『ザ・ロイヤルファミリー』登場人物にモデルはいるのか?実在の馬主・騎手・エピソードを徹底解剖

ザ・ロイヤルファミリー
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10月からスタートしたTBS日曜劇場『ザ・ロイヤルファミリー』。主演・妻夫木聡、演出・塚原あゆ子、そしてJRA全面協力という異例のスケールが話題を集めています。

だが視聴者が気になっているのは、「この登場人物たちにモデルはいるのか?」「実話なのか?」という“物語の裏側”でしょう。

この記事では、原作・早見和真の取材背景をもとに、どこまでがリアルで、どこからがフィクションなのか──モデルとされた人物やエピソードを徹底的に掘り下げていきます。

この記事を読むとわかること

  • 『ザ・ロイヤルファミリー』のモデル人物の真実
  • 取材に基づくリアルな描写と実在の反映ポイント
  • 夢と家族が交錯する“競馬と継承”の深層ドラマ!
  1. 山王耕造にモデルはいる?答えは“いない、でも混ざってる”
    1. 明確なモデルはいないが、多数の実在人物の要素が注入されている
    2. 作者・早見和真の5年間の取材が生んだ“リアルの集合体”
  2. モデル候補①:馬主「サトノ」里見治の豪快さと情熱
    1. セガサミー会長としての資金力と“競馬への狂熱”
    2. 山王耕造の“ぶち上げる男気”に通じるスケール感
  3. モデル候補②:『メイショウ』松本好雄が宿した“ある一点”
    1. 馬と家族を繋ぐ“信念”の片鱗が、山王のキャラに刻まれた
    2. 「死ぬまで公にしないで」──松本氏の要望が示すリアリティ
  4. モデル候補③:元騎手・川島信二が支えた“脚本に宿る筋肉”
    1. 完歩数まで指導──競馬シーンの“身体のリアル”を担保
    2. 監修としてジョッキー役の演技を支える現場の声
  5. リアルに裏打ちされた「相続馬主」のエピソードとは?
    1. 実在の馬主・佐々木家の話から生まれた“血の物語”
    2. 家族×競馬=“ロイヤルファミリー”の真意に迫る鍵
  6. 原作はオリジナル、でも“実話よりリアル”な描写が光る
    1. 実話ではない。だが“虚構では届かない重み”がある
    2. 日曜劇場にしてJRA全面協力──リアルの臨界点
  7. “夢を継がせる”という呪い──家族と競馬の、解けない鎖
    1. 馬を託す。それは、愛か、執着か
    2. 「継いでほしい」と願うその裏にある、親の孤独
  8. 『ザ・ロイヤルファミリー モデル』に関するまとめ
    1. モデルはいない、しかし“実在のエッセンス”は詰まっている
    2. フィクションだからこそ描ける、真実以上の人間ドラマ

山王耕造にモデルはいる?答えは“いない、でも混ざってる”

ドラマ『ザ・ロイヤルファミリー』において、ひときわ異彩を放つ存在──それが佐藤浩市が演じる馬主・山王耕造だ。

「時代遅れなほどに真っすぐ」「暴君のように情熱的」。そんな彼にこそ、多くの視聴者は目を奪われる。

そして自然と湧き上がるのが、この疑問だ──「この人物、本当にいたのか?」

明確なモデルはいないが、多数の実在人物の要素が注入されている

結論から言えば、山王耕造には明確なモデルはいない

原作小説の著者・早見和真自身が「特定の人物をモデルにしていない」と明言している。

だが同時に、こうも語っている。「リアルにするために、競馬関係者に5年かけて取材した」──その取材対象は、馬主、騎手、調教師、レーシングマネージャーなど多岐に渡る。

つまり山王耕造というキャラクターは、“誰か一人”ではなく、“何人ものホースマンたちの魂の断片”から作られているのだ。

その姿勢こそが、『ザ・ロイヤルファミリー』を“実話ではないが、実話以上にリアル”な物語にしている。

フィクションにおけるリアリティとは、事実に基づくことではない。事実の“蓄積”が感情として結晶化したもの──それを、この作品は貫いている。

作者・早見和真の5年間の取材が生んだ“リアルの集合体”

「このキャラの言動、なんか見たことある気がする」──視聴者がそう感じる理由、それこそが早見和真の“フィクション設計”の妙だ。

彼は山王耕造を生み出すまでに、10人近い馬主、複数の元騎手、調教師に何度も会い、話を聞き続けた。

あるエピソードでは、半年間寝かせた取材メモをもとに、ようやくキャラの“声”が聞こえてきたという。

この“寝かせる”という行為は、単なる資料集めではなく、感情と構造を繋ぐ熟成だ。

「インタビューは、登場人物のセリフになるまでが本番」

この思考があるからこそ、山王耕造のセリフは浮つかない。芝居がかった“脚本臭”を一切感じさせず、生身の人間のように響く。

ドラマでは、その言葉が佐藤浩市の声で放たれた瞬間、重みが倍増する

「俺は、競馬で家族を守る」──この一言の裏には、名もなき馬主たちの、20年分の希望と挫折が凝縮されている。

また、取材先の1人である松本好雄(“メイショウ”の冠名で知られる馬主)との関係も特筆に値する。

彼から受け取った言葉が、山王耕造の“ある一点”に投影されているという。

しかもその言葉は、生前に「僕が死ぬまでは公開しないでくれ」と言われたもの。

フィクションだから語れたが、事実であるからこそ、心に刺さる

この“語られざる実話”の破片が、ドラマの中に生きている──。

そしてこの構造は、視聴者にある種の錯覚を起こさせる。

「この人、本当にいたんじゃないか?」と。

だがそれこそが、フィクションがリアリティを凌駕した証だ。

モデルが“いない”という答えに、落胆する必要はない。

なぜなら『ザ・ロイヤルファミリー』は、競馬に人生を懸けた男たちの集合的記憶でできているからだ。

彼らが語った言葉、飲み込んだ涙、走らせた想い──それらが、山王耕造というキャラクターに“封印”されている。

その重さは、どんな実在の人物よりもリアルかもしれない。

モデル候補①:馬主「サトノ」里見治の豪快さと情熱

フィクションは“誰かの人生の欠片”からしか生まれない。

『ザ・ロイヤルファミリー』の中核を担う馬主・山王耕造の“スケールの大きさ”──その源泉を辿っていくと、ある男の影が見えてくる。

それが、「サトノ」の冠名で知られる馬主・里見治(さとみ・はじめ)だ。

セガサミー会長としての資金力と“競馬への狂熱”

里見治は、ただの馬好きではない。

彼はセガサミーホールディングスの創業者であり、現会長

パチンコとゲーム業界をまたにかける実業家として、億単位の金が動くビジネスの最前線に立ち続けてきた。

そんな彼が1990年に馬主資格を取得し、「サトノ」の冠名で競馬界に参入したとき、業界はどよめいた。

なぜなら里見は、「勝つために、すべてを注ぎ込む」タイプの馬主だったからだ。

セレクトセール(競走馬のオークション)では、毎年億を超える取引を当たり前のようにこなす。

サトノダイヤモンド、サトノクラウン、サトノノブレス──名馬たちは、彼の狂熱と財力の結晶だった。

だが、金だけではなかった。

里見には、勝負の“筋”にこだわる哲学があった。

「どうせやるなら、日本一になる」──そう言い切り、10年20年のスパンで馬づくりに挑んでいた。

この“先を見据えて張る”覚悟こそ、山王耕造と最も重なる部分だ。

山王耕造の“ぶち上げる男気”に通じるスケール感

ドラマに登場する山王耕造もまた、「勝てなくても、夢を見させる」ことに命を賭ける男だった。

赤字続きの競馬事業部を畳もうとする息子に対し、「俺の競馬には、まだ物語がある」と言い放つ。

その言葉の裏には、人生の時間を“競馬という炎”に投じてきた男の信念が見える。

里見治にも、それに近い“賭け”があった。

かつて彼は、社業とはまったく関係のない競馬に、年に数億円という予算をつぎ込んでいた

家族や経営陣からの理解を得るのは、決して容易ではなかった。

だが彼はやめなかった。

そして2016年、有馬記念──サトノダイヤモンドが“世紀の激戦”を制し、ついに念願のGⅠ制覇を果たす。

それはまさに、「血のにじむ物語が、勝利として報われた瞬間」だった。

山王耕造が、手塩にかけた愛馬とともに夢を見る姿。

そのシルエットの奥に、視聴者は気づかないうちに“里見治の魂の燃えカス”を見ているのかもしれない。

そして興味深いのは、原作者・早見和真が「話を聞いた馬主の一人が里見さん」と明言していることだ。

キャラクターの全体像は里見治ではない。だが、馬と夢に懸ける“覚悟”の匂いは、確実にこの男から吸い取られている。

だからこそ、山王耕造は「ただの理想の馬主像」では終わらない。

リアルに滲む、勝負師としての“狂気”と“優しさ”が、実在の匂いを立ち上らせている

モデルとは、外見や肩書きではない。

“魂の断片”が一致しているかどうか──その一点で、フィクションは人を刺す。

山王耕造と里見治。

この二人は“同じ炎を見ていた”男たちなのかもしれない。

モデル候補②:『メイショウ』松本好雄が宿した“ある一点”

キャラクターの“輪郭”ではなく、“心の奥の温度”だけをコピーする──それが、早見和真が物語に仕込む“モデルの流儀”だ。

山王耕造というキャラクターの中には、誰もが気づかぬように、だが確かに、『メイショウ』の松本好雄という男の“ある一点”が刻まれている。

それは、血や金ではなく、「何のために馬を持つのか」という人としての信念だ。

馬と家族を繋ぐ“信念”の片鱗が、山王のキャラに刻まれた

松本好雄──競馬ファンであれば、知らぬ者はいない“日本競馬最多勝の馬主”である。

冠名「メイショウ」で知られ、2000頭以上の馬を保有し、1,000勝以上を挙げた。

だがその偉業以上に、記憶に残るのは、その馬への接し方だった。

松本氏は、単に勝つためではなく、“物語を背負える馬”を求めていた。

たとえ成績が振るわなくても、諦めず育て、愛し、そして見守る。

「うちは、ファミリーでやってるからね」──牧場、厩舎、そして馬。それらを“家族”として扱っていた。

このスタンスは、『ザ・ロイヤルファミリー』に登場する山王耕造の姿と、奇妙なほど重なる。

ドラマ内で耕造は、家族の反対を押し切ってまで競馬に執着し続ける。

その理由が単なるギャンブル的欲望ではなく、“血と絆”に由来する信念だと分かった時──視聴者は息を呑む。

実は、原作者・早見和真が松本氏に行った取材の中に、その根幹となる言葉が存在していた。

それは、「死ぬまでこの話は出さないでほしい」という、ひとつの要望とともに渡された。

「死ぬまで公にしないで」──松本氏の要望が示すリアリティ

そのエピソードは、作中には直接描かれていない。

だが、山王耕造のある言葉、ある行動の背後には、その“未公開の会話”が反映されている。

取材後、早見和真は半年以上その言葉を胸に眠らせた。

小説の中に自然とにじませるようにして、その“エッセンス”だけを注ぎ込んだ。

そして2025年9月、松本好雄氏が亡くなった直後。

早見は自身のX(旧Twitter)で、こうポストした:

「ある一点において、山王耕造に松本オーナーが反映されています。もう一度お話をさせていただきたかった」

この投稿は、読者やファンの間で静かな波紋を呼んだ。

誰も知らなかった、誰にも語られなかった“馬と人の記憶”が、確かに物語の中で生きていたのだと。

実在をコピーすることは、誰にでもできる。

だが、その人が人生を懸けた“温度”だけを継承することは、作家にしかできない。

山王耕造の“異常なまでの執着”や、“勝負にすがる姿勢”がただの演出に見えない理由──

それは、松本好雄という男の“未公開の物語”が、静かに乗り移っていたからだ。

家族、馬、事業、死。

どれも“線引き”できないまま、命を注ぎ込んで走り抜けた男がいた。

そしてその魂が、今、フィクションの中で再び走っている。

それはきっと、松本好雄という馬主のもうひとつの有馬記念なのかもしれない。

モデル候補③:元騎手・川島信二が支えた“脚本に宿る筋肉”

競馬を描いたフィクションは数あれど、ほとんどが「走るシーン」が“ふわっとしてる”。

馬が走る。ジョッキーが叫ぶ。観客が湧く。

それだけでは、物語の骨格は作れない。

『ザ・ロイヤルファミリー』が、“競馬モノの壁”を突き破った理由──

それは、元騎手・川島信二という男の「脚本に宿る筋肉」があったからだ。

完歩数まで指導──競馬シーンの“身体のリアル”を担保

川島信二──オースミハルカなどで名を馳せた、かつての名ジョッキー。

2024年に騎手を引退後、調教助手として現場に関わる傍ら、原作者・早見和真とも長く親交を持っていた。

その関係性が、“作品の肉体性”を支える裏柱になっていたのは間違いない。

たとえば──マイル戦における「馬の完歩数」について。

小説第2部には、主人公たちが“完歩の大きさ”から距離適性を見極めるというシーンが登場する。

この発想、そして具体的な数字は、すべて川島が手がけた。

早見が送ったメッセージは、たった一行──

「最少でどのくらいの完歩数でマイルを走れるのか、大至急教えてくれ」

すると川島は、レース映像を見直し、一完歩ずつ数えて返してきたという。

これは、ただの“競馬知識”ではない。

作品にとって、動きの精度が、物語の信頼度を底上げする要素になる。

誰かが馬にまたがり、誰かがムチを入れる──その“一瞬のフォーム”が正確であるかどうか。

そこに、競馬という“命のスポーツ”が宿るのだ。

監修としてジョッキー役の演技を支える現場の声

そんな川島信二は、今回のドラマ版『ザ・ロイヤルファミリー』にて騎手動作の監修としても参加している。

注目すべきは、ジョッキー・中条耕一を演じる高杉真宙へのコメントだ。

彼の騎乗姿を見た川島は、こうつぶやいたという。

「勇者だな。騎手のハートを持っている」

この言葉の重さは、競馬関係者にしかわからない

「騎手のハート」とは、体力でもスキルでもない。

馬との一体感。スピードと恐怖の狭間で“信じ切る”精神

それを演技で表現できた時点で、高杉の覚悟が、現場を本物に変えた。

もちろん、川島はただ“カッコよさ”だけを教えたわけではない。

騎手の癖、スタート時の重心、ゴール前の姿勢。

それらを言語化し、映像で再現させる。

つまり“競馬の動き”を脚本化したのだ。

これによって、ドラマは「見るだけの競馬」から、「感じる競馬」へと変わった。

カメラが追うのは馬体の美しさだけじゃない。

ジョッキーの脈拍、恐怖、判断力までが、映像に焼きつけられている。

視聴者は気づかないかもしれない。

だが、“リアルさ”とは、そういう見えないところで作られる

川島信二という男は、現場で声を荒げることはない。

ただ、静かに、正しく、強く、物語の“体幹”を整えていた。

彼がいなければ、『ザ・ロイヤルファミリー』は“雰囲気ドラマ”で終わっていただろう。

だが、今は違う。

脚本に、筋肉がついている。

それは、フィクションにおいて最も信頼される“リアル”だ。

リアルに裏打ちされた「相続馬主」のエピソードとは?

競馬は“命のレース”であると同時に、“人生の相続”でもある。

『ザ・ロイヤルファミリー』というタイトルに、「ロイヤル(貴族)=血筋」の意味が込められているとすれば──

この物語の根底には、「相続馬主」という制度が、見えない血流のように流れている。

実在の馬主・佐々木家の話から生まれた“血の物語”

ドラマの原作を手がけた早見和真は、元騎手・川島信二の紹介で、ある家族の話を聞いた

それが、元馬主・佐々木完二とその息子・佐々木政充による、親子二代の「相続馬主」の実話だ。

完二氏は既に亡くなっていたが、政充氏がその遺志を引き継ぎ、馬を走らせ続けていた。

この話が、小説にどのように反映されたか。

それは、作中で描かれる「親の死」と「馬の行方」を巡る、静かで、重たいシーンだ。

主人公・栗須や、馬主・山王耕造たちが直面するのは、「人が死ぬとき、馬はどうなるのか?」という、誰もが語らない現実。

馬主の死は、単なる“所有者の変更”ではない。

それは、「夢の死」とも言える

だが、“相続馬主”という制度は、そこに光を差す。

親から子へ──馬とともに、夢が相続される

制度としては、日本中央競馬会(JRA)が認めた一定の条件を満たせば、馬主資格と所有馬をそのまま次世代が受け継ぐことが可能になる。

この仕組みがあることで、“競馬が家業として続いていく”

つまり、競馬は「個人の趣味」ではなく、「一族の意志の継承」なのだ。

家族×競馬=“ロイヤルファミリー”の真意に迫る鍵

ドラマタイトルの『ザ・ロイヤルファミリー』。

これをただの“比喩”だと捉えると、作品の核心を見落とす。

“ロイヤル”とは、貴族や王族ではない。

「血を継ぎ、夢を継ぎ、馬を継ぐ家族」──その意味だ。

山王耕造という馬主は、家族との軋轢を抱えながらも、馬という存在に未来を託す。

一方で、彼の息子や孫、元恋人との間にも「競馬」という共通言語が生まれていく。

それは血縁ではない。だが、“想いの相続”なのだ。

原作には、相続馬主の制度そのものを取り上げるシーンが登場する。

遺産、法務、税務といった具体的な問題と並行して、「馬を手放すか、それでも走らせるか」という選択が、キャラクターたちの“魂の問い”として描かれる。

その背景には、佐々木家の“現実にあった選択”が存在している。

実話はドラマにはならない。だが、ドラマは実話の中にしか宿らない何かを掘り起こせる。

フィクションが響くとき、それは「真実だから」ではない。

そこに、誰かの命が宿っていると、観る者が無意識に感じるからだ。

『ザ・ロイヤルファミリー』は、まさにそんな作品だ。

騎手、調教師、馬主たちの夢。

その全てが、“相続される家族の物語”の中で交錯していく。

それはもはや、馬の話ではない。

人生の物語だ。

命が尽きても、物語は終わらない。

誰かがバトンを握り、次の夢へ向かって走り出す。

原作はオリジナル、でも“実話よりリアル”な描写が光る

「これ、実話なの?」

──多くの視聴者が『ザ・ロイヤルファミリー』を見て最初に抱いた疑問だろう。

それほどまでに、この物語には“地に足の着いたリアリティ”がある。

実話ではない。だが“虚構では届かない重み”がある

明確にしておく。

原作となった早見和真の同名小説は、フィクション=完全なオリジナル作品だ。

特定の人物をモデルにしたものではなく、物語の骨子から構成、キャラクターまで、作家の創造力から生まれている。

では、なぜこの作品はここまでリアルなのか?

──それは、“虚構でしか描けない現実”を、あえて小説という形式で描いたからだ。

5年にわたる徹底的な取材。

馬主、騎手、調教師、レーシングマネージャー。

生産者の現場、オークション会場、牧場の朝。

すべてを見て、聞いて、感じて──そして一度“自分の体温で蒸留”したうえで、再構築された物語。

実話とは、誰かの記録である。

だがフィクションは、“みんなの記憶”になれる

それが、この作品が人を惹きつける理由だ。

日曜劇場にしてJRA全面協力──リアルの臨界点

さらにこのドラマの特異性を語る上で外せないのが、JRA(日本中央競馬会)の全面協力だ。

実在の競馬場、新潟競馬場での撮影、GⅠ馬の出演、現役騎手のカメオ登場。

これらは単なる“演出のリアルさ”ではない。

それは、「この物語に競馬界が信頼を寄せた証明」だ。

映像には、CGでは再現できない空気がある。

セリ市の熱。パドックのざわめき。返し馬の緊張感。

そして、馬の目に映る“勝負の気配”。

それらすべてが、物語の一部として機能している

この“現実の舞台を虚構が走る”構造こそ、『ザ・ロイヤルファミリー』の最大の魅力だ。

たとえ脚本が架空でも、

たとえキャラクターが創作でも、

そこに流れているのは、実在したホースマンたちの息遣いなのだ。

ドラマの中で、主人公・栗須は“税理士としての人生”に絶望する。

だが、耕造という“馬に人生を懸けた男”と出会い、「人の夢を引き継ぐ」ことの意味を知っていく。

これは、まさに早見和真という作家の姿と重なる。

彼は、数多の関係者から託された夢の断片を、“物語という形”で世の中に引き継いだ

実話では描けない。

ノンフィクションでは届かない。

それでも、この物語が観る者の心を走らせるのは、事実に負けないリアルがあるからだ。

──それが『ザ・ロイヤルファミリー』。

実話ではない。けれど、誰よりも真実に触れているフィクションだ。

“夢を継がせる”という呪い──家族と競馬の、解けない鎖

『ザ・ロイヤルファミリー』を見ていて、どうしてもひっかかった言葉がある。

「お前に継いでほしいんだよ、俺の夢を」

言ったのは山王耕造。受け止めるのは、息子か、仲間か、それとも見ている俺たちだ。

馬を託す。それは、愛か、執着か

競馬は、単なるビジネスでも、スポーツでもない。

あれは“生き物と生き方を繋ぐ装置”だ。

だからこそ、人はそこに自分の夢を託しやすい。

だがその夢は、しばしば「呪い」に変わる

家族に「自分の夢」を背負わせようとした瞬間、その夢は輝きじゃなく、荷物になる。

愛するから渡したのか。失いたくないから縛ったのか。

その境界線は、思っている以上に曖昧だ。

耕造のやっていることは、一歩間違えばただの“エゴの押しつけ”

「競馬は素晴らしいんだよ」「お前もきっと分かる」──そう語る姿は、まるで父親という名の伝道師。

だがその裏には、誰にも理解されなかった男の孤独がある。

「継いでほしい」と願うその裏にある、親の孤独

耕造は息子にも、妻にも否定される。

「競馬なんて家族を壊すだけ」「父親失格よ」

それでも彼は、馬を、競馬を、夢を捨てられない。

なぜか?

それしか自分の価値を感じられる場所がなかったからだ。

だから、継いでほしいと思った。

夢を渡したいんじゃない。「俺の人生を否定しないでくれ」という叫びだ。

視聴者の多くは、ここで共感するかもしれない。

「親の夢を背負わされた子ども」「継ぐことを選べなかった自分」

そのどちらの気持ちも、作品には刻まれている。

そして恐ろしいのは、“夢は受け取った瞬間、責任になる”ってことだ。

喜びとともに、罪悪感と期待がのしかかる。

それでも馬は走る。人も走る。止まらずに。

『ザ・ロイヤルファミリー』の“継承”というテーマは、血縁を超えた人間の業だ。

家族を想うがゆえに、壊してしまう。

夢を残したいがゆえに、誰かの時間を奪う。

──けれど、そうやって誰かが誰かの物語を引き受けることでしか、人は生きていけないのかもしれない。

継いでくれ、と願う。

継ぎたくない、と背を向ける。

継げなかった、と泣く。

そのすべてが“ファミリー”だ。

だから『ザ・ロイヤルファミリー』──

それは競馬の物語であり、親の孤独と、子の葛藤の物語だ。

『ザ・ロイヤルファミリー モデル』に関するまとめ

『ザ・ロイヤルファミリー』に実在のモデルはいるのか?──

その問いの答えは、「明確なモデルはいない」である。

だが、それで終わる話じゃない。

モデルはいない、しかし“実在のエッセンス”は詰まっている

山王耕造、栗須栄治、中条耕一……

彼らのキャラクターには、“誰か一人の人生”ではなく、“何百人のホースマンたちの記憶”が注ぎ込まれている。

取材された馬主、調教師、騎手、牧場関係者──

その声、仕草、涙、笑い、諦め、誇り。

それらを作家・早見和真が“蒸留”し、物語の血液として流し込んだ

だからこそ、登場人物たちは“生きている”。

作り物のはずなのに、会ったことがある気がしてしまう。

彼らの言葉が痛いほど刺さるのは、現実に誰かがそうやって生きてきたからだ。

フィクションだからこそ描ける、真実以上の人間ドラマ

ドラマの中で描かれる「相続馬主」──

それは、実際に佐々木家から聞いた話が元になっている。

騎手の一完歩まで数えてくれた川島信二の存在も、演出の芯を支えている。

さらに、馬主・里見治や松本好雄といった“実在の情熱”が、キャラクターの骨となり、肉となった。

でも、それらをすべて繋ぎ、燃やし、走らせたのは、フィクションの力だ。

「嘘をつくことで、本当を語る」──

それが、作家の覚悟であり、このドラマの強度だ。

視聴者が涙するのは、そこにリアリティがあるからではない。

“自分の現実と地続きの感情”が、物語の中にあるからだ。

『ザ・ロイヤルファミリー』は、

競馬という舞台に、人間の尊厳と、継承と、敗北と、希望を詰め込んだ

だからこそ──たとえ完全なフィクションであっても、

“本当にあった気がする”物語として、心に残る

これが、“モデルがいない”ドラマの、最高到達点だ。

この記事のまとめ

  • 『ザ・ロイヤルファミリー』に明確なモデルはいない
  • 馬主・里見治や松本好雄の思想が山王耕造に反映
  • 川島信二による完歩数の監修で競馬描写が本物に
  • 実在の親子馬主の話から“相続馬主”の描写が誕生
  • フィクションだが、5年取材でリアルを超えた作品
  • JRA全面協力で競馬界からも信頼されたドラマ
  • 「夢を継ぐ」ことの葛藤と家族の呪縛が描かれる
  • 競馬は背景、人間ドラマが主役の壮大な群像劇
  • 実話以上に真実を感じる“物語のリアリティ”

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