2025年大河ドラマ『べらぼう』第22話「小生、酒上不埒にて」は、ただの中休み回ではなかった。
筆を折った春町と、屁に笑う江戸の民。絵師たちの矜持と、吉原に生きる花魁・誰袖の策略。すべてが一つの“文字”に集約されていく。
この記事では、22話で描かれた「春町文字」の意味、春町の復活劇、そして田沼意知×誰袖による「抜荷」を巡る駆け引きを、“物語の解剖メス”でえぐる。
- 春町が「屁」と「屍」で描いた再生の意味
- 登場人物たちが自分の弱さとどう向き合ったか
- 江戸の笑いが現代人の心にも届く理由
春町はなぜ“屁”を書き、“屍”を隠したのか?──春町復活の真意と「作り文字」の正体
筆を折った男が、最初に書いたのが「屁」だった。
しかも、それを九つ並べ、その中央にだけ「屍」の文字を忍ばせるという、笑っていいのか、泣くべきなのか分からない“文字遊び”。
第22話「小生、酒上不埒にて」は、恋川春町の「絶望と再生のドキュメント」だった。
「筆を折る」と言った春町の、最後の“手紙”が意味したもの
狂歌師として、江戸の“笑い”を背負ってきた男が、自分の作品を「模倣された」と感じ、酒の席で感情を爆発させた。
その発言は仲間の作家・絵師たちに波紋を呼ぶが、何より春町自身の心に深く刺さった。
それが「筆を折る」宣言に繋がったわけだが、彼は完全に創作から離れたわけではなかった。
黙って机に向かい、延々と「屁」の字を書く。
そしてその中心に一つ、「屍」──。
自分は“笑いの場”にはふさわしくない。
みんなが笑う中、己だけが“死んでいた”という感覚。
これは、芸術家のうつ状態そのものだった。
屁屁屁の中に一つの「屍」──笑いと絶望の間に生まれた“狂気の文字”
「屁」の反復は、バカバカしさの象徴であると同時に、江戸庶民のエネルギーの象徴でもある。
春町はその“笑い”のど真ん中で、自分だけが沈んでいた。
「あれは、放屁芸で盛り上がる空気が虚しくて仕方なかった」と彼は語る。
屁の中に屍を混ぜることで、“この中に俺はいない”という拒絶のメッセージを忍ばせた。
だけど、その“屍”もまた、屁に囲まれて笑いに呑み込まれる。
──この構造は、笑いの中に孤独を抱えるクリエイターすべての心象風景じゃないか。
この「屁屍屁」こそが、後の「春町文字」の萌芽だった。
己の死と、江戸の笑いを、文字というカタチに落とし込んだ最初の試み。
この段階で、彼はもう復活への“呼吸”を始めていたのだ。
春町文字が生まれた背景にある、小野篁と“教育の闇”
春町が次に書いたのは、「恋」「川」「春」「町」それぞれの偏に「失」を組み合わせた“偽漢字”。
その意味はこうだ。
- 恋を失う=未練
- 川を失う=枯れる
- 春を失う=はずす
- 町を失う=不人気
まさに、自分自身を漢字で自己紹介したような“自虐の辞書”である。
そしてその発想のルーツが「小野篁歌字尽」──これは江戸時代に広く読まれた“文字の教本”だ。
「教育の笑い」「字遊び」こそが、春町にとっての表現原点だった。
この瞬間、春町は「絵」や「言葉」を超えて、“文字そのものを芸術化”し始める。
それはまるで、鬱屈と創作がぶつかり合って生まれた、江戸のダダイズム。
そして蔦重がそこに見出したのは、春町にしか描けない「江戸の皮肉」だった。
吉原を舞台に、愛と欲、金と情が交差する中で、あえて“くだらない言葉”で世界を斬る。
──このセンスを持ってる奴に、筆を折る資格なんてねぇ。
第22話は、春町という男の「クリエイターとしてのどん底」と「再生の瞬間」を、屁と文字で描いた、稀有な一話だった。
だからこそ、観終わった後に笑いながら、自分の孤独や敗北も許せる気がする。
これは、“敗者が書いた詩”だ。
恋川春町はなぜ落ちたか──政演の「御存商売物」に敗れた男の本音
この回を「春町の敗北回」と切り捨てるのは簡単だ。
でも、ただの“スランプ”じゃない。
彼は「己の存在価値」を見失いかけていた。
“盗人”発言の裏にあった劣等感と、「おっかぶせ」の文化
発端は、北尾政演が描いた『御存商売物』という青本だった。
番付一等を取ったその本に対して、春町は「自分の『辞闘戦新根』のパクリだ」と罵倒。
しかし──これは嫉妬でも怒りでもない。
むしろ、「あまりに自分より完成されていたことへの畏怖」だった。
江戸の出版界には、「おっかぶせ文化」があった。
誰かのアイデアに“乗っかる”ことで、さらに面白く、さらに過激に。
政演の作品も、春町の前作をベースにしていた。
でもそれが、“超えてしまった”。
そこに春町は「自分の終わり」を見てしまったのだ。
政演が読んだ「廓ばかむら費字盡」に見た、春町の「心の遺書」
それでも春町は、“創作をやめた”わけではなかった。
あの屁と屍の後に生まれたのが、「廓ばかむら費字盡(さとのばかむらむだじづくし)」。
これは吉原を舞台にした“皮肉漢字遊び青本”。
女偏+見=「見立て」、男+無=「息子」、金+死=「野暮」……。
そのどれもが、笑いの奥で血を流していた。
政演はそれを読み、「これ、俺がやりたかった…」と呟く。
春町が“敗北”と思っていた表現は、政演にとっては“羨望”だった。
この瞬間、観ているこちらも気づかされる。
勝ち負けの尺度なんて、所詮は自分の中の幻なのだ。
皮肉と自嘲と友情が交差する、「筆を再び取る瞬間」
春町が再び筆を取る決断を下したのは、誰かに褒められたからでも、名誉を取り戻すためでもない。
ただ一言、「寂しいから戻ってきてほしい」と歌麿と喜三二に言われたからだ。
自分の作品を“真似したい”と言ってくれる人。
それが何よりの救いになる。
春町が描くのは、皮肉と笑いと、自分自身への憐憫。
でもそれを、蔦重が「商品にする」。
くだらないものを、江戸一番の笑いに仕立てる編集力。
春町が創った文字、それはまるで“自虐の短歌”。
でもそこには、自分の弱さを笑って受け入れた男の気高さがあった。
この回は、クリエイターにとって「傷ついたままでも、笑っていい」という許可証だ。
“負けた男”の筆が、もう一度江戸を笑わせる。
歌麿と喜三二の“言葉の刃”──春町を動かした「寂しい」という共鳴
春町を再び「筆の前」に座らせたのは、論理でも賛辞でもなかった。
それは、“寂しさ”という感情の引き金だった。
そしてその引き金を引いたのが、喜三二と歌麿という「描く者たち」だった。
「上手い、下手じゃなくて、好き」──歌麿のセリフに宿る真実
喜多川歌麿は、蔦重の指示で春町の画風を真似る依頼を受けた。
それを伝えるために春町を訪ねた場面で、彼が語ったのは、“模倣ではなく共鳴”の感情だった。
「あなたの絵が好きなんです。上手いからじゃない。あの線に、感情があるから」
この一言が、春町の硬直した表情を一瞬だけ揺らした。
誰にも届いていないと思っていた線が、実は、見えていたという衝撃。
模倣されることへの嫌悪ではなく、真似るほどに“好き”と言ってくれる他人の存在。
そこに、春町は自分の“居場所”を再発見した。
喜三二の「みんなお前が好きなんだ」発言がもたらした熱の連鎖
朋誠堂喜三二の口調は軽いが、言葉は鋭い。
彼は春町に真正面からこう言った。
「筆折るとか言ってるけどよ、みんな、お前のこと好きなんだよ。それだけで、描いていいだろ」
この言葉には、評価でも理屈でもなく、“情”が詰まっていた。
江戸の戯作者たちは、言葉を武器にして生きている。
でも、誰かの本音に触れたとき、言葉は刃ではなく、絆になる。
喜三二のこの一言が、春町の心の芯を“ちょっとだけ”温めた。
「絵が上手い」よりも、「お前が好き」の方が、ずっと描く理由になる。
──それが、この回の真理だった。
友情が生む創造──「春町風に描く」という模倣の超克
歌麿が春町のタッチを真似るということは、ある種の“挑戦”だった。
その挑戦は、ただの“代理”でも“敬意”でもなく、「自分も一緒に、この世界を描きたい」という共創の姿だった。
春町はその姿に、かつての自分──夢中で描き、笑い、仲間と夜を明かした頃の熱を思い出した。
誰かの中に“自分の残響”があるということ。
その共鳴こそが、創作の最大の報酬なのだ。
「俺がいなくても、俺の表現は残る」
それを知った春町は、初めて“自分が死んでもいい”と思えたのかもしれない。
でもその瞬間──
「まだ、生きてていいかも」と心が言った。
歌麿と喜三二は、「春町を救った」んじゃない。
一緒に、もう一度絵を描きたかった。
だから、彼は戻ってきた。
この第22話は、そんな“友情の再起動”の記録だ。
誰袖という名の策士──花魁の仮面を被った情報屋の“交渉力”
第22話の裏主役──それが、吉原の花魁・誰袖だ。
彼女はただの色香の象徴ではない。
この回、誰袖は“欲”と“知略”と“希望”を武器に、政治の奥底に踏み込んだ。
「抜荷の証拠」を掴め──吉原が戦場に変わるとき
田沼意知と密会する誰袖の視線は、決して“甘い女”のそれではなかった。
彼女は自身の“身請け”という運命を賭けて、松前藩の抜荷事件の核心に踏み込む。
情報と身体の等価交換。
それが、遊女としての彼女の交渉術だ。
意知が求めるのは「証拠」──誰袖が差し出したのは「品」だけ。
そのやり取りの中で、誰袖は問いかける。
「抜荷を“やらせる”ことで、証拠を作れないか」
提案という名の誘導。
これは、吉原という“表ではない江戸”で育った女の、生き抜く知恵だった。
田沼意知の手を握る誰袖の覚悟、「この顔で生きたいのです」
誰袖の目的は「愛」だけではない。
彼女はこう言う。
「この顔で、生きたいのです」
吉原では、名前も素性も捨てられる。
でも、彼女は“誰袖”として、“この顔のままで”生きる未来を欲した。
それは、遊女としての再生ではなく、一人の人間としての再構築。
その願いを、田沼意知はどう受け取るのか。
彼は政治家であり、男であり、そして“武家社会の論理”を背負う者だ。
その彼が最後に語ったのがこのセリフ。
「証しが立った暁には──そなたを、落籍いたそう」
これこそが、この回のもう一つの“誓いの言葉”だった。
女の策略か、愛の交渉か──田沼意知が落ちた“言葉の罠”
誰袖がこの密会で仕掛けたのは、「未来を人質に取る交渉」だった。
“証拠があれば、あなたのものになる”という条件付きの愛。
その一言に、意知は“落ちた”。
だがこれは単なる色仕掛けではない。
江戸を動かす者たちの「策と誓いの等価交換」だった。
誰袖は、吉原という“売られる場”から、自ら“買う側”へ転じようとしていた。
情報で未来を、愛で政治を、交渉で人生を。
この回、誰袖は花魁の仮面を脱がないまま、その内面にある知略と信念を観客に見せつけた。
田沼意知という政治の中枢に、吉原の女が“爪痕”を残した瞬間。
それは、「べらぼう」が単なる芸術ドラマで終わらない理由でもある。
蔦重の編集術──“笑い”を出版する者の哲学
べらぼう第22話の表舞台で春町が“復活”していく中、その土台を支え続けたのが蔦屋重三郎だった。
彼は決して「主役」ではない。
だがこの物語の屋台骨──江戸文化という混沌を整え、出版という形にする者──その矜持が光る回でもあった。
屁、皮肉、狂歌。“くだらなさ”を江戸の価値に昇華させる構造
「屁」「屍」「文字遊び」「狂歌」──
現代ならウケ狙いの“おふざけコンテンツ”扱いされるような題材を、蔦重は徹底的に仕込み、洗練させ、“商品”にする。
それは、バカバカしさの中にある真理を、誰よりも知っているからだ。
春町の屁文字に「屍」があることを察しながら、彼はそれを笑わない。
笑わせる材料に昇華する。
これは、蔦重にしかできない“編集という再創造”だった。
忘年会という名の“読者会”──人が本を作るという真理
この回の後半で描かれたのが、「忘年会」という名の“創作の現場”。
絵師・戯作者・板元・職人・女たち──江戸という社会の“周縁者”たちが集い、
大笑いしながら、真面目に作品を育てていく空間。
そこには、計算やマーケティングではない、“生きた感情”があった。
一人ひとりが持ち寄った感性が混ざり合い、「青本」というフォーマットの中で燃焼していく。
蔦重の編集術とは、人間の感情をコンテンツにする技術だ。
源内への弔い、そして春町へのラストカットの贈り物
忘れてはならないのが、平賀源内の不在である。
彼の死が、蔦重の中に“笑い”の義務を残した。
だからこそ、春町が筆を折ると聞いた瞬間、蔦重は焦った。
源内が残した「このくだらなさを、誰かが拾え」というメッセージを、春町こそが継ぐべきだと思っていた。
そして、それは“押し付け”ではない。
仲間としての眼差し。
ラスト、春町が書き上げた青本に、蔦重が満足げにうなずく。
「これでええ。江戸が笑えば、源内も浮かばれる」
──そう言わんばかりの目。
蔦重は、文化を“誰がやるか”ではなく、“どう続けるか”で考えている。
この編集者の視点こそ、江戸という都市が文化都市でいられた理由だった。
彼は、笑いを「記録」する人間じゃない。
笑いを「仕掛ける」人間だ。
「笑えない時代」に、それでも“笑い”をやる意味
春町が書いたのは、ただの“屁”じゃない。
屍の文字を笑いで包む──あれは、江戸という街の「希望の設計」だった。
笑ってるけど、笑えてない人間なんて、今の時代にもゴロゴロいる。
「くだらない」は、弱さを肯定する言葉だ
この世の中、正論ばっかが幅を利かせてる。
でも正しすぎる言葉って、人を追い詰める。
春町が描いた屁まみれの文字は、そういう“正義疲れ”の心にスッと入ってくる。
くだらないって、実はめちゃくちゃ優しい。
負けたことがあるやつ、泣いたあと笑うやつ、
そういうやつらが「なんとか生きてるよ」って言うときの口癖が「くだらねぇな」なんだ。
会社でも家庭でも、“屁”が言える人がチームを救う
上司が失言する、後輩が炎上する、リモート会議で空気が凍る──
そんな時に、「今の屁こいたろ?」って言えるやつが、実は最強。
春町の“屁”は、空気を変えるスイッチだった。
笑いって、空気に「余白」を作る。
空気が詰まってると、人の本音は死んでいく。
屁みたいなことを言えるやつが、実は本音に近い。
孤独を隠すためじゃなく、“見せるため”の笑いもある
春町は、自分の“屍”を文字に埋めた。
あのとき、彼は笑われようとしてたんじゃない。
笑いの中に、孤独があることを見せていた。
それって、実はとんでもない勇気だ。
今って、SNSでもリアルでも“平気なふり”がうまい奴が勝ち組扱いされる。
でもほんとは、「弱さを言語化できる人」が、いちばん強い。
春町の屁は、その練習だった。
「俺、ちょっとしんどいんだよね」って笑いながら言うための、“屁という伏線”。
笑いって、優しさを先に差し出す行為だ。
第22話が響くのは、作品としての完成度より、
そこに込められた“人間のダサさ”が、俺たちに似てたからだ。
「クールポコ。」出演が意味する“江戸と今”の橋渡し──べらぼう22話の異物感と必然性
いきなり出てきた餅つき芸人に「え、何このキャスティング?」ってなった人も多いはず。
だがそれは、ただの笑いの脱線ではなかった。
江戸という街の“体温”を担う装置として、完璧に機能していた。
「おなじみの笑い」を“異物”として埋め込む脚本の妙
「な~にぃ!? やっちまったなぁ!」
一時代を築いたクールポコ。のリズムが、大河に差し込まれた。
だがそれは“まんま”ではなかった。
餅をつく人とこねる人という配役に置き換えられ、江戸の暮らしの“音”に変換されていた。
これが“笑わせに来てる”というより、
「江戸にもこういう空気があったんだろう」と感じさせる混ざり方だった。
芸人の存在が、歴史のなかに違和感なく溶け込む瞬間──それ自体が、脚本の凄みだ。
笑いがあることで、物語の“生々しさ”が際立つという逆説
春町の嫉妬、誰袖の情報戦、政演との火花。
物語は重く、張り詰めた空気も多い。
だからこそ、一瞬の“緩み”が、視聴者の感情を支える。
笑ってしまったあとに、ふと「この笑いの裏にも、たぶん飢えや孤独があった」と気づく。
江戸もまた、貧しさと笑いが同居していた。
そしてその空気感が、現代の東京と変わらないことに気づく。
笑いで“時代の壁”を壊す。
それがクールポコ。という“異物”の役割だった。
「べらぼう 22話」の核心と余韻をまとめる──屁が照らした、春町の心と江戸の希望
笑えるのに、泣きたくなる。
ふざけてるのに、真剣さが突き刺さる。
──それが、第22話「小生、酒上不埒にて」の持つ凄みだった。
作り笑いではない、本物の「作り文字」が生んだ再生の物語
春町が再び筆を取ったのは、勝ちたいからでも、目立ちたいからでもない。
「自分の感情を、もう一度誰かに届けたい」──ただそれだけだった。
屁の中に屍を埋めるような文字遊び。
くだらないようで、それは“心の再建”だった。
江戸の笑いは、虚勢じゃない。
痛みの上に乗せる“軽さ”こそが、ほんものの「文化」だ。
「屁」で笑い、「失」で織られた漢字に涙する。
人間のダサさを、愛せる強さ。
そこに、“作り笑い”じゃない「作り文字」の力がある。
春町、政演、歌麿──“己”と向き合った芸術家たちの再起
春町は、屍から這い出た。
政演は、羨望の裏で春町の魂を受け取った。
歌麿は、「好き」を伝えることで他人の筆を取り戻させた。
この3人に共通してるのは、“自分のダサさ”を受け入れたこと。
それは、いまを生きる俺たちにも刺さる。
嫉妬も、劣等感も、すり減った自尊心も、全部を材料にして言葉にする。
それが「創作」であり、「人間らしさ」の証だ。
だから、笑える。
だから、涙が出る。
この話を観たあと、自分の中にも「屍」があって、それでもまだ“屁”を放てると思った。
そう思えたことが、この回の一番の収穫。
江戸の希望は、強い言葉じゃなかった。
くだらなくて、あったかくて、なんだかやけに人間くさい言葉だった。
──まさに、それが「べらぼう」だ。
- 春町が「屁」の中に「屍」を忍ばせた真意
- 模倣と嫉妬の果てに見えた芸術家の再起
- 歌麿と喜三二の“共鳴”がもたらした救い
- 誰袖が情報と身体で政治を動かした駆け引き
- 蔦重が“笑い”を文化に昇華させた編集哲学
- くだらなさが人の弱さを肯定するという視点
- 「屁」で救われる現代人への共感的な提言
- 笑いと孤独が共存する江戸の人間模様
- 作り笑いではない“作り文字”が持つ力
- 己のダサさと向き合うことの尊さ
コメント