ドラマ『ぼくたちん家』第6話では、ゲイカップルの“家を買う”という選択を軸に、親子・初恋・友情といった複雑な人間関係が丁寧に描かれました。
玄一と索の関係性の進展、過去に傷つけた想いと向き合うことで癒される心、そして母・ともえと娘・ほたるの再会が胸を打ちます。
この記事では、「ゲイが家を買う」という象徴的なテーマの意味、親から子への贖罪、そして“好き”と“わからない”の間で揺れる感情を解きほぐしていきます。
- 同性カップルが家を買う意味とその背景
- 家族や恋愛における“不完全な愛”のかたち
- 人生を選び続けることの尊さと希望
「ゲイ、家を買う」という選択が持つ本当の意味とは
ドラマ『ぼくたちん家』第6話で、玄一が聞いた「家を買ったよ」というセリフは、ただの生活の報告ではなかった。
同性のパートナーと共にローンを組み、パートナーシップ宣言を経て“家族”と認められたというその事実は、静かな革命であり、社会への確かな足跡だ。
そこには、長く見過ごされてきた“存在の証明”が込められていた。
家を買う=社会への静かな宣言
「家を買う」という行為には、暮らしの安定や未来への投資という意味合い以上に、社会の中で“私たち”という関係が認められるのかという問いが含まれている。
それは、ただの不動産購入ではない。
制度の壁、偏見の視線、無理解の言葉をくぐり抜けた先にある、「私たちはここにいる」という証明なのだ。
鯉登が玄一と索に差し出したカード、それは〈パートナーシップ証明書〉だった。
「俺たちみたいな同性同士のカップルでも、家族だと認められた証拠」と彼は言った。
そのカードの存在が、言葉にならなかった思いのすべてを代弁しているようだった。
思い出してほしい、同じ社会で生きながらも、法律で結ばれることができない関係があるという現実を。
この日本で、同性婚はまだ認められていない。それでも、誰かと家を買い、人生を共にしようとする人たちがいる。
その選択に、どれほどの“覚悟”があるか。
そして視聴者である私たちは、何を感じ取るべきか。
ただ「いい話だった」と涙を流すのではなく、“彼らが選び取った普通の幸せ”が、なぜこんなにもドラマチックに描かれなければならなかったのかを、少しだけ立ち止まって考える必要がある。
パートナーシップ制度とLGBTQの“これから”を描く意義
このドラマが誠実なのは、制度をただ美化していない点にある。
パートナーシップ宣言をしたからといって、すべてがスムーズに運ぶわけではない。
それでも、そこには確かな前進がある。
現実の世界でも、多くの自治体がパートナーシップ制度を導入しているが、それが“法的な保障”ではないことを忘れてはいけない。
病院での面会権、相続、養子縁組——どれも法的には未だグレーな領域だ。
だからこそ、ドラマが「家を買う」という描写を選んだ意味が浮かび上がってくる。
制度の穴を埋めるのは、制度ではなく“意志”だと、このエピソードは教えてくれる。
「話し合って決めた」「ローンを一緒に組んだ」——これらは、婚姻届の代わりに、二人で“家族をやっていく”と決めた証拠でもある。
そして、ドラマの中ではその選択を後押しする仲間たちがいた。
ゲイバーの友人たちも、鯉登も、玄一も、索も、それぞれが“異なる人生”を歩いてきた者同士として、互いの選択を肯定しあっていた。
これはマイノリティの物語ではない。 これは、「家族って、なんだろう?」という問いを、あらためて私たち全員に投げかける物語なのだ。
“家を買う”という選択の中に、恋愛も、友情も、社会制度も、未来への希望も、すべてが詰まっていた。
それは、声高に叫ばれるべきスローガンではなく、静かに胸の中で灯る希望のようなものだった。
その灯りを、私たちは見逃さずにいられるか。
玄一と索、言葉にできなかった“初恋”の行方
この第6話で最も胸を締めつけられたのは、玄一と索が過去と向き合い、“初恋”という言葉を口にした瞬間だった。
それは、恋の成就とは違う種類の“解放”だった。
言えなかった言葉が、時間をかけてようやく届いたという、痛みと温かさが同居する瞬間だった。
過去の痛みを告白しあう2人の時間
中学時代の回想の中で明かされたのは、少年たちが抱えきれなかった感情の重さだった。
鯉登の「死ぬほど好きだった」、そして索の「俺も好きでした、初恋でした」という言葉。
そのどれもが、あまりにも遅すぎた“両思い”だった。
あの時、素直に言えていたら、きっと何かが違っていた。
でも彼らは言えなかった。
「気持ち悪い」と言われた記憶、「からかわれる」ことの恐怖、辞書に刻まれた“異常”という言葉。
社会や周囲の声に押し潰されて、自分自身の気持ちすら認められなかった。
だから、この再会の場で交わされた謝罪や告白は、懐かしさではなく、過去の自分を救うための儀式だった。
あの頃の傷は癒えないかもしれない。
けれど、ようやく言えた「好きだった」という言葉は、心の奥に残る“チクチク”を少しだけ優しくする。
「好きでした」と「好きです」が繋がるまで
一度は過去形で語られた初恋。
しかし、それが現在形へと変わっていく過程は、ドラマの中でも極めて繊細に描かれていた。
玄一の部屋で、索が物件情報を見ていたシーン。
それはただのルームシェアではなく、“一緒に生活したい”という想いの可視化だった。
「一緒に生きる活動をしたい」「それってつまり、両思いってことでいいですか?」
この問いと答えが交わされた瞬間、時間がやっと2人を“今”に連れてきたようだった。
ずっと遠回りして、遠ざけて、傷つけて、それでも心のどこかで待っていた。
「好きです」と言えること。
それは恋の始まりではなく、ようやく辿り着いた「対等な心の居場所」だった。
そして、ほたるが無邪気に「両思い?」と聞いたその空気も、決して茶化しではなかった。
大人の複雑さを子供の素直さが包み込んだ、その構図がとても印象的だった。
このふたりが選んだのは、“今さら”ではなく、“今から”だった。
その決意が、ドラマの語りをどこか清々しいものに変えていた。
好きだった、そして今も好き。
言葉にできなかった思いは、ようやく言葉になった。
それは、たとえ時を越えてでも、人は“わかり合おうとする努力”でつながれるという、静かな希望だった。
ほたると母・ともえが再会して見せた、許せなさと愛しさの同居
「謝ったって許さないから!」
そう言い放ったほたるの目は、涙を我慢することでしか感情を守れない子どもの目だった。
母を愛しているからこそ、裏切られた痛みは深くなる。
「許さない」けど「好き」——感情の矛盾と真実
ともえが娘に対して語ったのは、“夢を叶えたい”という一見美しい理由だった。
しかしその裏には、横領という罪と、それによって背負わせた娘の重荷がある。
「お母さんのこと嫌いになったほうがいいんですかね」というほたるの問いには、“好き”と“嫌い”を選ばされる苦しさが滲んでいた。
人は誰しも、感情を白か黒かで分けることができない。
信じたいけど、裏切られた。
でも、まだ信じたい。
ともえは“母であること”を手放すように見えて、娘への愛だけは手放さなかった。
「ずっと、何歳のほたるも大好きだった」という言葉は、言い訳ではなく、本心だったのだろう。
けれど、それで全てが帳消しになるわけではない。
傷ついた子どもに必要なのは、“謝罪”よりも、“居続ける責任”だった。
ともえが逃げずに戻ってきたこと、それ自体には意味がある。
だが、またいなくなる予感を孕んだままの母を、娘はどう抱きしめればいいのだろう。
47都道府県のキーホルダーが意味する“母の夢”
ともえが語った夢は、47都道府県のキーホルダーを集めること。
あまりにも小さくて、あまりにも個人的で、でもそれゆえに切実だった。
「しょうもない夢でも叶えられないことが、ずっとつっかかってる」
その言葉には、何も成し遂げられなかった自分への怒りと、人生を少しでも取り戻したいという焦りがにじんでいた。
ただ、その夢の代償として娘を巻き込み、罪を犯した事実は消えない。
キーホルダーのひとつひとつが、母の逃避の象徴にも、希望のかけらにも見えてくる。
母の夢を「応援したい」と「否定したい」が、同時に存在する。
そして、玄一が語った「中学生のときに傷つけた友人と話せたことで、“チクチク”が“チク”くらいになった」という言葉が、
ほたるの心にも届いていたように思う。
すぐにすべてを許せなくていい。
でも、ほんの少しずつ“わからない感情”に名前をつけていくことはできる。
ラストでともえが背を向けたとき、ほたるは「お母さん、私のこと好き?」と問いかける。
その声は、答えが欲しいのではなく、まだ繋がっていたいという祈りだった。
その問いは、“夢を追う母”を責めるためのものではない。
「あなたがどこにいても、私はまだあなたの娘でいたい」と告げる最後の糸だった。
そしてそれは、視聴者にとっても、家族とは何か、本当に「大事なもの」とは何かを、改めて問い直す場面だった。
“普通の幸せ”を諦めなかった人々の連帯
このドラマが描く“家族”は、血縁という言葉に縛られたものではない。
「普通」の定義を手放した人たちが、それでも手に入れようとした“日常の幸せ”が、そこにはある。
そしてその中には、“選び取った関係性”だからこそ生まれる強さと優しさがあった。
ゲイバーの仲間たちが作る疑似家族のような温もり
第6話で登場する、鯉登や玄一のゲイバー仲間たち。
彼らの存在は、単なる脇役ではない。
孤独を抱えた人々が“集まることで家族のようになる”瞬間を、何気ない会話や笑顔の中に描いている。
「またみんなで食事しましょう」
「焼き芋でもしませんか?」
その誘いはイベントではなく、“生活を共にする”という関係性の提案だった。
法律で認められなくても、血が繋がっていなくても、
そこに誰かを迎え入れる気持ちがあるなら、それはもう家族なんだと、このドラマは静かに教えてくれる。
鯉登がカードを見せたときも、彼らは驚きながらも心から祝福していた。
「おめでとう」と言える関係は、無関心では成り立たない。
そこには、理解し合おうとする意志と、共に笑おうとする温度があった。
「また焼き芋しましょう」——暮らしの中に宿る革命
焼き芋パーティーのシーンは、このエピソードの象徴だ。
警察が張り込んでいようと、過去に傷があろうと、人間関係が複雑であろうと、
“今ここで一緒に生きている”という事実が、全てを肯定していた。
焼き芋の湯気は、緊張した空気を少しずつ溶かし、言葉にならない感情を温めてくれた。
「芋を焼こう」と言える関係は、“平和”を手放さないという意思でもある。
日常というのは、政治や制度よりも小さな場所で始まる。
だからこそ、この中庭で行われる焼き芋パーティーが、どれほどの革命だったかを私たちは見逃してはいけない。
ドラマは大きな声で叫ばない。
でも、「暮らしの中で誰かと笑える幸せ」が、最も根源的な人権であることを静かに伝えている。
そして、その輪の中には、誰だって入っていける。
家族という言葉を再定義したいとき、社会に対して小さな違和感を覚えたとき、
その輪の端っこに立ってみればいい。
そこには、名前も制度もいらない。
「うち、焼き芋あるけど来る?」と言える誰かがいること。
それこそが、“普通の幸せ”を諦めなかった人たちの、最も強くてやさしい答えだった。
「親になる」とはなにか? 血より深いものを問いかける
「あの子のちゃんとした親じゃなくて、例えばほかの子供の正式な親になることって、できるのかな?」
玄一が鯉登に語ったこの言葉は、LGBTQや血縁外の親子関係だけでなく、
“親になる”とはどういうことかという普遍的な問いを私たちに投げかける。
血の繋がり、法律、肩書きの外に、本当の“親”は存在するのか。
玄一が語った「誰かの親になる」夢
第6話で印象的だったのは、玄一が鯉登に見せた静かな希望だ。
「親になる」ことが、何か特別な人間にだけ許される権利ではなく、“願い”として描かれていた。
玄一と鯉登は、パートナーとして“里親制度の研修”を受けている最中だ。
そこには、生まれや性別や家庭環境を超えて、
「誰かの成長に関わりたい」「誰かの人生に責任を持ちたい」という、静かな決意がある。
“親”という言葉が表すのは、ただ産んだ・育てたという過去ではなく、
「これからも関わり続ける」という未来への覚悟なのだ。
そして玄一の「大事な人と家を買いたい」には、パートナーとの生活だけでなく、
“家庭”という形を、自分たちで創っていきたいという意思が含まれている。
そこには、恋愛の先にある「社会に居場所を作る」という営みが感じられた。
ともえの逃避とほたるの葛藤が交錯する中での一歩
一方で、母・ともえはその“親であること”から逃げようとしていた。
横領という現実から、母としての責任から、そして何より、「子供に傷つけられる自分自身」から逃げていたように見える。
それでも彼女は言った。
「進学も就職も結婚も出産も、みんながしているからした。でも夢を追うには今しかない」
この言葉は身勝手にも思えるが、本音をさらけ出した、母の精一杯の“誠実”だったのかもしれない。
一方のほたるは、傷ついても、混乱しても、
「お母さんは私のこと好き?」と聞いた。
それは、自分の存在を確かめるための問いであり、親子という形が壊れても“心の繋がり”は手放したくないという願いでもあった。
ここで描かれたのは、“親だから”何かをするのではなく、
「あなたがあなたである限り、関わっていたい」という関係性の姿だった。
玄一が誰かの親になろうとしていること。
ともえが母であることに葛藤していること。
この2つの物語は、対照的でありながら、どちらも「誰かと家族でありたい」と願う心から始まっている。
“親になる”とは何か。
それは、“名乗ること”から始まっていいのだと、このドラマは教えてくれる。
血より深く、法より柔らかい、「あなたの人生に関わりたい」と言える勇気が、家族をつくっていく。
年を重ねることが怖い君へ——玄一の人生の言葉
「私が50歳になったら辛くて死んじゃう」
この一言に、若いほたるの不安と絶望が集約されていた。
けれど、玄一はその言葉を否定しなかった。
彼は、自分の人生の中にある“ささやかな幸せ”を語ることで、未来の肯定を教えようとした。
「苦手なものが減って、好きなものが増えていく」
玄一は、自分が50歳になって感じる変化を、とても穏やかな言葉で伝えた。
「育ててる豆苗が大きくなるとボロ泣き」
「昔苦手だったきゅうりが、今では大好きになった」
この描写に、人生が“退屈な繰り返し”ではなく、少しずつ“自分と仲直りする旅”であることが表れている。
苦手なものが減る、好きなものが増える——それは歳を取ることの最大の贈り物かもしれない。
若いころの“選べなさ”や“不器用さ”が、年月をかけて少しずつほぐれていく。
そうして、他人にも自分にも優しくなれる。
これは、“老い”に対する最も美しい反論だ。
「歳を取ったらしんどいよ」ではなく、
「歳を取ったら、“嬉しい”が見つかるんだよ」と伝える姿勢。
その語り口が、玄一という人物の“やさしさの質”をよく表していた。
50歳という希望——年齢がもたらす心の柔らかさ
多くの人にとって、「50歳」という数字は恐れや不安の対象かもしれない。
でも玄一は、その年齢を“誇らしく”ではなく、“自然体”で語った。
人生に疲れた日々を経験したからこそ見えてくる小さな幸せ。
それは、ただ年を重ねたから得られるわけではない。
見ようとした人だけが気づける宝物だ。
老眼鏡のくだりで、玄一はほたるに「涙吸収用にティッシュを詰める」裏技を教える。
そこには、お説教でも慰めでもない、“一緒に泣く”ことの寄り添い方があった。
年齢を重ねた人ができることは、若者の痛みを否定することではなく、その痛みに居場所を作ること。
「膝の痛みで雨がわかるようになる」と語る玄一の言葉には、人生の“ユーモア”も滲んでいた。
悲しみを笑いに変える力、それも年齢がくれるギフトだ。
「歳を取ったら死んじゃうかも」と思っていたほたるにとって、
玄一の語る“50歳のリアル”は、希望の種だったはずだ。
自分の未来が怖くなったとき、こういう大人が傍にいるだけで、どれだけ救われるだろう。
だからこそ、玄一の存在は“パートナー”だけでなく、
未来に不安を抱える全ての人にとっての「光」になっていた。
「選ぶ」ということ、それは生きることそのもの
第6話を見終えて心に残ったのは、「みんな、ちゃんと“選んでいる”」ということだった。
玄一も、鯉登も、ともえも、ほたるも、どこか不器用で、どこか痛々しい。
でも彼らは、誰かのせいにせず、自分の足で選択していた。
恋愛も、家族も、夢も、許しも——どれも“正解”なんてない。
それでも選ぶ。それが、彼らの生き方だった。
誰かと生きる覚悟、ひとりで立つ勇気
玄一が「家を買う」と決めたとき、それは単なる現実的な選択じゃなかった。
社会が定めた“普通”に迎合するでもなく、抗うでもなく、
「自分の幸せを、自分で形にする」という意思の表明だった。
一方で、ともえは逃げた。
でもそれもまた、彼女なりの“生き方を選ぶ行為”だった。
責任からではなく、夢からでもなく、
ただ「いまをどうにかやり直したい」という叫びに似た選択。
その不器用さは、見ていて痛いほど人間的だった。
ほたるが「許さない」と言いながら母を追う姿も同じ。
愛することも、許さないことも、どちらも「関わり続ける覚悟」だ。
切ることより、繋ぎ止めるほうがずっと難しい。
だからこそ、彼女たちの選択には、
“関係を続ける勇気”があった。
このドラマに出てくる人たちは、決して正義の人ではない。
でも、みんな「誰かと生きたい」と思っていた。
その気持ちこそが、人生を前に進ませている。
“幸せ”を自分で定義し直すという革命
第6話に流れていたのは、静かな革命の音だった。
それは法律を変えるような大きなものではなく、
日々の暮らしの中で、自分の“幸せ”を塗り替えていくような小さな音。
「パートナーと家を買う」「娘を許さないまま愛する」「夢の続きを追う」——
そのどれもが、社会の“こうあるべき”をゆっくりと書き換えていく行為だった。
ドラマが描いたのは、“特別な人たち”の話じゃない。
どんなに普通に見える人の中にも、選ぶことでしか前に進めない瞬間がある。
そのとき、誰かの理解も、制度の後押しもないかもしれない。
でも、それでも選ぶ。
玄一のように、鯉登のように、ともえのように、
そして、ほたるのように。
彼らの姿は、“自分の幸せを自分で定義する”という生き方そのものだった。
正しいとか間違っているとかじゃない。
人は、選ぶたびに、自分の形を更新していく。
失敗しても、迷っても、選び続ける限り、
きっとその人の人生は“生きている”と呼べるのだと思う。
『ぼくたちん家』第6話で描かれた“家族”という不完全な愛のかたちまとめ
『ぼくたちん家』第6話は、愛、家族、パートナーシップ、そして贖罪と再出発の物語だった。
だがそのどれもが完璧に描かれていたわけではない。
不完全な関係、不完全な感情、不完全な未来。
でも、それらを“捨てずに持ち続けること”が、この物語の核だった。
両思いになっても終わらない物語のその先
玄一と索が「好きです」と言葉を交わしたあと、全てが解決したわけではない。
吉田の想いは置き去りにされ、社会的な課題や制度の壁も依然としてある。
だけど、“両思い”がゴールではなく、スタートだと示したことがこのエピソードの強さだった。
家を買う、生活を共にする、親になる。
それは愛だけでは進めない、“現実”との共同作業だ。
2人で暮らすこと=2人で闘うこと。
玄一たちは、それをわかっているからこそ、静かに踏み出した。
視聴者は、その一歩に対して、拍手ではなく“まなざし”を向けるべきだ。
ドラマの先を決めるのは、作り手ではなく、受け手の「記憶」にある。
“許せないけど、嫌いになれない”——それでも人は寄り添って生きる
ともえとほたるの関係は、きれいな和解では終わらなかった。
むしろ、「わからない」「複雑」「ぐちゃぐちゃ」なまま、2人の物語は続いていく。
それでも、視聴者には伝わったはずだ。
「嫌いになれない」という感情が、時にどんな正論よりも強く人をつなぐということを。
人は完全ではない。
だから、完璧な愛や関係を求めるのではなく、
“不完全なままでも一緒にいようとする努力”に価値がある。
「何もわからないけど、それでも生きていく」
そんな気持ちを抱えた人に、このドラマは静かに寄り添ってくれる。
焼き芋の湯気のように、目には見えなくても、確かに存在する温度。
それこそがこの作品が描いた、“家族”という言葉の本質だった。
「普通じゃない」って、なんだろう?
「家族じゃない」って、誰が決めるんだろう?
このドラマの答えは、こうだ。
「わかろうとすること。許そうとすること。そこに愛が生まれる」
そしてその愛は、形がどうあれ、誰かにとっての“帰る場所”になる。
不完全な人間たちが寄り添う姿は、美しさよりも、切実さで胸を打つ。
それが、『ぼくたちん家』が描いた愛のかたちだった。
- 同性カップルが「家を買う」意味
- 玄一と索の“初恋”の再起動
- 母ともえと娘ほたるの複雑な愛情
- 焼き芋に込められた日常の連帯
- 「親になる」とは何かへの問いかけ
- 年を重ねることの希望と柔らかさ
- 自分で“幸せ”を定義する強さ
- 正解のない人生を「選ぶ」ことの尊さ



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