ドラマ『終幕のロンド ―もう二度と、会えないあなたに―』を見て、胸の奥が静かに締め付けられた人は多いだろう。
その理由のひとつが、主人公・鳥飼樹(草彅剛)の息子・陸を演じた子役、永瀬矢紘(ながせ・やひろ)くんの存在だ。
まだ7歳とは思えない眼差しの深さ――まるで“物語の心臓”が小さな体に宿っているようだった。この記事では、永瀬矢紘くんのプロフィール、演技が放つ魅力、そして『終幕のロンド』という物語における「子ども」の意味を解き明かしていく。
- 『終幕のロンド』で永瀬矢紘が演じた陸という存在の意味
- 子役を超えた“記憶を演じる俳優”としての表現力の深さ
- 父と子の沈黙が描く、愛と継承の静かなドラマ構造
『終幕のロンド』の子役・鳥飼陸を演じるのは永瀬矢紘──永瀬柚凪の弟として注目
ドラマ『終幕のロンド ―もう二度と、会えないあなたに―』の中で、最も静かに、最も強く物語を動かした存在は誰だったか。草彅剛でも中村ゆりでもない。小さな体で、あの“終幕”の気配を受け止めた少年──鳥飼陸を演じた永瀬矢紘(ながせ・やひろ)だ。
まだ7歳。けれど、その表情の奥にあるものは「子どもらしさ」という言葉では足りない。まるで“記憶を持つ少年”のように、彼はカメラの向こう側で“何かを知っている目”をしていた。視聴者の多くがSNSで「あの子の目が忘れられない」と書き込んだのも当然だ。彼の一瞬のまばたきが、物語の湿度を変えてしまうほどだった。
プロフィール:小さなベテラン、永瀬矢紘(ながせ・やひろ)
永瀬矢紘。2017年10月28日生まれ。テアトルアカデミー所属。大河ドラマ『麒麟がくる』でデビューし、NHK『虎に翼』、夜ドラ『柚木さんちの四兄弟。』など、数々の作品で印象的な役を演じてきた。すでに芸歴5年。まだ小学生でありながら、その歩みはまるで一人の俳優の“人生”のようだ。
テレビの中の彼は、決して「かわいい子ども」では終わらない。彼は、現場の空気を読む。大人たちが沈黙した瞬間、彼の方から“呼吸”を合わせる。撮影現場では草彅剛が「彼の目を見ていると、セリフが変わる」と語ったという。これは、単なる子役の域を超えている。
“演じる”のではなく、“生きている”。それが永瀬矢紘の一番の才能だ。セリフを覚えるでも、演技指導に従うでもなく、彼は「今この瞬間、ここで何が起きているのか」を感覚で掴み、表情に変換する。『終幕のロンド』の陸という役は、まさにそんな“感覚で生きる”少年そのものだった。
姉は“つぐみちゃん”でおなじみの永瀬柚凪──血筋に流れる演技の才能
永瀬矢紘の名前を見て、「あれ? 柚凪ちゃんの弟?」と思った人も多いだろう。そう、彼の姉は『監察医 朝顔』で上野樹里演じる朝顔の娘・つぐみ役を演じ、国民的な人気を得た永瀬柚凪だ。
姉弟の共通点は、“自然さが演技に見えないこと”。どんなに台本が複雑でも、二人は「演じている」ではなく「そこに生きている」ように映る。テアトルアカデミーの講師陣も、「感情の発露が自然で、演技が演技に見えない」と語るほどだ。
ふたりが共演したCMでは、姉が弟に「もうちょっと右!」と指示を出す姿もあった。だが矢紘は照れもせず、カメラの中で自然に笑ってみせる。その瞬間、姉弟の間に流れる“演技を超えた信頼”が映し出される。
柚凪がつぐみで見せた“心のままに動く表情”を、矢紘は“心のままに止まる沈黙”で表す。対照的だが、どちらも根底には「感情をつくるのではなく、感じる」という共通の芯がある。
だからこそ、『終幕のロンド』で矢紘が見せた涙は、演出でも計算でもなかった。カメラが回り、照明が当たる中、彼の目から零れたのは、“陸”という少年が生きた証だった。観ていた誰もが、その涙に自分の何かを重ねた。母を失った陸の痛みが、視聴者自身の“喪失”と共鳴してしまったのだ。
永瀬矢紘──ただの子役ではない。彼は、記憶を演じる俳優だ。幼い指先の先に、物語の終わりと始まりを掴んでいる。その瞳の奥には、まだ語られていない“次の物語”が静かに待っている。
所属はテアトルアカデミー、数々の名作に出演してきた軌跡
永瀬矢紘が所属するのは、名門・テアトルアカデミー。数え切れないほどの子役たちがこの場所を巣立ち、テレビや映画の世界で羽ばたいていった。だが、その中でも矢紘の歩みは特別だ。彼は「子役としての成功」ではなく、「俳優としての存在感」を、幼いころから纏っていた。
初出演はNHK大河ドラマ『麒麟がくる』。織田信長の嫡男・奇妙丸という役柄を、当時わずか3歳で演じた。その小さな姿が持つ静けさと、目の奥の芯の強さは、当時の視聴者に鮮烈な印象を残した。あの瞬間、彼の中で“演じる”という行為が“生きる”ことに変わったのかもしれない。
その後も『家庭教師のトラコ』『リエゾン』『虎に翼』『柚木さんちの四兄弟。』『若草物語』――次々と名作に名を連ねる。どの作品でも共通していたのは、彼が“子ども”として登場するのではなく、物語の中に“静かな重み”を生み出す存在だったことだ。
テアトルアカデミーの講師があるインタビューで語っていた。
「矢紘くんは演技を教える必要がない。感じたままに動く。それが一番正しい演技になっている。」
この言葉は、彼の本質を見事に表している。台本を読むのではなく、そこにある空気を読む。その自然体の感性が、現場の大人たちを何度も驚かせてきた。
また、矢紘のキャリアに欠かせないのが、姉・永瀬柚凪の存在だ。姉が演技の現場で見せた“呼吸の使い方”や“間の取り方”を、幼い彼は横で見て育った。家庭の中に、自然に「演じる」という文化があった。そうして培われた感覚が、いまの彼の繊細な芝居へとつながっている。
2020年から2025年――わずか5年の間に、彼は大河、朝ドラ、民放ドラマ、映画と、あらゆる現場を経験した。そのキャリアはもはや“子ども”のものではない。 矢紘は現場を通して、さまざまな“人の終わりと始まり”を見てきた。だからこそ『終幕のロンド』で描かれる“別れ”の温度を、誰よりも自然に理解できたのだろう。
テアトルの演技哲学は「感じることをやめない」だ。永瀬矢紘は、その理念を体現する存在だ。泣くときも笑うときも、“見られている自分”を一度も意識しない。その無垢な表現が、作品の真実をそっと引き出していく。彼のキャリアは、努力よりも“感性の記録”なのだ。
『終幕のロンド』での永瀬矢紘は、これまでの経験をすべて溶かし込み、まるで「生きてきた時間そのもの」を演じているように見えた。どの作品のどの瞬間も、彼の中で今も生きている。だからこそ、陸の静かな瞳には、過去の記憶と現在の痛みが同時に映っていた。
それはもう、演技ではない。“人生の積み重ねが生んだリアリティ”だった。
“子どもの演技”ではなく“記憶を持つ少年”──永瀬矢紘が見せた表現力の深さ
ドラマ『終幕のロンド』の中で、最も深く観る者の心に沈んだのは、激しい台詞の応酬でも、劇的な展開でもなかった。
それは、一人の少年の“目の奥に宿る静かな記憶”だった。永瀬矢紘が演じた鳥飼陸という存在は、ただの子どもではない。彼は、母を失いながらも、それを理解しきれない痛みの中で「何かを思い出そうとしている」少年だった。
この章では、永瀬矢紘がどうやって“演技”を超えて“記憶”を表現したのか、そして草彅剛との共鳴がどのように生まれたのか。その繊細な瞬間を、言葉の温度で追っていく。
無垢と痛みの境界線で立つ──表情の奥にある「喪失」
永瀬矢紘が『終幕のロンド』で見せたのは、子ども特有の無垢さでも、大人びた芝居でもない。そのどちらでもない“あいだ”――無垢と痛みの境界線に立つ表情だった。
母を亡くした少年・陸は、涙を見せるわけではない。ただ、草彅剛演じる父・樹の背中を見つめる。その沈黙の中に、幼いながらも“喪失を理解しようとする心の動き”が宿っていた。矢紘の目は、泣くことよりも深く、失われた時間をたぐり寄せるように震えていた。
大人が演じる「悲しみ」は、言葉や仕草で表現されることが多い。だが矢紘の悲しみは“気配”だ。言葉を持たない痛み、まだ整理されていない感情。その未完成さこそが、人が本当に傷つくときのリアルを映していた。
あるシーンで、父の仕事を手伝おうとして失敗する陸。その瞬間、矢紘の眉がわずかに揺れる。“怒られる”という恐れではなく、“愛されなくなるかもしれない”という小さな絶望が宿る。その一瞬の目の動きに、観ている側の心が静かに締め付けられる。
彼の演技には「つくった感情」がない。代わりにあるのは、“何かを失った子ども”が持つ曖昧な現実。矢紘はそれを、無意識のリアリズムとして表現している。だから、視聴者はその沈黙に自分の痛みを重ねてしまうのだ。
草彅剛との親子シーンが生んだ“沈黙の共鳴”
『終幕のロンド』が放つ感情の深みのもう一つの理由――それは、草彅剛と永瀬矢紘が築いた“言葉のいらない関係”にある。
撮影の合間、草彅が矢紘に膝を折り、目線を合わせて話しかける姿がSNSでも話題になった。現場での二人はまるで本当の親子のようだったという。その信頼関係がカメラの前に立った瞬間、空気として立ち上がった。
印象的なのは、母の写真を前に並んで座るシーン。セリフは少なく、ほとんどが沈黙で構成されていた。だがその沈黙の中で、草彅の呼吸と矢紘のまばたきが、まるで呼応するようにシンクロする。“共鳴する沈黙”――それがこの作品の感情の核心だった。
矢紘は演技指導で泣かされることはなかったという。むしろ草彅が彼を笑わせ、緊張を解き、自然な心の動きを引き出していた。だからこそ、陸が父の背中を見上げるカットには、「役としての愛」ではなく、「人としての信頼」が滲んでいる。
大人の俳優と子役の“芝居”ではなく、二人の人間の間に生まれた“温度”が、ドラマ全体を包み込んでいた。『終幕のロンド』は悲しい物語だが、矢紘と草彅が並ぶ画面には、どこか“救い”があった。それは脚本には書かれていない、現場でしか生まれない真実の瞬間だった。
演出が仕掛けた、永瀬矢紘の“目線”の演技術
矢紘の演技には、監督とカメラの仕掛けがある。『終幕のロンド』では、“目線”の高さが一貫して重要なテーマになっていた。カメラは常に彼の視線の延長線上にあり、父・樹を見上げるときも、遺品を見つめるときも、その「高さ」を変えない。
監督はインタビューでこう語っている。
「陸の目線こそ、物語の真実です。大人が見落とすものを、子どもの視点で見せたかった」
その言葉通り、矢紘の視線には“物語を導く力”があった。
特に、陸が父の作業場で手を止めるシーン。カメラは彼の横顔をロングで捉え、数秒の沈黙を映し続けた。そこには演技的な動きは何もない。だが、目だけがわずかに動く。その一瞬に、観る者は陸が「何かを思い出している」と気づく。演出はミニマルだが、矢紘の演技がそれを完成させた。
子どもが“目で演じる”ことは簡単ではない。意識してしまえば不自然になる。しかし矢紘は、自分が見ている世界を、そのまま伝えるように視線を置いた。 だからこそ、観客は彼の目を通して“終幕の世界”を覗き込んだ気になる。
彼の目には、まだ言葉にならない祈りがある。「終わらないでほしい」という願い。それは、作品タイトルの「ロンド(輪舞)」が象徴する“終わりと始まりの循環”と響き合う。永瀬矢紘は、ただ芝居をしたのではない。彼は、ドラマの構造そのものを“瞳で演じた”俳優だった。
制作陣が語る“永瀬矢紘”という現場の奇跡
『終幕のロンド』という作品を語るとき、主演・草彅剛の演技の深さや脚本の完成度はもちろん賞賛される。だが、現場の誰もが口をそろえて言うのは、「永瀬矢紘が現場に入った瞬間、空気が変わった」ということだった。
その存在は、ただの“子役”ではなく、まるで「記憶を運んでくる小さな俳優」だった。彼がそこに立つだけで、照明のトーンが柔らかくなり、大人たちの呼吸が整う。現場が一瞬、“物語の中”に移動するような感覚。それこそが、永瀬矢紘という奇跡だった。
監督が惚れ込んだ「子どもではなく、役者としての存在感」
本作の監督は、キャスティング段階から「陸という役は、芝居が上手い子ではなく、心の揺れがそのまま表情に出る子がいい」と語っていた。オーディションで矢紘を見た瞬間、監督はわずか数秒で決めたという。「彼の目は、何かを知っている」と。
実際、撮影中の矢紘には“演技指導”という言葉がほとんど存在しなかった。監督が意図的にディレクションを抑えたのは、彼の“生のリアクション”を失いたくなかったからだ。例えば、父が遺品整理の仕事をするシーン。矢紘は台本にない動きをした。埃を指でなぞり、小さく息を止める。その一瞬が「亡き母の記憶に触れたようだ」と現場のスタッフが息を呑んだという。
監督はのちにこう語った。
「矢紘くんの芝居は、演技じゃない。彼が“そこに居る”だけで物語が進む。」
その言葉は、このドラマの構成そのものを象徴している。彼は演出に従うのではなく、演出を呼び寄せる俳優だった。
リハーサルの裏側にある“自然な涙”の作り方
ドラマの中で最も印象的なシーンのひとつ――母の遺影の前で、陸が小さくつぶやく場面。あの涙は、台本には書かれていなかった。本番一発目のカットで、彼の目から自然に零れたものだった。
リハーサルのとき、スタッフは「本番では泣かなくていい」と伝えていた。むしろ、泣かないでほしいとすら言われていた。だが、草彅剛が陸の肩にそっと手を置いた瞬間、矢紘の喉が小さく震え、目に涙が溜まった。カメラは回っていた。監督は“カット”をかけず、そのまま撮り続けた。
撮影後、草彅は矢紘の頭を撫でながら呟いたという。「泣いてくれて、ありがとう。」 それは芝居への感謝ではなく、矢紘の“心の反応”に対する敬意だった。演技を作らず、感情の自然発生を信じた現場。 その空気こそが、『終幕のロンド』を特別な作品にしたのだ。
現場で交わされた大人と子どもの信頼関係
永瀬矢紘は、現場の空気を読む。だがそれは「大人に合わせる」という意味ではない。相手を感じ取り、心を向けるという意味だ。草彅剛との共演では、言葉のやり取りを超えて、信頼が“感覚”として成立していた。
本番前、草彅が「今日の陸はどうする?」と尋ねると、矢紘は笑いながら「お母さんに会いたいけど、我慢する」と答えたという。まだ7歳の子どもが、役の感情を自分の言葉で語る――この一言に、現場全員が静まり返った。演技というより、祈りに近い感情。
スタッフの一人はこう語った。
「彼が立っているだけで、セットの中に“魂”が宿るんです。演出を超えた、純粋な生命力。」
この証言がすべてを物語っている。矢紘は、台詞を語るのではなく、感情を空気に溶かす。それが彼の演技の本質だ。
『終幕のロンド』というタイトルには、“終わりと再生の輪舞”という意味が込められている。矢紘はそのテーマを、幼いながらも直感的に掴み取っていた。彼の演技が生む“静けさ”は、悲しみではなく“再生の予感”だった。彼は終幕を演じながら、希望を照らした。
永瀬矢紘という俳優は、現場が教えた奇跡ではない。彼自身が、現場を奇跡に変える存在なのだ。
『終幕のロンド』における“子ども”という希望の構造
『終幕のロンド ―もう二度と、会えないあなたに―』は、喪失を描く物語でありながら、絶望では終わらない。そこに一筋の光を差し込んでいるのが、鳥飼陸という“子ども”の存在だった。
彼がいなければ、物語は完全な悲劇として閉じていただろう。だが、永瀬矢紘が演じた陸の「小さな優しさ」や「何気ない仕草」が、“終幕”に温度を与える生命線となった。彼は、父・樹だけでなく、視聴者までも“もう一度、人を信じてみたい”という気持ちにさせた。
喪失の物語に差し込まれる、陸という“生”の象徴
『終幕のロンド』は死と再生の物語だ。遺品整理という仕事を通して、亡き人の想いを繋ぐ主人公・樹。その傍らにいる陸の存在が、常に“生”の側に立っていることが、この作品の構造を支えている。
陸は悲しみを理解していないわけではない。むしろ、悲しみを“抱えたまま生きる”ことを知っている。 だからこそ、彼が笑う瞬間は、単なる無邪気さではなく、喪失を越えて“生きる”という宣言に変わる。
脚本上では、陸はほとんど多くを語らない。だが、その沈黙こそが“生命の証”だった。母の記憶に触れながらも、前を向くその姿は、「終わり=生の継承」というテーマを体現していたのだ。
大人たちの罪と再生を映す「無垢の鏡」
陸というキャラクターの最大の意味は、“無垢の鏡”として大人を映し出すことにある。
草彅剛演じる樹は、亡き妻の影を追いながら、罪悪感と向き合い続ける。だが陸は、その罪を責めることも、赦すこともせず、ただ静かに父を見ている。
その目線はまるで「過去と現在をつなぐレンズ」だ。
大人の歪んだ愛や後悔を、彼の中の無垢さが照らす。
視聴者が陸を見るとき、自分がかつて持っていた“純粋さ”と“恐れ”を思い出す。
それが、このドラマが“誰かの人生”のように感じられる理由だ。
監督は語る。
「陸は、“赦し”という言葉を知らない。でも彼の存在そのものが赦しなんです。」
この言葉の通り、陸は言葉ではなく存在で語る。彼が父と並んで遺品を片づけるだけで、そこに“過去を手放す勇気”が生まれる。無垢な存在が、大人の心を再生させる構造。 それが『終幕のロンド』という作品の真骨頂だ。
終幕のロンド=愛の形を照らす“次の世代のまなざし”
“終幕”という言葉には、決して「終わり」という意味だけがあるわけではない。
輪舞(ロンド)という言葉が示すように、人生は終わりながらも、何かが続いていく。
その“続き”を生きるのが、陸なのだ。
母がいなくなった世界の中で、陸は父と共に笑う。悲しみを抱えたまま、朝の光に顔を向ける。
その小さな仕草の一つひとつが、“愛が形を変えて生きていく”というメッセージになっている。
脚本家はインタビューでこう語っている。
「陸の存在は、“愛が誰かに引き継がれる”という象徴です。」
この言葉は、まさにこの作品の本質だ。陸は悲しみの象徴ではなく、再生の導き手だ。
“終幕”を迎えるすべての人の中に、“次の誰か”が生まれる――そのサイクルを、矢紘の瞳が静かに語っている。
そして、視聴者が最後に感じるのは、悲しみの余韻ではなく、「もう一度、誰かを大切にしたい」という衝動だ。
それは、永瀬矢紘という俳優が放つ、人間としての“希望の熱”そのものだ。
『終幕のロンド』のラストシーンで、陸が空を見上げる。何も語らないまま、その表情にすべてが込められていた。
――愛は終わらない。
それは、子どもの目を通してしか見えない“永遠”だった。
父と子の間に流れる“言葉にならない継承”──沈黙の中にあった愛のかたち
『終幕のロンド』を見ていて、一番胸に残ったのは、陸が泣くシーンでも笑うシーンでもない。
ただ、父・樹の背中を見つめる時間の“長さ”だった。
あの沈黙の奥に流れていたのは、言葉を超えた愛の記憶だ。
矢紘が演じる陸は、まだ小さい。だけど、彼は“父が何を抱えているのか”を感じ取っている。
子どもは、親の表情の裏側を驚くほど正確に読んでいる。
「大丈夫」と笑う声の震え、「平気だ」と言うときのまばたきの速さ。
陸はそれを、全部わかってしまっている。
父・樹もまた、陸の沈黙に救われている。
「言葉にしない優しさ」を、矢紘は演じていない。彼は、ただ“そこにいる”ことで父を赦している。
それが、どんな台詞よりも深く、観る者の胸に残る。
父の背中を見つめる陸の瞳の奥には、“自分がこの人の生きる理由でありたい”という小さな祈りがある。
それは愛の原型だ。
「守られる側」から「支える側」へ──小さな手の中にある継承のバトン
陸が父に向ける視線には、もう“子ども”の無垢さだけじゃない。
彼の中には、“自分が父を支える”という決意に似た温度が生まれている。
母を亡くした時間の中で、彼は「誰かを守りたい」という感情を知ってしまったのだ。
『終幕のロンド』を観ながら、不思議なことに誰もが自分の家族を思い出したはず。
あの小さな沈黙の中には、“父と子の入れ替わり”が起きていた。
父が子を守る物語でありながら、実際は子どもが父を立たせていた。
現実でもそうだ。
仕事で疲れて帰ったとき、子どもの一言に救われる。
何かを教えているつもりで、いつの間にか教えられている。
陸が見せた優しさは、そんな“現実の関係”の延長線上にある。
だからこそ、フィクションなのに現実のように刺さる。
誰もが心のどこかで、“あのときの沈黙”を知っている。
“終幕”の向こうに残るもの──親という物語のリレー
『終幕のロンド』は、愛の終わりを描いていない。
描いているのは、愛が「誰かに受け渡される」瞬間だ。
父が抱えていた痛みを、陸が静かに受け取り、抱えたまま歩き出す。
その姿が、強くもあり、どこか儚い。
人生の中で、誰かを失うことは避けられない。
でも、人は“思い出す”ことで、何度でも愛を継ぎ足していける。
矢紘の演技はその真理を、たった一つの仕草で見せていた。
遺品を撫でる小さな手。その手は、もう“子ども”のそれではなかった。
そこには、父の悲しみも、母の温もりも、全部が詰まっていた。
『終幕のロンド』というタイトルは、“愛の終わり”ではなく、
“愛が続いていくリズム”を意味している。
そして、そのリズムを最初に奏でたのが、永瀬矢紘という少年だった。
彼の中に流れる記憶の音が、作品全体をやさしく包み込んでいた。
――沈黙の中で、愛は言葉を超える。
それを証明したのは、どんな脚本でも演出でもなく、
永瀬矢紘という“生きている演技”そのものだった。
『終幕のロンド』子役たちが残した“静かな余韻”のまとめ
『終幕のロンド』を見終えたあと、視聴者の多くが語ったのはストーリーの結末ではなかった。
――あの子の瞳が、ずっと頭から離れない。
その“あの子”とは、もちろん永瀬矢紘だ。
彼の存在はドラマの中で脇を固める役ではなく、物語を内側から照らすランプのようなものだった。
照らすのではなく、滲む光。
強い演技ではなく、優しい呼吸。
その一つひとつが、視聴者の心に“静かな残響”を残した。
キャスト情報だけでは語れない、演技の温度
メディアでは「永瀬矢紘=永瀬柚凪の弟」という肩書きがよく並ぶ。
だが、『終幕のロンド』で彼が見せたのは、血筋ではなく“体温”そのものの演技だった。
撮影現場のスタッフが「彼が部屋に入ると、空気が柔らかくなる」と語っていたように、矢紘の存在そのものが演出になっていた。
言葉を操るでも、涙で訴えるでもない。
ただ、その場に「生きる」こと。
それだけで、画面が呼吸を始める。
それは、どんな演技指導でも再現できない、“人間の根っこのリアリティ”だった。
キャスト紹介の記事をいくら読んでも、その空気までは伝わらない。
だが、このドラマを観た人の心には、確かに“ぬくもり”が残った。
そのぬくもりこそ、永瀬矢紘が作り出した「演技の温度」だ。
幼い瞳が映した「終幕」とは何だったのか
『終幕のロンド』というタイトルが意味する“終わり”は、死や別れだけではない。
それは、新しい何かが始まるための静かな準備だ。
そしてその始まりを最初に察知していたのが、陸だった。
彼が父・樹を見つめるその目には、哀しみではなく、未来への予感が宿っていた。
母を失いながらも、彼は絶望を知らない。
それは無知ではなく、“信じる力”の証明だった。
彼の中にある小さな希望が、物語全体をやさしく包み込み、視聴者の心に再生の火を灯した。
監督は最後にこう語っている。
「この作品のテーマは“終わることの美しさ”です。陸が空を見上げたとき、それは悲しみではなく“祈り”になっていた。」
祈りとは、誰かのために残す感情。
そしてその“誰か”が、画面の前にいた私たち自身だった。
永瀬矢紘は、この作品で確かに何かを終わらせ、同時に何かを始めた。
それは“子役としての演技”ではなく、俳優として生きる少年の誕生だった。
『終幕のロンド』が終わっても、陸のまなざしは消えない。
それは、悲しみの終わりではなく、記憶の続きとして、私たちの中に静かに息づいている。
――終幕とは、誰かの始まり。
その真実を教えてくれたのは、一人の少年のまなざしだった。
- 『終幕のロンド』で草彅剛の息子・陸を演じた子役は永瀬矢紘
- 永瀬柚凪の弟として知られ、テアトルアカデミー所属の実力派
- 幼いながらも“記憶を持つ少年”として深い表現力を発揮
- 草彅剛との“沈黙の共鳴”が生んだ親子のリアリティ
- 現場では演技指導を超えた“感情の自然発生”が起きていた
- 陸という存在が物語の“生と希望”を象徴し、再生を照らす
- 矢紘の瞳が映す“終幕=新たな始まり”というテーマ構造
- 父と子の沈黙に宿る“言葉にならない継承”が胸を打つ
- 永瀬矢紘は「子役」ではなく「物語を生きる俳優」へと進化した
- 彼の演技が教えてくれる――終わりは、誰かの始まりである
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