僕達はまだその星の校則を知らない 原作・脚本の全貌と“ムムス”の秘密

僕達はまだその星の校則を知らない
記事内に広告が含まれています。

「僕達はまだその星の校則を知らない」は、完全オリジナル脚本としてフジテレビ×カンテレの月曜10時枠で2025年7月14日よりスタートしました。

“原作”は存在せず、脚本家・大森美香氏によるオリジナル企画です。脚本家としての彼女の願いが詰まった一作です。

さらに主人公・白鳥健治の口癖「ムムス」がSNSを席巻中。“ムムス”の感情表現にも注目です。

この記事を読むとわかること

  • 『僕達はまだその星の校則を知らない』の原作と脚本の全容
  • “ムムス”に込められた感情とその意味
  • 登場人物たちの視線や沈黙に宿る物語の深層

原作はなし!完全オリジナル脚本で描かれる学園ドラマ

その物語に「原作はあるのか?」と問う前に、まず立ち止まってほしい。

僕たちが見ているのは、誰かの過去の想像力ではない。まさに今、現場で産声を上げている“物語そのもの”なのだ。

『僕達はまだその星の校則を知らない』は、完全オリジナル脚本である。

原作の有無とパクリ疑惑

ネット上には「原作って何?」「なんかタイトル、あのアニメに似てない?」という声が散見される。

確かに、『僕達はまだその星の校則を知らない』というタイトルには、ある種の既視感がある。

それもそのはず。人々の記憶に強く刻まれている『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』の影響を、無意識に感じてしまうのだ。

だが、“似ている”ことと“パクリ”は、まったく別の問題だ。

本作の企画は、脚本家・大森美香氏によるオリジナル原案であり、他作品の翻案でもなければ、マンガや小説の映像化でもない。

つまり、このドラマは最初の一話から「いま、この瞬間にしか生まれ得ない物語」なのだ。

それに、この作品が描こうとしているのは、あのアニメのような“失われた夏”ではない。

もっと厄介で、もっと現在進行形な青春。

多様性とか、ジェンダーとか、ルールの中にある曖昧さとか。

その“正体不明の窮屈さ”を、僕らはいつからか「空気」と呼んできた。

本作のテーマはまさにそこにある。

「空気を守るために、僕たちは本当に自由を捨てていいのか?」という問いだ。

「あの花」とのタイトル類似は単なる偶然

では、タイトルは偶然なのか?――たぶん、それも違う。

これは意図的な“レイヤーの被せ”だと、僕は思っている。

「僕達はまだ〜を知らない」という構文に、既に“喪失”と“未成熟”の感情が含まれている。

その感覚をあえてなぞることで、視聴者に「これは青春の話だ」と直感させる設計になっている。

ただし、ここで描かれるのは“ノスタルジー”ではなく“現実”だ。

学校に本当に存在する校則、空気、ルール。それらに声を上げることの難しさ。

舞台となる学校で行われる模擬裁判「制服裁判」は、その象徴だ。

形式はフィクション。でも、痛みはノンフィクション。

そこに、原作という「外の物語」は存在しない。

むしろ、このドラマこそが“今しか書けない原作”なのだ。

もしこの作品が、誰かの中で「ほんとうにあった話」として語られる日が来たら。

それこそが、このドラマの完成形なのかもしれない。

脚本・大森美香の描く“校則”と“青春”の物語

脚本は物語の骨だ。どんなに美しい俳優が立っていても、骨が歪んでいれば、感情はうまく立ち上がらない。

この『僕達はまだその星の校則を知らない』には、大森美香という名の骨格が通っている。

その骨は、ただ真っすぐなだけじゃない。温かく、時にざらついて、視聴者の心に“触れてくる”のだ。

脚本家プロフィールと過去作から見る作風

大森美香は1972年生まれ。福岡の地から、AD、脚本家、映画監督、小説家という道を切り拓いてきた。

代表作には『カバチタレ!』『ランチの女王』『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』『あさが来た』『青天を衝け』などが並ぶ。

でも、作品名の羅列では伝わらないものがある。

それは、彼女の物語がいつも“誰かの正義”に寄り添ってきたということだ。

『不機嫌なジーン』では、生物学者という女性の葛藤を描き、

『あさが来た』では実在の女性起業家・広岡浅子を軸に、明治という時代を“個人”の視点で描き直した。

それらはすべて、社会の「こうあるべき」に対して、個人の「こうありたい」が静かに反抗する物語だった。

だからこそ、今作で“校則”というテーマを選んだことに、僕はゾクッとした。

校則=社会のミニチュアだ。

「ルールだから仕方ない」「それが伝統だから」――そんな言葉で縛られるあの空間。

だがそのルールの向こう側には、いつも誰かの声がある。

その声に耳を傾ける。それが大森美香の脚本だ。

ジェンダーレス制服問題など現代テーマをどう描く?

今作では、模擬裁判という形式で「ジェンダーレス制服問題」に踏み込んでいる。

これはフィクションでありながら、リアルに痛い

男子はスラックス、女子はスカート。そう決められてきたことに、誰が「なぜ」と言えるか?

そして「言った側」が、どれほどの孤独を背負うか?

大森脚本が描くのは、その“問いの瞬間”だ。

たとえば、健治の「ムムス」という口癖。

これはきっと、言葉にできない不安、怒り、疑問が固まった音なんだ。

つまりムムスとは、“校則に名前をつけられなかった感情”の化身だ。

そして、視聴者は気づくだろう。

「自分もムムスだった」と。

制服で、髪型で、ピアスで、スカートの長さで。

僕らの思春期は、常に誰かのルールに試されていた。

大森美香は、それを“戦い”としてではなく、“問い”として描く。

だからこそ、登場人物たちは怒鳴らない。

静かに、でも確かに、「それって、本当に必要?」と立ち上がる。

その瞬間、視聴者は思い出すはずだ。

自分がかつて、制服のボタンに託していた違和感の名前を。

“ムムス”──健治の心の声、その意味を紐解く

「ムムスって何?」という疑問が、いまSNSを賑わせている。

主人公・白鳥健治の口からこぼれる、謎めいたその言葉。

でも僕は思う。「ムムス」は謎なんかじゃない。感情の“すき間”に落ちた本音なんだ。

“ムムス”とは何か?大森脚本に散りばめられた造語

言葉にならない感情ってある。

腹が立つでもない、泣きたいでもない、でも心の奥で何かが詰まってる。

その“もどかしさ”が「ムムス」なんだと思う。

たとえば、制服に違和感を抱いたとき。

「なぜそれが決まっているのか?」と口に出せなかったとき。

あるいは、クラスの空気に抗いたいけど、声を出す勇気が出ないとき。

その全部に共通する“詰まり”を、健治は「ムムス」と名付けたんじゃないか。

この造語は、たった3文字で世界を切り取ってしまう。

名前のない感情に、仮の名前を与えることで、ようやく言葉にできるようになる。

つまり「ムムス」と言えた瞬間、彼はほんの少しだけ自由になる。

そしてこの“ムムス”という感覚、視聴者一人ひとりの中にも眠っている。

「うまく言えないけど、なんか変だった」

「自分だけが苦しいのかもと思って、黙ってしまった」

そんな記憶に、静かに名前をつけてくれる言葉。

それが「ムムス」だ。

視聴者に届けたい“ムムス”の感情設計

大森脚本が巧みなのは、この「ムムス」がただの流行語で終わらないところだ。

第1話の時点で、「ムムス」はあくまで健治の中にしかない“私語”だ。

でもこの言葉が、物語の中で他者へと広がっていく。

つまりこれは“他人に伝わる言葉になる過程”を描く物語でもある。

第2話以降、クラスメイトたちは次第に健治の言葉を聞き、拾い、時に笑い、時に共感する。

「ムムス」をきっかけに、彼の“違和感”が可視化されていく。

言葉は世界を変えない。でも、誰かの気持ちをつなぐ手段にはなる。

それこそが、大森美香の脚本が描き続けてきたテーマだ。

『きみはペット』では「関係性の再定義」

『不機嫌なジーン』では「科学では割り切れない感情」

そして今作では、「感情に名前がつく瞬間」だ。

「ムムス」は、誰かとぶつかるための言葉じゃない。

自分自身と、やっと対話するための言葉なのだ。

視聴者の中にも、「それ、ムムスかも」とつぶやく瞬間が来る。

そのとき初めて、このドラマは“誰かの物語”から“私の物語”になる。

そしてたぶん、それこそがこのドラマの“主題歌”なんだと思う。

主要登場人物とスタッフのチーム構成

物語が“ただの脚本”で終わるか、“魂の記録”になるか。

その境界線に立っているのが、演じる人間たちと、それを支える制作陣だ。

『僕達はまだその星の校則を知らない』が、どこか言葉にならない共鳴を生んでいるのは、この“顔ぶれ”があまりにも絶妙だからだ。

主演・磯村勇斗×脚本・大森美香の化学反応

主人公・白鳥健治を演じるのは、磯村勇斗

30歳を超えた彼が制服を着て高校生を演じることに、最初は違和感を覚える人もいたかもしれない。

でも、その違和感こそが、大森脚本の狙いなのだと思う。

健治はどこか「大人びた子ども」だ。

現実を見ているようで、言葉にはならない夢を抱えている。

磯村が演じると、その“中間地帯”が見事に浮き彫りになる。

まるで、過去と現在を同時に生きているような顔

そして何より特筆すべきは、「ムムス」という言葉を、ちゃんと“意味ある音”にしてしまったことだ。

誰が演じるかによっては、あのセリフはただのギャグになる。

でも磯村の声には、“名前のない感情をなんとか伝えたい”という本気が宿っていた。

それは、脚本家・大森美香の願いでもある。

「感情には名前がいる。でもそれは、誰かに与えられるものじゃなくて、自分で名付けるしかない」

その想いが、健治の一言に託され、磯村の芝居によって届けられていく。

“大人になった俳優が、もう一度子どもを演じる”

その構図自体が、このドラマの反骨であり、詩なのだ。

理事長役・稲垣吾郎の役どころと演出意図

そして、この物語のもうひとつのキーマンが、理事長を演じる稲垣吾郎だ。

この配役には、明らかに“時代の記憶”が仕込まれている。

稲垣は、かつて“自由”と“ルール”の狭間に立ち続けた存在だ。

その彼が、今作では“校則を守る側”に立っている。

でも彼の演技は、一枚岩の「悪」ではない

時に優しく、時に迷い、そして時に、強引になる。

彼は理事長というより、“学校そのもの”の象徴なのかもしれない。

見逃せないのは、健治との距離感だ。

ただの対立ではない。過去の自分を重ねるような、どこか戸惑った目をする。

その視線の奥には、「守ってきたルールに、自分は救われたのか?」という問いが見える。

だからこそ、このドラマにおける対立は、勝ち負けでは終わらない。

登場人物たちは皆、何かを信じていて、でもどこかで迷っている。

そこにリアリティがある。

この作品を成立させているのは、“強さ”じゃなく、“揺らぎ”を演じる俳優たちだ。

だからこそ、この物語はまっすぐで、でも簡単には進まない。

それが“ムムス”の世界であり、この星の校則の正体なのだ。

原作なし脚本ならではの“先が読めない”構造

毎週、放送が終わるたびに感じる。

「この先、どうなるんだ?」という焦燥と、「このまま終わらないでくれ」という祈り。

それが『僕達はまだその星の校則を知らない』という物語の、原作なし脚本の最大の魅力だ。

模擬裁判「制服裁判」で見せる脚本演出の巧妙さ

この物語の心臓部といえるのが、学校内で実施される模擬裁判。

題して「制服裁判」

男子はスラックス、女子はスカートという“伝統”に対して、「なぜそれが決められているのか?」という疑問が発端となる。

脚本家・大森美香はこの設定を、単なる問題提起の道具にはしていない。

この模擬裁判は、登場人物たちが“自分の価値観を言葉にするための舞台”なのだ。

そして巧妙なのが、その構造。

健治だけが声を上げるわけではない。

クラスメイト一人ひとりの立場や葛藤が丁寧に描かれ、賛成派も反対派も「それなりに正しい」

そこに、簡単な“正解”はない。

強い言葉を放った直後に、誰かが傷ついていたり。

笑いながら否定してしまったことが、誰かのトラウマを抉っていたり。

その丁寧さがあるからこそ、「制服裁判」は“争い”ではなく“対話”として機能する。

この構造は、原作ありの作品では実現しにくい。

決められた結末やキャラの役割に縛られず、物語の“心拍”そのものが視聴者の息とリンクして動いていく。

伏線として散りばめられた“宮沢賢治”モチーフとは?

このドラマの台詞や背景には、ふとした瞬間に「宮沢賢治」の影が忍び込んでいる。

教室の黒板に書かれた詩、登場人物のつぶやき、健治のつける読書ノート。

それらが指し示すのは、“もうひとつの星”の存在だ。

たとえば、第2話で引用される『銀河鉄道の夜』。

「本当の幸せとは、誰かのために何かをすることなんだろうか?」

それは、まさに健治が葛藤している“声を上げる意味”そのものだ。

さらに注目すべきは、「校則」そのものを“宇宙”にたとえる比喩の巧みさ。

「この星の校則」という言葉には、今いる場所を“異星”のように感じている子どもたちの孤独が込められている。

宮沢賢治が描いた世界も、どこか地球じゃない場所からの視点だった。

「雨ニモマケズ」ではなく、「風の又三郎」のような“外から来た子”の視線。

それが健治の「ムムス」と通じていく。

原作がないということは、地図がないということ。

でもその分、視聴者も一緒に“この星のルール”を見つけていく旅に参加できる

そのプロセス自体が、物語になっている。

そう思うと、「先が読めない」って、最高の贈り物なのかもしれない。

無言の“まなざし”が語っていたもの

このドラマ、台詞が少ない場面ほど、刺さる。

とくに気になったのが、健治と日向のあいだに流れる沈黙の“間”。

言葉を交わしているようでいて、交わしていない。

だけど、その空気の中には、むしろ“言わない選択”が詰まっているように見えた。

日向の視線が語っていた“矛盾”

模擬裁判の場面、日向は一度も声を荒げない。

でも、カメラはしっかり彼の目線を追っている。

誰かが発言するとき、誰かが涙ぐむとき。

そのとき日向の目が何を見ているのか。

それが彼の“立場”よりも、ずっと雄弁だった。

日向はたぶん、正義を信じている。でも、その正義が誰かを追い詰める瞬間も知っている。

だからこそ、彼の正しさにはどこか“自責の影”が差していた。

それが、見ているこちらにも刺さる。

正論を言うことが、いつからか“こわい”ものになってしまった。

このドラマは、その“目を伏せたくなる瞬間”をちゃんと拾ってくる。

まっすぐじゃない関係の“リアル”

健治と日向の関係は、友情でも敵対でもない。

「お前、わかるだろ」と言いたいけど言えない距離感。

そんな“ねじれた関係”を、ふたりはずっと演じ続けている。

普通の青春ドラマなら、どこかで熱く殴り合ったり、抱き合ったりする。

でも、このドラマはそうしない。

誰かとぶつかるよりも、誰かの沈黙を“そっと受け止める”ことのほうが、ずっと難しいって知ってる。

ふたりの間にあるのは、わかりあえなさじゃない。

「わかりたいけど、まだそこにたどり着けていない未完成」なんだ。

それが、ぐっとくる。

「見て見ぬふり」じゃなくて、「見えてるけど、まだ触れられない」

その微妙な感情の揺れを、ここまで丁寧に描けるドラマ、そうそうない。

たぶんこの作品の本当の主題は、“主張”じゃない。

むしろ、言えなかったこと、気づかなかったこと、そのまま過ぎた時間の中にある。

だから、見ていてふと、自分の過去とつながる。

「あのとき言えなかったあの一言、今ならムムスって言えるのかも」って。

僕達はまだその星の校則を知らない―まとめ

このドラマは、制服やルールの話に見えて、その実、“見えない境界線”の物語だと思う。

言いたいことを言えない。理解されるか不安。何が正解かわからない。

そんな“ままならなさ”を、丁寧に、そして静かに照らしてくれる。

オリジナル脚本だからこそ描ける“校則”の境界線

「原作なし」ということは、地図がないこと。

そしてそれは、自由に道をつくれるということでもある。

脚本家・大森美香は、その自由を“破壊”ではなく“観察”に使った。

校則という名のルールたちを、ひとつひとつ分解して、「これは何のためにあるのか?」と問う。

そこに答えはない。でも、問いかけること自体が尊い。

たとえば、「スカートをはきたくない」と言う女子生徒に、教師が「これは昔からのルールだから」と返す。

その一言で、どれだけの心が締めつけられるか。

このドラマは、そこを真正面から見つめている。

そして、その問いを“戦い”にしないというのもまた、大森脚本の美しさだ。

誰かを悪者にしない。みんな、信じているものが違うだけ。

その距離を埋めるには、時間と会話と、少しの勇気がいる。

そのプロセスこそが、このドラマの描いている“境界線”なのだ。

“ムムス”が象徴する、健治の“まだ知らない星”

そして、この物語の象徴「ムムス」。

最初は奇妙に聞こえたこの言葉が、今はもう、私たち自身の中にある感情の名前になっている。

ムムスとは何か?

それは、自分の中にある、まだ誰にも言えない“違和感”

社会の空気を壊したくない、でも我慢もしたくない。

その“はざま”で揺れている、すべての人の声なき声。

健治はまだその星の校則を知らない。

でも、それは無知なんじゃない。

それを疑える視点を、彼は持っている。

そして僕らも。

「昔からあるから」「みんながそうしてるから」

その一言で、片づけていたことに、もう一度ムムスを感じてみてもいい。

校則は、守るためだけのものじゃない。

見直すためにも、ある。

このドラマは、そう教えてくれる。

そして、そのメッセージはテレビの外へ。

私たちが日常に戻ったあとも、ふとした瞬間に「ムムス…」とつぶやくことで、何かが少しずつ変わっていく。

僕達はまだ、その星の校則を知らない。

でも、知ろうとしている。

それが、この物語の一番やさしい革命だ。

この記事のまとめ

  • 『僕達はまだその星の校則を知らない』は原作なしの完全オリジナル脚本
  • 脚本家・大森美香の繊細な感情設計が光る
  • “ムムス”は言葉にならない違和感の象徴
  • 制服裁判を通じて多様な立場を丁寧に描く
  • 磯村勇斗×大森美香のタッグが生んだ新しい青春像
  • 理事長役・稲垣吾郎が象徴する“学校という存在”
  • 先が読めない構造と宮沢賢治の詩的引用が印象的
  • “沈黙”の演出が登場人物の葛藤を浮かび上がらせる

読んでいただきありがとうございます!
ブログランキングに参加中です。
よければ下のバナーをポチッと応援お願いします♪

PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 テレビブログ テレビドラマへ にほんブログ村 アニメブログ おすすめアニメへ
にほんブログ村

コメント

タイトルとURLをコピーしました