【べらぼう22話ネタバレ感想】春町の「屁」と「屍」が江戸を救う!? 傷心と笑いが交差する“作り文字”誕生劇!

べらぼう
記事内に広告が含まれています。

2025年大河ドラマ『べらぼう』第22話「小生、酒上不埒にて」は、ただの中休み回ではなかった。

筆を折った春町と、屁に笑う江戸の民。絵師たちの矜持と、吉原に生きる花魁・誰袖の策略。すべてが一つの“文字”に集約されていく。

この記事では、22話で描かれた「春町文字」の意味、春町の復活劇、そして田沼意知×誰袖による「抜荷」を巡る駆け引きを、“物語の解剖メス”でえぐる。

この記事を読むとわかること

  • 春町が「屁」と「屍」で描いた再生の意味
  • 登場人物たちが自分の弱さとどう向き合ったか
  • 江戸の笑いが現代人の心にも届く理由
  1. 春町はなぜ“屁”を書き、“屍”を隠したのか?──春町復活の真意と「作り文字」の正体
    1. 「筆を折る」と言った春町の、最後の“手紙”が意味したもの
    2. 屁屁屁の中に一つの「屍」──笑いと絶望の間に生まれた“狂気の文字”
    3. 春町文字が生まれた背景にある、小野篁と“教育の闇”
  2. 恋川春町はなぜ落ちたか──政演の「御存商売物」に敗れた男の本音
    1. “盗人”発言の裏にあった劣等感と、「おっかぶせ」の文化
    2. 政演が読んだ「廓ばかむら費字盡」に見た、春町の「心の遺書」
    3. 皮肉と自嘲と友情が交差する、「筆を再び取る瞬間」
  3. 歌麿と喜三二の“言葉の刃”──春町を動かした「寂しい」という共鳴
    1. 「上手い、下手じゃなくて、好き」──歌麿のセリフに宿る真実
    2. 喜三二の「みんなお前が好きなんだ」発言がもたらした熱の連鎖
    3. 友情が生む創造──「春町風に描く」という模倣の超克
  4. 誰袖という名の策士──花魁の仮面を被った情報屋の“交渉力”
    1. 「抜荷の証拠」を掴め──吉原が戦場に変わるとき
    2. 田沼意知の手を握る誰袖の覚悟、「この顔で生きたいのです」
    3. 女の策略か、愛の交渉か──田沼意知が落ちた“言葉の罠”
  5. 蔦重の編集術──“笑い”を出版する者の哲学
    1. 屁、皮肉、狂歌。“くだらなさ”を江戸の価値に昇華させる構造
    2. 忘年会という名の“読者会”──人が本を作るという真理
    3. 源内への弔い、そして春町へのラストカットの贈り物
  6. 「笑えない時代」に、それでも“笑い”をやる意味
    1. 「くだらない」は、弱さを肯定する言葉だ
    2. 会社でも家庭でも、“屁”が言える人がチームを救う
    3. 孤独を隠すためじゃなく、“見せるため”の笑いもある
  7. 「クールポコ。」出演が意味する“江戸と今”の橋渡し──べらぼう22話の異物感と必然性
    1. 「おなじみの笑い」を“異物”として埋め込む脚本の妙
    2. 笑いがあることで、物語の“生々しさ”が際立つという逆説
  8. 「べらぼう 22話」の核心と余韻をまとめる──屁が照らした、春町の心と江戸の希望
    1. 作り笑いではない、本物の「作り文字」が生んだ再生の物語
    2. 春町、政演、歌麿──“己”と向き合った芸術家たちの再起

春町はなぜ“屁”を書き、“屍”を隠したのか?──春町復活の真意と「作り文字」の正体

筆を折った男が、最初に書いたのが「屁」だった。

しかも、それを九つ並べ、その中央にだけ「屍」の文字を忍ばせるという、笑っていいのか、泣くべきなのか分からない“文字遊び”。

第22話「小生、酒上不埒にて」は、恋川春町の「絶望と再生のドキュメント」だった。

「筆を折る」と言った春町の、最後の“手紙”が意味したもの

狂歌師として、江戸の“笑い”を背負ってきた男が、自分の作品を「模倣された」と感じ、酒の席で感情を爆発させた。

その発言は仲間の作家・絵師たちに波紋を呼ぶが、何より春町自身の心に深く刺さった。

それが「筆を折る」宣言に繋がったわけだが、彼は完全に創作から離れたわけではなかった。

黙って机に向かい、延々と「屁」の字を書く。

そしてその中心に一つ、「屍」──。

自分は“笑いの場”にはふさわしくない。

みんなが笑う中、己だけが“死んでいた”という感覚。

これは、芸術家のうつ状態そのものだった。

屁屁屁の中に一つの「屍」──笑いと絶望の間に生まれた“狂気の文字”

「屁」の反復は、バカバカしさの象徴であると同時に、江戸庶民のエネルギーの象徴でもある。

春町はその“笑い”のど真ん中で、自分だけが沈んでいた。

「あれは、放屁芸で盛り上がる空気が虚しくて仕方なかった」と彼は語る。

屁の中に屍を混ぜることで、“この中に俺はいない”という拒絶のメッセージを忍ばせた。

だけど、その“屍”もまた、屁に囲まれて笑いに呑み込まれる。

──この構造は、笑いの中に孤独を抱えるクリエイターすべての心象風景じゃないか。

この「屁屍屁」こそが、後の「春町文字」の萌芽だった。

己の死と、江戸の笑いを、文字というカタチに落とし込んだ最初の試み。

この段階で、彼はもう復活への“呼吸”を始めていたのだ。

春町文字が生まれた背景にある、小野篁と“教育の闇”

春町が次に書いたのは、「恋」「川」「春」「町」それぞれの偏に「失」を組み合わせた“偽漢字”。

その意味はこうだ。

  • 恋を失う=未練
  • 川を失う=枯れる
  • 春を失う=はずす
  • 町を失う=不人気

まさに、自分自身を漢字で自己紹介したような“自虐の辞書”である。

そしてその発想のルーツが「小野篁歌字尽」──これは江戸時代に広く読まれた“文字の教本”だ。

「教育の笑い」「字遊び」こそが、春町にとっての表現原点だった

この瞬間、春町は「絵」や「言葉」を超えて、“文字そのものを芸術化”し始める。

それはまるで、鬱屈と創作がぶつかり合って生まれた、江戸のダダイズム。

そして蔦重がそこに見出したのは、春町にしか描けない「江戸の皮肉」だった

吉原を舞台に、愛と欲、金と情が交差する中で、あえて“くだらない言葉”で世界を斬る。

──このセンスを持ってる奴に、筆を折る資格なんてねぇ。

第22話は、春町という男の「クリエイターとしてのどん底」と「再生の瞬間」を、屁と文字で描いた、稀有な一話だった。

だからこそ、観終わった後に笑いながら、自分の孤独や敗北も許せる気がする

これは、“敗者が書いた詩”だ。

恋川春町はなぜ落ちたか──政演の「御存商売物」に敗れた男の本音

この回を「春町の敗北回」と切り捨てるのは簡単だ。

でも、ただの“スランプ”じゃない。

彼は「己の存在価値」を見失いかけていた。

“盗人”発言の裏にあった劣等感と、「おっかぶせ」の文化

発端は、北尾政演が描いた『御存商売物』という青本だった。

番付一等を取ったその本に対して、春町は「自分の『辞闘戦新根』のパクリだ」と罵倒。

しかし──これは嫉妬でも怒りでもない。

むしろ、「あまりに自分より完成されていたことへの畏怖」だった

江戸の出版界には、「おっかぶせ文化」があった。

誰かのアイデアに“乗っかる”ことで、さらに面白く、さらに過激に。

政演の作品も、春町の前作をベースにしていた。

でもそれが、“超えてしまった”。

そこに春町は「自分の終わり」を見てしまったのだ。

政演が読んだ「廓ばかむら費字盡」に見た、春町の「心の遺書」

それでも春町は、“創作をやめた”わけではなかった。

あの屁と屍の後に生まれたのが、「廓ばかむら費字盡(さとのばかむらむだじづくし)」

これは吉原を舞台にした“皮肉漢字遊び青本”。

女偏+見=「見立て」、男+無=「息子」、金+死=「野暮」……。

そのどれもが、笑いの奥で血を流していた。

政演はそれを読み、「これ、俺がやりたかった…」と呟く。

春町が“敗北”と思っていた表現は、政演にとっては“羨望”だった

この瞬間、観ているこちらも気づかされる。

勝ち負けの尺度なんて、所詮は自分の中の幻なのだ。

皮肉と自嘲と友情が交差する、「筆を再び取る瞬間」

春町が再び筆を取る決断を下したのは、誰かに褒められたからでも、名誉を取り戻すためでもない。

ただ一言、「寂しいから戻ってきてほしい」と歌麿と喜三二に言われたからだ。

自分の作品を“真似したい”と言ってくれる人。

それが何よりの救いになる。

春町が描くのは、皮肉と笑いと、自分自身への憐憫。

でもそれを、蔦重が「商品にする」。

くだらないものを、江戸一番の笑いに仕立てる編集力

春町が創った文字、それはまるで“自虐の短歌”。

でもそこには、自分の弱さを笑って受け入れた男の気高さがあった。

この回は、クリエイターにとって「傷ついたままでも、笑っていい」という許可証だ。

“負けた男”の筆が、もう一度江戸を笑わせる。

歌麿と喜三二の“言葉の刃”──春町を動かした「寂しい」という共鳴

春町を再び「筆の前」に座らせたのは、論理でも賛辞でもなかった。

それは、“寂しさ”という感情の引き金だった。

そしてその引き金を引いたのが、喜三二と歌麿という「描く者たち」だった。

「上手い、下手じゃなくて、好き」──歌麿のセリフに宿る真実

喜多川歌麿は、蔦重の指示で春町の画風を真似る依頼を受けた。

それを伝えるために春町を訪ねた場面で、彼が語ったのは、“模倣ではなく共鳴”の感情だった。

「あなたの絵が好きなんです。上手いからじゃない。あの線に、感情があるから

この一言が、春町の硬直した表情を一瞬だけ揺らした。

誰にも届いていないと思っていた線が、実は、見えていたという衝撃。

模倣されることへの嫌悪ではなく、真似るほどに“好き”と言ってくれる他人の存在

そこに、春町は自分の“居場所”を再発見した。

喜三二の「みんなお前が好きなんだ」発言がもたらした熱の連鎖

朋誠堂喜三二の口調は軽いが、言葉は鋭い。

彼は春町に真正面からこう言った。

「筆折るとか言ってるけどよ、みんな、お前のこと好きなんだよ。それだけで、描いていいだろ」

この言葉には、評価でも理屈でもなく、“情”が詰まっていた。

江戸の戯作者たちは、言葉を武器にして生きている。

でも、誰かの本音に触れたとき、言葉は刃ではなく、絆になる

喜三二のこの一言が、春町の心の芯を“ちょっとだけ”温めた

「絵が上手い」よりも、「お前が好き」の方が、ずっと描く理由になる。

──それが、この回の真理だった。

友情が生む創造──「春町風に描く」という模倣の超克

歌麿が春町のタッチを真似るということは、ある種の“挑戦”だった。

その挑戦は、ただの“代理”でも“敬意”でもなく、「自分も一緒に、この世界を描きたい」という共創の姿だった。

春町はその姿に、かつての自分──夢中で描き、笑い、仲間と夜を明かした頃の熱を思い出した。

誰かの中に“自分の残響”があるということ。

その共鳴こそが、創作の最大の報酬なのだ

「俺がいなくても、俺の表現は残る」

それを知った春町は、初めて“自分が死んでもいい”と思えたのかもしれない。

でもその瞬間──

「まだ、生きてていいかも」と心が言った

歌麿と喜三二は、「春町を救った」んじゃない

一緒に、もう一度絵を描きたかった

だから、彼は戻ってきた。

この第22話は、そんな“友情の再起動”の記録だ。

誰袖という名の策士──花魁の仮面を被った情報屋の“交渉力”

第22話の裏主役──それが、吉原の花魁・誰袖だ。

彼女はただの色香の象徴ではない。

この回、誰袖は“欲”と“知略”と“希望”を武器に、政治の奥底に踏み込んだ

「抜荷の証拠」を掴め──吉原が戦場に変わるとき

田沼意知と密会する誰袖の視線は、決して“甘い女”のそれではなかった。

彼女は自身の“身請け”という運命を賭けて、松前藩の抜荷事件の核心に踏み込む。

情報と身体の等価交換。

それが、遊女としての彼女の交渉術だ。

意知が求めるのは「証拠」──誰袖が差し出したのは「品」だけ。

そのやり取りの中で、誰袖は問いかける。

「抜荷を“やらせる”ことで、証拠を作れないか」

提案という名の誘導

これは、吉原という“表ではない江戸”で育った女の、生き抜く知恵だった。

田沼意知の手を握る誰袖の覚悟、「この顔で生きたいのです」

誰袖の目的は「愛」だけではない。

彼女はこう言う。

この顔で、生きたいのです

吉原では、名前も素性も捨てられる。

でも、彼女は“誰袖”として、“この顔のままで”生きる未来を欲した。

それは、遊女としての再生ではなく、一人の人間としての再構築

その願いを、田沼意知はどう受け取るのか。

彼は政治家であり、男であり、そして“武家社会の論理”を背負う者だ。

その彼が最後に語ったのがこのセリフ。

「証しが立った暁には──そなたを、落籍いたそう」

これこそが、この回のもう一つの“誓いの言葉”だった。

女の策略か、愛の交渉か──田沼意知が落ちた“言葉の罠”

誰袖がこの密会で仕掛けたのは、「未来を人質に取る交渉」だった。

“証拠があれば、あなたのものになる”という条件付きの愛。

その一言に、意知は“落ちた”。

だがこれは単なる色仕掛けではない。

江戸を動かす者たちの「策と誓いの等価交換」だった。

誰袖は、吉原という“売られる場”から、自ら“買う側”へ転じようとしていた。

情報で未来を、愛で政治を、交渉で人生を。

この回、誰袖は花魁の仮面を脱がないまま、その内面にある知略と信念を観客に見せつけた

田沼意知という政治の中枢に、吉原の女が“爪痕”を残した瞬間。

それは、「べらぼう」が単なる芸術ドラマで終わらない理由でもある。

蔦重の編集術──“笑い”を出版する者の哲学

べらぼう第22話の表舞台で春町が“復活”していく中、その土台を支え続けたのが蔦屋重三郎だった。

彼は決して「主役」ではない。

だがこの物語の屋台骨──江戸文化という混沌を整え、出版という形にする者──その矜持が光る回でもあった。

屁、皮肉、狂歌。“くだらなさ”を江戸の価値に昇華させる構造

「屁」「屍」「文字遊び」「狂歌」──

現代ならウケ狙いの“おふざけコンテンツ”扱いされるような題材を、蔦重は徹底的に仕込み、洗練させ、“商品”にする

それは、バカバカしさの中にある真理を、誰よりも知っているからだ。

春町の屁文字に「屍」があることを察しながら、彼はそれを笑わない。

笑わせる材料に昇華する。

これは、蔦重にしかできない“編集という再創造”だった。

忘年会という名の“読者会”──人が本を作るという真理

この回の後半で描かれたのが、「忘年会」という名の“創作の現場”。

絵師・戯作者・板元・職人・女たち──江戸という社会の“周縁者”たちが集い、

大笑いしながら、真面目に作品を育てていく空間

そこには、計算やマーケティングではない、“生きた感情”があった。

一人ひとりが持ち寄った感性が混ざり合い、「青本」というフォーマットの中で燃焼していく。

蔦重の編集術とは、人間の感情をコンテンツにする技術だ。

源内への弔い、そして春町へのラストカットの贈り物

忘れてはならないのが、平賀源内の不在である。

彼の死が、蔦重の中に“笑い”の義務を残した。

だからこそ、春町が筆を折ると聞いた瞬間、蔦重は焦った。

源内が残した「このくだらなさを、誰かが拾え」というメッセージを、春町こそが継ぐべきだと思っていた

そして、それは“押し付け”ではない。

仲間としての眼差し。

ラスト、春町が書き上げた青本に、蔦重が満足げにうなずく。

「これでええ。江戸が笑えば、源内も浮かばれる」

──そう言わんばかりの目。

蔦重は、文化を“誰がやるか”ではなく、“どう続けるか”で考えている。

この編集者の視点こそ、江戸という都市が文化都市でいられた理由だった。

彼は、笑いを「記録」する人間じゃない。

笑いを「仕掛ける」人間だ。

「笑えない時代」に、それでも“笑い”をやる意味

春町が書いたのは、ただの“屁”じゃない。

屍の文字を笑いで包む──あれは、江戸という街の「希望の設計」だった。

笑ってるけど、笑えてない人間なんて、今の時代にもゴロゴロいる。

「くだらない」は、弱さを肯定する言葉だ

この世の中、正論ばっかが幅を利かせてる。

でも正しすぎる言葉って、人を追い詰める。

春町が描いた屁まみれの文字は、そういう“正義疲れ”の心にスッと入ってくる。

くだらないって、実はめちゃくちゃ優しい

負けたことがあるやつ、泣いたあと笑うやつ、

そういうやつらが「なんとか生きてるよ」って言うときの口癖が「くだらねぇな」なんだ。

会社でも家庭でも、“屁”が言える人がチームを救う

上司が失言する、後輩が炎上する、リモート会議で空気が凍る──

そんな時に、「今の屁こいたろ?」って言えるやつが、実は最強。

春町の“屁”は、空気を変えるスイッチだった。

笑いって、空気に「余白」を作る。

空気が詰まってると、人の本音は死んでいく

屁みたいなことを言えるやつが、実は本音に近い。

孤独を隠すためじゃなく、“見せるため”の笑いもある

春町は、自分の“屍”を文字に埋めた。

あのとき、彼は笑われようとしてたんじゃない。

笑いの中に、孤独があることを見せていた

それって、実はとんでもない勇気だ。

今って、SNSでもリアルでも“平気なふり”がうまい奴が勝ち組扱いされる。

でもほんとは、「弱さを言語化できる人」が、いちばん強い。

春町の屁は、その練習だった。

「俺、ちょっとしんどいんだよね」って笑いながら言うための、“屁という伏線”。

笑いって、優しさを先に差し出す行為だ

第22話が響くのは、作品としての完成度より、

そこに込められた“人間のダサさ”が、俺たちに似てたからだ。

「クールポコ。」出演が意味する“江戸と今”の橋渡し──べらぼう22話の異物感と必然性

いきなり出てきた餅つき芸人に「え、何このキャスティング?」ってなった人も多いはず。

だがそれは、ただの笑いの脱線ではなかった。

江戸という街の“体温”を担う装置として、完璧に機能していた。

「おなじみの笑い」を“異物”として埋め込む脚本の妙

「な~にぃ!? やっちまったなぁ!」

一時代を築いたクールポコ。のリズムが、大河に差し込まれた。

だがそれは“まんま”ではなかった。

餅をつく人とこねる人という配役に置き換えられ、江戸の暮らしの“音”に変換されていた。

これが“笑わせに来てる”というより、

「江戸にもこういう空気があったんだろう」と感じさせる混ざり方だった。

芸人の存在が、歴史のなかに違和感なく溶け込む瞬間──それ自体が、脚本の凄みだ。

笑いがあることで、物語の“生々しさ”が際立つという逆説

春町の嫉妬、誰袖の情報戦、政演との火花。

物語は重く、張り詰めた空気も多い。

だからこそ、一瞬の“緩み”が、視聴者の感情を支える

笑ってしまったあとに、ふと「この笑いの裏にも、たぶん飢えや孤独があった」と気づく。

江戸もまた、貧しさと笑いが同居していた。

そしてその空気感が、現代の東京と変わらないことに気づく

笑いで“時代の壁”を壊す。

それがクールポコ。という“異物”の役割だった。

「べらぼう 22話」の核心と余韻をまとめる──屁が照らした、春町の心と江戸の希望

笑えるのに、泣きたくなる。

ふざけてるのに、真剣さが突き刺さる。

──それが、第22話「小生、酒上不埒にて」の持つ凄みだった。

作り笑いではない、本物の「作り文字」が生んだ再生の物語

春町が再び筆を取ったのは、勝ちたいからでも、目立ちたいからでもない。

「自分の感情を、もう一度誰かに届けたい」──ただそれだけだった。

屁の中に屍を埋めるような文字遊び。

くだらないようで、それは“心の再建”だった

江戸の笑いは、虚勢じゃない。

痛みの上に乗せる“軽さ”こそが、ほんものの「文化」だ。

「屁」で笑い、「失」で織られた漢字に涙する。

人間のダサさを、愛せる強さ

そこに、“作り笑い”じゃない「作り文字」の力がある。

春町、政演、歌麿──“己”と向き合った芸術家たちの再起

春町は、屍から這い出た。

政演は、羨望の裏で春町の魂を受け取った。

歌麿は、「好き」を伝えることで他人の筆を取り戻させた。

この3人に共通してるのは、“自分のダサさ”を受け入れたこと

それは、いまを生きる俺たちにも刺さる。

嫉妬も、劣等感も、すり減った自尊心も、全部を材料にして言葉にする。

それが「創作」であり、「人間らしさ」の証だ。

だから、笑える。

だから、涙が出る。

この話を観たあと、自分の中にも「屍」があって、それでもまだ“屁”を放てると思った。

そう思えたことが、この回の一番の収穫。

江戸の希望は、強い言葉じゃなかった。

くだらなくて、あったかくて、なんだかやけに人間くさい言葉だった。

──まさに、それが「べらぼう」だ。

この記事のまとめ

  • 春町が「屁」の中に「屍」を忍ばせた真意
  • 模倣と嫉妬の果てに見えた芸術家の再起
  • 歌麿と喜三二の“共鳴”がもたらした救い
  • 誰袖が情報と身体で政治を動かした駆け引き
  • 蔦重が“笑い”を文化に昇華させた編集哲学
  • くだらなさが人の弱さを肯定するという視点
  • 「屁」で救われる現代人への共感的な提言
  • 笑いと孤独が共存する江戸の人間模様
  • 作り笑いではない“作り文字”が持つ力
  • 己のダサさと向き合うことの尊さ

読んでいただきありがとうございます!
ブログランキングに参加中です。
よければ下のバナーをポチッと応援お願いします♪

PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

コメント

タイトルとURLをコピーしました