10月からスタートしたTBS日曜劇場『ザ・ロイヤルファミリー』。主演・妻夫木聡、演出・塚原あゆ子、そしてJRA全面協力という異例のスケールが話題を集めています。
だが視聴者が気になっているのは、「この登場人物たちにモデルはいるのか?」「実話なのか?」という“物語の裏側”でしょう。
この記事では、原作・早見和真の取材背景をもとに、どこまでがリアルで、どこからがフィクションなのか──モデルとされた人物やエピソードを徹底的に掘り下げていきます。
- 『ザ・ロイヤルファミリー』のモデル人物の真実
- 取材に基づくリアルな描写と実在の反映ポイント
- 夢と家族が交錯する“競馬と継承”の深層ドラマ!
山王耕造にモデルはいる?答えは“いない、でも混ざってる”
ドラマ『ザ・ロイヤルファミリー』において、ひときわ異彩を放つ存在──それが佐藤浩市が演じる馬主・山王耕造だ。
「時代遅れなほどに真っすぐ」「暴君のように情熱的」。そんな彼にこそ、多くの視聴者は目を奪われる。
そして自然と湧き上がるのが、この疑問だ──「この人物、本当にいたのか?」
明確なモデルはいないが、多数の実在人物の要素が注入されている
結論から言えば、山王耕造には明確なモデルはいない。
原作小説の著者・早見和真自身が「特定の人物をモデルにしていない」と明言している。
だが同時に、こうも語っている。「リアルにするために、競馬関係者に5年かけて取材した」──その取材対象は、馬主、騎手、調教師、レーシングマネージャーなど多岐に渡る。
つまり山王耕造というキャラクターは、“誰か一人”ではなく、“何人ものホースマンたちの魂の断片”から作られているのだ。
その姿勢こそが、『ザ・ロイヤルファミリー』を“実話ではないが、実話以上にリアル”な物語にしている。
フィクションにおけるリアリティとは、事実に基づくことではない。事実の“蓄積”が感情として結晶化したもの──それを、この作品は貫いている。
作者・早見和真の5年間の取材が生んだ“リアルの集合体”
「このキャラの言動、なんか見たことある気がする」──視聴者がそう感じる理由、それこそが早見和真の“フィクション設計”の妙だ。
彼は山王耕造を生み出すまでに、10人近い馬主、複数の元騎手、調教師に何度も会い、話を聞き続けた。
あるエピソードでは、半年間寝かせた取材メモをもとに、ようやくキャラの“声”が聞こえてきたという。
この“寝かせる”という行為は、単なる資料集めではなく、感情と構造を繋ぐ熟成だ。
「インタビューは、登場人物のセリフになるまでが本番」
この思考があるからこそ、山王耕造のセリフは浮つかない。芝居がかった“脚本臭”を一切感じさせず、生身の人間のように響く。
ドラマでは、その言葉が佐藤浩市の声で放たれた瞬間、重みが倍増する。
「俺は、競馬で家族を守る」──この一言の裏には、名もなき馬主たちの、20年分の希望と挫折が凝縮されている。
また、取材先の1人である松本好雄(“メイショウ”の冠名で知られる馬主)との関係も特筆に値する。
彼から受け取った言葉が、山王耕造の“ある一点”に投影されているという。
しかもその言葉は、生前に「僕が死ぬまでは公開しないでくれ」と言われたもの。
フィクションだから語れたが、事実であるからこそ、心に刺さる。
この“語られざる実話”の破片が、ドラマの中に生きている──。
そしてこの構造は、視聴者にある種の錯覚を起こさせる。
「この人、本当にいたんじゃないか?」と。
だがそれこそが、フィクションがリアリティを凌駕した証だ。
モデルが“いない”という答えに、落胆する必要はない。
なぜなら『ザ・ロイヤルファミリー』は、競馬に人生を懸けた男たちの集合的記憶でできているからだ。
彼らが語った言葉、飲み込んだ涙、走らせた想い──それらが、山王耕造というキャラクターに“封印”されている。
その重さは、どんな実在の人物よりもリアルかもしれない。
モデル候補①:馬主「サトノ」里見治の豪快さと情熱
フィクションは“誰かの人生の欠片”からしか生まれない。
『ザ・ロイヤルファミリー』の中核を担う馬主・山王耕造の“スケールの大きさ”──その源泉を辿っていくと、ある男の影が見えてくる。
それが、「サトノ」の冠名で知られる馬主・里見治(さとみ・はじめ)だ。
セガサミー会長としての資金力と“競馬への狂熱”
里見治は、ただの馬好きではない。
彼はセガサミーホールディングスの創業者であり、現会長。
パチンコとゲーム業界をまたにかける実業家として、億単位の金が動くビジネスの最前線に立ち続けてきた。
そんな彼が1990年に馬主資格を取得し、「サトノ」の冠名で競馬界に参入したとき、業界はどよめいた。
なぜなら里見は、「勝つために、すべてを注ぎ込む」タイプの馬主だったからだ。
セレクトセール(競走馬のオークション)では、毎年億を超える取引を当たり前のようにこなす。
サトノダイヤモンド、サトノクラウン、サトノノブレス──名馬たちは、彼の狂熱と財力の結晶だった。
だが、金だけではなかった。
里見には、勝負の“筋”にこだわる哲学があった。
「どうせやるなら、日本一になる」──そう言い切り、10年20年のスパンで馬づくりに挑んでいた。
この“先を見据えて張る”覚悟こそ、山王耕造と最も重なる部分だ。
山王耕造の“ぶち上げる男気”に通じるスケール感
ドラマに登場する山王耕造もまた、「勝てなくても、夢を見させる」ことに命を賭ける男だった。
赤字続きの競馬事業部を畳もうとする息子に対し、「俺の競馬には、まだ物語がある」と言い放つ。
その言葉の裏には、人生の時間を“競馬という炎”に投じてきた男の信念が見える。
里見治にも、それに近い“賭け”があった。
かつて彼は、社業とはまったく関係のない競馬に、年に数億円という予算をつぎ込んでいた。
家族や経営陣からの理解を得るのは、決して容易ではなかった。
だが彼はやめなかった。
そして2016年、有馬記念──サトノダイヤモンドが“世紀の激戦”を制し、ついに念願のGⅠ制覇を果たす。
それはまさに、「血のにじむ物語が、勝利として報われた瞬間」だった。
山王耕造が、手塩にかけた愛馬とともに夢を見る姿。
そのシルエットの奥に、視聴者は気づかないうちに“里見治の魂の燃えカス”を見ているのかもしれない。
そして興味深いのは、原作者・早見和真が「話を聞いた馬主の一人が里見さん」と明言していることだ。
キャラクターの全体像は里見治ではない。だが、馬と夢に懸ける“覚悟”の匂いは、確実にこの男から吸い取られている。
だからこそ、山王耕造は「ただの理想の馬主像」では終わらない。
リアルに滲む、勝負師としての“狂気”と“優しさ”が、実在の匂いを立ち上らせている。
モデルとは、外見や肩書きではない。
“魂の断片”が一致しているかどうか──その一点で、フィクションは人を刺す。
山王耕造と里見治。
この二人は“同じ炎を見ていた”男たちなのかもしれない。
モデル候補②:『メイショウ』松本好雄が宿した“ある一点”
キャラクターの“輪郭”ではなく、“心の奥の温度”だけをコピーする──それが、早見和真が物語に仕込む“モデルの流儀”だ。
山王耕造というキャラクターの中には、誰もが気づかぬように、だが確かに、『メイショウ』の松本好雄という男の“ある一点”が刻まれている。
それは、血や金ではなく、「何のために馬を持つのか」という人としての信念だ。
馬と家族を繋ぐ“信念”の片鱗が、山王のキャラに刻まれた
松本好雄──競馬ファンであれば、知らぬ者はいない“日本競馬最多勝の馬主”である。
冠名「メイショウ」で知られ、2000頭以上の馬を保有し、1,000勝以上を挙げた。
だがその偉業以上に、記憶に残るのは、その馬への接し方だった。
松本氏は、単に勝つためではなく、“物語を背負える馬”を求めていた。
たとえ成績が振るわなくても、諦めず育て、愛し、そして見守る。
「うちは、ファミリーでやってるからね」──牧場、厩舎、そして馬。それらを“家族”として扱っていた。
このスタンスは、『ザ・ロイヤルファミリー』に登場する山王耕造の姿と、奇妙なほど重なる。
ドラマ内で耕造は、家族の反対を押し切ってまで競馬に執着し続ける。
その理由が単なるギャンブル的欲望ではなく、“血と絆”に由来する信念だと分かった時──視聴者は息を呑む。
実は、原作者・早見和真が松本氏に行った取材の中に、その根幹となる言葉が存在していた。
それは、「死ぬまでこの話は出さないでほしい」という、ひとつの要望とともに渡された。
「死ぬまで公にしないで」──松本氏の要望が示すリアリティ
そのエピソードは、作中には直接描かれていない。
だが、山王耕造のある言葉、ある行動の背後には、その“未公開の会話”が反映されている。
取材後、早見和真は半年以上その言葉を胸に眠らせた。
小説の中に自然とにじませるようにして、その“エッセンス”だけを注ぎ込んだ。
そして2025年9月、松本好雄氏が亡くなった直後。
早見は自身のX(旧Twitter)で、こうポストした:
「ある一点において、山王耕造に松本オーナーが反映されています。もう一度お話をさせていただきたかった」
この投稿は、読者やファンの間で静かな波紋を呼んだ。
誰も知らなかった、誰にも語られなかった“馬と人の記憶”が、確かに物語の中で生きていたのだと。
実在をコピーすることは、誰にでもできる。
だが、その人が人生を懸けた“温度”だけを継承することは、作家にしかできない。
山王耕造の“異常なまでの執着”や、“勝負にすがる姿勢”がただの演出に見えない理由──
それは、松本好雄という男の“未公開の物語”が、静かに乗り移っていたからだ。
家族、馬、事業、死。
どれも“線引き”できないまま、命を注ぎ込んで走り抜けた男がいた。
そしてその魂が、今、フィクションの中で再び走っている。
それはきっと、松本好雄という馬主のもうひとつの有馬記念なのかもしれない。
モデル候補③:元騎手・川島信二が支えた“脚本に宿る筋肉”
競馬を描いたフィクションは数あれど、ほとんどが「走るシーン」が“ふわっとしてる”。
馬が走る。ジョッキーが叫ぶ。観客が湧く。
それだけでは、物語の骨格は作れない。
『ザ・ロイヤルファミリー』が、“競馬モノの壁”を突き破った理由──
それは、元騎手・川島信二という男の「脚本に宿る筋肉」があったからだ。
完歩数まで指導──競馬シーンの“身体のリアル”を担保
川島信二──オースミハルカなどで名を馳せた、かつての名ジョッキー。
2024年に騎手を引退後、調教助手として現場に関わる傍ら、原作者・早見和真とも長く親交を持っていた。
その関係性が、“作品の肉体性”を支える裏柱になっていたのは間違いない。
たとえば──マイル戦における「馬の完歩数」について。
小説第2部には、主人公たちが“完歩の大きさ”から距離適性を見極めるというシーンが登場する。
この発想、そして具体的な数字は、すべて川島が手がけた。
早見が送ったメッセージは、たった一行──
「最少でどのくらいの完歩数でマイルを走れるのか、大至急教えてくれ」
すると川島は、レース映像を見直し、一完歩ずつ数えて返してきたという。
これは、ただの“競馬知識”ではない。
作品にとって、動きの精度が、物語の信頼度を底上げする要素になる。
誰かが馬にまたがり、誰かがムチを入れる──その“一瞬のフォーム”が正確であるかどうか。
そこに、競馬という“命のスポーツ”が宿るのだ。
監修としてジョッキー役の演技を支える現場の声
そんな川島信二は、今回のドラマ版『ザ・ロイヤルファミリー』にて騎手動作の監修としても参加している。
注目すべきは、ジョッキー・中条耕一を演じる高杉真宙へのコメントだ。
彼の騎乗姿を見た川島は、こうつぶやいたという。
「勇者だな。騎手のハートを持っている」
この言葉の重さは、競馬関係者にしかわからない。
「騎手のハート」とは、体力でもスキルでもない。
馬との一体感。スピードと恐怖の狭間で“信じ切る”精神。
それを演技で表現できた時点で、高杉の覚悟が、現場を本物に変えた。
もちろん、川島はただ“カッコよさ”だけを教えたわけではない。
騎手の癖、スタート時の重心、ゴール前の姿勢。
それらを言語化し、映像で再現させる。
つまり“競馬の動き”を脚本化したのだ。
これによって、ドラマは「見るだけの競馬」から、「感じる競馬」へと変わった。
カメラが追うのは馬体の美しさだけじゃない。
ジョッキーの脈拍、恐怖、判断力までが、映像に焼きつけられている。
視聴者は気づかないかもしれない。
だが、“リアルさ”とは、そういう見えないところで作られる。
川島信二という男は、現場で声を荒げることはない。
ただ、静かに、正しく、強く、物語の“体幹”を整えていた。
彼がいなければ、『ザ・ロイヤルファミリー』は“雰囲気ドラマ”で終わっていただろう。
だが、今は違う。
脚本に、筋肉がついている。
それは、フィクションにおいて最も信頼される“リアル”だ。
リアルに裏打ちされた「相続馬主」のエピソードとは?
競馬は“命のレース”であると同時に、“人生の相続”でもある。
『ザ・ロイヤルファミリー』というタイトルに、「ロイヤル(貴族)=血筋」の意味が込められているとすれば──
この物語の根底には、「相続馬主」という制度が、見えない血流のように流れている。
実在の馬主・佐々木家の話から生まれた“血の物語”
ドラマの原作を手がけた早見和真は、元騎手・川島信二の紹介で、ある家族の話を聞いた。
それが、元馬主・佐々木完二とその息子・佐々木政充による、親子二代の「相続馬主」の実話だ。
完二氏は既に亡くなっていたが、政充氏がその遺志を引き継ぎ、馬を走らせ続けていた。
この話が、小説にどのように反映されたか。
それは、作中で描かれる「親の死」と「馬の行方」を巡る、静かで、重たいシーンだ。
主人公・栗須や、馬主・山王耕造たちが直面するのは、「人が死ぬとき、馬はどうなるのか?」という、誰もが語らない現実。
馬主の死は、単なる“所有者の変更”ではない。
それは、「夢の死」とも言える。
だが、“相続馬主”という制度は、そこに光を差す。
親から子へ──馬とともに、夢が相続される。
制度としては、日本中央競馬会(JRA)が認めた一定の条件を満たせば、馬主資格と所有馬をそのまま次世代が受け継ぐことが可能になる。
この仕組みがあることで、“競馬が家業として続いていく”。
つまり、競馬は「個人の趣味」ではなく、「一族の意志の継承」なのだ。
家族×競馬=“ロイヤルファミリー”の真意に迫る鍵
ドラマタイトルの『ザ・ロイヤルファミリー』。
これをただの“比喩”だと捉えると、作品の核心を見落とす。
“ロイヤル”とは、貴族や王族ではない。
「血を継ぎ、夢を継ぎ、馬を継ぐ家族」──その意味だ。
山王耕造という馬主は、家族との軋轢を抱えながらも、馬という存在に未来を託す。
一方で、彼の息子や孫、元恋人との間にも「競馬」という共通言語が生まれていく。
それは血縁ではない。だが、“想いの相続”なのだ。
原作には、相続馬主の制度そのものを取り上げるシーンが登場する。
遺産、法務、税務といった具体的な問題と並行して、「馬を手放すか、それでも走らせるか」という選択が、キャラクターたちの“魂の問い”として描かれる。
その背景には、佐々木家の“現実にあった選択”が存在している。
実話はドラマにはならない。だが、ドラマは実話の中にしか宿らない何かを掘り起こせる。
フィクションが響くとき、それは「真実だから」ではない。
そこに、誰かの命が宿っていると、観る者が無意識に感じるからだ。
『ザ・ロイヤルファミリー』は、まさにそんな作品だ。
騎手、調教師、馬主たちの夢。
その全てが、“相続される家族の物語”の中で交錯していく。
それはもはや、馬の話ではない。
人生の物語だ。
命が尽きても、物語は終わらない。
誰かがバトンを握り、次の夢へ向かって走り出す。
原作はオリジナル、でも“実話よりリアル”な描写が光る
「これ、実話なの?」
──多くの視聴者が『ザ・ロイヤルファミリー』を見て最初に抱いた疑問だろう。
それほどまでに、この物語には“地に足の着いたリアリティ”がある。
実話ではない。だが“虚構では届かない重み”がある
明確にしておく。
原作となった早見和真の同名小説は、フィクション=完全なオリジナル作品だ。
特定の人物をモデルにしたものではなく、物語の骨子から構成、キャラクターまで、作家の創造力から生まれている。
では、なぜこの作品はここまでリアルなのか?
──それは、“虚構でしか描けない現実”を、あえて小説という形式で描いたからだ。
5年にわたる徹底的な取材。
馬主、騎手、調教師、レーシングマネージャー。
生産者の現場、オークション会場、牧場の朝。
すべてを見て、聞いて、感じて──そして一度“自分の体温で蒸留”したうえで、再構築された物語。
実話とは、誰かの記録である。
だがフィクションは、“みんなの記憶”になれる。
それが、この作品が人を惹きつける理由だ。
日曜劇場にしてJRA全面協力──リアルの臨界点
さらにこのドラマの特異性を語る上で外せないのが、JRA(日本中央競馬会)の全面協力だ。
実在の競馬場、新潟競馬場での撮影、GⅠ馬の出演、現役騎手のカメオ登場。
これらは単なる“演出のリアルさ”ではない。
それは、「この物語に競馬界が信頼を寄せた証明」だ。
映像には、CGでは再現できない空気がある。
セリ市の熱。パドックのざわめき。返し馬の緊張感。
そして、馬の目に映る“勝負の気配”。
それらすべてが、物語の一部として機能している。
この“現実の舞台を虚構が走る”構造こそ、『ザ・ロイヤルファミリー』の最大の魅力だ。
たとえ脚本が架空でも、
たとえキャラクターが創作でも、
そこに流れているのは、実在したホースマンたちの息遣いなのだ。
ドラマの中で、主人公・栗須は“税理士としての人生”に絶望する。
だが、耕造という“馬に人生を懸けた男”と出会い、「人の夢を引き継ぐ」ことの意味を知っていく。
これは、まさに早見和真という作家の姿と重なる。
彼は、数多の関係者から託された夢の断片を、“物語という形”で世の中に引き継いだ。
実話では描けない。
ノンフィクションでは届かない。
それでも、この物語が観る者の心を走らせるのは、事実に負けないリアルがあるからだ。
──それが『ザ・ロイヤルファミリー』。
実話ではない。けれど、誰よりも真実に触れているフィクションだ。
“夢を継がせる”という呪い──家族と競馬の、解けない鎖
『ザ・ロイヤルファミリー』を見ていて、どうしてもひっかかった言葉がある。
「お前に継いでほしいんだよ、俺の夢を」
言ったのは山王耕造。受け止めるのは、息子か、仲間か、それとも見ている俺たちだ。
馬を託す。それは、愛か、執着か
競馬は、単なるビジネスでも、スポーツでもない。
あれは“生き物と生き方を繋ぐ装置”だ。
だからこそ、人はそこに自分の夢を託しやすい。
だがその夢は、しばしば「呪い」に変わる。
家族に「自分の夢」を背負わせようとした瞬間、その夢は輝きじゃなく、荷物になる。
愛するから渡したのか。失いたくないから縛ったのか。
その境界線は、思っている以上に曖昧だ。
耕造のやっていることは、一歩間違えばただの“エゴの押しつけ”。
「競馬は素晴らしいんだよ」「お前もきっと分かる」──そう語る姿は、まるで父親という名の伝道師。
だがその裏には、誰にも理解されなかった男の孤独がある。
「継いでほしい」と願うその裏にある、親の孤独
耕造は息子にも、妻にも否定される。
「競馬なんて家族を壊すだけ」「父親失格よ」
それでも彼は、馬を、競馬を、夢を捨てられない。
なぜか?
それしか自分の価値を感じられる場所がなかったからだ。
だから、継いでほしいと思った。
夢を渡したいんじゃない。「俺の人生を否定しないでくれ」という叫びだ。
視聴者の多くは、ここで共感するかもしれない。
「親の夢を背負わされた子ども」「継ぐことを選べなかった自分」
そのどちらの気持ちも、作品には刻まれている。
そして恐ろしいのは、“夢は受け取った瞬間、責任になる”ってことだ。
喜びとともに、罪悪感と期待がのしかかる。
それでも馬は走る。人も走る。止まらずに。
『ザ・ロイヤルファミリー』の“継承”というテーマは、血縁を超えた人間の業だ。
家族を想うがゆえに、壊してしまう。
夢を残したいがゆえに、誰かの時間を奪う。
──けれど、そうやって誰かが誰かの物語を引き受けることでしか、人は生きていけないのかもしれない。
継いでくれ、と願う。
継ぎたくない、と背を向ける。
継げなかった、と泣く。
そのすべてが“ファミリー”だ。
だから『ザ・ロイヤルファミリー』──
それは競馬の物語であり、親の孤独と、子の葛藤の物語だ。
『ザ・ロイヤルファミリー モデル』に関するまとめ
『ザ・ロイヤルファミリー』に実在のモデルはいるのか?──
その問いの答えは、「明確なモデルはいない」である。
だが、それで終わる話じゃない。
モデルはいない、しかし“実在のエッセンス”は詰まっている
山王耕造、栗須栄治、中条耕一……
彼らのキャラクターには、“誰か一人の人生”ではなく、“何百人のホースマンたちの記憶”が注ぎ込まれている。
取材された馬主、調教師、騎手、牧場関係者──
その声、仕草、涙、笑い、諦め、誇り。
それらを作家・早見和真が“蒸留”し、物語の血液として流し込んだ。
だからこそ、登場人物たちは“生きている”。
作り物のはずなのに、会ったことがある気がしてしまう。
彼らの言葉が痛いほど刺さるのは、現実に誰かがそうやって生きてきたからだ。
フィクションだからこそ描ける、真実以上の人間ドラマ
ドラマの中で描かれる「相続馬主」──
それは、実際に佐々木家から聞いた話が元になっている。
騎手の一完歩まで数えてくれた川島信二の存在も、演出の芯を支えている。
さらに、馬主・里見治や松本好雄といった“実在の情熱”が、キャラクターの骨となり、肉となった。
でも、それらをすべて繋ぎ、燃やし、走らせたのは、フィクションの力だ。
「嘘をつくことで、本当を語る」──
それが、作家の覚悟であり、このドラマの強度だ。
視聴者が涙するのは、そこにリアリティがあるからではない。
“自分の現実と地続きの感情”が、物語の中にあるからだ。
『ザ・ロイヤルファミリー』は、
競馬という舞台に、人間の尊厳と、継承と、敗北と、希望を詰め込んだ。
だからこそ──たとえ完全なフィクションであっても、
“本当にあった気がする”物語として、心に残る。
これが、“モデルがいない”ドラマの、最高到達点だ。
- 『ザ・ロイヤルファミリー』に明確なモデルはいない
- 馬主・里見治や松本好雄の思想が山王耕造に反映
- 川島信二による完歩数の監修で競馬描写が本物に
- 実在の親子馬主の話から“相続馬主”の描写が誕生
- フィクションだが、5年取材でリアルを超えた作品
- JRA全面協力で競馬界からも信頼されたドラマ
- 「夢を継ぐ」ことの葛藤と家族の呪縛が描かれる
- 競馬は背景、人間ドラマが主役の壮大な群像劇
- 実話以上に真実を感じる“物語のリアリティ”
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