べらぼう第30話ネタバレ “人マネ歌麿”が壊れた夜、蔦重も知らなかった目の正体

べらぼう
記事内に広告が含まれています。

べらぼう第30話は、笑いと商魂に満ちた江戸の空気が、一人の絵師の心を深く揺らす回です。

人マネ歌麿として売られることに戸惑いながら、枕絵制作に挑む歌麿。しかし筆を取るたび、母とヤスの幻影に阻まれます。

そんな彼の前に現れるのは怪異画の大家・鳥山石燕。蔦重も想定しなかった、歌麿の“第三の目”の物語がここから動き出します。

この記事を読むとわかること

  • 蔦重の商才と「人マネ歌麿」戦略の裏側
  • 枕絵制作が歌麿にもたらした葛藤と暴走の理由
  • 鳥山石燕との再会で芽生える「第三の目」の意味

歌麿、“人マネ”から抜け出すきっかけは鳥山石燕だった

江戸の空は、いつも笑いと噂でできている。その笑いを商いに変えるのが蔦重(横浜流星)の才だ。

第30話の幕開け、蔦屋耕書堂の店先は山東京伝の「江戸生艶気樺焼」が飛ぶように売れ、黄表紙の面白さに目覚めた町人たちであふれていた。

そこへ蔦重は新たな企みを仕掛ける。「狂歌絵本」をもっと手広く──その計画は商魂だけでなく、人の心の懐に手を入れるような柔らかさも持っていた。

蔦重の商才と人マネ戦略

狂歌を載せたい者から金一分を集め、豪華な顔ぶれを揃える。重政先生、赤良先生、菅江さん──江戸の狂歌師を一冊に押し込む企画は、まさに文化の寄せ鍋。

しかし、その鍋にもう一味加えたい蔦重は、画工の歌麿に目を向ける。噂で広まりつつある呼び名──「人マネ歌麿」──を、あえて武器に変える戦略だ。

「どんどん言いふらしてください」そう豪快に笑う蔦重の目は、商人の計算と友の背を押す情熱、その両方で光っていた。

だが歌麿の胸の奥は、軽くなかった。“ならでは”を求めたことはない。描けて、食っていければそれでいい──そんな自分に「売り出す」という旗印は重かった。

狂歌絵本での賑わいと歌麿の迷い

蔦屋は賑わいを増し、狂歌絵本は二本立てで並ぶ。片方に重政、もう片方に歌麿。常連客の三浦庄司まで笑いながら「人マネ歌麿」と呼ぶ。

それは成功の合図のようでありながら、歌麿にとってはじわじわと皮膚の下に入ってくる棘だった。

蔦重は笑い飛ばす。「お前ならいけるって。俺がいかせっから」。その“いかせる”という言葉に、商売の匂いと友情の熱が同居していた。

歌麿は「俺が名のある絵師になったら、蔦重は儲かる」と突き返すが、蔦重もまた「それもあるが、お前の絵が見たい」という本音を隠さなかった。

だが、賑わいの外側で、歌麿の中には小さなざわめきがあった。人マネで笑われることと、人マネで終わることは違う──その違いを、まだ掴みきれていなかったのだ。

この後、蔦重が差し出す「枕絵」という自由の扉が、歌麿をさらに揺らしていく。その揺れの果てに、鳥山石燕という存在が立ち上がるのだが、それはまた別の話である。

枕絵挑戦と心の闇──幻影との格闘

蔦重が差し出した新しい札は、枕絵という名の自由。表の版元には流せない分、描き手の欲と遊び心がむき出しになる世界だ。

「名のある絵師はみんな描いてる。表じゃできねえことを、心のままに描ける」──蔦重の言葉は、歌麿の胸を少しだけ熱くした。

蔦重が持ち込んだ枕絵の数々には、噴き出すような滑稽さも、じわりと情を揺さぶる艶もあった。歌麿はそれを手に取り、思わず呟く。「こんな形でもいいんだ」。

枕絵の自由さに惹かれる瞬間

それは、枠を飛び越えるための招待状のようだった。女絵、芝居絵、名所絵──なんでも錦絵にしてやるという蔦重の後押しも、背中を押す風になる。

しかし歌麿は、打ち合わせを断る。「こういうのは一人で描くもんだ」。蔦重を部屋から追い出し、静寂の中に閉じこもる。

筆を取る手は、自由を試すための手つきだったはずだ。だが、最初の線を引こうとした瞬間、心の奥から別の何かが顔を出す。

母とヤスの幻影が創作を阻む

母の顔。ヤスの面影。絵を描こうとするたびに、その幻が視界に差し込む。まるで墨の中から、過去がにじみ出してくるようだった。

日が経つにつれ、食事も喉を通らなくなり、女中が心配して覗きにくる。蔦重も声を掛けるが、歌麿は答えを返さない。枕絵の自由は、思い出の牢獄に変わっていた。

ある日、廃寺で筆を握る歌麿の姿があった。だがその手は紙ではなく石を握り、見知らぬ男を殴ろうとしていた。

「女を殴ってたから」と息を荒げる歌麿。しかし、現実の男は何もしていなかった。蔦重が止めに入り、ようやく我に返る。

「描けねえんだよ。描こうとすると、おっかさんとヤスが出てくんだ」。その声は、筆を折る音のように低かった。

「人マネ歌麿で終わる俺なんて、いらねえだろ」。自己否定の刃は、過去の幻影よりも鋭く、自分を切りつけていた。

蔦重は一呼吸置いて、静かに告げる。「一生でも待つき」。商人の声ではなく、友の声だった。

「一生、このまんまかもしれねえよ」と歌麿は吐き捨てるように言う。しかし蔦重は、それでも構わないと笑った。その笑みは、商売では買えない種類の光を持っていた。

枕絵の挑戦は、まだ一枚も仕上がってはいない。それでもこの夜、歌麿の中にある“何かを描かねばならない”という感覚は、消えずに残っていた。

暴走から救った蔦重の言葉

廃寺での一件は、蔦重の目に深く焼き付いた。幻影に呑まれた歌麿が、現実を間違えて石を振り上げる──それは単なる創作のスランプではなく、魂の根っこが軋む音だった。

蔦重は、怒鳴るでも説教するでもなく、まずその腕を静かに掴んだ。体温で正気を呼び戻すように。「歌、お前なにやってるんだ。死ぬぞ」。その声には、商人の威勢はなかった。

歌麿は、母とヤスが邪魔をして描けないと吐露する。やけに素直で、やけに弱い声だった。

「一生でも待つ」──支えの覚悟

「こんなべらぼう、いらねえだろ」。自分を切り捨てる言葉に、蔦重は一瞬だけ黙った。その沈黙は、江戸の喧騒の中でも聞こえるほど重かった。

そして出てきたのは、「一生でも待つき」という、驚くほど短い約束だ。

「一生、このまんまかもしれねえよ」と歌麿は返す。未来を閉じる宣言に近い言葉。しかし蔦重は、構わねえと笑った。その笑みは、金勘定の枠を超えたところにある。

支えるという行為は、急かさない覚悟でもある。蔦重は、友の筆が戻る日を、損得勘定なしで待つと決めた。

人マネ歌麿で終わる恐怖と自己否定

歌麿が恐れていたのは、“人マネ”という呼び名そのものではない。それが終着点になることだった。

呼び名は商売の看板になる。しかし、それがいつの間にか足枷に変わる瞬間を、歌麿は本能的に察していた。

「人マネ歌麿で終わる俺なんて」という言葉の裏には、“自分には自分の色がない”という自己否定が潜んでいる。

それは、誰かの筆致を真似てでも食っていける職人の矜持と、画家としての誇りの間にできた深い裂け目だった。

蔦重は、その裂け目を無理に塞ごうとしない。ただ隣に座り、「お前ならいける」と言い続ける。人は信じるよりも、信じられることの方が救いになる。

この夜の二人は、商人と絵師ではなく、同じ舟に乗った人間同士だった。蔦重の「待つ」という選択は、歌麿の舟が再び漕ぎ出すまでの錨になった。

そして、その錨を外す役目を果たすのが、この後に現れる鳥山石燕である。彼の言葉が、歌麿の“第三の目”を開かせることになるのだ。

鳥山石燕との再会がもたらした“第三の目”

店に戻った蔦重と歌麿を待っていたのは、白髪の老人だった。鳥山石燕──怪異画の大家にして、かつて歌麿を「三つ目」と呼んだ人物である。

「やはり三つ目だったか」。その言葉に、空気がわずかに震えた。蔦重も「三つ目?」と首を傾げるが、石燕の視線は歌麿に釘付けだった。

「なぜ戻ってこなかった。ずっと待っておったんだぞ」。それは叱責ではなく、再会を喜ぶ古い師の声だった。

あやかしを描く目の存在

蔦重が黒く塗り込められた絵を石燕に見せると、老人はすぐに呟いた。「あやかしが塗り込まれておる。そやつらは、ここから出してくれと怒り狂っておる」。

その分析は、絵の表層ではなく、描き手の心の奥の澱を見抜くものだった。

「三つ目の者にしか見えぬものがあるだろうに」と石燕は言う。三つ目──それは物理的な目ではなく、常人が見落とす世界の奥行きを映す“感覚”の暗喩だった。

絵師は、それを写すだけでいい。いや、写してやらねばならぬ。石燕の言葉は、歌麿の中に沈殿していた迷いをかき混ぜる。

「弟子にしてください。俺の絵を描きたいんです」。そう言った瞬間、歌麿の声には迷いがなかった。人マネではない“何か”を掴むために、その第三の目を使う覚悟が生まれたのだ。

「まずは描け」──いい加減さが心を軽くする

石燕のもとに身を寄せた歌麿は、すぐに筆を取らされる……わけではなかった。「まずはその辺のものを描いてみろ。持ってりゃ、そのうち見えてくる」。

「本当ですか」と問う歌麿に、石燕は平然と「たぶん」と返す。その軽さは、重苦しい日々を送ってきた歌麿の肩から荷を下ろす。

完璧な答えは、時に人を縛る。石燕の“いい加減さ”は、不完全であることを許す空気だった。

絵筆を握った歌麿の横顔は、子どもの頃のように活き活きとしていた。石燕はそれを見て、ただ笑った。教え諭すよりも、その瞬間を見守ることが師の役目だと知っている笑みだった。

こうして歌麿は、“人マネ”の檻から一歩外に出た。まだ第三の目はぼんやりしている。それでも、その目が映す世界は、もう他人の筆跡ではなかった。

蔦重の気づき──育てる自負と限界

歌麿が石燕の元へ向かったあと、蔦重は店の帳場で一人煙管をくゆらせていた。「花開かせるのは俺だ」──そう信じて疑わなかった自負が、今は少しだけ揺らいでいた。

「これで歌が一皮むけてくれると、こっちは骨も折らずに濡れ手に栗ってもんよ」。口ではそう言いながら、その声にはどこか自嘲の湿り気が混じっていた。

商売の勘は冴えている。だが、人の心を育てることは、計算通りにはいかない。それを痛感するには、十分すぎる出来事だった。

「花開かせるのは俺」からの手放し

蔦重は、自分こそが歌麿を売り出し、名を上げさせる仕掛け人だと信じてきた。狂歌絵本、人マネ戦略、枕絵──その全ては、歌麿という絵師を舞台に押し上げるための仕掛けだった。

しかし、石燕が語った「三つ目の者にしか見えないもの」は、蔦重の商才では触れられない領域だった。芸の核心は、金や策では開かない。

それを理解した瞬間、蔦重の中で“手放す”という選択肢が芽生えた。育てることと縛ることは紙一重──その境界を、ようやく見つめられるようになったのだ。

濡れ手に栗と自嘲する商人の顔

「濡れ手に栗」という言葉は、江戸っ子の洒落にも聞こえる。だが蔦重の口調には、商人としての自負と同時に、自分は何もしていないのではないかという自問も滲んでいた。

歌麿は今、石燕のもとで筆を握っている。その横顔が、あの日蔦屋の店先で見た活き活きとした少年のようであることを、蔦重は知らない。

だがそれでいい。育てる役は、必ずしも最後まで舞台に立つ必要はない──そう思えるようになった自分に、蔦重は小さく笑った。

この笑みは、商人の笑みではない。江戸の人混みの中で、友の背中を遠くから見守る一人の人間の笑みだった。

第30話は、歌麿の新しい旅立ちと同時に、蔦重の静かな成長の物語でもある。花を開かせるのは誰か──その答えは、次の一話へと託される。

蔦重と歌麿のあいだに漂う“温度のちがい”──同じ船にいても、見ている海は別だった

蔦重の目は、常に波の先を読んでいる。狂歌絵本の売れ行き、人マネ戦略、枕絵の仕掛け──全部がひとつの航路に見えている。潮が満ちる瞬間を逃さず、舵を切れば港まで一気に行けると信じている目だ。

その船首で風を受けている歌麿は、違う景色を見ていた。目の前には白い紙、筆先の黒、墨がじわじわと広がる音。視線の奥には母の顔、ヤスの笑み。描こうとしても、そこから先へは進めない。船は進んでいるはずなのに、自分だけが港の桟橋で足を止めている感覚だ。

蔦重が「いかせっから」と言うたび、歌麿はその“先”に自分の港があるのかを疑っていた。蔦重にとって港は商いの成功だが、歌麿にとっては、描く理由を見つける場所だった。その温度差は、笑顔のやりとりの下にずっと漂っていた。

待つ覚悟と、待たれる重さ

「一生でも待つ」──蔦重のその一言は、啖呵のようでいて、深く沈む錨でもある。待つ側の覚悟は、待たれる側にとっては静かな圧になる。漕ぎ出さなければならない日が、必ず来ると知らせる無言の鐘。

歌麿は、その鐘の音を背中で聞きながら、筆を取ることすら怖くなる瞬間があった。失敗すれば、待ってくれた相手の時間を裏切ることになる。蔦重の覚悟と歌麿の恐れが、見えない縄のように絡み合っていた。

石燕は、その縄をあっさり緩めてしまった。「たぶん持ってる」「まずは描け」。そのいい加減さは、呪文のように張りつめた空気をほどいた。肩から荷が滑り落ちる感覚。あれほど重かった錨が、一瞬で軽くなることがある。

育てることと、離すことのあいだ

蔦重は気づき始めていた。育てるってのは、肥料や水を絶え間なく与えることだけじゃない。土を柔らかくし、日を当て、あとは勝手に伸びるのを邪魔しないこと。商売の勘では測れない成長の速度がある。

自分が舵を握らなくても、歌麿は別の風を見つけるかもしれない。その風は蔦重の知らない海へ運ぶだろうし、そこでは別の港が待っているかもしれない。

船を降ろす勇気と、見送る覚悟。その両方を同じ胸に抱えられるようになったとき、蔦重は商人から“育てる人間”へと、ひとつ形を変えたのかもしれない。

江戸の喧騒の中で交わされる言葉は少なかったが、その沈黙こそが二人の関係を温めていた。熱すぎれば離れ、冷たすぎれば凍る──その間を保つ舵取りは、商売よりも難しい。

べらぼう第30話で描かれた、歌麿の新たな一歩まとめ

第30話は、商人蔦重と絵師歌麿、それぞれの“信じる形”が試された回だった。

蔦重は、人マネという呼び名すら武器に変える商才で、友を売り出そうとした。狂歌絵本の賑わいは、江戸の文化の熱を映す鏡のようだった。

一方の歌麿は、枕絵という自由に手を伸ばしながらも、母やヤスの幻影に阻まれる。創作の場は解放区であると同時に、過去と向き合う牢獄でもあることを思い知る。

廃寺での暴走、自己否定の言葉──そんな歌麿を救ったのは、蔦重の「一生でも待つ」という短い約束だった。急かさず、手放さず、ただ隣にいる覚悟は、友としての究極の支えだった。

そして現れた鳥山石燕。「三つ目の者にしか見えぬもの」という言葉は、歌麿にとって“人マネ”の檻を壊す鍵となった。第三の目──それは他人の筆跡では届かない世界を映す感覚だ。

石燕の「まずは描け」といういい加減さは、歌麿の肩の荷を軽くし、筆を取らせた。横顔には、子どものような生気が戻っていた。

蔦重もまた、自分の役目を見直す。「花開かせるのは俺」という自負を一度手放し、遠くから見守るという新しい立ち位置を選んだ。育てることと、縛ることは違う──その境界線を、彼は越えたのだ。

第30話は、派手な成功譚ではない。小さな覚悟と気づきの積み重ねが、人を次の段階へ押し出すという物語だった。

人マネと呼ばれた絵師は、今、まだぼやけた第三の目で新しい世界を見始めている。商魂たくましい蔦重もまた、友を信じて待つという商売にならない選択をしている。

この二人の間に流れるのは、江戸の喧騒よりも静かで、しかし確かに熱い時間だ。

次回、この熱がどんな形で筆先に宿るのか──その瞬間を、観る側もまた“待つ”ことになる。

この記事のまとめ

  • 蔦重は商才で「人マネ歌麿」を戦略的に売り出す
  • 枕絵の挑戦が歌麿の創作意欲と心の闇を揺らす
  • 母とヤスの幻影が創作を阻み、廃寺で暴走する歌麿
  • 蔦重の「一生でも待つ」が支えの覚悟となる
  • 鳥山石燕の登場で「第三の目」という新たな視点を得る
  • 石燕の“いい加減さ”が歌麿の心を軽くし筆を取らせる
  • 蔦重は「花開かせるのは俺」という自負を手放す
  • 二人の温度差と見守る関係が次の成長へとつながる

読んでいただきありがとうございます!
ブログランキングに参加中です。
よければ下のバナーをポチッと応援お願いします♪

PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

コメント

タイトルとURLをコピーしました