『猛襲』は、ハリケーンにサメをぶち込めば勝ちだろという乱暴な発想で走り出し、そのまま最後まで突っ走る映画だ。
怖がらせたいのか、笑わせたいのか、泣かせたいのか。その全部を一気にやろうとして、だいたい全部こぼしている。なのに、なぜか途中で切る気にもなれない。
この記事では、「B級だから」で済ませない。なぜ微妙なのか、なぜツッコミが止まらないのか、それでもなぜ少しだけ嫌いになれないのかまで、ラストの後味ごと掘る。
- 『猛襲』が微妙なのに見てしまう理由!
- サメより効いている浸水と孤立の恐怖!
- ラストに残る違和感と後味の正体!
『猛襲』は微妙だ。だが、退屈ではない
この映画、褒めようとすると急に言葉が曇る。
でも、切り捨てようとすると妙に指が止まる。
サメ映画として雑、災害映画としても粗い。なのに83分のあいだ、こっちはずっと「次はどんな無茶をやる気だ」と画面を見続けてしまう。そこが厄介で、そこがこの作品の正体だ。
発想は強いのに、映画としての噛みつきが浅い
最初の食いつきはかなりいい。カテゴリー5どころか「カテゴリー6を作れ」とまで言わせるハリケーンが町へ迫る。その時点で避難できない人間を何人も配置してくるのも、パニック映画としては正解だ。広場恐怖症で家から出られないダコタ、臨月なのに仕事へ向かわされるリサ、まともな大人に守られていない里子の三兄妹。全員が「逃げ遅れる理由」を最初から背負わされている。ここまではかなりうまい。
しかも、ただ海からサメが来るだけじゃない。町が冠水し、食肉加工の血が水へ流れ、濁った水路そのものが猟場になる。発想だけ見れば、かなり嫌な絵が揃っている。車の外は濁流、家の中まで水が入り、床の下ではなく居間の真ん中にサメがいる。この「生活空間が一気に捕食空間へ変わる」気持ち悪さは、本来ならとんでもなく効く。
ただ、映画はそこからもう一段深く噛めない。人物の背景は並べるが、血肉にはならない。ダコタの恐怖も、リサの切迫も、里親家庭の地獄も、ぜんぶ設定としては強いのに、積み上げ方が速すぎて感情の芯に届く前に次の騒ぎへ移る。だから観ている側は「大変だな」ではなく「また盛ったな」と先に思ってしまう。ここが惜しい。強い材料を仕込んでいるのに、料理がずっと早火だ。
この映画の惜しいところ
- 人物設定は濃いのに、感情の掘り下げが浅い
- 危機の種類が多すぎて、ひとつひとつの怖さが伸びきらない
- 「ありえなさ」を勢いで押し切る場面が多く、緊張より先にツッコミが立つ
雑さが欠点であり、そのまま妙な推進力にもなっている
ただし、この雑さは単なるマイナスで終わっていない。むしろ変な燃料になっている。車に閉じ込められた妊婦、家から出られない若い女、町へ押し寄せるサメの群れ、沖から戻るサメ研究者の叔父、さらに里親一家の胸くそ悪さまで同時進行でぶち込まれる。冷静に見れば詰め込みすぎだ。だが、その「入れすぎ」がこの作品を退屈から救っている。
特に笑ってしまうのは、映画がいちいち真面目な顔を崩さないところだ。サメが家に入り込む。人が喰われる。避難できない妊婦が陣痛まで始める。普通なら途中で「もう冗談だろ」と作品側が肩をすくめてもよさそうなのに、この映画は終始本気の顔で押し切る。その無駄な真剣さが、逆に観る側のツッコミを加速させる。ここでは失笑もちゃんと娯楽だ。
要するに『猛襲』は、よくできた映画ではない。だが、雑に作った映画とも言い切れない。やりたい絵、見せたい惨状、転がしたいパニックの順番だけは異様に明快で、その一本気が作品を最後まで走らせる。名作の粘りではない。B級の開き直りとも少し違う。無茶を無茶のまま出してくる厚かましさ。それが妙に後を引く。
でも「途中でやめたか?」と聞かれたら、それも首を振る。
この居心地の悪さこそ、この映画がちゃんと何かを残している証拠だ。.
ハリケーンは効く。サメはやや弱い
この映画を観ていて何がいちばん嫌かと言えば、牙そのものじゃない。
足元の境界が消えることだ。
道路も庭も部屋も車内も、全部が同じ濁った水に沈み、「ここまでは安全」が一気に剥がれる。その恐怖はかなり筋がいい。だからこそ、タイトルの顔であるはずのサメが、ときどき災害映画の助演に落ちる。そこがこの作品の面白さでもあり、物足りなさでもある。
本当に怖いのは牙より先に押し寄せる濁流だ
まず効いているのは水の描き方だ。ハリケーンが町を呑み込む場面には、「逃げ切れなかったら終わり」という単純な圧がある。しかもこの映画、水をただの背景にしていない。濁っていて、深さが読めず、何が流れてくるか分からず、立っているだけで体勢を奪う。ここがちゃんと怖い。サメ映画なのに、最初に身体へ入ってくるのは捕食の恐怖ではなく、足場が奪われる感覚だ。
リサが車に閉じ込められていく流れなんて、その典型だ。外は暴風、逃げ道は水、車は安全圏どころか棺桶に変わる。しかも視界が悪いから、何が近づいているのかも分からない。派手に喰われる瞬間より、その前段階の「詰み方」のほうがずっと嫌だ。部屋に水が入り、家具が浮き、床だった場所が急に水路になる。日常の空間が、何の演出もなく死地へ反転する。その変化のほうがサメより先に観客の喉を締める。
サメ映画のはずなのに、主役の座を災害に食われている
なのに、サメが出てくると少し空気が変わる。悪い意味で「待ってました」の見世物に寄る。もちろん家の中へサメが入ってくる絵面は強いし、水浸しの生活空間を泳がれるだけで嫌悪感はある。ただ、作品の本当の緊張はその一歩手前、つまり「見えない水」と「逃げられない構造」が作っている。サメ自体が場を支配している時間は、案外短い。
ここがこの映画のねじれだ。題材としてはサメが看板なのに、観ていて印象に残るのは高潮、浸水、閉じ込め、孤立のほう。サメが怖くないわけじゃない。だが、脅威の王様にはなりきれていない。災害パニックの土台が思いのほか強くて、その上に乗ったサメがときどきトッピングみたいに見える。サメ映画を観たつもりが、実際は「濁流に街ごと噛まれる話」を観ていた。そんな感触が残る。
この作品で本当に機能している恐怖
- どこまでが地面で、どこからが死地か分からない水の不気味さ
- 車、家、道路といった安全圏が順番に壊れていく閉塞感
- サメが見える瞬間より、何かがいるかもしれない水へ触れる嫌さ
血と浸水の仕掛けは悪くないのに、緊張へ育ちきらない
仕掛け自体はちゃんと考えられている。食肉加工の血が水へ流れ込み、濁流に混ざってサメを呼ぶ。この導線はうまい。ただ「海が荒れたからサメが来た」ではなく、人間の生活圏が作った匂いで地獄が濃くなる。発想は十分にいやらしい。サメが街へ入ってくる理屈としても、かなり筋が通っている部類だ。
それでも、緊張がどこか伸びきらないのは、演出がせっかくの仕掛けを急いで消費してしまうからだ。水の中に何かいるかもしれない。血の匂いで寄ってくるかもしれない。床の下じゃなく、もう同じ部屋にいるかもしれない。その「かもしれない」を長く引っ張れば、相当いやな映画になれたはずだ。だが本作は、待つより見せる。溜めるより起こす。だから驚きはあっても、じわじわ神経を削るタイプの怖さには届ききらない。
つまり『猛襲』は、サメが弱いというより、ハリケーンの描写が思った以上に強い。町が沈む怖さ、逃げ場が腐っていく怖さ、その土台がしっかりしているせいで、サメはときどき上乗せの見世物になる。そこを物足りないと見るか、災害パニックとして得をしていると見るかで、この映画の評価はかなり変わる。
ツッコミが止まらないのに見てしまう
この映画の厄介なところは、ちゃんと変だということだ。
しかも、その変さを隠そうとしない。
普通なら「ここはさすがに雑だな」で気持ちが切れる場面でも、『猛襲』はその雑さごと前へ転がる。だから呆れる。なのに目が離れない。緊張感と失笑が同じ画面に居座り、ツッコミそのものが鑑賞体験の一部になっていく。ここまで来ると、欠点ですら推進力だ。
水に囲まれた出産シーンは、緊迫感と無茶が殴り合っている
いちばん象徴的なのは、やはり出産のくだりだ。妊婦が極限状態で命をつなぐ場面は、本来なら観る側の息が止まるところだ。しかも周囲は冠水、家は崩れかけ、外にはサメ。条件だけ並べれば、悪夢としてはかなり強い。ところがこの映画、その悪夢を妙にスムーズに進める。こっちは「いや今それどころじゃないだろ」と思うのに、物語は「でも産まれるものは産まれる」で突破していく。この強引さがまずすごい。
もちろん絵としては強烈だ。水が迫る室内、押し潰されそうな空間、逃げ道のない妊婦。その状況で新しい命を産み落とす。文字にすると狂っているのに、映像は妙に大真面目だから余計に笑ってしまう。しかも、笑っている場合じゃない場面だと分かっているから、その笑いに少し罪悪感まで乗る。ここがこの映画の妙な後味だ。ただのギャグなら軽い。ただのシリアスならしんどい。『猛襲』はその中間で、観客の感情をずっと落ち着かせない。
何より笑ってしまうのは、細部を気にし始めると一気に崩れる点だ。こんな環境でそんなにうまくいくのか。処置はどうした。安全はどうした。いろいろ浮かぶ。だが、映画はそこに立ち止まらない。理屈を詰める前に次の危機を投げる。この乱暴さが雑であり、同時に「考えるな、飲み込まれろ」という無茶な迫力にもなっている。
里親一家のくだりは、嫌なやつを食わせる快楽に正直すぎる
里子の三兄妹と里親一家のパートも、かなり露骨だ。養う側の大人がほぼ最悪に設定されていて、観ているこっちは早い段階で「ああ、この連中は食われるためにいるな」と察する。その読みを映画はまったく裏切らない。むしろ期待に全力で応える。嫌なやつが嫌なまま退場する。その分かりやすさは安直と言えば安直だが、娯楽としては妙に気持ちいい。
ここで面白いのは、映画が善悪の陰影を作ろうとしていないことだ。里親側に複雑な事情を持たせるでもない。子どもたちの怒りを綺麗に昇華するでもない。ただ「こんな大人は沈め」という観客の下品な欲望を、サメの口を使って処理していく。上品さはゼロだ。だが、その下世話さが作品全体のトーンと妙に噛み合っている。ハリケーンもサメも出しておいて、道徳だけ急に繊細になられても困る。だからこの直球さは、むしろ正しい。
このあたりでツッコミが増殖する理由
- 極限状況なのに、展開の突破方法が毎回かなり豪快
- 嫌な人物の処理が容赦なく、物語の品より快感を優先している
- リアルに寄せる気配を見せた直後、急にB級のアクセルを踏み込む
爆薬も電流も大ザメも、解決が全部力技だから逆に笑える
終盤に向かうほど、この映画は繊細さを捨てる。子どもたちは爆発物でサメを吹き飛ばし、デイルは電流で対抗し、それでも足りないところへさらにデカいサメまで投入する。解決の階段を一段ずつ上るのではなく、「もっとデカい手」を横から何度も投げ込んでくる。そのたびに「もう少し積み上げろ」と言いたくなるのに、同時に「そこまで行くなら見届けるか」という気分にもなる。
特に笑えるのは、人間が知恵で勝った感じがあまりないところだ。もちろん抵抗はする。逃げもする。だが、勝利の輪郭はかなりあやしい。乗り切ったというより、たまたま死ななかったに近い。しかも、その偶然を映画があまり恥ずかしがらない。ここまで来ると清々しい。普通なら隠したがるご都合主義を、堂々と画面に出してくるからだ。
だから『猛襲』は、ツッコミを入れるほど面白くなる。リアリティの穴を探す見方とも、純粋に怖がる見方とも少し違う。「次はどんな無茶で乗り切るんだ」という半笑いの視線が、いちばんこの映画に合っている。緻密さでは勝負していない。整った恐怖でもない。だが、雑に暴れて、雑なまま記憶に残る。そのしぶとさだけは本物だ。
でもこれは、「そんな都合よくいくか」を連打してくるせいで、逆にひとつの芸になっている。.
ラストだけ妙に引っかかる
この映画、道中はいくらでも笑える。
なのに見終わったあと、変に残るのは終盤の感触だ。
全部が雑なら、観終わった瞬間に蒸発する。けれど『猛襲』は、最後の数手だけ妙に「ただのバカ映画」で終わることを嫌がっている。そのせいで、作品全体の粗さとは別のところに小さな棘が残る。そこが少し面白い。
人間が勝った話ではなく、たまたま生き残った話に近い
終盤の構図を冷静に見ると、この映画は人間の勝利をきれいに描いていない。ここがまず引っかかる。たしかに登場人物たちは抵抗する。逃げる。撃つ。爆破する。知恵も絞る。だが、あの地獄を「攻略した」と呼ぶにはかなり苦しい。嵐は止まらず、水は引かず、サメも全部消えない。乗り越えたというより、潰される直前でたまたま隙間をすり抜けた、という感触のほうが近い。
この感触はわりと大きい。多くのパニック映画は、最後に人間の意志や判断が勝利の輪郭を作る。だから観客も「よくやった」で席を立てる。ところが『猛襲』は、その爽快感を気前よく渡してこない。特にリサとダコタの線はそうだ。必死に生き延びるが、自分たちの力だけで事態を制圧した感じは薄い。ギリギリを繋いでいるだけだ。その不安定さが、ラストの空気を妙に濁らせる。
ここには欠点と美点が同時にある。普通に観れば「なんだその収まり方は」と言いたくなる。けれど、自然災害と捕食者を相手にした話としては、むしろこっちのほうが変に誠実でもある。人間が全部に勝てるわけがない。勝ったように見えたとしても、それはその瞬間に死ななかっただけかもしれない。映画全体は相当大味なのに、この部分だけ妙に嫌なリアルが混ざる。そのアンバランスさが後味になる。
母になる女と“守る側”に回るサメのねじれた対比
さらに厄介なのが、ラストでサメの置き方が少しズレる点だ。ずっと脅威として扱ってきたはずの存在が、最後の最後で単純な怪物ではなくなる。ここで映画は、リサの出産と“母ザメ”の存在を重ねてくる。この発想、紙一重だ。滑れば笑い話にしかならないし、実際かなり危うい。だが、だからこそ妙に忘れにくい。
リサは新しい命を抱えて、ただ生き残るだけでは済まない身体になる。一方で、海から来た巨大な捕食者にも「産む側」「守る側」の匂いをにじませる。この対比は露骨なくらい分かりやすいのに、映画全体の雑さの中へ投げ込まれるせいで逆に不気味だ。要するに『猛襲』は、最後にだけ少し神話めいたことをやろうとしている。母性、継承、生き物としての本能、そのへんをほんの一瞬だけ触ってくる。
もちろん深掘りは足りない。そこを本気で掘れば、もっと異様な映画になれた。女たちが生をつなぎ、男たちの理屈や制御がその前で無力になる話としても読めたはずだ。だが本作は、そこまで踏み込む覚悟はない。ただ、その入口で止まったこと自体が、逆に奇妙な余韻を作っている。サメに喰われる映画のはずなのに、最後に少しだけ「命を産む話」の影が差す。だから単なる捕食パニックとして処理しにくくなる。
ラストが妙に残る理由
- 人間が完全に勝った形で終わらず、生存があくまで偶然寄りに見える
- 捕食者としてのサメに、終盤だけ別の意味が混ざる
- 助かったはずなのに、世界そのものは何も片付いていない
次の嵐を置いて終わるせいで、救いより不穏が残る
そしていちばん嫌なのが、終わり方の性格だ。普通ならここで一息つかせる。地獄を抜けた、生き延びた、それで幕を引く。だがこの映画は、そんなに優しくない。さらに次の嵐の気配を置いて終わる。これがあるせいで、ラストの救済が一気に仮のものへ変わる。今助かっただけ。また来る。終わっていない。そう思わせた時点で、観客の胸に残るのは達成感ではなく、嫌な継続性だ。
ここでようやく、この映画の本当の主役が見える。サメではなく、個人ではどうにもならない規模の暴力だ。嵐でもいいし、環境でもいいし、世界の壊れ方そのものでもいい。人が一度しのいでも、次が来る。その感覚が最後に露骨になるから、『猛襲』は単なる一回きりのパニックで終わらない。もちろん、そこまで高尚な映画だと持ち上げる気はない。だが、終盤だけは確かに「終わらない災厄」の顔をしている。
だからこのラストは、きれいじゃない。気持ちよくもない。けれど、そこが逆に正しい。サメを倒した、脱出した、助かった、だから全部よし。そんな話にまとめなかったぶんだけ、映画の粗さとは別の場所にわずかな苦味が残る。その苦味があるから、『猛襲』は笑って終わるだけの作品になりきれない。
この映画の厄介さは、まさにそこだ。.
刺さる人、しんどい人
この映画は、万人向けの顔をしていない。
むしろ最初から、合う人と合わない人をかなり雑にふるいにかけてくる。
だから評価が割れるのは当然だ。緻密なサスペンスを期待した人には雑音にしか見えないし、無茶な設定を浴びて笑いながら観たい人にはちょうどいい燃料になる。問題は「面白いかどうか」より先に、「どの角度から観るか」でかなり印象が変わることだ。
真面目なサバイバルを求めると、かなりしんどい
まず、現実味のある極限サバイバルを期待すると相当つらい。なぜならこの映画、危機の並べ方は派手でも、その処理がかなり強引だからだ。人物はギリギリの状況に放り込まれるが、その局面ごとの判断や段取りに「本当にそう動くか?」が何度も混ざる。ここを無視できない人ほど、物語に乗る前にブレーキがかかる。特に妊婦のリサまわりや、ダコタの行動力の跳ね方は、感情として理解できても現実として飲み込みにくい。
しかも『猛襲』は、整合性に執着して観客を納得させる映画ではない。細部の手触りより、「今この場面をどれだけ危険に見せるか」を優先してくる。だから、リアルなサバイバルの怖さ、行動の説得力、人物の細かな心理の連続性を重視する人には、かなりノイズが多い。怖いというより、気になる。ハラハラするというより、「いやいや待て」が先に立つ。その見方になると、83分でも案外長い。
B級の雑味を笑いながら浴びたい人にはむしろ合う
逆に、この映画の雑味を「欠点」ではなく「味」として受け取れる人にはかなり相性がいい。ハリケーンだけでも十分なのに、そこへサメを足す。そのうえ妊婦、広場恐怖症、最低の里親一家、サメ研究者、血の流出、家の中の浸水、爆発、巨大な個体まで盛る。普通なら過積載だ。だが、その過積載っぷりに笑える人には、これはかなり気持ちのいい映画になる。
なにより本作は、変に気取っていない。高尚ぶった象徴で煙に巻くでもなく、シリアス一辺倒で重苦しく固めるでもなく、「嫌な状況をどこまで上乗せできるか」を正面からやってくる。その下世話さがいい。嫌な大人はちゃんと嫌な目に遭うし、危機は危機のまま派手に転がるし、終盤は「そこまでやるか」の連打になる。こういう映画は、冷静に減点していく見方より、半歩引いてニヤつきながら観るほうが絶対に楽しい。
この映画を楽しめる人
- 設定の無茶さを、まずごちそうとして受け取れる人
- リアリティよりも、場面ごとの勢いと絵の強さを優先できる人
- 「ツッコミながら観る時間」そのものを娯楽だと思える人
短尺だからこそ、勢いだけで飲み込めるタイプの一本だ
この映画を救っている最大の要素は、たぶん尺だ。これが2時間近くあったら、粗はもっと露骨に膨らんでいた。人物の薄さも、ご都合主義も、展開の力技も、途中で息切れしたはずだ。でも本作は短い。短いから、気になった穴を埋める前に次の騒ぎが来る。つまり欠点を改善しているわけではなく、欠点が腐る前に先へ進んでいる。この逃げ足の速さはかなり重要だ。
しかも短尺ゆえに、作品の雑な魅力が濃縮される。長々と理屈をこねる時間がないから、映画は「見せたい絵」と「やりたい惨事」を優先して前へ走る。その結果、観終わったあとに残るのは、精巧な物語の満足感ではない。変な場面、無茶な突破、妙に後を引くラスト、そういう断片の連打だ。一本の整った映画というより、妙に記憶へこびりつく瞬間の集合体。そこに価値を見いだせるかどうかで、この作品の点数は大きく変わる。
だから『猛襲』は、「これは傑作か」で測るとたぶんズレる。「この雑さを楽しめる体質か」で測ったほうがいい。真面目に向き合うと腹が立つ。だが、勢いに身を任せると妙に癖になる。ちゃんとしていないのに、印象だけは残す。そういう困った映画が好きな人には、案外ちゃんと刺さる一本だ。
でも、めちゃくちゃな映画に振り回されたい夜には、妙にちょうどいい。.
『猛襲』をどう見るべきかまとめ
結局この映画は、褒めるために観る映画じゃない。
きれいに整理して「ここが優れている」と並べるより、観終わったあとに「あれは何だったんだ」と苦笑しながら反芻するほうが、ずっとこの作品に似合っている。
サメ映画としても、災害映画としても、完成度だけ見れば飛び抜けていない。だが、雑さのせいで消えるどころか、雑さのせいで妙に残る。そこまで含めて、この映画の見方を最後に固めておく。
傑作ではない。でも、見たあとに文句を言いたくなる力はある
『猛襲』をひと言で片づけるなら、「微妙」でも間違っていない。人物の掘り下げは浅い。ご都合主義も目立つ。危機の処理は力技が多い。理屈の甘さを指でなぞれば、いくらでも穴は見つかる。だから完成度だけで殴り合うなら、わざわざ持ち上げる理由は薄い。
それでも、この映画には見終わったあとに口を開かせる力がある。あの出産、あの里親一家の処理、あの終盤の無茶、あのラストの不穏。どれも洗練とは遠いのに、妙に会話のネタになる。つまり「よかった」で終わる映画ではなく、「なんだったんだ、あれ」で記憶へ居座る映画だ。ここは案外ばかにできない。何も残らない凡作より、文句を言いたくなる映画のほうがしぶとい。
しかもその文句は、単なる駄作いじりで終わらない。ハリケーンで町が沈み、家や車が安全圏ではなくなり、そこへサメまで混ざる。その絵の嫌さだけは確かにある。だからこそ、「もっとちゃんと作れば相当いやな映画になったのに」という悔しさまで湧く。要するに『猛襲』は、何もない映画ではない。粗い。だが、粗いからこそ見えてしまう野心と乱暴さがある。その不格好さが、この作品の一番厄介な魅力だ。
サメ映画として見るより、無茶な災害パニックとして味わうほうが正しい
この作品を一番うまく楽しむ方法は、たぶん「最高のサメ映画」を期待しないことだ。サメはちゃんと出る。喰う。暴れる。だが、本当に空気を支配しているのは濁流と孤立と浸水だ。つまり主役は牙だけではなく、生活空間そのものが壊れていく感覚にある。そこを見誤ると、「思ったよりサメが弱い」で終わる。逆に、無茶な災害パニックの延長として受け止めると、この映画は少し居心地のいい変な一本へ変わる。
観るべきポイントは、整った脚本でも精密な恐怖でもない。どこまで状況を悪化させるのか。どこまで真顔で無茶を押し通すのか。そこだ。だから鑑賞態度としては、腕組みして減点するより、半笑いで飲み込まれるほうが正解に近い。サメ映画マニアなら物足りなさもあるだろうし、真面目なサバイバルを求める人にはかなり厳しい。だが、「なんか今日はめちゃくちゃなものを観たい」という夜にはちゃんと刺さる。
結論を言えば、『猛襲』は傑作ではない。だが、駄作とも言い切れない。雑さ、勢い、悪趣味、終盤の妙な余韻、その全部が中途半端に噛み合いながら、妙に忘れにくい一本になっている。笑いながら観る。ツッコミながら観る。少しだけ引っかかって終わる。その体験ごと味わう映画だ。
- 『猛襲』は完成度で圧倒する映画ではなく、無茶さで記憶に残る映画
- いちばん効いているのはサメそのものより、浸水と孤立のいやらしさ
- ツッコミどころの多さが、そのまま娯楽になっている
- ラストは爽快な勝利ではなく、「たまたま生き残った」後味に近い
- 真面目なサメ映画として観るより、雑味込みの災害パニックとして浴びるほうがハマる
でも、「見なくてよかった」と切り捨てるには、変に残る。
その半端さこそが、この映画のいちばん映画的な毒だ。.
- 『猛襲』は微妙なのに、なぜか最後まで見てしまう一本!
- 本当に効いている恐怖は、サメより浸水と孤立の嫌らしさ!
- 出産、爆破、巨大ザメまで、無茶な展開が止まらない!
- ツッコミどころの多さそのものが、この映画の娯楽性!
- ラストは爽快な勝利ではなく、たまたま生き残った後味!
- 真面目なサメ映画としてより、雑味込みの災害パニックとして味わうべき作品!




コメント