新春スペシャルドラマ『うちの弁護士はまたしても手がかかる』は、ただの続編ではない。ムロツヨシ演じる蔵前勉が、再び“正義”の曖昧な世界へ踏み出していく物語だ。
渡部篤郎演じる大御所俳優・伍代夏生のドタキャン事件から始まり、木南晴夏演じる弁護士・樋口新との信頼と衝突、週刊誌によるスキャンダル裁判──物語は“法”と“人情”の間を揺れながら進む。
この記事では、ドラマを通して描かれる「人を信じることの危うさ」と「それでも信じようとする強さ」を掘り下げる。法律ドラマの枠を超えた“正月の物語”の核心に迫る。
- 『うちの弁護士はまたしても手がかかる』の核心テーマと人間ドラマ
- ムロツヨシ・木南晴夏・渡部篤郎が描く“正義と信頼”の新しい形
- 怒鳴らない正義、断罪しない優しさが示す現代的メッセージ
法廷よりも心が裁かれる物語|「うちの弁護士はまたしても手がかかる」が映す現代の正義
このドラマにおける“法廷”は、単なる戦いの場ではない。そこは、人が自分の生き方を突きつけられる鏡のような空間だ。ムロツヨシ演じる蔵前勉は、再び弁護士たちの世界に身を置きながら、法律よりも人の心を見ようとする。だが、その優しさは時に、正義の枠からはみ出してしまう。
本作は裁判を通じて「勝つ」ことではなく、「救う」ことを描いている。誰かを守るための嘘、誰かを救うための罪、それでもなお信じたいという心。それらが交錯し、正義という言葉の意味を揺らがせていく。法律ではなく、人間の感情が裁かれているのだ。
この構造は、古典的な法廷ドラマの反転だ。普通なら弁護士が法で人を救う。しかし『うちの弁護士はまたしても手がかかる』の世界では、法そのものが時に人を傷つける。だから蔵前は、あえて法廷で感情をむき出しにする。笑われてもいい。泣かれてもいい。大切なのは、「誰かの心が動いたかどうか」だけだ。
勝ち負けを超えた“救い”の構造
最初のエピソードで登場するのは、渡部篤郎演じる大御所俳優・伍代夏生のドタキャン騒動。表向きは契約違反の裁判だが、その裏では「誰が芸術を支えるのか」という問いが潜んでいる。伍代は自分のために契約を破棄し、蔵前たちは“誠実”の名のもとに裁こうとする。
しかし蔵前は気づく。正義の形はひとつではない。唐沢祐希(濱津隆之)が「スターが映画を作るんじゃない、映画がスターを作るんです」と言い放つ瞬間、彼自身もまた、自分の正義を取り戻している。勝訴よりも大切なのは、自分の信じる道を選べたかどうか。蔵前は裁判の勝ち負けを超え、心の救いを選ぶ。
その選択は時に“負け”として映る。しかし、彼の敗北には誇りがある。法の下で負けても、人として勝つ。その精神が、本作の根底を支えている。救いは判決文に書かれない。救いは人の心の中で静かに成立する。
正義はいつも、遅れてやってくる
このドラマでは、真実がすぐに明かされることはない。裁判の勝敗がついた後に、本当の“正義”が姿を現す。たとえば週刊誌スキャンダル事件で、木南晴夏演じる弁護士・樋口新が訴訟を嫌がる場面。彼女は勝つことに意味を感じていない。だが蔵前は言う。「戦わないと、信じてくれた人の想いが消えるんです」。
この一言で、事務所全体が動き出す。法のためではなく、信頼のために。結果として蔵前たちは小さな勝利を掴むが、その勝利は数字で測れない。“正義はいつも遅れてやってくる”。人の心が理解するまでには、時間がかかるのだ。
ラストで樋口が見せる微笑み、それを見上げる蔵前の表情には、正義の到着を待つ静かな余韻がある。裁判が終わっても、人生は続く。正義は判決の日に終わらず、次の日の朝に始まる。そういう現実的な温度が、このドラマを“正月らしい優しさ”で包んでいる。
『うちの弁護士はまたしても手がかかる』は、善悪を白黒で割り切らない。むしろグレーの中にこそ、最も人間的な光を見出している。その光が、観る者の心の奥に小さな火を灯すのだ。
渡部篤郎が放つ存在感|「罪」と「赦し」を往復する男・伍代夏生
ドラマの中で、最も“人間臭い正義”を体現しているのは、渡部篤郎演じる俳優・伍代夏生だ。彼は華やかな業界の中で生きながら、誠実さを犠牲にしてまで自分を守ろうとする。契約を破り、作品を裏切った“罪人”として登場するが、物語が進むにつれ、その行動の裏にある孤独と誇りが少しずつ明らかになっていく。
伍代という男は、権力を持ちながらも不器用だ。ハリウッドからのオファーを受けて作品をドタキャンするという表面的な行為の裏で、彼はずっと“自分が信じる芸術”にしがみついている。罪を背負ってでも本物でありたい。それが、彼の唯一の正義だった。
蔵前が彼の元を訪ね、静かに言葉を投げかける。「あなたは自分のために頑張ってる。でも、その頑張りのせいで、誰かが居場所を失ってるんです」。その瞬間、伍代の表情がわずかに揺れる。罪を指摘されることで、彼は初めて“赦し”を求める人間になる。
ウインクに隠された赦しのサイン
終盤、伍代が再び登場し、証言台に立つシーンがある。かつて自分の立場を守るために他者を犠牲にした男が、今度は誰かを救うために声を上げる。その変化を象徴するのが、あの“ウインク”だ。渡部篤郎が見せた一瞬のウインクには、彼なりの“赦し”のサインが隠されている。
それは、言葉ではなく、沈黙の中の謝罪だ。俳優という職業を生きる彼にとって、表情一つがすべてのメッセージになる。蔵前や唐沢たちに対して何も説明しないまま、彼はその仕草ひとつで、「わかっている」と伝えているのだ。赦しとは、相手に許されることではなく、自分の中で許せるようになること。
その瞬間、観る側にも小さな変化が起きる。彼を責めていた視点が、いつの間にか理解へと変わる。渡部篤郎の演技は、その“転換点”を微妙なニュアンスで描き切っていた。決して感情を爆発させず、わずかな間と視線で感情の奥行きを伝える。彼の中にある静かな赦しが、物語全体に重力を与えている。
蔵前が見抜いた“努力の本質”とは
蔵前は、伍代に対して最初から怒りをぶつけていたわけではない。むしろ、同じ“支える側の人間”として彼の苦しみを理解していた。伍代はスターとして脚光を浴びるが、彼もまた作品という“他者”を支える立場だった。だからこそ、蔵前の言葉には重みがあった。
「あなたは周りの努力を、自分の努力だと勘違いしてるんです。」この言葉は、彼自身にも突き刺さる。マネージャー時代、蔵前もまたアーティストの陰で“努力の代行”をしていた。だからこそわかる。本当の努力とは、自分のために頑張ることではなく、誰かの努力を認めることなのだ。
最終的に伍代は、唐沢に「映画がスターを作る」と告げ、再び現場に戻る。その背中に蔵前は何も言わない。ただ、信頼のようなものが二人の間に残る。罪を犯した者と、それを責める者。だがその境界線は、もう曖昧だ。どちらも“誰かを信じた”という一点で、同じ場所に立っている。
渡部篤郎が演じる伍代は、このドラマの中で最もリアルな「人間の矛盾」を背負っていた。罪と赦しの間で生きることこそ、人を人たらしめる。そしてその不完全さこそが、正月にふさわしい“人間ドラマ”の温度を作り出している。
木南晴夏の新しい弁護士像|冷徹さの裏にある「傷」
木南晴夏が演じる弁護士・樋口新(ひぐち・あらた)は、このドラマの空気を一変させる存在だ。前作の天野杏(平手友梨奈)が持っていた“まっすぐすぎる正義”とは正反対。彼女は正義を語らず、感情を見せない。冷静で、理屈で、常に一歩引いた場所から人を見ている。だが、その冷たさの裏には、彼女自身の深い傷が潜んでいる。
樋口はかつての裁判で敗北を経験している。そのとき傍聴席から「手を抜いた!」と糾弾した少女――それが後に弁護士となる天野杏だった。つまり、彼女の“正義の原点”は、樋口の失敗から始まっていたのだ。この構造があまりにも残酷で、美しい。過去に敗れた弁護士が、かつての教訓を生んだ相手の影に導かれる。この因果が、スペシャルドラマとしての深みを生んでいる。
樋口は負けを認めないタイプの人間ではない。むしろ、勝つことの虚しさを知っているからこそ、勝ちにこだわらない。だが彼女の合理性は、時に人を突き放す。蔵前が情熱を見せれば見せるほど、樋口は冷めたような視線を向ける。「感情で動く人は、必ず誰かを壊す」と言い切るその目には、かつて自分が壊した誰かへの悔いが宿っている。
正義を語らない者ほど、正義を知っている
樋口が裁判で見せるのは、感情ではなく戦略だ。だが、その無機質な姿勢の奥には、“感情を封印した正義”がある。彼女は自分の理想を失ったわけではない。理想を守るために、感情を封じたのだ。正義を叫ぶ者は、時にその正義に飲み込まれてしまう。だから、彼女はもう語らない。沈黙することで、自分の中の“熱”を生かしている。
法廷での彼女の姿は、まるで計算されたプログラムのようだ。無駄がなく、表情も変えない。しかし、その完璧さの中に、わずかな“揺らぎ”が見える瞬間がある。蔵前が「戦いましょう」と訴えたとき、一瞬だけ目を伏せる。その仕草は、心の奥にまだ誰かを信じたい気持ちが残っている証拠だ。
木南晴夏の演技は、その“微弱な感情の漏れ”を繊細に描く。涙も怒りも使わず、目の動きと声の抑揚だけで感情を伝える。正義を語らないからこそ、正義が滲む。この抑制の美学こそ、彼女が演じる樋口新というキャラクターの真骨頂だ。
理屈の中に感情を閉じ込めた女の戦い方
樋口は、蔵前と違い“信頼”を交渉材料にしない。彼女の世界にあるのは、論理と責任のバランスだけ。だが、物語が進むにつれ、彼女は次第に蔵前の「非効率さ」に引きずられていく。信頼のために動き、感情で行動し、勝ち負けを超えて人を支える――そんな彼の姿に、かつての自分の理想を重ねてしまうのだ。
裁判の終盤、週刊誌を訴える決断をした樋口は、かつての自分と決別するように立ち上がる。冷徹な彼女が初めて感情を見せたのは、法のためではなく人のためだった。記者に追われて転倒し、大怪我を負ってもなお彼女が再び法廷に立つ姿には、理屈を超えた“意地”が宿っている。
「勝てなくてもいい。ただ、誰かの名誉を守りたい。」この言葉に、蔵前も事務所の仲間たちも動かされる。理屈の中に閉じ込めていた感情が、初めて彼女の中から溢れ出す瞬間。それは同時に、彼女自身が自分を赦す場面でもある。
木南晴夏は、樋口新というキャラクターを通して、「女性弁護士=情熱的」というイメージを覆した。彼女が見せたのは、“感情を理屈に変えて生きる強さ”だ。そして、その強さが最終的に蔵前の信念と交わることで、物語は“再生”という形で幕を閉じる。
正義を語らない弁護士が、最後に信じたのは「人」だった。冷徹なようでいて、誰よりも熱い。木南晴夏の眼差しが放つ一瞬の光は、理屈では測れない優しさを宿している。
「脅し」と「覚悟」の境界線|蔵前の一言が変えた法廷の空気
裁判のクライマックスで、蔵前が見せたあの一言――「人の人生を壊していいわけないだろ!」。それは法廷の空気を一瞬で変えた。論理でも証拠でもない。ただの怒り。けれどその怒りは、どんな弁論よりも重かった。蔵前は弁護士ではない。だからこそ、彼の叫びは「法律の外」にある真実として響く。それは“脅し”ではなく、“覚悟”だった。
相手は週刊誌記者・森下(笠原秀幸)。「俺は被害者だ」と言い放つ彼に、蔵前は感情のすべてをぶつける。「被害者?あんたが記事で壊した人の人生はどうなんだ」。一見、感情的で未熟な発言に見える。だがこの瞬間、法廷にいた全員が気づく。“正義”を守る者よりも、“信じることをやめない者”のほうが強いということを。
この場面は、ドラマ全体のテーマを凝縮している。法律が裁けない“心の暴力”に対して、蔵前は感情で立ち向かう。言葉の力ではなく、存在そのものの熱量で相手を黙らせる。彼が発する言葉は法的には意味をなさない。だが、その叫びこそが、失われた人間性を呼び戻す。
脅しではなく、訴えとしての“叫び”
蔵前の行動は、形式的には脅しだ。反社会的勢力との関係をにおわせ、記者を怯ませた。しかし、それを単なる“脅迫”として見てしまえば、このドラマの核心を見失う。彼が脅したのは、相手の良心だ。蔵前は暴力を使わずに、「人としての責任」を思い出させようとしたのだ。
彼の言葉に法的な正当性はない。だが、そこには倫理の正当性がある。理屈ではなく心で動く。これまで冷静な弁護士たちに囲まれていた蔵前が、ついに“人間のまま戦う”瞬間。それは、法廷という理性の世界に情熱を持ち込んだ、まさにドラマ的な爆発だった。
森下が黙り込み、表情を失う瞬間。あれは恐怖ではない。罪悪感が、初めて彼の中で目を覚ました瞬間だ。蔵前の言葉は刃ではなく鏡。彼に「あなたのやったことを見つめろ」と突きつけたのだ。
信じることの代償、それでも人を救おうとする姿
裁判は最終的に蔵前たちの勝利で終わる。だが、その勝利は数字や賠償金の問題ではない。週刊誌の謝罪文が掲載されたとしても、壊れた名誉や傷ついた心が完全に戻るわけではない。蔵前はそれを分かっている。だからこそ、彼の表情には喜びよりも疲労が滲む。
戦いのあと、病室で樋口に向かって蔵前は言う。「あんたを助けたいわけじゃない。信じたいだけなんです」。この言葉に、樋口は何も返さない。だが、その沈黙こそが答えだ。彼女は理解している。蔵前が戦ったのは“自分のため”ではなく、“信頼のため”だったと。
信じることには代償がある。裏切られることもあるし、笑われることもある。それでも、誰かを信じようとする人間がいる限り、正義は死なない。蔵前はその象徴だ。法に救えないものを、人が救う。それがこのドラマの結論であり、蔵前という人物の存在理由でもある。
このシーンの余韻は長い。勝訴の報告よりも、蔵前の小さな「お疲れさまです」という声の方が心に残る。勝ち負けではなく、人の心に何を残せたか。それが、彼にとっての“結果”なのだ。正義の尺度を変えた男の叫びが、静かにこのスペシャルドラマの核心を貫いている。
“手がかかる”という優しさ|人を支えることの不器用な美しさ
「手がかかる」という言葉は、普通なら面倒の代名詞だ。けれど、このドラマではその言葉が“人を愛する力”として描かれている。蔵前も、樋口も、伍代も、誰もが“手がかかる”存在だ。だが、その不器用さの中にこそ、人間のあたたかさがある。完璧でないから、誰かを支えられる。
蔵前の生き方は、効率とは無縁だ。パラリーガルとしては優秀だが、感情を抑えられず、合理的な判断よりも人の想いを優先する。何度も間違え、何度も怒られ、それでも彼は人を信じることをやめない。その姿は、まるで正義を信じたい視聴者の代弁者のようだ。
樋口新という新たな相棒は、そんな蔵前を見て苛立ちながらも、次第に惹かれていく。彼の不器用な行動が、理屈を超えた“何か”を呼び起こすからだ。人は、理解できない誰かに出会うことで成長する。蔵前の「手のかかる」部分が、彼女の心を動かしたのだ。
不完全だからこそ、生きられる
このドラマに登場する人物は、誰ひとり完璧ではない。弁護士も、記者も、俳優も、パラリーガルも、それぞれに欠点を抱えている。だが、その不完全さが、互いを支えるきっかけになる。蔵前は過去の失敗を背負いながら、他人のために動く。樋口は理屈に逃げながらも、蔵前の情熱に救われる。伍代は自己中心的に見えながらも、最後には他人の夢を支えるために証言台に立つ。
彼らは、“不器用な優しさ”で繋がっている。完璧な人間では生まれない関係性だ。間違えるからこそ謝れるし、失敗するからこそ寄り添える。蔵前が言葉にしなかった信念――「正義よりも人を選ぶ」――それこそが、この作品の真のメッセージだ。
そしてタイトルの“手がかかる”には、もう一つの意味がある。“誰かの手が必要”ということ。人は誰かに支えられて生きている。助けられ、迷惑をかけ、時には泣かせてしまう。それでも誰かの手がある限り、人は立ち上がれる。蔵前の存在は、その“支えの形”そのものだ。
正義よりも「信頼」を信じた男の再生
蔵前は、正義という言葉を信じていない。彼が信じているのは、人そのものだ。法ではなく、想い。理屈ではなく、感情。冷静な弁護士たちの世界において、その姿勢は危うくもある。しかし彼は迷わない。なぜなら、彼の中には確かな「信頼の哲学」があるからだ。
それは「人は裏切る。でも、それでも信じたい」という矛盾を抱えた強さだ。信頼とは、裏切られても続ける覚悟。それが蔵前の生き方であり、この物語が描く“人間の正義”だ。彼は勝訴を目指していない。誰かの心が救われること、それが彼にとっての勝ちなのだ。
裁判のあと、蔵前はエレベーターの中でひとり笑う。疲れた顔で、少しだけ上を向いて。「また手がかかるなぁ」と小さく呟くその表情に、全てが詰まっている。彼の人生は、これからも“手がかかる”だろう。でも、それは同時に、誰かを支え続けるということでもある。
このドラマが伝えたのは、“正しさ”よりも“優しさ”の価値。完璧を求めず、ただ人を想う。その不器用な優しさが、いまの時代に最も必要とされている。だからこそ、蔵前という男は手がかかる。けれど同時に、彼のような人がいなければ、世界はとっくに壊れている。
なぜこのドラマは「強い言葉」を使わなかったのか|怒鳴らない正義、殴らないカタルシス
このドラマを思い返してみて、決定的に“ないもの”がある。
それは、スカッとする勝利宣言だ。
法廷ドラマにありがちな、
・相手を完全論破する長台詞
・拍手喝采の逆転勝訴
・悪役が一瞬で黙り込む瞬間
そういう分かりやすいカタルシスが、意図的に排除されている。
代わりにあるのは、気まずい沈黙と、言い切らない言葉と、少しだけズレた正しさ。
それはこの作品が、「強い正義は、もう信じられていない時代」を真正面から引き受けている証拠だ。
怒鳴らない主人公は、なぜこんなに疲れるのか
蔵前は怒鳴らない。
正確には、怒鳴れる立場にいながら、最後の一線で声を荒げきらない。
だから観ている側は、正直しんどい。
「そこで言えよ」
「もっと強く出ろよ」
そんな感情が、何度も喉まで上がってくる。
でも、この“物足りなさ”こそが、このドラマの核心だ。
現実の世界では、怒鳴ったほうが負ける。
声を荒げた瞬間、正しさは疑われる。
SNSでも、職場でも、家庭でも、正論はトーンを間違えた瞬間に信用を失う。
蔵前は、それを知っている。
だから彼は怒鳴らない。
代わりに、相手の目を見て、逃げ道を塞がず、ただ言葉を置く。
その姿勢が、現代における「一番リアルな戦い方」なのだ。
殴られない悪役が、いちばん後味を悪くする
このドラマに出てくる“悪”は、誰一人として完全に破滅しない。
記者も、俳優も、業界も、きれいに裁かれない。
これが、意外と効く。
勧善懲悪に慣れた感覚だと、
「もっと罰を与えろ」
「甘すぎる」
そう感じてしまう。
だが現実は、だいたいこんな終わり方だ。
謝罪文が出て、少し評判が落ちて、しばらくして忘れられる。
人生が完全に終わる人間なんて、そうそういない。
このドラマは、その“ぬるさ”を隠さない。
むしろ正面から見せてくる。
だから後味が悪い。
そして、その後味こそがリアルだ。
スカッとしない。
でも、心に残る。
それは「勝った物語」ではなく、「生き延びた物語」だからだ。
「正しい人」より「残ってしまう人」を描いた理由
この作品は、正しい人間を描いていない。
描いているのは、それでも残ってしまう人間だ。
完璧じゃない。
強くもない。
判断を間違えるし、言葉も足りない。
それでも、現場に立ち続ける。
誰かが傷ついた場所から、離れない。
蔵前という男が象徴しているのは、
「勝者」でも「正義の体現者」でもない。
面倒でも、逃げない人間だ。
このドラマが“正月向き”だった理由はそこにある。
一年を始めるとき、人は完璧なヒーローより、
「今年もなんとかやっていく人」を見たい。
派手な希望じゃない。
革命でもない。
ただ、続いていくこと。
希望とは、勝つことじゃない。
折れながらも、立ち去らないこと。
この独自観点は、まとめの前にどうしても置いておきたかった。
なぜならこのドラマは、
“評価する作品”ではなく、
“付き合ってしまう作品”だからだ。
『うちの弁護士はまたしても手がかかる』ネタバレまとめ|正月に必要だった“やさしいドラマ”とは
このドラマは、派手な演出も劇的な逆転もない。けれど、観終わったあとに静かに胸の奥が温かくなる。そこにあるのは、現代のテレビが置き忘れてきた“人間の余白”だ。正義とは何か、救いとは何か、そして信じるとはどういうことか。その問いに、答えを出さないまま見せる優しさ――それこそが、正月にふさわしい物語の在り方だった。
ムロツヨシ演じる蔵前は、何も変わっていないようで、確実に変わっている。以前よりも迷いが深く、失敗も多い。だが、その迷いや失敗こそが彼の誠実さだ。勝ち負けよりも、目の前の人の涙に向き合うこと。それをやめない限り、彼はどんな場所でも“手のかかる正義”を実践していくだろう。
木南晴夏演じる樋口新もまた、冷徹さの裏で人間らしさを取り戻していく。蔵前と関わるうちに、彼女の中にあった「理屈で守る正義」から、「心で守る正義」へと変化していく。その変化を静かに見せる彼女の演技が、作品に深い陰影を与えた。
笑いと涙の奥にある社会の鏡
本作が巧みなのは、“コメディ”の中に“社会批評”を忍ばせている点だ。マスコミ報道、SNS拡散、契約の歪み、芸能界の虚構――これらはすべて現実の縮図である。蔵前たちが戦っているのは、法の問題ではなく、人のモラルの問題だ。
記者・森下が「俺も被害者だ」と開き直るシーンは、現代社会の責任転嫁の象徴だろう。誰も悪意を自覚していない。だがその“無自覚な加害”が、人を最も深く傷つける。蔵前の叫びは、そんな現代の鈍感さへの警鐘でもあった。優しさが欠落した社会にこそ、優しさで立ち向かうしかない。
笑いながらも心が痛む。登場人物のやり取りに潜む“人間の可笑しさ”が、私たち自身を映している。法廷での一言も、スナックでの軽口も、結局は「人は人を理解しようとして生きている」という事実に帰着する。それがこのドラマの根源的な温度だ。
またしても手がかかるのは、他人ではなく私たち自身だ
ラストシーン、蔵前は再び依頼を受ける。「あなたに頼みたい案件があります」という一通のメッセージ。送り主は樋口新。二人の関係は終わらない。終わらないことこそが救いなのだ。完璧な結末ではなく、“続いていく関係”。それがこの物語の答えだ。
「手がかかる」とは、他人のことではない。自分自身がいちばん手がかかる存在だからだ。弱さを抱え、迷い、時に間違える。けれど、それでも誰かを信じようとする。それが人間の本質だと、このドラマは語る。
エンディングで流れる音楽の中、蔵前が空を見上げて微笑む。彼の視線の先には、まだ何もない。だが、その“何もない”という余白に、未来がある。正月に必要だったのは、派手な奇跡ではなく、静かな希望だった。
『うちの弁護士はまたしても手がかかる』は、法律ドラマの顔をした“人間賛歌”だ。誰も完璧ではなく、誰も完全に報われない。だが、その不完全さこそが生きる力になる。蔵前たちの姿を見て、誰もがきっとこう思うはずだ――「ああ、自分もまた手がかかる。でも、それでいい」と。
- 「うちの弁護士はまたしても手がかかる」は、勝敗よりも“人を救う”物語
- 蔵前が見せるのは、法律を越えた「信頼の正義」
- 木南晴夏演じる樋口新は、理屈の裏に傷を抱える現代的弁護士
- 渡部篤郎が体現する“罪と赦し”がドラマ全体の軸を支える
- 怒鳴らず、断罪せず、沈黙で戦う新しい正義の形
- “手がかかる”という言葉が、人間の不完全さと優しさの象徴に
- 強い正義よりも、折れながらも立ち続ける姿に共感が生まれる
- スカッとしない後味の中に、現代を生き抜くための静かな希望がある




コメント