相棒17 第17話『倫敦からの刺客』ネタバレ感想 “鏡見悟”南井十が映す、杉下右京の「正義の限界」

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『相棒season17 第17話「倫敦からの刺客」』は、過去作「倫敦からの客人」の直接的な続編でありながら、それを遥かに凌駕する“心理戦”と“宿命”が交錯する物語です。

表向きは連続殺人事件。しかしその裏で蠢くのは、右京の元相棒・南井十。彼は今、ロンドンにいながら東京に“刺客”を放ち、右京の命を狙う──。

だが、真の焦点は「殺人事件」ではない。「なぜ南井は、殺さなければならなかったのか」。そして、「なぜ右京を選んだのか」。

この記事を読むとわかること

  • 南井十の正体と鏡見悟の関係性
  • 右京と南井による“正義”の対立構造
  • 次作に続く伏線と物語の核心
  1. 南井十の“真の目的”──刺客のターゲットは右京ではなかった?
    1. 右京にかかるダークウェブからの不審な着信
    2. 過去の事件と繋がる「鏡見産院」ともらい子事件
    3. 「兄弟」とは誰を指すのか──写真に写った少年の謎
  2. 鏡見悟=南井十という仮説──歪んだ正義はどこで生まれたのか
    1. 名前のトリック:「か」で始まり「る」で終わる“相棒の掟”
    2. 実在の事件がモデル? 鏡見産院と「寿産院事件」
    3. なぜ、南井は「正義」を語る時、死を使うのか
  3. ジャック・モランと立入の関係──真の黒幕は誰だったのか
    1. ツアーガイド・立入はなぜ自殺を選んだのか
    2. “爪”と“写真”に込められたメッセージ
  4. 「倫敦からの刺客」は“次章”への序曲だった
    1. 右京と南井──正義と正義の決着は近い
    2. ラストの電話「僕はあなたを絶対に許さない」に込められた覚悟
  5. 正義は“選べる”のか──南井と右京のすれ違いが映す「選ばれなかった心」
    1. 「花の里」で紅茶を飲む人と、扉の外から覗くだけの人
    2. チェス盤の裏側にあった“見えないもう一局”
    3. 正義に「心」がないとき、誰がその正義を信じるのか
  6. 『倫敦からの刺客』の核心と次なる対決への伏線まとめ
    1. すべては「影を照らす光」──南井の正義と右京の限界
    2. SP版・最終章に向けて──鏡見悟という存在の正体とは
  7. 右京さんのコメント

南井十の“真の目的”──刺客のターゲットは右京ではなかった?

最初にダークウェブからの“自分の番号でかけられた着信”が右京に届いた瞬間、私は背筋が凍った。

それは単なる技術的な偽装ではない。

「次はお前だ」という犯人からの無言の予告状だった。

右京にかかるダークウェブからの不審な着信

このエピソードで最も不気味だったのは、殺人事件の前に被害者のスマホにかかる「偽装電話」だ。

発信者は被害者自身の番号。つまり、犯人は“自分で自分に死のサインを出させる”という演出をしている。

そしてそれは、まるで「お前の罪はお前自身が一番知っているだろう」と語るように。

右京のスマホにも、同様の着信が届く。

そこからこの事件は、「誰が誰を殺したか」ではなく、「なぜ、右京を選んだのか」という問いにすり替わる。

右京は即座に、ある人物の名を口にする──南井十。

過去の事件と繋がる「鏡見産院」ともらい子事件

やがて事件の深層に潜んでいたのは、1950年代の社会的闇「もらい子事件」。

貧困や事情によって親から引き取られた子供たちが、虐待同然の扱いを受け、100人以上が餓死したという凄惨な事件が背景にあった。

それはフィクションではなく、実在の「寿産院事件」などがモチーフだ。

このドラマはその惨劇をなぞるように、“生き残った子供たち”の因縁を描き出す。

そして殺された一人、窪田宗がその生き残りであることが判明する。

彼が手にしていた一枚の古い写真──そこに写っていたもう一人の少年の名前が、鏡見悟。

この名前こそが、物語の鍵を握っていた。

「兄弟」とは誰を指すのか──写真に写った少年の謎

終盤、右京と南井の間に交わされる、決定的な台詞がある。

「兄弟を殺された気分は、わかるだろう?」

それは、あまりに唐突な言葉に見える。

だが南井が“兄弟”と呼ぶ相手が、右京ではないとしたら?

鏡見悟=南井十という仮説が立ち上がる。

つまり、南井は窪田宗と“同じ施設で育った仲間”──擬似的な兄弟だった可能性がある。

南井にとって、窪田は“もう一人の自分”。

その窪田が殺された理由、それが“過去に犯した許されざる罪”であれば……

南井はその罪を購わせるために殺したのではない。

「裁き」を与えるために、わざと“死なせた”のだ。

そして、右京への着信は、「次はお前の番だ」と宣告するための演出。

だが、その言葉の裏にあるのは、右京への“恨み”ではない。

むしろ、「右京、お前だけは俺のことを理解してくれ」という、悲痛な叫びなのではないか。

南井の正義は歪んでいる。

だが、その根底にある孤独や、断ち切れない過去への復讐心こそが、彼を刺客に仕立てた。

この物語は、だから「右京vs殺人鬼」ではない。

「右京vsもう一人の“正義”」という、鏡合わせの闘いだったのだ。

鏡見悟=南井十という仮説──歪んだ正義はどこで生まれたのか

名前のトリック:「か」で始まり「る」で終わる“相棒の掟”

相棒シリーズを追っている者なら誰もが気づいている“命名ルール”がある。

右京の相棒は代々、名前が「か」で始まり「る」で終わる。

亀山薫、神戸尊、甲斐享、冠城亘──。

そして今回浮上する名前、「鏡見悟(かがみ さとる)」もまた、“か”で始まり“る”で終わる

この小さなディテールが、一つの仮説に輪郭を与える。

南井十=鏡見悟という仮説だ。

今回の事件の“鍵”は、この名前に込められたコードにある。

南井という名前は偽名であり、過去を捨て、鏡見産院事件の加害と被害の狭間にいた少年「鏡見悟」こそが、彼の本当の姿。

その名前は、右京の相棒たちと似た形で“継がれて”いる。

つまり──右京にとっての“もう一人の相棒”は、常にその名を持っていた。

実在の事件がモデル? 鏡見産院と「寿産院事件」

このエピソードが深く刺さるのは、ただのミステリーではなく、日本の実在事件をモチーフとしているからだ。

モデルとされるのは、戦後日本の闇を象徴する「寿産院事件」。

育児放棄、助成金の不正受給、そして100人以上の乳幼児が命を落とすという、極めて痛ましい事件だった。

鏡見産院もまた、同じ構図で子供たちを“殺していった”。

そして生き残った二人の少年、窪田宗と鏡見悟。

この設定はあまりにもリアルだ。

人は、どこまで過去を背負って生きなければならないのか。

それとも、ある日“過去を捨てて”生まれ変わることが許されるのか。

南井十は、鏡見という名を棄てて、ロンドンに渡った。

だが、鏡見悟としての“魂”は、彼の正義観の中に今も生きている。

なぜ、南井は「正義」を語る時、死を使うのか

南井の行動には、一つの強烈な歪みがある。

彼は「更生の見込みがない者には、死がふさわしい」と考えている。

これはもはや正義ではない。

“断罪”の快楽に近い。

だが、そこに至る背景を想像したとき──

幼少期に国家にも社会にも見捨てられ、施設で命の軽さと残酷さを教え込まれた少年がいたとしたら?

死が日常にあり、生命が雑に扱われていた日々。

その体験は、「命とは“重くあるべき”だ」という信念に転化されることもある。

しかし彼は逆だった。

「償えぬ罪には、死で報いる」という思想に染まり、そしてその“執行者”に自らを置いた。

南井は正義を語るが、そこには愛がない。

ただ、計算された死がある。

この論理は、右京の信じる「法の正義」と決定的に食い違っている。

右京は法と倫理の間で揺れる。

だが南井は違う。“罪を裁ける神の視点”を自分に与えてしまった。

その原点は、ロンドンではなく、昭和の日本で葬られたままの、一人の少年の哀しみだったのかもしれない。

南井は、今もあの暗い産院の中にいる。

ただ違うのは、彼は“闇”を生きたまま、正義という名の仮面を被って東京に刺客を送り込んでいるということだ。

ジャック・モランと立入の関係──真の黒幕は誰だったのか

ツアーガイド・立入はなぜ自殺を選んだのか

殺人事件の容疑者・立入章は、ラストで自ら命を絶つという衝撃的な選択をする。

だが、彼が単なる犯人で終わるには、物語はあまりにも緻密で重たい。

立入は観光ガイドという肩書きを持ち、ロンドンからの旅行者・ジャック・モランと共に登場する。

しかしその実態は、過去の罪を背負い、ある“写真”を狙う男だった。

彼の目的は復讐でもなければ、金銭でもない。

窪田宗の少年時代の写真──そこに写った“ある人物”を手に入れること。

その写真は、窪田と鏡見悟(=南井十)が並んで写った一枚だった。

では、なぜ立入がそれを?

その答えは、彼が南井の「指示を受けていた」という可能性に他ならない。

つまり立入は、南井によって“操られていた存在”だったのだ。

犯行の直接実行者でありながら、その実態は“駒”でしかなかった。

そして駒が用済みになれば、捨てられる。

立入が自殺したのは、自らの意志ではなく、「自殺するよう誘導された」という方が正確だ。

南井十という男は、そういうことを平然とやってのける。

“爪”と“写真”に込められたメッセージ

遺体に残された「剥がされた小指の爪」は、残虐性の象徴ではない。

むしろ、“罪の刻印”としての儀式だった。

これは南井の“美学”だ。

更生不能な者は、証をもって“人ではない”と裁かれる。

その象徴が、人間の“道徳”を示す小指の爪を奪うこと。

この歪んだ象徴行為により、南井はその人間を“社会から消す”。

一方で、ジャック・モランの遺体からは、“被害者の爪”とともに別の皮膚片が発見される。

つまりそこには、複数の人物の痕跡が意図的に残されていた。

それが「誰かを導く伏線」だったとしたら──。

そう、右京を導くための“トリック”だった可能性が高い。

では、なぜ右京を?

すべては「ある写真」を巡る戦いだった。

立入のジャケットから見つかった一枚の古い写真──。

そこに映る、窪田宗ともう一人の少年。

この写真こそ、南井の過去を暴き出す証拠だった。

だが、右京はその証拠を得たにもかかわらず、それを法的には使えない。

なぜなら、写真に写った少年と南井十が“同一人物”であることを証明する手段が、今はない。

つまり南井は、自分のルーツを“見せて”、そして“逃げた”。

右京に「お前は真実を知ったな?ならば追ってこい」と言わんばかりに。

これは挑発であり、そして悲鳴でもある。

南井十は、過去を誰かに見つけてほしかった。

そしてその「誰か」は、杉下右京しかいないと、彼は思っていた。

だからこそ、写真は残された。

だからこそ、殺人は仕組まれた。

これは復讐劇ではない。

南井の魂の“呼び声”だった。

「倫敦からの刺客」は“次章”への序曲だった

右京と南井──正義と正義の決着は近い

『倫敦からの刺客』は一つの事件として完結しているようでいて、決して“物語の終わり”ではなかった。

むしろ、それは序章──「杉下右京vs南井十」という宿命的な構図の、静かな幕開けだった。

右京が最後に南井と電話で交わしたやり取りは、観る者に確信をもたらす。

「僕はあなたを絶対に許さない」

この言葉は、正義の名を語りながらも人を操り、死に導いた“かつての相棒”への宣戦布告だ。

南井が犯した罪は、法では裁けない。

彼は証拠も残さず、自らの正義を押し通す。

だが、右京は法と倫理の境界線の上で、人間の尊厳を守ろうとする者

つまりこれは、正義と正義の“矛盾”がぶつかる戦いなのだ。

南井はロンドンにいて、直接手を下さない。

だが、誰かを使い、誰かを導き、右京のすぐ傍まで手を伸ばしてくる。

これは「距離を超えた知能戦」であり、「感情をぶつけられない因縁の闘い」だ。

まるでホームズとモリアーティ。

いや──杉下右京と南井十の関係性は、それ以上に深く、個人的で、過去に呪われている。

ラストの電話「僕はあなたを絶対に許さない」に込められた覚悟

右京が電話の最後に放ったあの言葉。

「僕はあなたを絶対に許さない」

その語気には、これまでの右京にはなかった“怒り”と“哀しみ”が宿っていた。

それは法によって裁けない相手を、自分の信じる正義で止めようとする覚悟の現れ。

そしてこのセリフは、“事件の真相”ではなく、“物語の核心”を撃ち抜いている。

右京にとって、南井はただの敵ではない。

かつて信頼した相棒であり、理解しあえた存在だった。

その男が、「自らの正義」に囚われ、他者の生死を操作する怪物になってしまった。

右京は、その変貌を誰よりも悲しんでいる。

そしてその哀しみが、「絶対に許さない」という覚悟に変わったのだ。

右京が“怒る”とき、それは感情の爆発ではない。

それは、すべてのロジックを通り越した「人間としての決断」だ。

つまりこれは、右京が「ルールを超えてでも南井を止める」と決めた瞬間なのかもしれない。

このエピソードのラストは、物語の終焉ではない。

むしろ、“最終決戦”の始まりの合図だ。

右京の声の裏にあった決意と痛み。

それを聞いた南井が笑うのか、沈黙するのか──。

いずれにせよ、二人の最終対決は、もう逃れられない。

『倫敦からの刺客』は、そのプロローグとしてあまりにも美しく、恐ろしく、そして哀しい物語だった。

正義は“選べる”のか──南井と右京のすれ違いが映す「選ばれなかった心」

南井十は、ずっと正義を語っていた。

法の外から。倫理の奥から。誰にも見えない場所から。

でも、それは本当に「自分の意志」で選んだものだったのか?

右京と南井、このふたりは一見、対等な頭脳を持つ“宿命のライバル”に見える。

でも本質はそこじゃない。あのふたりは「同じ場所からスタートできなかった」んだ。

「花の里」で紅茶を飲む人と、扉の外から覗くだけの人

右京は、花の里で紅茶を飲んで、チェスを指す。

そこには“場所”がある。帰るべき場所。受け入れられる空間。

南井にはそれがない。彼がロンドンから送り込んだ刺客たちに共通するのは、“孤独”だった。

立入も、ジャックも、居場所がなく、誰にも見つけてもらえなかった人間たち。

彼らは南井に「使われた」のではなく、自ら飛び込んでいったのかもしれない。

右京が“選ばれた側”の人間なら、南井は“選ばれなかった側”の人間だった。

正義とは、本当に選べるものなんだろうか。

それとも、生きてきた過程そのものが、「選ばせている」だけなのか。

チェス盤の裏側にあった“見えないもう一局”

右京と角田課長がチェスを指していたあのシーン。

表向きにはのんびりした時間。でも実は、あれこそが“象徴”だった。

盤面の上では、ルールがあって、順番があって、負けてもやり直せる。

でも、南井が生きてきたのはその裏側だった。

ルールが壊れた世界。順番も、救済もない盤面。

だから彼は「盤面を裏返す」ことにした。正義という名前で。

右京は、それを真正面から正す。

でもそのとき、問われるのはこうだ。

“自分がルールの側にいられたのは、運が良かったからじゃないか?”

この問いは、南井からの挑発であると同時に、右京の内側に生まれた「揺らぎ」そのものだ。

正義に「心」がないとき、誰がその正義を信じるのか

南井の“正義”には一貫性がある。冷静で、合理的で、論理的。

でもそこに「心」がない。いや、あるんだろうけど、それを誰にも見せられない人だった

右京は、その心を見抜いてしまう。

だからこそ、「絶対に許さない」と言った。

あれは、怒りじゃなくて、“祈り”に近かったと思う。

南井の歪んだ正義が、これ以上誰かを傷つけないように。

そして、自分が“彼のようにならないように”。

この物語は、右京が南井を追う物語じゃない。

右京が“自分自身の正義”を問い続ける物語だった。

『倫敦からの刺客』の核心と次なる対決への伏線まとめ

すべては「影を照らす光」──南井の正義と右京の限界

南井十は言った。「光で照らせば影ができる。光を強めれば影は濃くなる」

このセリフが意味するのは、“正義が強ければ強いほど、その裏には濃い闇が生まれる”ということ。

杉下右京という光の正義。

その光に背を向ける形で、南井十という影の正義が生まれた。

右京が信じるのは、法と理性と、秩序の中の倫理。

南井が信じるのは、贖罪なき者に死をもって償わせる“実行の正義”。

どちらも理屈が通っていて、どちらも人を救い、時に裁く。

では、何が違うのか。

右京の正義には「ためらい」があり、南井の正義には「確信」がある。

この“ためらい”こそが人間らしさであり、右京の限界であり、美しさだ。

だがそれは、同時に“脆さ”でもある。

南井はそれを知っているからこそ、右京を試す。

お前はそのためらいを抱えたまま、俺を止められるのか?

それが、この物語の根底にある挑戦状だった。

SP版・最終章に向けて──鏡見悟という存在の正体とは

南井の本名──鏡見悟。

彼は“産まれた瞬間から罪の中にいた”男だった。

名前を変え、国を変え、生き方を変えても、過去は消えない。

むしろ彼は、その過去を“武器”に変えた。

過去に背を向けるのではなく、その傷を、他人の裁きに転化することで、自分の存在意義をつくった。

鏡見悟という少年が、「南井十」という冷酷な正義執行人になるまで。

そこには、社会の闇と、国家の見捨てた命の記憶がある。

そして──

その正体を知った今、右京がどう動くのか。

次の物語で問われるのは、「右京が南井を法で裁けるのか」ではない。

「右京が、南井の魂を救えるのか」だ。

『倫敦からの刺客』は、その前段階にすぎない。

ラストに南井が告げた「今度、日本へ行く」──

その言葉は、予告状だ。

それと同時に、南井という“影”が、光の中に現れるラストチャンスでもある。

『倫敦からの客人』、そして『倫敦からの刺客』。

もし次があるとすれば、それは──

『倫敦からの裁き』か、『倫敦からの赦し』か。

その結末を決めるのは、誰でもない。

右京の選択。そして、鏡見悟の最後の表情だ。

右京さんのコメント

おやおや…これは“正義”という言葉の裏側を暴く、実に示唆的な事件でしたねぇ。

一つ、宜しいでしょうか?

今回の事件において最も異様だったのは、殺人の手法でも、ダークウェブを用いた犯行でもありません。

それは――死をもって「贖罪」を強いる、その思想そのものでした。

鏡見悟、あるいは南井十と名乗るその人物は、歪んだ信念に突き動かされ、人の命に“重さの値踏み”をしていた。

ですが、人の命に「価値の差」など、あってはならないのです。

なるほど。そういうことでしたか。

この一連の出来事は、過去の傷を忘れられぬ者が、正義という名の仮面を被り、他者を断罪する悲劇の連鎖でした。

右京さんにとっての正義とは、「誰の命も見捨てないこと」。

南井氏の思想とは、相容れないものであると断言せざるを得ません。

いい加減にしなさい!

過去を免罪符に、命を玩具のように扱うなど、言語道断。

たとえどれだけ高尚な動機を語ろうとも、それが他者を支配し、命を奪うものであるならば――それは、ただの傲慢に過ぎません。

このカップと同じですね。

愛用のティーカップに走った一本のヒビ。それは、見えないほど小さな「ほころび」でした。

ですが、その小さな亀裂が、やがて決定的な崩壊へと繋がったのです。

紅茶を飲みながら改めて思うのです。

――正義とは、誰かに強いるものではなく、自らに問うべきものであると。

この記事のまとめ

  • 相棒S17「倫敦からの刺客」は南井十の再登場回
  • 南井は過去のもらい子事件と繋がる“鏡見悟”の可能性
  • ダークウェブによる偽装着信が右京を狙う
  • 殺人の裏にあるのは南井の歪んだ正義
  • 立入とジャックは南井の操り人形にすぎなかった
  • 「影を照らす光」が右京と南井の対立構造を示す
  • 右京は“法の正義”、南井は“裁きの正義”を体現
  • 決着は次作へ──タイトル予想は『倫敦からの赦し』
  • 南井の罪は法でなく、右京の覚悟で裁かれる
  • 正義とは誰かに強いるものでなく、自らに問うもの

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