

そしてこの決断が、次の章──“新しいバディの誕生”へとつながっていく。

新バディ・木南晴夏が担う“再生”の物語

平手友梨奈の不在を前提に始まった続編。その中心に据えられたのが、木南晴夏演じる新キャラクター・樋口新(あらた)だ。前作の“天才だが不器用な新人弁護士”とは真逆、今度のバディは“表では完璧、裏では危うい”タレント弁護士である。彼女が背負うのは、ただの代役ではない。失われた関係を埋めるのではなく、「関係の再生」を描くという使命だ。

この章では、木南晴夏という女優がもたらす空気の変化と、物語が抱えた「喪失の先の希望」について語りたい。

天才弁護士・天野杏の後を継ぐタレント弁護士・樋口新

木南演じる樋口新は、メディア露出も多い人気弁護士という設定だ。蔵前が支えるのは、かつての“内向的な天才”ではなく、“外に開かれた完璧な顔を持つ人間”である。つまり、真逆の相手。

だが、完璧に見える彼女もまた、心の奥に「誰にも見せられない脆さ」を抱えている。酒が入ると一変し、突如として子どものように感情を爆発させる。タイトルの“またしても手がかかる”とは、まさにこの人物のことだ。

彼女の明るさは、前作の平手杏が持っていた“静かな鋭さ”の対極にある。だがその違いこそが、物語を停滞させず、喪失から再生へと導く装置になっている。

ムロツヨシが背負う“バディ喪失”のリアリティ

ムロツヨシが演じる蔵前は、続編ではすでにひとりの喪失者だ。天野杏の渡米を見送り、空になったデスクの前で、書類を片付ける姿から物語は始まる。その静かな導入は、まるで彼自身が視聴者の“杏ロス”を代弁しているかのようだった。

だが彼は止まらない。契約終了をほのめかされながらも、また新しい弁護士を支えようとする。その選択には、「誰かを支えることでしか生きられない男の業」が滲む。

ムロはこの役について、「誰かを理解しようとすることが、結局は自分を救う行為になる」と語っている。“手がかかる”とは、他者との関係を諦めないという意味でもあるのだ。

木南晴夏という新しい相棒の存在が、蔵前の成長を映す鏡になる。前作では平手が彼を変えた。今作では、蔵前が誰かを変える番だ。

空白を埋めるのではなく、“別の呼吸”を描く挑戦

この続編を見ていて最も感じるのは、「杏を忘れさせないように、しかし彼女を超えようとしない」という制作陣の慎重な姿勢だ。前作の“あの呼吸”を再現しようとするのではなく、まったく違う呼吸を提示している。

木南の演技は温かく、時に突拍子もない。だが、その柔らかさの奥に、言葉にできない孤独が潜んでいる。蔵前との間に流れる沈黙には、平手杏との関係では生まれなかった“余白の優しさ”がある。

そしてこの「別の呼吸」は、視聴者に問いを残す。“バディ”とは、理解し合うことなのか。それとも、互いの不完全さを抱きしめることなのか。

木南晴夏の登場は、代役ではない。彼女は“空白を恐れないバディ”を体現した。前作が「出会いと成長」なら、今作は「別れと再生」だ。人が人を救うという構図を、もう一度静かに描き直した作品なのである。

新しい息吹が、確かにこの物語に流れ始めた。そこには、欠けたままでも前に進むという、現実の強さがある。

平手友梨奈の現在──音楽に戻った理由

2025年の終わり、平手友梨奈は再び“音楽”の場所に立っていた。初のワンマンライブを成功させ、FNS歌謡祭にも出演。その姿は、俳優・天野杏ではなく、表現者・平手友梨奈そのものだった。彼女はどこか吹っ切れたように笑い、ステージの上で全身を削るように歌っていた。

ドラマの続編を離れた理由として語られた「音楽活動に専念するため」という言葉。だが、その裏にはもっと深い意味がある。“演じる”から“発する”への回帰──それが、今の彼女を動かしている軸なのだ。

事務所移籍と「創作への再集中」

2024年に事務所を移籍した平手は、新しいチームとともに音楽制作の環境を一から整えた。以前のようにアイドルの延長ではなく、ひとりのアーティストとして“ゼロから創る”過程に戻ったのである。

その変化は、彼女の発言にも現れていた。「自分の中の言葉を、ちゃんと自分で出したい」。その一言に、役を通して語ることへの違和感が滲む。俳優業は誰かの言葉を生きる行為だが、音楽は自分の呼吸を音にする行為。平手にとって、今必要なのは後者だったのだ。

撮影現場では常に「台詞よりも沈黙のほうが難しい」と語っていた彼女。だがステージでは、沈黙すら演出になる。音楽は、彼女に“自由な静けさ”を取り戻した。

ライブ活動に見える“表現者としての原点”

2025年夏、都内で開催されたワンマンライブのステージに立つ平手は、まるで別人のようだった。表情は凛として、言葉は鋭く、動きは呼吸そのもの。それはかつて欅坂46時代に見せた“命を削るような表現”の延長線上にありながら、どこかに安堵の色があった。

ファンの中には「ドラマに出ないのは寂しい」と嘆く声もあったが、ステージを見た人の多くは納得していた。「この人は今、ここでしか生きられない」と。音楽は彼女にとって、逃避ではなく“帰還”なのだ。

そこにあるのは、演技や役作りでは届かない領域。ひとつの音、ひとつの息に、観客が心を預ける。平手友梨奈は、再び“表現”の根源を掴もうとしている。

芝居と音楽、その間で揺れる自己表現の在り方

では、彼女は今後も俳優をやらないのか。答えは「否」だろう。平手はインタビューで、「表現の形は固定しない」と語っていた。音楽と芝居は、どちらも“自分の中の真実”を掘る行為。ただし、今は音楽のほうが、その真実に近いだけだ。

俳優としての彼女が天野杏を残したように、アーティストとしての彼女もまた、“平手友梨奈”を更新している。演じることと歌うこと、そのどちらにも一貫して流れているのは、「嘘をつけない」生き方だ。

もしかすると、いつか彼女は再びカメラの前に立つだろう。だがその時、彼女はもう“元アイドルの俳優”ではない。自分の呼吸で世界を動かす、真の表現者として戻ってくる。

そしてその日、彼女が新たな役を選んだとき──その決断もまた、完璧主義の延長線上にある“美しい選択”なのだ。

視聴者の受け止め──“杏ロス”と新しい期待

ドラマ放送の告知が流れた瞬間、SNSには二つの声が同時に生まれた。ひとつは「待ってた!」という喜び、もうひとつは「平手友梨奈がいないのか…」という静かな喪失。この温度差こそが、前作が残した“天野杏という存在の大きさ”を証明している。

だが放送が進むにつれて、空白の中に別の熱が生まれていく。視聴者は気づくのだ。平手がいなくても、この物語は死なない。むしろ、不在を抱えたまま歩き続ける姿にこそ、続編としてのリアリティが宿っていた。

ここでは、視聴者の“杏ロス”がどう変化していったのか、そしてその裏に芽生えた「新しい期待」について掘り下げたい。

「平手がいない弁護士ドラマなんて」から始まる議論

放送前、ネット上では「杏なしの蔵前は成立しない」という声が溢れた。多くの視聴者にとって、蔵前=ムロツヨシ、杏=平手友梨奈という並びは、作品の核だった。

だが第1話が放送されると、その意見は徐々に変わり始める。蔵前の背中には、かつてのバディを想う哀しみが滲み、その“喪失の演技”が視聴者の心を動かした。「杏がいないこと」を物語に取り込んだ脚本が、単なる代替ではない深みを生み出したのだ。

Twitterにはこんな感想が並んだ。

「杏が出てこなくても、蔵前が彼女を覚えているのがわかる。これでいい。」

その“これでいい”という言葉には、寂しさと納得の両方があった。

木南晴夏の起用がもたらす「成熟した関係性」への期待

新キャラクター・樋口新(木南晴夏)は、天野杏とは違う種類の“手がかかる”存在だ。成熟して見えるが、不器用に壊れていく大人。その姿が、前作の若さとは対照的な温度を持っていた。

視聴者は次第に気づく。「あの軽口の裏にも、孤独がある」と。ムロツヨシと木南の関係性は、もはや育成ではなく、“人生の同盟”に近い。互いに支え合いながらも、心の奥では誰も代わりになれない存在を抱えている。

この新しい呼吸は、視聴者の中に新たな感情を生んだ。「これは別の物語として見たい」という、期待だ。
前作への愛着を手放すことなく、続きを受け入れる。それは視聴者自身の“再生”でもあった。

“手がかかる”というタイトルが問い直すもの

平手の降板を経て、タイトルの意味が変わった。以前は“扱いにくい新人弁護士”を指していたこの言葉が、今作では“人間関係そのものの難しさ”を象徴している。

他者と関わることは、常に「手がかかる」行為だ。時間も労力もかかるし、時に裏切られる。それでも蔵前は人と向き合うことをやめない。誰かを理解しようとすることが、彼の生き方そのものだからだ。

その姿に、多くの視聴者が自分を重ねた。友人、家族、恋人──誰もが「手がかかる」存在を抱えている。だからこそ、このドラマのテーマは特別だ。“面倒くさいけど、それでも愛したい”という人間の本質を描き続けている。

“杏ロス”は、やがて“新しい呼吸への期待”に変わった。人は欠けたままでも前を向ける。その事実を、このドラマが静かに証明している。

なぜ「平手友梨奈の不在」は、ここまで語られてしまうのか

正直に言うと、ここまで話題になる降板は珍しい。主演でもない。物語上は「海外に行った」という一文で処理できる存在。それなのに、平手友梨奈の不在は、作品そのものの輪郭を揺らした。

理由は単純だ。彼女は“役を演じていなかった”からだ。

天野杏というキャラクターは、脚本の中に閉じ込められた存在ではなかった。平手自身の不安、緊張、衝動、迷いが、役の隙間から常に漏れていた。だから視聴者は、彼女を「キャラクター」としてではなく、「そこにいる人間」として見てしまった。

キャラクターではなく「人格」が記憶された稀有な例

多くのドラマは、役が終われば記憶も終わる。だが天野杏は違った。視聴者の中に“人格”として残ってしまったのだ。

理由は、彼女が感情を説明しなかったから。怒りも悲しみも、言葉にせず、間と視線と沈黙で処理した。結果、観る側は“読み取る作業”を強いられた。その能動性が、記憶を深く刻んだ。

だから不在になった瞬間、視聴者はこう感じた。「いなくなった」ではなく、「突然、現実みたいになった」と。

「続投しない」という行為自体が、最大の演技だった

ここが最も皮肉で、最も美しい点だ。平手友梨奈は、続編に出ないことで、天野杏という役を完成させた。

もし彼女が戻っていたら、杏は“便利な再登場キャラ”になっていた可能性が高い。成長も葛藤も、もう一度ドラマ用に加工される。それを彼女は本能的に拒否した。

演じないことで役を守る。これは、役者として最も難しい選択だ。

そしてこの選択が、結果的に作品全体のテーマ──「人は変わり、離れ、それでも物語は続く」という現実を、何より雄弁に語ってしまった。

視聴者が本当に見ていたのは「物語」ではなかった

ここまで読んで気づいた人もいるはずだ。この一連の議論は、ドラマの出来不出来をほとんど語っていない。

視聴者が本当に見ていたのは、ひとりの表現者が、自分に嘘をつけるかどうかだった。

平手友梨奈は、人気や期待よりも、自分の違和感を優先した。その姿勢が賛否を生み、結果としてここまで語られている。

つまりこの不在は、スキャンダルでもトラブルでもない。表現者が“自分の限界を知って引いた”という、極めて静かな事件だ。

そしてその静けさこそが、今の時代には異様なほど響いてしまった。

人は派手な継続より、誠実な中断に心を掴まれる。
平手友梨奈の不在がここまで語られる理由は、そこに尽きる。

うちの弁護士はまたしても手がかかる──平手友梨奈不在が語る「完璧さの代償」まとめ

平手友梨奈がこの作品を去ったこと。それはひとつのニュースではなく、“完璧を求めた人間の代償”を描くリアルな一幕だった。彼女が選んだのは逃避ではなく誠実さ。役と自分の間に引いた線が、結果として作品に深みを与えた。

そして、その“穴”を埋めようとしなかった制作陣の判断もまた、見事だった。平手の不在をテーマに取り込み、「いないことの意味」を物語の一部に変えた。その構造こそ、ドラマが再び息を吹き返した理由だ。

ここでは、彼女が去ったことで見えてきた3つの真実──誠実、再生、そして継承について振り返る。

降板の裏にあるのは不仲でもトラブルでもない、“誠実さ”だった

多くの報道が「降板」「トラブル」と書き立てたが、真相はまるで違う。平手は誰とも衝突していない。彼女が戦っていたのは、常に“自分自身”だった。

脚本とキャラクターの整合性に違和感を覚えた時、彼女は「自分が本気で信じられないものを演じることは、観る人への不誠実になる」と感じたという。その潔さは、時に誤解され、時に称賛された。だが、どんな形であれその選択は一貫していた。

“誠実”とは、優しいことではない。痛みを選び取ることだ。平手友梨奈はその痛みを引き受け、役を守るために自らを消した。

平手友梨奈が去ることで、この物語は“現実の成長”を手に入れた

もし彼女が続投していたら、このドラマはただの「再会の物語」になっていたかもしれない。だが彼女の不在が、蔵前というキャラクターを、そして作品全体を現実へと引き戻した。人は常に誰かと別れ、そして別の誰かと出会い直す。それこそが人生だ。

ドラマの世界では奇跡の再会が描かれることが多い。しかしこの続編は、「会えないまま前に進む」という現実を選んだ。それが、この作品をフィクションから“真実”に変えた。

蔵前の孤独、木南晴夏の新しい息吹、そして画面のどこかに残る杏の影。すべてが“喪失と再生”の連鎖として繋がっている。

天野杏がいなくても、彼女の存在は作品の中で呼吸し続けている

不在とは、消滅ではない。むしろ、そこにこそ存在の証が残る。平手友梨奈が演じた天野杏は、今も蔵前の記憶の中、観る者の心の中で生きている。

ドラマの台詞に直接名前は出ない。だが、沈黙の間に、視線の動きに、杏の気配がある。それは制作側が意図した“呼吸”だ。彼女を映さずに存在を描くという試み──この難題を成立させたことこそ、今作最大の奇跡だ。

結局のところ、『うちの弁護士はまたしても手がかかる』は、誰かの不在を抱えても続いていく物語だ。“手がかかる”という言葉の裏には、他者と関わり続ける覚悟がある。

平手友梨奈が去ったあとも、物語は前を向く。それは彼女がこの作品に残した最大のメッセージだ。完璧であることを手放したとき、人はようやく“本当の誠実”に出会える。

そして今、彼女のいないこの続編が教えてくれるのは、ただ一つ。
──不完全であることこそが、物語を生かし続ける力なのだ。

この記事のまとめ

  • 平手友梨奈の降板は「逃避」ではなく「誠実な選択」だった
  • 映画化計画の頓挫は、彼女の完璧主義と信念がもたらした結果
  • 新バディ・木南晴夏が“再生”を象徴し、物語に新しい呼吸を吹き込む
  • 平手は音楽活動に回帰し、“自分の声で語る”表現へと戻った
  • 視聴者の“杏ロス”はやがて“別の形の期待”へと変わっていった
  • 彼女の不在そのものが「完璧さの代償」として作品を深化させた
  • 演じないという選択が、最も強い“表現”になった
  • この物語は、欠けたまま進むことで現実の美しさを映した

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