【ジークアクス考察】叙述トリックを暴け!シャアとシャリア・ブルはすでに手を組んでいたのか?

機動戦士ガンダム ジークアクス
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「まだシャアと出会っていない」と視聴者が信じ込んでいた第10話。

しかし、その裏ではすでに“彗星と幽霊”の共鳴が始まっていた可能性がある。

この記事では、Gのレコンギスタ第10話に潜む叙述トリックを読み解きながら、シャリア・ブルとシャアの「共犯関係」の真相に迫る。

この記事を読むとわかること

  • 第10話に仕掛けられた叙述トリックの構造と意味
  • シャリア・ブルとシャアの思想的連携の背景
  • ニュータイプを巡る“共感”と“空虚”の再定義
  1. 第10話は視聴者を騙している?すでに2人は連携していた可能性
    1. 時系列の違和感:第9話から第10話の“空白の時間”が意味するもの
    2. シャリア・ブルのセリフの裏に潜むシャアとの接触の証拠
    3. 叙述トリックの構造:演出は何を“隠した”のか?
  2. シャリア・ブルとシャアをつなぐ“空虚”という共通言語
    1. 「彼は私と似ている」——そのセリフが語る深層心理
    2. 虚無から使命へ:ふたりが見た“刻”と思想の変容
    3. ララァの導きが彼らの共鳴を可能にしたのか?
  3. いつ、どこで接触があったのか?可能性の時間軸を追う
    1. “ワイン”が暗号だった?第6話に仕込まれた伏線
    2. シャア不在を装うセリフの真意:視聴者の認識を逆手に取った仕掛け
    3. もし既に連携していたとすれば、何を狙っていたのか?
  4. 彼らは何を変えようとしているのか?“真のニュータイプ”という理想
    1. 「自由では人は生きられない」——シャリア・ブルの悟り
    2. マチュ、ニャアン、シャアが描く“共感の臨界点”
    3. Gレコの主題は“個”の救済か、“集団”の進化か
  5. 言葉を持たない者たちの“共鳴”——シュウジとララァの“感応線”を読み解け
    1. シュウジという“観測者”の役割——彼は誰の感情を拾っていたのか
    2. ララァの“導き”がもたらしたのは、思想ではなく沈黙だった
    3. 言葉では繋がらない者たちが、世界の底でひっそり連帯している
  6. ガンダムGの叙述構造を読み解くまとめ:シャリアとシャアの連携の意味とは

第10話は視聴者を騙している?すでに2人は連携していた可能性

「まだ出会っていない」という前提があるからこそ、彼らのセリフや動きに一種の緊張感が生まれていた。

だがもし、あの時点でシャリア・ブルとシャアがすでに“共犯者”だったとしたら?

本稿では、第9話と第10話の間に仕組まれた“叙述トリック”の可能性を徹底的に読み解いていく。

時系列の違和感:第9話から第10話の“空白の時間”が意味するもの

まず注目すべきは、第9話と第10話のあいだに横たわる“不自然な空白”である。

第9話のラストで描かれていた状況から、第10話では明らかに複数の人間関係が変化し、軍事状況にも進展がある。

特に注目すべきはマチュの技量の成長だ。第10話ではオメガサイコミュ未使用でビットを回避する場面がある。

つまり、彼はシャリア・ブルのもとでかなりの訓練を受けた時間があったと考えられる。

これが事実なら、単なる「訓練」以上の信頼構築がそこにはあり、それはシャリア自身の内面変化とも繋がってくる。

ではこの期間、シャリアは本当に“何もしていなかった”のか?

シャリア・ブルのセリフの裏に潜むシャアとの接触の証拠

第10話で最も印象的なのは、シャリア・ブルがマチュに語ったあの台詞だ。

「違います。彼は私と似ている」

一見すれば、これは“自己投影”にも読めるが、この時点でシャリア・ブルがシャアの内面をここまで正確に把握しているのは異様だ

もしまだ出会っていないのであれば、なぜそこまで理解できる?

おそらくこのセリフは、すでに「接触済み」だったことを前提にした告白だ。

しかもシャアのことを「面白い男だ」と語りながらも、共鳴や尊敬というよりも、「同じ地獄をくぐった者同士の目線」で語っている。

この視点の一致は、言葉を交わさずに生まれるものではない。

ゼクノヴァを通して“刻”を見たシャアと、木星で全てを失ったシャリア。

彼らは、“空虚という感情の通路”を経て、すでに思想的に合流していたと見るべきだ。

叙述トリックの構造:演出は何を“隠した”のか?

ではなぜ物語は、彼らの“接触”を描かなかったのか?

それは意図的な叙述トリック=演出によるミスリードだ。

視聴者が“まだ会っていない”と思い込むことで、彼らの言動が持つ含みをスルーさせる。

これは『コードギアス』でスザクが“裏切った”ことをラストまで見せなかった構造に近い。

言葉や情報を隠すのではなく、“見せた上で勘違いさせる”という極めて高度な語りの技術だ。

そしてこの構造は、「シャアはまだ表に出てこない」という期待感を演出し続けるための布石でもある。

本来なら「再会」はカタルシスとして扱われるべきシーンだが、本作ではその“再会”すら視聴者の見えないところで済ませてしまう。

この冷酷なまでの情報制御こそ、物語を政治的なスリラーに仕立て上げている。

そしてこの構造の核心はひとつ——“もうシャアは動き出している”という事実である。

この時点で彼らは、すでに世界の変革を目指す「同志」として歩き始めていたのだ。

それを知らずに見返す第10話は、まるで別の作品のような“再生”を遂げるだろう。

シャリア・ブルとシャアをつなぐ“空虚”という共通言語

男たちが語り合うとき、それが思想であれ使命であれ、本音を交わせるのは「失ったもの」の話だ。

第10話で交わされたシャリア・ブルの一言——「彼は私と似ている」

このセリフは、彼の魂の奥底からにじみ出た“確認”だ。これは憧れでも評価でもない。

「彼は私と似ている」——そのセリフが語る深層心理

シャリア・ブルがシャアをどう見ていたのか——これはただの政治的共闘ではない。

その根底には、“同じ傷を負った者としての理解”がある。

彼は木星からの帰還後、自分が“空っぽ”であることに気づいた。

何も信じられず、何も背負わない。ただ流されるように存在している。

そんな彼がシャアに対して放った「似ている」という言葉。

それはつまり、“お前もすでに全てを失っているな”という確認に他ならない。

かつて正義を背負った男が、今や己の内部にすら信じられるものを持たない。

その虚無の共有こそが、彼らの共鳴の始点だ。

虚無から使命へ:ふたりが見た“刻”と思想の変容

では彼らは「空っぽ」のままなのか? 違う。

このふたりは、その“虚無”を出発点として、新しい使命へと踏み出している。

シャアがゼクノヴァで「刻」を見た瞬間——それは、未来を見たのではなく、自分の野望の“果て”を見た瞬間だった。

その果てに残るのは、勝利でも支配でもなく、ただの空白。

かつてのように「ザビ家への復讐」を目的にしていた彼は、そこで初めて気づいた。

「自分が望んだ世界に、自分はいらないのかもしれない」と。

同様に、シャリア・ブルも責任から解放されたあとに訪れた“自由”を、むしろ自分を消していく感覚として捉えている。

だからこそ、このふたりは今、「何を壊すか」ではなく、“何を残すか”に意識を向け始めた

この思想の転換点において、彼らは完全に重なり合っている。

ララァの導きが彼らの共鳴を可能にしたのか?

さらに言えば、彼らをつないだ最後の鍵は、おそらくララァ・スンの存在だ。

ララァは単なるヒロインでも、新型ニュータイプの象徴でもない。

むしろ彼女は、“物語を超越する意志”に近い。

シャアとララァ、そしておそらくシャリア・ブルも、ララァとの“感応”を経験している。

ララァに触れた者は、単に感情の高まりを得るのではなく、自己の再定義を迫られる

つまりララァは、彼らの空虚を肯定し、それを埋めるのではなく、「空虚のまま、どう生きるか?」を示した存在なのだ。

シャアとシャリア・ブルが共鳴し得た理由——それは思想や経験だけでなく、

“ララァを介した、非言語的な共感”が成立していたからではないだろうか。

彼らは言葉ではなく、“心の沈黙”で通じ合った。

だからこそ、第10話にセリフの応酬は少なく、しかし濃密な意味が漂っていたのだ。

このセクションを貫くのは、「空虚は敗北ではない。出発点だ」という強烈なメッセージである。

そしてその空虚を見つめ続けたふたりが、次に何を築こうとしているのか。

それは、次のセクションで語るべき“構造としての陰謀”へとつながっていく。

いつ、どこで接触があったのか?可能性の時間軸を追う

「すでにシャリア・ブルとシャアは接触している」という前提に立つと、物語の見え方は大きく変わる。

ではその“接触”は、いつ、どこで、どう行われたのか?

ここでは、第6話以降に散りばめられた伏線と矛盾をもとに、“見えない通信線”を探っていこう。

“ワイン”が暗号だった?第6話に仕込まれた伏線

第6話で、シャリア・ブルの元に送られたワイン。

その銘柄は「Novum Coda」——ラテン語で“新たな結末”を意味する。

これが単なる趣味のアイテムであるはずがない。

届けたのはシムス。彼女はシャリア・ブルの真意を理解し支援する、いわば“連絡将校”のような存在だ。

このワインが「シャアと接触した」「計画は進行中」といった意味を含む、隠されたシグナルだったとすれば?

この場面の直後から、シャリア・ブルのセリフや態度には微妙な変化が見られる。

それまでは“赤いガンダムの行方を探している”口調だったのが、以降はどこか確信めいた余裕がにじむのだ。

「彼が現れること」を信じている態度——それは、すでに会っている人間の表情に近い。

シャア不在を装うセリフの真意:視聴者の認識を逆手に取った仕掛け

第7話のセリフも検証しておきたい。

「赤いガンダムはまたどこかへ消えたというわけですか」

この発言、普通に聞けば「まだ見つかっていない」と受け取る。

だが、キンタ視点で言わせてもらえば、これは“カモフラージュ台詞”である。

シャリア・ブルほどの人物が、「消えた」と他人の情報だけで判断するだろうか?

むしろこれは、「あえて不在を装っている」表現だ。

視聴者に“シャアはまだ現れていない”という認識を抱かせるための、明確な演出の一手。

しかもこのセリフの前後で、彼の作戦は急激に進展していく。

シャアと合流し、計画が実行段階に入ったと考えれば、すべてが合点がいく。

もし既に連携していたとすれば、何を狙っていたのか?

では、仮にシャリア・ブルとシャアが第6~7話あたりですでに接触していたとすれば、彼らは何を仕込んでいたのか?

答えは明確だ。

ギレンとキシリアの同時排除

イオマグヌッソによるキシリア暗殺計画は、あくまで表の作戦。

その裏で、シャアはゼクノヴァの混乱に乗じてキシリアを“仕留める”準備を進めていた。

このとき、ギレン派が残っていては意味がない。だからこそ、ギレン暗殺の情報を先に流した

その裏で、シャリアが計画を進め、シャアが現れる。

このコンビネーションは、もはや戦術ではなく「政変の設計図」だ。

もしこの連携がすでに第10話時点で成立していたとすれば、それは単なる共闘ではない。

“新しいジオンを創るための、始まりのクーデター”だったのだ。

そしてこの共謀劇は、シャアの復活によっていよいよ“見えるもの”になろうとしている。

視聴者が想像していたよりも遥かに深く、冷酷で、美しく仕組まれた「連携の起点」。

物語の見方が変わるその瞬間は、すでに始まっていたのかもしれない。

彼らは何を変えようとしているのか?“真のニュータイプ”という理想

ここまでの伏線と感情を束ねた時、最後に立ち現れるのは「彼らは何を目指していたのか?」という問いだ。

シャリア・ブルもシャアも、単なる反乱者でも復讐者でもない。

彼らは“空虚”を通過し、その先にある“人の進化”を見ようとしていたのではないか?

「自由では人は生きられない」——シャリア・ブルの悟り

第10話、シャリア・ブルは“自由”を語った。

だがそれは解放の賛美ではない。

「私は自分が空っぽになってしまったことに気づきました」

ここで彼が見出したのは、“自由は人間の本能にとって耐え難いもの”というパラドックスだ。

責任や使命を失い、自由になったはずの自分は、自殺寸前まで落ちていった。

つまり彼は、“自由とは孤独である”ことを身をもって知った。

だからこそ、彼は“他者と共にある目的”を必要とするようになった。

それが「真のニュータイプ」の核心に近づいていく。

共感できる者と共に歩む思想——これはニュータイプ論のアップデートである。

マチュ、ニャアン、シャアが描く“共感の臨界点”

この物語には、3人の主要な“ニュータイプ候補”が登場する。

  • マチュ:共感と正義感を持つ行動の人。
  • ニャアン:共感性の欠如と破壊衝動に支配される存在。
  • シャア:かつての私怨から抜け出し、新たな使命に目覚めつつある思想家。

この三者が揃うことで、“感応の質”が問いに変わる

ニュータイプとは単なる超能力者ではない。

他者の痛みを引き受け、次の世代を導ける存在だ。

だからこそ、マチュがラストで“選ぶ生き方”が、物語全体の意味を決定づける。

「共感による共存」こそが、この物語における最も純粋な革新なのだ。

Gレコの主題は“個”の救済か、“集団”の進化か

ここで原点に立ち返ろう。

本作が掲げるテーマは、“ニュータイプのポジティブな描写”だと作者は述べている。

それはつまり、「ニュータイプだからこそ、滅びる」のではなく、「ニュータイプだからこそ、世界を繋げる」という希望だ。

この希望は、個人の内面だけでは成立しない。

ニュータイプが本当に“進化”ならば、それは社会構造を変える可能性に転化されねばならない。

そして今、それが物語のラストに向けて具体的に動き出している。

シャリア・ブルとシャアの共闘、マチュとニャアンの対決、シュウジとララァの存在。

これらすべてが描いているのは、「人間は、共感によって世界を再構成できるのか?」という実験だ。

ニュータイプとは、戦場で“共鳴する者”ではなく、“戦場を終わらせる者”であるべきだ。

第10話までを見て、あなたは何を感じただろうか?

キンタとしては、いま一度こう問いたい。

「自由であること」と「共感しあうこと」は、両立するのか?

答えは、おそらく第11話に委ねられている。

だが、シャリア・ブルとシャアの選んだ道は、それを真剣に問う価値があると、私たちに告げている。

言葉を持たない者たちの“共鳴”——シュウジとララァの“感応線”を読み解け

ここまで、シャアとシャリア・ブルの「同志としての合流」に焦点を当ててきた。

でも、物語全体を貫く“見えない電波”のような何かを感じさせる存在がある。

それが、シュウジとララァ・スンだ。

このふたりは、直接的なセリフや行動で多くを語らない。いや、むしろ“語らなさすぎる”。

でもGの世界では、言葉にならないものの方が、強く世界を動かす

シュウジという“観測者”の役割——彼は誰の感情を拾っていたのか

あの男、ずっと蚊帳の外にいるように見えて、実は物語の“感情軸”の真ん中にいる。

マチュとニャアンの両方に関わりながら、彼は選ばない。寄り添いはするけど、どちらの陣営にも組しない。

でもそれって、“全員分の痛みを受信してる状態”なんじゃないかと思ってる。

彼がシャアやシャリアと違うのは、思想じゃなくて“触れ方”。

多分、彼は誰よりも他人の想念を“体で受け取る”タイプなんだ。

それって、ある意味ニュータイプの原型みたいな存在だろ。

ララァの“導き”がもたらしたのは、思想ではなく沈黙だった

ララァに導かれたシャアは、“野心”の先に“使命”を見た。

でもララァがシャリア・ブルに見せたものは違う。

むしろ、ララァは「何も言わなくていい」という許しを与えたように見える。

その気配を、もっとも濃く感じ取っているのがシュウジではないか?

第9話で彼が語った“薔薇の少女”への接触——あれ、どう考えてもララァとの感応だろ。

その感応は、彼に何を見せたのか。

それがわかるのは、きっと最後の最後。でも今の時点で言えるのは、彼もまた「虚無から何かを選ぶ者」の一人になっているってこと。

言葉では繋がらない者たちが、世界の底でひっそり連帯している

この作品、表向きは政治劇で陰謀劇だけど、本当に描いてるのは“感応の連鎖”だと思ってる。

シャアとシャリアが語るのは「構造」。マチュとニャアンがぶつけるのは「感情」。

でもその間を無言で繋ぐ、“波長の共鳴”みたいな関係が確かに存在してる。

それが、シュウジとララァ。もしくはララァと世界そのもの。

彼らは、戦略や正義の先にある、「誰かが傷つかない世界を祈る者」として配置されてる気がしてならない。

そしてその祈りが、どこかで物語をひっくり返す引き金になるはず。

沈黙のなかで世界を視ている者たち。その存在を見逃すな。

あいつらが“喋り出す”とき、この物語は終わるのかもしれない。

ガンダムGの叙述構造を読み解くまとめ:シャリアとシャアの連携の意味とは

第10話が提示したのは、ただの「連携」じゃない。

それは“知られずに始まっていた革命”の構図だった。

シャリア・ブルとシャア——このふたりの合流は、物語上で描かれない。

描かれないからこそ、その不在が“感情の空白”として視聴者に作用する。

「会っていない」と思わせることで、“会っていた”という事実が後から効いてくる。

これが本作の叙述構造のトリック性であり、演出としての攻撃力だ。

だがそれは単なるミステリ的快感じゃない。

この“隠された連携”が語っていたのは、「人は何度でも空虚から立ち上がれる」という思想だった。

木星帰還後のシャリア、ゼクノヴァ後のシャア、そして多くを語らないシュウジ。

彼らは皆、一度“心の燃料”を失った者たちだ。

だが、だからこそ彼らは迷いながらも、もう一度「何かを為そう」と決意する。

その決意が、ニュータイプという概念に魂を吹き込んでいる。

本作は、「誰が強いか」ではなく、「誰が希望を繋げるか」を描いている。

叙述トリックが仕掛けられたのは、仕掛ける必要があったからじゃない。

むしろ、“希望は常に誰かの見えない手の中で受け渡されている”という、ガンダム史に通底する主題そのものだった。

シャリアとシャアの連携がもし第10話より前から始まっていたなら——

それは「世界を変える意志」が、戦いの演出ではなく、語られぬ感応の中にこそあると教えてくれる。

ここに至って、本作は“語らないことで語る”という次元に踏み込んだ。

そして視聴者に残されるのは、ひとつの問いだけだ。

「あなたは、この沈黙の中に何を読み取ったか?」

叙述トリックは解かれた。

だが、その“解けたあと”に残るものが、この作品の真価なのだ。

この記事のまとめ

  • 第10話に潜む叙述トリックの正体を考察
  • シャリア・ブルとシャアはすでに連携している可能性
  • “空虚”という感情が2人を結びつけた鍵
  • ワインやセリフに仕込まれた接触の伏線
  • ニュータイプの本質は“共感と再出発”にある
  • マチュ・ニャアン・シュウジの三者対比から読み解く未来像
  • ララァの存在が世界の深層を導いている可能性
  • 叙述構造が描いたのは“語られない希望”の物語

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