相棒season10第9話「あすなろの唄」は、ただの殺人事件ではない。そこにあったのは、「夢」が「毒」に変わる瞬間だった。
バイオ燃料という“明日の石油”を夢見た研究者たちの情熱と裏切り。そして、その夢を護ろうとした者の最後の選択が、特命係を硫化水素地獄へと突き落とす。
この記事では、「あすなろの唄」が描いた科学者の孤独と狂気、そしてこのエピソードが突きつける“国家と技術”のリアルを、徹底的に読み解いていく。
- バイオ燃料研究と殺人事件が絡む構造の真相
- 硫化水素を使った科学サスペンスの仕掛け
- 未来と倫理を問い直す“あすなろ”の本当の意味
「あすなろの唄」が問いかける核心──科学の夢が“殺意”に変わるとき
それは、研究者たちの“明日”が、硫化水素という“毒”で染まった瞬間だった。
第9話「あすなろの唄」が描いたのは、ただの殺人事件ではない。
科学の名を借りた信念の崩壊、そしてそれが生み出す静かな狂気だ。
明日を信じた男が、なぜ殺したのか?
高松教授は夢を見ていた。バクテクロリス──水中に棲む微生物から、石油の代替となる燃料を生み出す。
それが実現すれば、日本は資源国になる。未来は変わる。
だが、彼が信じていたのは“科学”だけじゃない。人を、そして仲間をも信じていた。
しかしその信頼は、共同研究者・栗田の手によって裏切られる。
なぜ栗田は、夢の伴走者を毒で消したのか?
そこにあったのは、“技術の国外流出”という大義と、“自分だけの手柄”というエゴ。
「明日、ヒノキになろう」──その木霊が、殺意の引き金になった。
研究という名の執着が生んだ裏切りの動機
バクテクロリスは、5万倍の生産効率を持つ奇跡の微生物だった。
だがその奇跡を「自分だけの成果」にしたいと願った瞬間、科学は信仰から凶器へと姿を変える。
栗田の言葉に耳を傾けてみる。「国外には絶対に渡さない。日本の未来のために」と。
──それは確かに、正しいかもしれない。
しかし、その“正しさ”の裏で、彼は一人の命を葬った。
どんなに正論でも、人を殺せば、それはただの暴力だ。
そして皮肉にも、自らの手で硫化水素をまいたことで、バクテクロリス自体が全滅する。
科学の未来を護ろうとした男が、科学の未来を殺した──この構図は、あまりにも皮肉だ。
右京はその矛盾を静かに見抜き、そして、淡々と追い詰める。
この回において、殺されたのは「人」だけではない。
信頼、理想、そして“希望”までもが、あの研究室で死んでいった。
相棒史上屈指の“科学×サスペンス”──硫化水素殺人の構造
この回を“科学サスペンス”と呼ばずして、何と呼ぶ。
研究室に仕込まれた死のガス、密室での毒殺、微生物の名を借りた殺人トリック。
相棒の十八番である“理詰めの推理劇”が、これでもかと牙を剥く。
死の匂いに気づいた右京の嗅覚
右京が現場に立った瞬間、その鼻が働いた。
死体から漂う、わずかな硫黄臭──それは、硫化水素のサイン。
この毒物、たとえ微量でも猛毒。嗅いだ者の命を奪う“見えない殺意”だ。
そして、バクテクロリスがその毒を生む可能性があることに、右京は早々に気づいていた。
この時点で、彼の脳内では“科学と殺意”が既に重なっていたんだ。
バクテクロリス──1000トンの油と1人の命の天秤
犯人・栗田が信じたのは、この国の未来を変える力を持つ微生物だった。
トウモロコシの5万倍──1000トンの油を生む可能性を持った夢の存在。
しかし皮肉にも、その夢の体現者を殺すために、バクテクロリスの生成物・硫化水素が使われた。
夢は毒に転化した。
しかも、殺害に用いた硫化水素が、微生物たち自身の命まで奪ってしまう。
1000トン分の価値が、たった一晩で“ゼロ”に落ちた。
科学とは、命をかけるに足るものか? それとも、守るために命を奪っていいものか?
相棒は、視聴者にこう問いかけてくる。
それは、ただのトリックじゃない。
科学の誤用が、命と倫理をいかに踏みにじるか──その“構造”そのものを暴き出す展開だった。
だからこそ、この回は“サスペンス”というより、“倫理劇”と呼ぶべきかもしれない。
防毒マスクの向こう側──特命係、生死の境界線
それは、静かに張られた殺意の罠。
右京と神戸が閉じ込められた研究室は、まるで棺桶だった。
硫化水素──目に見えず、音もなく、確実に肺を焼き、命を奪う。
閉じ込められた研究室、迫る毒ガス
栗田が仕掛けた最後の手段、それは“特命係抹殺”という暴挙。
研究室に呼び出され、何の前触れもなく扉が閉まる。
密室、毒、時間切れ──三重の死が特命係を襲う。
だが、右京は読んでいた。
彼の推理は、行動よりも早く、危機を逆手にとっていた。
ガスマスクと推理の勝負、右京はすでに読んでいた
ガスマスク──その存在が、この場面を“スリル”から“痛快”に変えた。
「持ってくると読んでいた?」 いや、“呼び出される”ことすら予測していた。
右京の行動には、“犯人心理への読み”が完全に織り込まれている。
これはもう、推理という名の防弾チョッキだった。
そして、その裏で鞄を持っていた神戸もまた、準備を怠らなかった。
二人の信頼と準備が、命を繋いだ。
毒ガスが漂う密室の中、二人が防毒マスクを装着するその絵面は──まさに“知のヒーロー”だった。
武力ではなく、知識と推理が命を守る。
それを象徴した、相棒史に残る名シーンだ。
そしてこの展開が強く訴えてくるのは、「科学に殺されるな、科学で生き残れ」というメッセージだ。
この防毒マスクこそが、“科学の光”だった。
栗田という悲劇──正義か暴走か、科学者の孤独
栗田は、決して“ただの犯人”じゃない。
彼は信じていた、日本の未来を。
そして、自分だけがそれを護れると。
国内技術を守るという大義と、その歪んだ方法
高松教授は、海外からの資金提案を受けようとしていた。
それは技術流出ではない。“開発の加速”だったかもしれない。
しかし栗田には、それが“裏切り”に見えた。
「この技術は日本のものだ。外には絶対に渡さない」
その想いが、殺意という形で噴き出した。
栗田は自分の手で“守った”つもりだった。
だがその手は、未来をつくるはずの仲間を殺し、微生物を殺し、技術を潰した。
“明日は檜になろう”という祈りの崩壊
あすなろの唄──それは、高松教授が微生物に捧げていた子守歌だった。
「明日は檜になろう」──まだヒノキにはなれないが、いつかそうなる。
希望の詩が、いつの間にか呪詛に変わっていた。
「石油になれなければ意味がない」
その焦りが、研究の“目的”を見失わせた。
“未来をつくる”ための科学が、“過去を断ち切る”ための凶器になった。
栗田の最期に、後悔の色はなかった。
むしろ、誇らしげだった。
だがそれは、誰にも引き継がれない夢だった。
科学は、志だけでは育たない。
共有されなければ、継がれなければ、科学は“死ぬ”。
栗田の信念は、“科学”を孤独にした。
米沢守と神戸尊──脇役たちの名演とエモーショナルな補助線
この回が心を打つ理由──それは、“名脇役”たちが魂で支えていたからだ。
右京の推理が輝く影で、現場を走り、研究を掘り、証拠を握った者たちがいる。
彼らの献身が、この物語を“リアル”に引き寄せた。
寝かせてもらえない米沢、研究の影で奮闘する科学者像
米沢守──科学捜査の縁の下。
今回も右京から、怒涛の検査依頼が飛ぶ。
しかもその内容は、毛髪から硫化水素の曝露時期を特定せよという高度なもの。
寝ようとした矢先にまた呼び出され、文句も言わず淡々と検査を続ける。
そこにあるのは、職人としての誇り。
米沢というキャラは、“現代の科学捜査官”として最もリアルかもしれない。
地味だが揺るがない、知の最前線の男──この回での彼の姿は、美しかった。
右京のサムズアップが語る、信頼と絆の回収
物語の最後、右京は神戸に「グッ」と親指を立てる。
それは言葉にしない賞賛。
命を救う判断をし、推理に食らいつき、共に最前線に立った神戸への“賛辞”だ。
この回では、神戸の“自走力”が静かに光る。
自ら証拠を探し、調査を進め、決して右京の後ろだけを歩かなかった。
あのサムズアップは、“相棒”として認めた証だ。
主役の背中を支える者たちが、この回では誰よりも“火”を抱いていた。
表には出ないが、魂の演技が、物語の温度を上げていた。
“あすなろ”が象徴した未来──テクノロジーと倫理のクロスロード
“あすなろ”──その名は希望を象徴していた。
「明日はヒノキになろう」という願い。
だがこのエピソードでは、それが皮肉にも“破滅の暗号”になっていた。
赤潮を殺す赤潮、夢を殺した夢
バクテクロリス──それは石油に代わる新たなエネルギー。
研究の成功は国家を動かし、世界を変える可能性すらあった。
けれど、その技術が殺人に使われた瞬間、夢は毒になった。
しかも、犯行の過程でバクテクロリス自体が全滅するという、皮肉な結末。
まるで、「赤潮で赤潮を殺す」──自然界の逆説をそのまま再現したかのようだった。
夢が夢を食い潰した。
本当に守るべきは研究か、命か、国家か?
この事件の根底にあったのは、“何を優先すべきか”という選択だ。
栗田は「技術を守る」ことを選んだ。
そのために人を殺し、未来を断った。
国家が技術を囲い込もうとし、政治家が捜査に圧力をかける。
だがその行動が、科学の“純粋性”を汚していった。
テクノロジーは、正義だけでは回らない。
倫理がなければ、ただの凶器だ。
この回は、そんな本質を突きつける。
そして最後に、“あすなろ”の唄だけが静かに残る。
その旋律には、叶わなかった未来への鎮魂が宿っている。
技術がいくら進んでも、人の心が伴わなければ、明日は来ない。
見落とされがちな“助手たち”のリアル──明日を支えた無名の手
この回、「あすなろの唄」で描かれたのは教授たちの葛藤や理想──だけじゃない。
静かに映っていた、研究室の“助手たち”の存在。
彼らの表情、彼らの立ち位置にこそ、リアルな“職場の空気”が滲んでいた気がする。
選ばれなかった者たちの「葛藤」
助手たちは、どこか一歩引いた位置にいた。
事件の核心に迫ることも、研究の名声を手にすることもなかった。
けれど──彼らがいなければ、研究は回らなかった。
殺された高松教授が、微生物たちを“わが子”のように扱ったように、
助手たちもまた、その“子育て”を支える保育士のような存在だったのではないか。
栄光は教授のもの。責任も教授のもの。
でも、目の前で“研究そのもの”が失われていくのを見た助手たちの喪失感──それは誰よりも重かったかもしれない。
明日を諦めなかった、名もなき技術者たち
最終的にバクテクロリスは全滅した。
でも、神戸たちが検体の一部を採取していたことで、希望の“かけら”は生き残った。
それは、助手たちが“真面目にデータを残し続けていた”からかもしれない。
日々の培養、記録、掃除──地味だけど、誰かがやってるから前に進む。
あの研究室は、“科学”というより“職場”だった。
人間関係の温度、嫉妬、敬意、すれ違い。
そこに漂っていたのは、「いつか私もヒノキになれるかな」という、ささやかな願いだ。
あすなろとは、「いつか」の象徴。
そして“助手たち”こそ、その言葉を一番信じていた存在だったのではないか。
教授でも、犯人でもなく。
物語の背景にいた、彼らの背中が、ふと胸に刺さる。
右京さんのコメント
おやおや…「あすなろの唄」、実に含蓄のある事件でしたねぇ。
一つ、宜しいでしょうか?
この事件の最大の矛盾は、“未来を守ろうとした者”が、“未来そのもの”を手にかけた点にあります。
研究という営みは、人類の希望の火です。ですが、信じすぎれば、時にそれは業火となって命を焼き尽くします。
栗田氏は、技術の流出を恐れ、祖国への忠誠を盾に殺人を犯しました。
しかしその結果、守ろうとした微生物は全滅し、研究も潰えてしまいました。
いい加減にしなさい!
国家のためだと口にしながら、仲間の信頼を裏切り、命を奪うような行為。
それは“正義”などではなく、“執着”です。科学を語るなら、まず人間を理解なさい。
なるほど。そういうことでしたか。
“あすなろ”という木は、「明日はヒノキになろう」と願う存在です。
けれど、願うだけでは、ヒノキにはなれません。
未来とは、育て、継がれ、そして赦されて初めて実を結ぶのです。
僕も、紅茶を飲みながら思案しました。
命を犠牲にした未来など、本当の意味では“前進”とは呼べませんねぇ。
『相棒season10「あすなろの唄」』を読み解くまとめ──科学の光と闇の中で
科学とは、希望の名を借りた“刃物”だ。
人の手で救える未来もあれば、壊せる未来もある。
『あすなろの唄』が描いたのは、その“二面性”だった。
“あすなろ”の唄に込められた、希望と絶望の二重奏
「明日はヒノキになろう」
その言葉は、研究者たちの信念であり、呪いでもあった。
教授も、犯人も、助手も──それぞれの立場で“明日”を見ていた。
だがその明日は、ひとつではなかった。
誰かにとっての未来が、誰かにとっての終わりになる。
その交差が生んだのが、この悲劇だった。
この回が我々に突きつける、“技術”と“人間”の距離感
科学は、冷たい。
だがそこに関わる人間は、信じる、願う、奪う、守る──その感情で動いている。
栗田が示した“守るための殺人”は、その距離感の危うさを露呈した。
未来を信じた結果、人を殺す。
それはもう、科学ではない。
この回の結末は、決して“勝利”ではなかった。
ただ、何かを守ろうとした者たちの手に、そっと残った唄があった。
それが、『あすなろの唄』だった。
“明日”を信じて歩むために──今日をどう選ぶか。
この物語は、静かに、しかし深く、そう問いかけてくる。
- 科学と殺意が交差するバイオ研究室での事件
- 「あすなろの唄」が象徴する希望と裏切りの物語
- 犯人は技術流出を防ぐ名目で研究者を毒殺
- 硫化水素という見えぬ毒が生死の境を演出
- 特命係は推理と準備で死のトラップを回避
- 米沢や神戸らの活躍が物語を静かに支える
- 助手たちの存在が描く名もなき希望のリアル
- 科学の光と闇、そして倫理の危うさを突く回
コメント