相棒12 第17話『ヒーロー』ネタバレ感想 誰かのヒーローにはなれなくても

相棒
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「ヒーロー」とは誰の目線で語られる言葉なのか──『相棒season12 第17話 ヒーロー』は、正義と罪、復讐と赦しが交錯する濃密な人間ドラマです。

火災現場で命を救った青年・杉本竜也。しかし彼の目的は“人助け”ではなく、“真実”と“復讐”でした。彼を「ヒーロー」と讃えるマスコミの報道とは裏腹に、彼の心には終わらぬ葛藤が宿ります。

この記事では、そんな杉本竜也と弁護士・里見麗子の対話を通じて、「本当に正しい行動とは何か?」という命題に迫ります。観た後、胸に残る“違和感”や“答えの出ない問い”を言語化したい人へ届けたい、そんな記事構成にしました。

この記事を読むとわかること

  • 『ヒーロー』に込められた“正義と赦し”の構造
  • 杉本と里見、そして右京が抱える矛盾と苦悩
  • 視聴者に残る“モヤモヤ”の意味とその狙い
  1. 杉本竜也はヒーローだったのか?──彼が助けたのは命か、それとも正義か
    1. 「救出劇」は偶然ではなかった──火災現場での行動の裏にあった意図
    2. 「俺はヒーローじゃない」──復讐心と罪悪感の狭間で揺れる青年の心
    3. 感情を美談にすり替えるな──このエピソードが問いかける“称賛の代償”
  2. クルーズ船事故が語られなかった“真実”──企業と弁護士が守ったもの
    1. 過労死か、無理心中か──“船長の死”に対する異なる視点
    2. なぜ里見麗子は真実を隠したのか?──社会正義と法のはざまで揺れた弁護士の論理
  3. 偶然と必然が織りなす人間関係──事件がつないだ“点と線”
    1. 竜也と轟、そして里見麗子──交わるはずのなかった3人の接点
    2. “名もなきヒーロー”報道の裏にある危うさとマスコミの罪
  4. 右京が裁かなかった“正義”──なぜ彼は麗子を責めなかったのか?
    1. 里見麗子への糾弾を避けた右京の“沈黙”が示すもの
    2. 「正しさ」では救えない現実がある──本作に通底する社会派ドラマの哲学
  5. 本当の意味での“ヒーロー”とは──名も告げず、語らずに去る者たち
    1. 助けることで得られるものと、助けたことで背負うもの
    2. ヒーローであることを拒んだ青年が最後に選んだ“行動”
  6. 「裁く側」と「裁かれる側」の揺らぎ──この世界に“完全な正義”なんてない
    1. 杉本は“裁く側”だった──でもそれは、本当に「正義」だったのか
    2. 麗子もまた、“裁かれる側”で終わらなかった
  7. 『相棒 season12 第17話 ヒーロー』の深層に迫るまとめ
    1. 本当のヒーローは誰だったのか?観る者に突きつけられる“問い”
    2. 事件は解決しても、心に残る“モヤモヤ”こそがこの回の核心
  8. 右京さんのコメント

杉本竜也はヒーローだったのか?──彼が助けたのは命か、それとも正義か

偶然を装った出会い、その背後に隠された“意図”。

火災現場から女性を救った青年は、なぜ名乗らずに立ち去ったのか。

このエピソードが描くのは「助けたこと」ではなく、「なぜ助けたのか」だった。

「救出劇」は偶然ではなかった──火災現場での行動の裏にあった意図

冒頭の火災現場で、女性弁護士・里見麗子を救い出した青年──杉本竜也。

このシーンだけを切り取れば、まさに“ヒーロー登場”の瞬間だ。

だが彼はそのまま現場を立ち去り、後日現れたときも「自分ではない」と救出を否定する。

なぜ彼は堂々と名乗らなかったのか?なぜ逃げたのか?

それは彼の中にあった「助けたのは命じゃない、狙っていたのは“真実に近づく機会”だった」という、明確な動機がある。

杉本は、里見麗子が関わった3年前のクルーズ船事故の被害者遺族と親しかった。

その裁判において真実を隠した麗子に、何かの形で近づき、復讐か真相解明の糸口を掴む──それが目的だった。

つまり、この“救出劇”は、正義感による行動ではなく、怒りと疑念に駆られた者の計算された一手だったのだ。

「俺はヒーローじゃない」──復讐心と罪悪感の狭間で揺れる青年の心

火災のあと、杉本は自ら名乗り出て里見と再会する。

しかし、彼の態度にはどこか「後ろめたさ」と「怒りの矛先の喪失」が入り混じっていた。

彼が最も口にしたくなかった言葉──それが「ヒーロー」だ。

彼にとってそれは、自分の行動を都合よく“美談化”されることへの反発に他ならなかった。

「助けた」ことに対して称賛を浴びることで、自分の中にある“怒りの正体”が消えてしまう──それを彼は恐れていたように感じた。

それに彼の過去を辿れば、復讐心は実にリアルだった。

彼が可愛がっていた夫婦を乗せたクルーズ船で事故が起き、6人が死亡。

調査結果も曖昧なままにされ、賠償額は最低限に抑えられ、遺族たちの心には空虚だけが残った。

その渦中にいたのが、企業側弁護士である里見麗子だった。

彼にとって麗子は、「正義のためではなく、勝つために動いた人間」に映っていた。

そんな人間に「助けてくれてありがとう」と言われても、それを“救い”だと受け止めることができなかった。

だから彼は言った。

「俺はヒーローじゃない。復讐のために近づいた」と。

──これほど痛ましくも、真っ直ぐな告白があるだろうか。

彼は“称賛される資格がない”と、自らを裁いていたのだ。

感情を美談にすり替えるな──このエピソードが問いかける“称賛の代償”

この回のテーマは「ヒーローの定義」を揺さぶる。

本来なら賞賛されるべき“命を救った行為”。だがそれが“別の目的のための行動”だったとしたら、その人をヒーローと呼べるのか?

杉本は、復讐という感情から来る行動の中で、人命を救った。

その事実だけを切り取って、「あなたは立派です」と言ってしまう社会に対して、このエピソードは静かに問いを突きつけている。

「ヒーローとは何か?」

「助けた側の“心の動機”は無視していいのか?」

人は往々にして、行動だけを取り上げて讃える。

でも杉本のように、その行動の裏に怒りや悲しみがあった場合、賞賛は時として“罰”になる

物語の終盤、再び命を救った彼に、里見は感謝の言葉を述べた。

それに対して彼は「助けてなんかない」と繰り返す。

彼が求めていたのは「ありがとう」ではない。

誰かが向き合ってくれる“真実”だった。

名も告げず、傷も晒さず、誰かの命を守る。

それは、決して「ヒーロー」なんて軽々しく呼んではいけない重みを持った行為なのだ。

クルーズ船事故が語られなかった“真実”──企業と弁護士が守ったもの

誰かが死んだとき、本当に必要なのは“真実”か、“責任”か。

この物語が掘り下げるのは、事故の真相とその背後にある人間のエゴ、そして“守る”という言葉の二重性だ。

企業と弁護士が選んだのは、“人を守るための嘘”だったのか、“自分を守るための真実の隠蔽”だったのか。

過労死か、無理心中か──“船長の死”に対する異なる視点

3年前のクルーズ船事故──6人が命を落とした海難事故。

最初は“単なる事故”とされていたが、実は船長・上田が乗客を巻き込んで自殺した可能性が浮かび上がってくる。

過労、責任、精神の限界。

そのすべてが、海の上で崩壊したのかもしれない。

事故直前、彼は「もう限界だ」と同僚に漏らしていた。

にもかかわらず、“自殺ではない”ということにされ、事件は幕を下ろされた。

この“真実の操作”に関わったのが、企業のトップであり、そして企業訴訟専門弁護士・里見麗子だった。

彼女は、あえて“無理心中”の可能性に蓋をした。

理由は、「会社が倒産すれば賠償金すら払えない」という現実的な論理。

ここにこそ、この話の最大の問いがある。

“真実を語ること”と“救済を実現すること”は両立しないのか?

弁護士として最善の道を選んだのか、それとも“正義”を売り渡したのか。

答えは、視聴者それぞれに委ねられている。

なぜ里見麗子は真実を隠したのか?──社会正義と法のはざまで揺れた弁護士の論理

企業のために戦う弁護士──この時点で、“悪の代弁者”として見られることは避けられない

特に「里見麗子」というキャラクターには、冷たさと利己性が漂っていた。

だが物語が進むにつれ、彼女の行動には“もう一つの守る”という意志が見え隠れしてくる。

スターリゾートという会社が倒産すれば、遺族たちは1円も受け取れない。

そのためには、“上田船長の無理心中”という情報は伏せねばならなかった。

里見は、被害者の「金銭的救済」という“現実”を取ったのだ。

この選択は、法的には正しい。

でも、倫理的にはどうか? 遺族が本当に望んでいたのは何だったのか?

ここで忘れてはならないのが、“真実”という言葉の重さだ。

金で解決することはできても、「なぜ死んだのか」に答えがないままでは、遺された者の人生は前に進まない

実際に杉本は、その“答えのなさ”に苦しみ、麗子に近づいた。

彼にとっては、金よりも、真実の方がずっと重要だった

そして、彼は自分のやり方で、里見麗子という人間に“答えを求めに来た”。

それが火災現場での行動であり、里見への接近だった。

最終的に麗子は、被害者家族に自ら会いに行き、「自分にできることはないか」と語る。

この言葉には、“勝訴を勝ち取った弁護士”ではなく、“1人の人間としての責任感”が滲んでいた。

そしてそれは、杉本の怒りをわずかでも和らげる要因になったのかもしれない。

偶然と必然が織りなす人間関係──事件がつないだ“点と線”

この物語に登場する人間関係は、すべて偶然のようでいて、どこかで必然にすり替わっている。

「なぜ彼が、あのとき、そこにいたのか?」

その問いに明確な答えがないまま進むことで、視聴者は“つながる違和感”を体感する。

竜也と轟、そして里見麗子──交わるはずのなかった3人の接点

この事件には3人のキーパーソンがいる。

  • 火災現場で弁護士を助けた青年・杉本竜也
  • 3年前の事故を知る企業人・轟
  • 企業側弁護士として真実を封じた里見麗子

もともと関係のない3人だった。

だが、3年前の事故という一点を通じて、見えない線が引かれていた。

轟は事故の真相を知るが、出世と引き換えに沈黙を選んだ。

竜也は轟に電話し、その内容に激昂するが、そのときはまだ“直接的な関係”は見えていなかった。

だが、轟が語った言葉の中に──里見麗子という名が出てきたことで、点が線に変わる。

杉本の中で、里見麗子=“奪われた正義”の象徴となったのだ。

そしてそのとき、彼の行動は偶然ではなく、“意図ある接近”へと変化する。

“名もなきヒーロー”報道の裏にある危うさとマスコミの罪

火災からの救出劇のあと、新聞やテレビが報じたのは、「正体不明のヒーロー」だった。

無名の青年が女性を抱えて煙の中から現れ、名前も名乗らず去る。

──この設定だけで、メディアは“感動的な物語”を作り上げた。

でもこの報道には、ある種の暴力性があった。

杉本が本当に求めていたのは、“賞賛”でも“名声”でもなく、“真実との接点”だった。

その思惑とは裏腹に、報道によって彼は「ヒーロー」にされ、物語の中で感情が置き去りにされてしまう。

そしてこの誤ったイメージが、さらに竜也の孤独を深めていく。

報道された“ヒーロー像”と、実際の竜也の苦悩。

そこに乖離が生まれれば生まれるほど、彼は「本当の自分」に戻ることができなくなる。

皮肉なことに、彼の沈黙が“英雄伝説”を育ててしまったのだ。

この構造こそが、“物語における偶然”を必然にしていく。

マスコミという巨大な編集者が、事実を「物語」に変えていくプロセスを、このエピソードは鋭く描いている。

このセクションが突きつけるのは、「たまたま」と「そうあるべくして」の曖昧な境界線。

登場人物が“偶然”に振り回されるたび、視聴者は「自分ならどう動いたか?」を考えさせられる。

点が線になる瞬間、それは物語だけでなく、我々の日常にも起こり得る「現実のリアリティ」なのだ。

右京が裁かなかった“正義”──なぜ彼は麗子を責めなかったのか?

視聴者の多くが感じたはずだ。

「なぜ右京は、里見麗子を追及しないのか?」と。

これは“推理ドラマ”でありながら、正義の枠組みがねじれた回だった。

里見麗子への糾弾を避けた右京の“沈黙”が示すもの

杉下右京は、真実を暴き、理を貫く男だ。

過去には、被害者であろうと、身内であろうと、“不正義”には容赦なく切り込んできた

だがこの第17話「ヒーロー」では、里見麗子の行動に対して直接的な批判をしない

それどころか、彼女の“思い”を肯定するような描写さえある。

視聴者としては拍子抜けする──いや、モヤモヤが残る

だがそれこそが、この回の“仕掛け”だったのだ。

右京の“沈黙”は、麗子の行為が許されると言っているわけではない

彼はこう言いたかったのかもしれない。

──「彼女は“勝つため”に動いた。けれど、“守るため”に動いた側面もあった。そして、その代償を、今まさに支払っている」と。

麗子は法廷での正義を信じ、その中で戦ってきた。

でも、彼女は“人の感情”という法では測れない領域を見落としていた。

そして今、杉本竜也という“問い”に直面し、自分のやってきたことの重さに立ち尽くしている。

右京はその姿を見て、すでに彼女は“裁かれている”と判断したのかもしれない。

「正しさ」では救えない現実がある──本作に通底する社会派ドラマの哲学

『相棒』が時折見せる、“推理を超えた人間ドラマ”の側面。

この回は、まさにそれだった。

法で裁けないもの、感情で裁けないもの。

そのどちらにも触れないと、人は前に進めない。

麗子は法で勝った。だが、遺族の感情には何一つ応えてこなかった

右京は、事件の犯人を追い詰めながら、麗子に対しては“彼女自身がどう生き直すか”を見届けようとした

この構図は、視聴者に「何が正義か?」を突きつけてくる。

“法に従った正義”か、“感情に寄り添う正義”か。

そのどちらも、時に人を救い、時に人を傷つける

だからこそ右京は、今回は「裁く」のではなく、「見守る」ことを選んだ。

それは、裁判ではなく、“人生という長い道のり”における“矛盾の容認”だったのだ。

杉本竜也も、里見麗子も、誰かを救おうとして、誰かを傷つけた。

その痛みを背負いながら、それでも人は歩き続けなければならない

この回の右京の沈黙は、そんな“生き方そのものへの肯定”に思えた。

本当の意味での“ヒーロー”とは──名も告げず、語らずに去る者たち

この物語がたどり着いた場所は、賞賛でも、断罪でもなかった。

「ヒーローとは何か?」という問いの果てに、残されたのは“語られなかった想い”だけだった。

助けることで得られるものと、助けたことで背負うもの

杉本竜也は、結局のところヒーローになりきれなかった

彼自身がそう願わなかったからだ。

火災現場で命を救ったときも、慰霊碑で里見をかばったときも──。

彼は「誰かに認められたい」わけではなかった。

ただ、自分の中にある怒りや悔しさ、喪失感をぶつける相手が欲しかった。

それが結果として“人を救う行動”になった。

だが、その動機が“純粋ではなかった”ことに、彼は苦しみ続ける

だから彼は、何度でも否定する。

「俺はヒーローなんかじゃない」と。

人を助けることが、時に“賞賛の代償”を伴うこともある。

「感謝されることが痛い」なんて、そんな矛盾があるだろうか。

でも、杉本の姿は、その矛盾を静かに背負いながらも、誰かの命に手を差し伸べる強さを持っていた。

ヒーローであることを拒んだ青年が最後に選んだ“行動”

里見麗子が彼に言う。

「2度も助けられた、ありがとう」

それに対して、彼は強く答える。

「助けてなんかない。復讐しようとしてたんだ」

この会話は、この回のすべてを象徴している。

人は、どんなに善い行為をしても、その動機に嘘があれば、心から誇れない

でも、その“誇れなさ”こそが、人間らしさでもある。

杉本は、最終的に里見を救った。

身体的にも、そして、彼女が「贖罪」するチャンスを守ったという意味でも。

そして右京は、こう語る。

「あなたは復讐のために近づいたかもしれません。しかし──その行動は、誰かを守る結果になったのです」

つまり、ヒーローとは、意志ではなく“結果”で語られるものなのだ。

杉本が“救った”という事実は、彼の心情とは別のレイヤーで評価される。

それが物語の結論だった。

ラスト、麗子が語る。

「誰が何と言おうと、あなたは私のヒーロー」

この言葉に、杉本は頷かない。否定もしない。

ただ、その言葉が残るように、その場に立ち尽くしていた

名を告げずに人を救い、理由も語らずに去っていく。

それでも、誰か一人に「あなたは私のヒーロー」と言わせたなら、その人はもう、立派な“ヒーロー”なのかもしれない。

「裁く側」と「裁かれる側」の揺らぎ──この世界に“完全な正義”なんてない

この回のキモは、事件そのものより、むしろ“見えない裁き”にある。

杉本は怒りに駆られて行動した。

麗子は法に忠実であろうとした。

でも、どちらも正義に手を伸ばそうとして、誰かを傷つけた。

杉本は“裁く側”だった──でもそれは、本当に「正義」だったのか

杉本は、自分の正義で麗子を裁こうとしてた。

「あなたは人の命を軽く見た」と。

彼の中では、彼女が“断罪されるべき悪”として成立していた

でも、いざ目の前に現れた麗子は、人間だった。

揺れていたし、謝っていたし、自分の“過去の選択”に向き合おうとしてた

そのとき、杉本の“裁きの刃”は鈍る。

そして気づいてしまう。

──「自分は人を救うために来たんじゃない。ただ、怒りをぶつけたかっただけだ」

この気づきは、キツい。

裁く側の自分もまた、誰かを傷つける側だったって、なかなか直視できるもんじゃない。

麗子もまた、“裁かれる側”で終わらなかった

一方の麗子。

裁かれることを覚悟していた。

杉本に会いに来られたとき、どこかで「罰されるなら、それでもいい」と思ってたんだと思う。

でも、杉本は彼女を“許した”わけじゃない。

彼女が、自分の選んだ道に責任を持ち始めたから、それ以上の断罪をしなかっただけ。

麗子は法の世界にいる人間として、ずっと“白黒”を求めてきた。

でも人の心はグラデーションだった。

この回で彼女は、初めてグレーの中で立ち止まっていた

それが何よりも人間らしかった。

──この物語、実は“誰が正しいか”を描いてない。

それよりもずっとリアルな、「誰も完全に正しくはなれない」っていう諦めと共存が描かれてた。

だからこそ、見た後にモヤモヤが残る。

でもそのモヤモヤこそが、“正義を語る”ってことの、本当のスタートなのかもしれない。

『相棒 season12 第17話 ヒーロー』の深層に迫るまとめ

このエピソードは、単なる事件の解決では終わらない。

問いかけられるのは、「正義とはなにか」「ヒーローとは誰か」、そして「人を救うとはどういうことか」だ。

結末が出ても、観た者の中には何かが残り続ける

本当のヒーローは誰だったのか?観る者に突きつけられる“問い”

火災から人を救った杉本竜也。

彼を守ったのは「正義」ではなく、「感情」だった。

彼は言う──「俺はヒーローじゃない」と。

一方、法の正義を遂行した弁護士・里見麗子

だが彼女は、その選択で誰かの心を置き去りにしてしまった。

そしてもう一人、誰にも称えられず、真相にたどり着いた男──杉下右京

彼は誰も裁かなかった。誰かの苦しみの“横に立った”。

そう考えたとき、本当の意味での“ヒーロー”とは、誰かのために行動し、その代償すら受け入れた人なのだとわかる。

それはきっと、杉本でも、里見でも、右京でもいい。

「あの人は私のヒーローだった」──そう語る誰かがいるなら、それが答えだ。

事件は解決しても、心に残る“モヤモヤ”こそがこの回の核心

この回の余韻は、言葉にしづらい。

「解決したはずなのに、なんか晴れない」

でもその“モヤモヤ”こそが、本作の仕掛けた最大のテーマだ。

正しさと正しさがぶつかるとき、人は何を選べばいいのか?

嘘でも守ること。真実でも壊すこと。

そのどちらもが“間違っていない”ように思えてしまう。

だからこそ、視聴者は考えさせられる。

そして、その“モヤモヤ”を持ち帰った視聴者一人ひとりが、次の物語の一部になる

『相棒』はいつだって、そういうドラマだった。

「事件」は終わっても、「問い」は終わらない。

それが、この『ヒーロー』というエピソードが、10年経っても心に残る理由なのだ。

右京さんのコメント

おやおや… “ヒーロー”とはかくも曖昧な言葉ですねぇ。

一つ、宜しいでしょうか?

杉本竜也さんの行動は、確かに人命を救いました。しかし、彼自身が抱えていたのは“義憤”であり、決して純粋な正義感ではありませんでした。

では、そういった動機による救出劇を、我々は称賛して良いのでしょうか?

里見麗子弁護士もまた、法に従いながらも、遺族の心には応えぬまま“正しさ”を振りかざしました。

つまりこの事件は、正しさが人を傷つけるという、実に皮肉な構図を孕んでいたのです。

なるほど。そういうことでしたか。

正義を語るには、それを受け取る側の心の在りようにも目を向けなければならないということですね。

感心しませんねぇ、感情を置き去りにして“勝ったこと”だけを誇るような生き方は。

杉本さんも麗子さんも、それぞれに痛みを背負い、それでも前へ進もうとしていた。

それを我々は、“赦し”と呼ぶべきかもしれません。

このような物語を紅茶を飲みながら反芻していると…

正義とは、他人に振りかざすものではなく、己が守り通す覚悟のことなのだと、しみじみ感じ入る次第です。

この記事のまとめ

  • 相棒season12第17話『ヒーロー』の深層を徹底解剖
  • 「ヒーロー」の定義を揺るがす人物・杉本竜也の心情
  • 企業側弁護士・里見麗子の選択と贖罪の在り方
  • 偶然と報道が作り出す“作られたヒーロー像”の危うさ
  • 右京が敢えて「裁かない」ことの意味を読み解く
  • 正義と復讐、感情と論理が交差する重厚な人間ドラマ
  • 「裁く者」もまた「裁かれる者」としての葛藤を描写
  • 視聴者に“問い”を残す社会派エピソードの真骨頂

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