映画『月の満ち欠け』。それは、時間を超えて想いが交差する切なさの連鎖だ。
この作品には、ただ「場所」が映っているんじゃない。感情の震えを受け止めた“風景の記憶”が刻まれている。
この記事では、大泉洋・有村架純・目黒蓮らが歩いたあの道、語り合ったあの場所、その全てを正確なロケ地情報として紹介する。記憶の余韻を抱きしめに、現地を訪れてみたくなる構成でお届けしよう。
- 映画『月の満ち欠け』の正確なロケ地とシーンの対応関係
- 各ロケ地が映し出す登場人物の感情や物語の意味
- ロケ地巡礼を“記憶と感情”を辿る旅として楽しむ視点
「月の満ち欠け」ロケ地で最も心を揺さぶる場所はここだ
あの映画を観たとき、静かに胸を刺してきたのは、セリフでも演技でもなく——
誰かの思いが、風景にそっと溶けていた“あの一瞬”だった。
ここでは、ロケ地の中でも感情の核心に触れてきた場所をピックアップして語る。
1位:リーガロイヤルホテル東京のガーデンラウンジ|緑坂親子との対話が交差した静寂
新宿区・戸塚町。
リーガロイヤルホテル東京のガーデンラウンジに、小山内堅(大泉洋)はいた。
目の前に座るのは、亡き人の影をまとった少女とその母。
ラウンジという名の空間は、豪奢でもなく、ただ静かだった。
吹き抜けの天井から差す光と、窓外の緑が、彼らの言葉にならない対話をそっと受け止めていた。
あの空間がすごいのは、「余白」を映す力があることだ。
堅の視線の先にあるのは、未来じゃない。
取り戻せない時間をどう受け入れるか——その問いが、このガーデンラウンジには染み込んでいた。
アクセスは、早稲田駅(都電荒川線)から徒歩4分。
ロビーに足を踏み入れた瞬間、映画の空気が、肌にまとわりつくような気がする。
2位:根本マリンキャンプ場・海水浴場|あの日、家族が“愛の形”を結んだ浜辺
南房総・根本海水浴場。
そこは、小山内堅・こずえ・幼少期の瑠璃が訪れた、たった一度の“幸せな日”の舞台だった。
潮風、青空、テント越しの笑い声。
「家族」という形が一瞬だけ、完成した場所だった。
だがそれは、永遠ではなかった。
砂に残された足跡が、次の波にさらわれるように。
海辺の時間は、消えていくことを前提とした「幸せ」を象徴していた。
ここを訪れるなら、夕方がいい。
陽が傾き、潮の香りが強くなっていくとき——
そこにはもう、映画ではない「あなた自身の物語」が見えてくるかもしれない。
切なさが降りた“出会いと別れ”の交差点
恋が始まる場所には、決まって静けさがある。
別れが訪れる場所には、決まって風が吹いている。
『月の満ち欠け』には、そんな“感情の通り道”となったロケ地が、いくつも存在する。
ココナッツディスク吉祥寺店|雨宿りと運命の始まり
雨が降ると、人は一瞬、立ち止まる。
そしてその“わずかな間”に、運命が入り込んでくる。
ココナッツディスク吉祥寺店——
それは、三角哲彦(目黒蓮)と正木瑠璃(有村架純)が出会った、奇跡の場所。
レコードジャケットが並ぶ小さな店内で、彼らの目が合った。
BGMの代わりに、沈黙が空気を満たしていた。
過去と未来が、あのとき一瞬、“今”に集約されたのだ。
運命は、劇的じゃない。
静かに滲むように始まる。それを教えてくれる場所だ。
源水橋横の階段|缶ビールと沈黙が語る再会の夜
夜の階段というのは、妙に気配が濃くなる。
人が心を開くのに必要なのは、言葉じゃなくて「間」なのだ。
源水橋横の階段は、哲彦と瑠璃が缶ビールを手に再会した場所。
しゃべらない時間にこそ、感情が滲んでいた。
ふたりの距離は縮まらない。けれど、離れもしない。
それが、大人の愛のあり方なんだと、この場所が教えてくれた。
階段のコンクリートに腰かけて、同じ缶を持ってみるといい。
きっとあなたも、言葉にならない思い出の“におい”がよみがえるはずだ。
早稲田松竹|記憶の映画館で、時を越えてふたたび
映画館とは、物語を観る場所ではない。
“自分の記憶”と静かに向き合う場所だ。
新宿・高田馬場にある早稲田松竹で、哲彦と瑠璃は再会する。
80年代の空気を再現した館内に、時間が逆流するような感覚が走る。
スクリーンに映っているのは過去作だけど、
ふたりにとっては、今この瞬間の“答え合わせ”だった。
記憶とは、ただ思い出すものじゃない。
いま、もう一度「意味」を見つけ直すための素材だ。
この名画座で座席に腰を沈めると、きっと映画を観る前から、心がほどけていく。
“家”が語る、時間の層と感情の奥行き
家というのは、壁と屋根だけでできているんじゃない。
そこに積もった時間と、こびりついた感情が、その空間に“重み”を与えている。
『月の満ち欠け』の中で使われた家のロケ地には、ただのセットでは語れない“生”があった。
STUDIOピア 宮前|静かな生活と哀しみの余白
杉並区にあるSTUDIOピア 宮前。
ここは、瑠璃と竜之介が暮らした家であり、愛と哀しみの残り香が満ちた空間だった。
ぐるりと囲む日本庭園、障子から差し込む淡い光。
それらは、ふたりの“日常”を包んでいた静けさを映し出している。
けれどその日常は、いつしか崩れる。
だからこそ、平穏だった頃の風景が、いっそう胸を締めつける。
現地を歩くと、静かな足音すら、誰かの記憶を踏んでいる気がするはずだ。
rope(品川)|孤独と希望が同居する、三角の部屋
東京都品川区にあるハウススタジオrope。
ヴィンテージ調の家具、使い込まれた木の床、むき出しの時間。
そこは、三角哲彦(目黒蓮)の“部屋”として登場する。
部屋といっても、ただの生活空間じゃない。
そこは、彼が感情をこぼさずにやり過ごしてきた「避難所」だった。
バルコニーに立ち、曖昧な空を見上げるその姿は、
孤独であることを、自分にだけは許していた男の背中だ。
静かな場所に、静かな人がいた。だからこそ、あの部屋は強く焼きつく。
古民家スタジオ「さんのや荘」|時が止まった家での問い直し
千葉県・白子町の古民家撮影スタジオ「さんのや荘」。
ここは、三角が小山内堅のもとを訪ねた家として登場する。
風に揺れる障子、軋む床の音、雨漏りすら“演出”のように沁みる。
過去と向き合うには、便利すぎない空間の方がふさわしい。
この家は、まるで時間が止まっていた。
だからこそ、ふたりの会話が深く響く。
「なぜ、彼女はあのとき…?」、「自分は何を見落とした?」
そんな問いが、壁に吸い込まれるようだった。
建物に刻まれた感情の余韻——それを“聞き取る”感覚で訪れてみてほしい。
物語を支えた学校と街のリアリティ
人は、いつも「どこか」で変わっていく。
好きになった場所、傷ついた場所、見送った場所。
『月の満ち欠け』の中で使われた学校や街は、登場人物の“内面の風景”をそのまま写し出していた。
多摩大学附属聖ヶ丘中学・高校|瑠璃とゆいが歩いた“思春期の坂道”
多摩大学附属聖ヶ丘中学・高校。
ここは、瑠璃(菊池日菜子)とゆい(伊藤沙莉)が通っていた学校。
撮影では、美術室や廊下、4階ホール、スロープなどが使われた。
それぞれの場所に、“あの頃の息苦しさと小さな希望”が折り重なっている。
制服の裾を風が揺らすシーン、ふたりの目線がふと合うシーン。
何気ない描写が、観ている側の記憶を勝手に呼び起こす。
観客が自分の過去を重ねられるような、普遍性のある場所だった。
下館運動公園|“作られた街”に命を吹き込んだ群像劇
一見すると、ここはただの運動公園。
だが、下館運動公園・駐車場では、駅前の街並みが“セット”として作りこまれていた。
150人規模のエキストラが行き交い、まるで本物の高田馬場駅前のように撮られている。
現実を模した“偽物”に、本物の感情を流し込んでいく——映画的構造の極致だ。
哲彦や瑠璃だけでなく、“その他大勢”にも背景があると感じさせる演出。
映る人すべてが、何かを抱えてそこに立っているように見えた。
「街」を描くことは、「無名の人生」を肯定すること。
この場所には、そんな強さがあった。
愛の輪郭がにじんだ場所たち
「愛してる」と言わないまま通り過ぎることがある。
「またね」と言った瞬間に、二度と会えないことがある。
この映画のロケ地には、そんな“語られなかった感情”が滲んでいた場所がある。
中井富士見橋|駆け抜ける想いのスナップショット
ふたりの間には、言葉がなかった。
でも、それ以上のものがあった。
中井富士見橋は、三角(目黒蓮)が瑠璃(有村架純)の手を引いて走り抜けた橋。
スローモーションにならないのに、時間が引き延ばされたように感じた。
「この瞬間を忘れたくない」——そういう本能の疾走だった。
橋の下を流れるのは川だけど、
そこにあるのは「通り過ぎてしまう運命」だったのかもしれない。
銀座菊水|時間の中で働く瑠璃の“日常”が沁みる店
東京・銀座。
ここには、劇的な再会も、涙も、別れもなかった。
ただ、瑠璃が日々を過ごしていた「時間の痕跡」があった。
タバコの香り、古びた什器、明治創業の重み。
銀座菊水という老舗のたばこ店は、彼女の“静かな日常”を象徴していた。
愛が遠くにあるとき、人は生活の手触りにしがみつく。
「暮らす」ことの哀しさと強さが、この場所から漂っていた。
アートヴィレッジ大崎セントラルタワー|出会いと約束の交差点
大崎にあるアートヴィレッジ大崎セントラルタワー。
ここは、竜之介(田中圭)が小山内堅・瑠璃と出会い、食事の前に待ち合わせをした場所。
タワーの前に立つ人物たちは、これから何かが始まる気配をまとっている。
けれど同時に、“もう戻れない場所へ来てしまった”人の顔にも見えた。
ビルの無機質さと、会話の温度差が美しいコントラストを生んでいた。
都市の中で、人は時にとても個人的な決断をしている。
ルーデンス立川ウエディングガーデン|祝福と予感が交差した結婚式場
「幸せに見える場所」に限って、何かが終わっていく。
ルーデンス立川ウエディングガーデンは、堅(大泉洋)とこずえ(柴咲コウ)が結婚式を挙げた場所。
花々に囲まれたガーデン、空の色、笑顔のフレーム。
でも、その裏には、これから訪れる「揺らぎ」がすでに漂っていた。
写真で切り取れば祝福に見える。
でもフィルムの中で観ると、それは“一瞬の幸福”を抱きしめる人間の切なさだった。
語られなかった「喪失のあと」に、人はどう生きていたのか
残された人の「時間」に寄り添うカメラワーク
この作品で印象的だったのは、“いなくなった人”よりも“残された人”の時間のほうが丁寧に描かれていたこと。
たとえば、堅のラウンジでの眼差し。哲彦の部屋の無言。竜之介が立ち止まった大崎の広場。
どれも派手な演技はないのに、そこに流れる“空白の時間”に観客の感情が吸い寄せられていく。
ロケ地という現実の空間が、喪失の“余白”をそのまま受け入れてくれている。
だからこそ、映画の世界が妙にリアルに感じるんだ。
「愛の再生」じゃなく、「喪失の連鎖」を描いた勇気
この物語、よく観ると「救われる話」じゃない。
むしろ、何かを失い続けることに、人はどう折り合いをつけて生きるのかっていう話だ。
再会しても、やり直せない。
わかりあっても、遅すぎる。
けれど、だからこそ、人の優しさや、選ぶ言葉には“重み”が生まれてくる。
この映画が他と違うのは、“ロマンス”を描くふりをして、その奥にある「喪失の連鎖にどう耐えるか」という人生の本質に踏み込んでるところだと思う。
ロケ地もそうだ。
“人生の途中”にある場所ばかり。
住み始めたばかりの部屋、思い出を抱えたまま働く街角、懐かしいけどもう戻れない学校。
再出発じゃない。ただ、今日を生きているだけなんだ。
この映画が沁みるのは、たぶん、そういう“どこにも行き場のない気持ち”を持った人に向いているからだ。
『月の満ち欠け』のロケ地を通じて“感情の余韻”を旅するまとめ
観光地ではない、“記憶地”を歩くということ
この映画のロケ地は、ガイドブックには載ってない。
でも、登場人物の心が動いた場所であり、観客の感情がふるえた現場だ。
それは観光地じゃない。
「ここで、あの人が、あの気持ちを抱えていた」——そんな記憶を宿した、“記憶地”だ。
ただ風景をなぞるだけじゃない。
自分の感情と映画の記憶が、静かに重なっていく体験になる。
心が動いた“その瞬間”を再体験するために
映画を観終わったあと、誰しも「もう一度あの場面に戻りたい」と思ったことがあるはず。
それはスクリーンじゃなく、現実の空間でしか叶えられない。
『月の満ち欠け』のロケ地巡りは、まさにその“心の追体験”なんだ。
ガーデンラウンジで静けさを感じる。
キャンプ場で遠くを眺める。
古い商店で時間の重さに耳を澄ます。
それだけで、映画では見えなかった感情が、ふいに言葉を持ちはじめる。
ロケ地を巡るという行為は、記憶に“触れる旅”だ。
この映画が、忘れられない一作になった人こそ——歩いてみてほしい。
- 映画『月の満ち欠け』の正確なロケ地を感情軸で紹介
- シーンごとに“心が揺れた場所”を視覚と言葉で再現
- 登場人物の喪失や再会を支えたロケ地の意味を深掘り
- 感情が静かに流れる空間としてのラウンジや部屋を描写
- 街・学校・橋などの“記憶地”が物語に与えた影響を解剖
- 他記事にない独自視点で“喪失の連鎖”に焦点を当てた考察を追加
- ロケ地巡礼を“追体験”として捉えた感情の旅のすすめ
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