映画『フロントライン』ネタバレ感想と考察|その「正義」は、誰に届いたのか?

フロントライン
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たとえばそれが“正しさ”ではなくても──誰かの命を想う行為が、誰かの心を突き動かすことがある。

映画『フロントライン』は、2020年のダイヤモンド・プリンセス号のコロナ集団感染という、忘れられない実話をもとに描かれた群像劇。

医療従事者、官僚、メディア、それぞれの「正義」がぶつかり、擦れ違い、そして静かに感染していく──その様を2時間9分に濃縮した本作は、ただの“コロナ映画”ではない。

本記事では、小栗旬、松坂桃李ら豪華キャストが演じる登場人物の葛藤を通して、「正義とは何か?」という問いを深掘りしていく。

この記事を読むとわかること

  • 映画『フロントライン』が描く“正義の感染”の本質
  • 医療・官僚・報道が抱える葛藤と人間ドラマ
  • 小さな行動が連鎖し誰かを動かす覚悟の在り方
  1. 映画『フロントライン』が描いた“正義の感染”とは何か
    1. 結城から立松へ、そして上野へ伝播した「覚悟」のリレー
    2. 仙道、寛子、真田──それぞれの“最前線”で灯った信念
  2. 最前線で闘う人々の「顔」が見えた瞬間、物語は動き出す
    1. 医師の背中は、言葉より雄弁に“命”を語っていた
    2. 批判するしかなかったメディアが変わった、たった一つの理由
  3. この国で「誰かがやらなきゃいけない」を背負った人たち
    1. 立松が手をあげた日、“正義の孤独”が始まった
    2. 責任とリスクの狭間で、それでも前に進む決断
  4. 誰もが“感染者”だった──無意識に誰かを追い詰めた私たち
    1. DMAT隊員への差別に映る、社会の冷たさとメディアの功罪
    2. 「正しく報じる」とは? 上野と轟が辿ったリアルな報道の矛盾
  5. キャスト全員が“人間”だった|演技に宿る“実感の熱”
    1. 小栗旬×窪塚洋介が背負った現場の重さと、沈黙の雄弁さ
    2. 松坂桃李×池松壮亮が演じた、“迷いながら進む者”のリアル
  6. 映画『フロントライン』が私たちに問いかける“覚悟”の形
    1. 「あなたの正義は、誰かを救ったか」
    2. 一人の行動が、もう一人の“次の一歩”になるとしたら
  7. 通訳という“希望の媒体”──寛子の声が、心をつないだ
    1. 誰にも届かない声を、誰かに届けるということ
    2. 中立でも冷静でもなく、“泣いていい存在”だったからこそ
  8. 映画『フロントライン』感想・考察のまとめ|今こそ観るべき“日本人の物語”
    1. これは、過去の話ではない。これからの日本を考える一歩だ
    2. あのとき、誰かの“手を伸ばす勇気”が確かにあった──

映画『フロントライン』が描いた“正義の感染”とは何か

この映画において、ウィルスよりも静かに、しかし確実に人から人へと広がっていったものがある。

それが「正義の感染」だ。

『フロントライン』はパンデミックの初期、ダイヤモンド・プリンセス号での混乱を描くが、ただの医療ドラマでは終わらない。

立場も違えば、考えも違う者たちが、“誰かの命を守りたい”という想いによって次々に突き動かされていく。

これは、たった一人の覚悟が、別の誰かの心を変え、連鎖し、やがて集団全体の“意志”へと変わっていく物語だ。

結城から立松へ、そして上野へ伝播した「覚悟」のリレー

物語の起点は、DMATの司令官・結城英晴(小栗旬)だ。

彼は医療チームのリーダーとして、人員不足、設備不足、そして情報不足という三重苦のなか、現場の最前線で“命を選ぶ”判断を迫られる。

結城が背負っているのは、「全員を助けたい」という理想と、「現実には限界がある」という非情だ。

そんな結城の言葉に耳を傾けたのが、厚労省の官僚・立松信貴(松坂桃李)である。

立松は初め、合理性と安全性の天秤を取ろうとする、いわば“現実主義者”だった。

しかし、船内で命を削りながら診療にあたる結城の言葉を受け、彼の中に眠っていた“理屈抜きの使命感”が目を覚ます。

DMATのために病床を探し回る立松の姿には、すでに「誰かがやらなきゃいけないなら、俺がやるしかない」という、結城の“正義”が感染していた。

そして、ラストにもう一人、変化した人間がいる。

それがTV局記者の上野舞衣(桜井ユキ)だ。

当初はDMATを批判する側だった上野だが、直接結城と話し、彼らの“想い”に触れたことで、報道のスタンスを変えていく。

「ただ批判するだけの報道が、誰かの心を殺すかもしれない」ということに、彼女は気づくのだ。

この「感染」は、誰にも強制されたわけではない。

むしろ、自発的に共鳴した者だけが変化していく。

それが“正義の感染”というこの映画の美学だ。

仙道、寛子、真田──それぞれの“最前線”で灯った信念

結城が戦っていたのが“指揮官”としてのジレンマなら、現場で奮闘していた者たちにも、それぞれの“正義”があった。

DMATの現場指揮者・仙道(窪塚洋介)は、常に判断の刃先に立たされる存在だった。

彼は明らかに“誰よりも現場を知っている人間”だが、それゆえに冷徹な選択を迫られることもある。

しかし、その冷静さの裏には、「すべてを救えないなら、少しでも多くを救う」という強い意志がある。

“選ばなければならない現実”と、“全員を救いたいという理想”の間で揺れる彼の背中は、沈黙の中に多くを語っていた。

一方で、語学堪能な乗組員・寛子(森七菜)は、別の角度から命を支えていた。

彼女は外国人乗客と医療スタッフの橋渡し役となり、命がけで通訳を務めた。

夫の病状が分からず泣き崩れる女性に寄り添いながら、「伝える責任」と「知らされる痛み」の板挟みに立つ。

ここにも、“見えないところで戦う者の正義”があった。

さらに医師・真田(池松壮亮)は、誰よりも“迷う人間”だった。

家族と離れ、危険な現場で働きながらも、彼は常に「自分は正しいのか?」と自問している。

だが、ラスト近くで彼が語る言葉が印象的だ。

「正しいかどうかは分からない。でも、この命を見捨てることだけはできない」

彼のその一歩が、同僚の宮田を動かし、また一つ“感染”が起きた瞬間でもあった。

『フロントライン』が教えてくれるのは、正義とは一枚岩のものではないということだ。

立場によって、その形は変わり、時にぶつかり合う。

だが、“誰かの命を想う気持ち”だけは、あらゆる枠を超えて感染する。

それが、この映画最大のメッセージであり、美しさだと僕は思っている。

最前線で闘う人々の「顔」が見えた瞬間、物語は動き出す

この映画の前半、私たちは“判断”や“制度”という抽象的なレイヤーで物語を見ている。

クルーズ船で感染が広がる。政府が動く。DMATが派遣される。医療が追いつかない──。

でも、ある瞬間から、空気が変わる。

“顔”が見え始めたとき、物語は一気に血が通い出すのだ。

名前のある人間、迷いながらも戦う者たちの姿が、観る者の視点を“現場”に引きずり込んでいく。

それこそが、この映画が他の“事件再現モノ”と決定的に違う点だと思う。

医師の背中は、言葉より雄弁に“命”を語っていた

DMATのリーダー・結城(小栗旬)が語る言葉は少ない。

でもその代わりに、“背中”が物を言う

外国人クルーの具合を確認しに自ら船に乗り込んだ結城が、「この人たちを誰かが気にしてあげなきゃ」と語るシーンは、この映画の本質だ。

命に「国籍」なんてない

でも現実は、感染者が出れば、外国人クルーは優先順位の最後に回される。

その理不尽を知りながら、結城は現場に足を踏み入れる。

言葉よりも態度で語るその姿に、“ヒーロー像”ではなく“実在する人間の信念”が宿っていた

彼だけじゃない。

真田(池松壮亮)は、医療現場の“迷える医者”だ。

「俺たちのやってることは意味があるのか?」と揺れながらも、目の前の患者に手を差し伸べる。

その姿には、綺麗ごとじゃない“痛みを知る覚悟”がにじんでいる。

医者たちの行動は、決してパフォーマンスではない。

そこにあるのは、「この命を見捨てないでいたい」という、ただそれだけのシンプルな願い。

そのシンプルさが、むしろ強く心に残った。

批判するしかなかったメディアが変わった、たった一つの理由

TV局の記者・上野舞衣(桜井ユキ)は、この映画の中で最も“視聴者に近い存在”だ。

最初の彼女は、まさに僕たちそのものだった。

「対応が遅い」「誰も説明してくれない」「なぜこんなに混乱しているのか?」

そんな疑問を、メディアというフィルターを通してぶつける。

彼女がやっていることは、間違っているとは言えない。

“知る権利”と“批判の視点”は、民主主義の柱でもあるからだ。

だが、結城との対話の中で、彼女は何かに気づく。

最前線で誰かが必死に命と向き合っているということ。

その人たちの苦悩を知らずに、「正しいかどうか」だけで物事を裁くことの危うさに。

それは、僕たちも忘れかけていた“想像力”だった。

彼女が語ったある一言が印象に残っている。

「頑張ってる人を頑張ってるって伝えちゃダメなのかな…?」

その言葉には、たった数秒のカットで、報道の本質が詰まっていた。

「頑張ってる人たちがいます!」ではニュースにならない。

でも、それを伝えなければ、この国は“見えない努力”に報いることを忘れてしまう。

最前線で闘っていた人々の“顔”が、彼女の報道に映った瞬間。

そして、彼女の“まなざし”が変わった瞬間。

この映画は、エンタメからリアルへと変質する。

ただの医療ドラマでも、政府批判の映画でもない。

「誰かが、誰かを想った物語」

それを伝えるための2時間9分が、ここにあった。

この国で「誰かがやらなきゃいけない」を背負った人たち

この映画の中で、最もリアルに「日本の現場」を体現していたのは、官僚・立松信貴(松坂桃李)だったと思う。

医師でもなければ、報道関係者でもない。

彼はただ、省庁のオフィスで、電話をかけ続け、病床を探し、現場と本部の“あいだ”でもがく人間だった。

誰よりも「できることが少ない」彼が、それでも「やらなきゃ」と思って動く──その姿に、この国の“背骨”が見えた気がした。

立松が手をあげた日、“正義の孤独”が始まった

感染症に特化した体制が整っていない日本で、3700人の乗客と700人超の感染者を抱えるダイヤモンド・プリンセス号に対応するということ。

それは、「誰が責任を取るのか」という問いと向き合い続けることでもあった。

立松は、その中で自ら“手を挙げた人間”だ。

それは決して目立つ決断ではない。

むしろ、「手を挙げた人間がババを引く」──そんな構造の中で、彼は自分の身を投げ出した

上司からの無言の圧力、世論の非難、病院からの拒絶。

そのすべてを正面から受け止めながら、彼はただひたすら、医師たちが必要としている病床を探し続ける。

「誰かがやらなきゃ、何も始まらない」──その一念だけを支えに。

彼の正義には、派手な演出も、涙を誘うセリフもない。

だが、電話の向こうで断られたときの沈黙、机の上で眠るように突っ伏したその姿。

それが、どんな演技より雄弁だった。

責任とリスクの狭間で、それでも前に進む決断

後半、重症患者の搬送先として登場する新設病院の医師・宮田(滝藤賢一)の存在も忘れられない。

彼は一度は受け入れを決めたものの、いざ搬送が始まると「ここで患者が死んだら、病院が潰れる」と声を荒げる。

正論である。

どんな善意も、病院経営という“現実”の前では無力になってしまう。

でも、真田(池松壮亮)が病室で見せた、“命を抱えてきた者の顔”を見た瞬間、宮田の中の何かが変わる。

自分が避けたかった“責任”の重さを、すでに誰かが背負っている。

だったら、自分もそこに一歩足を踏み入れるしかない──。

それは、現実的な選択ではない。

でも、人間としては、限りなく“正しい”決断だった

この映画の登場人物たちは、皆“前例”のない事態に向き合わされる。

正解がわからない中で、判断し、批判され、でもそれでも進む。

それこそが「誰かがやらなきゃいけない」を背負った者の生き方だった。

日本社会では、いつも“沈黙して働く人”が過小評価されがちだ。

でも、この映画を観たあと、あなたは思わずこう呟くかもしれない。

「ああ、この国は、名もなき人たちの“覚悟”でできているんだな」と。

誰もが“感染者”だった──無意識に誰かを追い詰めた私たち

『フロントライン』を観ていると、ふとあることに気づかされる。

ウィルスに感染していたのは、乗客や医療関係者だけじゃなかった。

“恐れ”や“疑い”、そして“怒り”といった感情が、私たちにも感染していたのだ。

コロナ禍の初期、SNSやテレビを通じて広がった不安と混乱。

その中で、誰かを責める言葉や、線引きを求める声が、静かに他者を傷つけていた。

この映画は、“差別の正体”を描いた数少ない日本映画だと思う。

DMAT隊員への差別に映る、社会の冷たさとメディアの功罪

DMATは、まさに“命の最前線”にいた。

それにも関わらず、彼らが受けたのは拍手でも感謝でもない。

報道で「対応の遅れ」や「混乱の現場」としてDMATが取り上げられたことで、一部の隊員やその家族が、地域社会から差別されるようになる

「近所の病院に感染者を運ばないでくれ」

「DMATの子どもが通う学校に、うちの子を行かせたくない」

こうした言葉が、実際に現実で飛び交った。

この映画は、その声を「悪意」として描いていない。

むしろ、“わかりやすく不安を処理したい”という衝動の正体として描いている。

人は、正体の見えない恐怖にさらされると、「誰かが悪い」と思いたくなる。

それは、防衛本能であり、弱さでもある。

だけど、DMATのように実際に動いていた人たちは、それを肌で感じながら、それでも動いていた。

「なぜ感謝されるどころか、責められているのか」という矛盾。

その中でも、任務を全うする姿が、胸を突く。

「正しく報じる」とは? 上野と轟が辿ったリアルな報道の矛盾

TV局の上司・轟(光石研)はこう言う。

「メディアはこれでいい。批判すれば世間の関心が集まる」

彼の言葉は、冷たく響く。

だが、その冷たさこそが、報道の現実だ。

“正しさ”と“注目されるかどうか”は、時として相反する

「皆頑張ってます」「よくやっています」だけでは、ニュースにならない。

問題点を炙り出し、批判し、世間を巻き込むことで、政治も動く。

それが報道の役割だと言われれば、確かにそうだ。

でも、だからといって、“頑張っている人の努力”を踏みにじっていい理由にはならない

上野(桜井ユキ)は、葛藤する。

現場に足を運び、DMATの結城と直接言葉を交わすうちに、彼女の視線が変わっていく。

「私たちの伝え方一つで、現場の人間が傷つくかもしれない」

それに気づいたとき、彼女の報道は“論評”ではなく、“記録”に変わっていく。

報道とは何のためにあるのか。

視聴率のためか? 世論を動かすためか? それとも、記憶に残すためか?

その答えは明確に示されない。

でも、結城の覚悟や、DMATの奮闘を報じた上野の表情が、その答えの“片鱗”を示していたように思う。

感染は、ウィルスだけではなかった。

批判も、疑心も、恐怖も、僕たちに広がっていた。

でも、その中で「正義」が感染していく様子も、同時に映し出されていた。

誰もが感染者であり、誰もが変われる

それが、この映画の描いた“人間の可能性”だった。

キャスト全員が“人間”だった|演技に宿る“実感の熱”

『フロントライン』を観終えたあと、真っ先に湧き上がったのは──

「この映画、演技してる人がいなかった」という感覚だった。

演じているはずのキャストたちが、演技ではなく“その人間としてそこにいる”ように見えた。

そのリアリティこそが、この作品に刻まれた“実感の熱”だった。

キャラクターではなく、人間を観ている──。

それがこの映画の特異点であり、観る者の心に刺さる最大の理由でもある。

小栗旬×窪塚洋介が背負った現場の重さと、沈黙の雄弁さ

DMATの指揮官・結城英晴(小栗旬)は、多くを語らない。

でも、その沈黙が何よりも雄弁だった。

小栗旬の演技には、“ドラマチックな芝居”ではなく、「責任とはこういう顔になるんだ」というリアリズムがあった。

一人で判断を背負い、患者の命を選び、批判の矢面に立ち、それでも動じない。

だが、動じないのではない。動じてもなお踏みとどまっているのだ。

そのギリギリの精神を、小栗旬は声を張らずに伝えた。

それが、かえって刺さる。

対照的なのが、窪塚洋介演じる仙道だ。

船内の現場指揮者として、自分の身体を削りながら判断を重ねる男。

久しぶりに“カッコいい窪塚”を見たという声も多かったが、個人的にはそれよりも、“一人の男として人を守るために吠える窪塚”が強く心に残った

圧のあるセリフ回し、研ぎ澄まされた目つき。

それらが、“この状況の過酷さ”を、言葉以上に語っていた。

結城と仙道、対照的な二人が、無言で通じ合うシーン。

そこにはセリフなんて要らなかった。

「ああ、この人たちは、現場で“命の重み”を共有してきたんだな」

そう思わせてくれる、名演だった。

松坂桃李×池松壮亮が演じた、“迷いながら進む者”のリアル

この映画のもう一つの軸は、「迷いながら、それでも前に進む者」だ。

その役割を担ったのが、松坂桃李と池松壮亮だった。

松坂演じる立松は、序盤では官僚としての“無機質さ”が前面に出ていた。

だが物語が進むにつれて、顔に“疲労”と“葛藤”が滲み出てくる。

特に中盤、病院からの拒絶を受けて一人で黙り込むシーン。

そこで見せたわずかな表情の崩れが、「それでもやらなきゃいけない」という覚悟の始まりだった。

そして、池松壮亮演じる真田。

彼は、どこか頼りなく見える医師として登場する。

だが、それは“普通の人間”であるがゆえの姿だった。

「自分は正しいのか?」「間違ってるかもしれない」と迷い、怒られ、時に傷つきながらも、それでも患者に向き合い続ける。

その“未完成な姿”が、この映画に真実味を与えていた。

派手な演出はいらない。

人が迷って、それでも一歩踏み出す瞬間こそ、最もドラマチックなのだ。

その一歩一歩に、演技ではない“生の体温”が宿っていた。

それを届けてくれたキャスト陣に、私はただ、敬意を送りたい。

映画『フロントライン』が私たちに問いかける“覚悟”の形

映画を観終えたあと、しばらく声が出なかった。

ただ、心の奥に残った問いが、ずっと頭の中を反響していた。

「自分だったら、手を挙げられただろうか」

それは、この映画が描いた“正義”の物語が、決して遠い世界の話ではないからだ。

未知のウィルスという極限状況のなかで、それでも誰かの命を思い、動いた人たちがいた。

彼らの覚悟は、特別なヒーローのものじゃない

ただ、自分にできることを、たった今やろうと決めた人たちの“普通の勇気”だった。

「あなたの正義は、誰かを救ったか」

この映画の主題とも言えるのが、「正義の感染」という概念だ。

結城の覚悟が立松に伝染し、真田が宮田を動かし、上野の視点を変えた。

それぞれの“正義”が、別の誰かの心に火を灯す。

その連鎖が、やがて「システム」や「社会」さえも少しだけ動かす。

正義とは、突き詰めれば“誰かを救いたいという意志”に過ぎない

だが、それを実行に移せるかどうかが、決定的な違いを生む。

だからこの映画は、観る者に問いを投げかけてくる。

あなたの中にある“正しさ”は、誰かを傷つけていないか?

それとも、誰かの背中を、そっと押せているだろうか?

答えは、すぐには出ない。

でも、少なくともこの映画を観たあなたは、もう“何もしなかった昨日”には戻れないはずだ。

一人の行動が、もう一人の“次の一歩”になるとしたら

『フロントライン』が見せてくれたのは、大声ではない“静かな勇気”だった。

怒鳴り声も、劇的な展開もない。

でも、一人の決断が、もう一人の決断を生む連鎖こそが、この映画の核心だった。

「自分にできることなんてない」

そう思って、僕たちはつい動かなくなる。

でも、この映画に出てくる人たちは、“自分がやらなければ”と静かに立ち上がる

その姿に、どれだけ励まされただろう。

そして忘れてはいけないのが、この映画は“実話ベース”であるということだ。

あの船の上で、本当に人が迷い、悩み、選び、そして動いた

だからこそ、この映画に登場する“正義”は、絵空事ではない。

映画の終わりに、誰かの行動が「私もやろう」と思わせる。

そのささやかな連鎖が、世界を少しだけ良くする。

覚悟とは、そうやって受け継がれていくのだ

あなたは、今日、誰のために一歩踏み出すだろうか。

その小さな一歩が、誰かの次の正義になるかもしれない。

通訳という“希望の媒体”──寛子の声が、心をつないだ

物語の中で最も静かで、最も深く人と人をつないでいたのは、たぶん寛子(森七菜)だった。

医師でもなく、官僚でもなく、ジャーナリストでもない。彼女は“船の中のクルー”という立場で、誰にも注目されないポジションにいた。

でも、誰かの言葉を誰かに届ける──その役割は、この映画における“希望の中継地点”だった。

誰にも届かない声を、誰かに届けるということ

異国の地で、自分の夫が感染し、命の危険にさらされている。

バーバラが発したのは、言葉ではなく“叫び”だった。もはや言語の問題じゃない。情動の奔流だった。

その叫びに対して、寛子は「翻訳」ではなく「共鳴」で応えた

「I’m here. I’ll tell him your heart.」

あのとき彼女が担っていたのは、言葉の通訳ではない。“痛みの通訳”だ。

それは、AIにも、行政にも、医療システムにもできない仕事だった。

中立でも冷静でもなく、“泣いていい存在”だったからこそ

この映画に出てくる人間の多くは、“泣けない立場”にある。

結城も立松も、仙道も真田も、「現場を止めないため」に感情を押し殺す必要があった。

でも寛子だけは違った。泣いてよかった。揺れてよかった。迷ってよかった

だからこそ、バーバラの心に触れることができたし、それを結城たちにも伝えられた。

“中立”とか“正義”とかじゃない。

ただそこにいて、泣いて、耳を傾ける──それが、この作品における最も人間らしい“正しさ”だった気がする。

感染症も、差別も、制度の限界も、“誰かの声”が届かないときに拡大する。

その声を、拾って、抱えて、次へ渡す──

寛子は、静かな“感染の媒介者”だった。希望を伝播するという意味で。

映画『フロントライン』感想・考察のまとめ|今こそ観るべき“日本人の物語”

『フロントライン』は、単なるコロナ禍の記録映画ではない。

これは、日本という国が、危機の中でどうやって「誰かを守ろうとしたか」の物語だった。

そして何より──その時、あなたはどこにいたのか。どう感じていたのか

観客自身にその問いを返す“ドキュメンタリーな感情映画”だったとも言える。

これは、過去の話ではない。これからの日本を考える一歩だ

この物語は2020年に起きたことを描いている。

でも、そこに映っていたのは、“過去の日本”ではない。

今この瞬間にも続く、日本の“現場”の姿だ。

行政はなぜ動かないのか。

現場はなぜ疲弊するのか。

報道はなぜ過激になるのか。

社会はなぜ誰かを攻撃したくなるのか。

そのすべてに、“あの時の延長線”としての理由がある。

この映画を観ることは、あの時を忘れないためではなく、あの時から考え続けるためだ。

つまり──未来の話だ。

あのとき、誰かの“手を伸ばす勇気”が確かにあった──

人はいつだって、迷っている。

正解なんて誰にもわからない。

でも、それでもなお、誰かの命のために動いた人がいた

罵倒されながら、それでも船に乗り込んだ医師。

孤独の中で病床を探し続けた官僚。

報道の矛盾と向き合いながら、現場に心を寄せた記者。

そして、母国語も文化も違う誰かの「涙」に応えようとした通訳。

誰かの“手を伸ばす勇気”が、次の誰かの行動を変えていった

それが「正義の感染」だった。

今、この国はまた別の危機に立たされている。

社会不安、分断、災害、気候変動、政治の混迷──。

でも、忘れてはいけない。

あのとき、確かに人は“誰かのために”立ち上がった

それは、国籍でも肩書でもなく、“人間”の物語だった。

だから今こそ、この映画を観てほしい。

あの時の「正義の感染」は、まだ終わっていない。

あなたが次に手を伸ばす瞬間、きっとまた誰かが動き出す。

この記事のまとめ

  • 映画『フロントライン』の感想と深掘り考察
  • “正義の感染”というテーマで描かれる連鎖
  • DMAT・官僚・報道それぞれの葛藤と覚悟
  • 寛子の通訳という役割が静かな希望となる
  • 登場人物全員のリアルな“人間性”に迫る
  • 報道の功罪と社会が抱える構造的な課題
  • 誰もが“感染者”だったという鋭い視点
  • 自分の中の“正義”を問い直す物語構造
  • 「手を伸ばす勇気」が次の一歩になる
  • 過去ではなく、“これから”の日本の話

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