2025年NHK大河ドラマ「べらぼう」第24話では、物語の転機となる「丸屋買収劇」が大きく動き出しました。
日本橋の本屋・丸屋を巡って、蔦重率いる吉原勢とライバル鶴屋が激突。女将・ていの聡明さと信念が光る一方、蔦重は「一か八か」の策に出ます。
田沼意次の野望と誰袖の策略、松前家の兄弟間の軋轢も同時進行し、濃密な人間ドラマが交錯した第24話。この記事では、ネタバレを交えつつ見どころや考察をまとめます。
- 第24話における蔦重とていの駆け引きと心の変化
- 丸屋買収をめぐる商人・政治勢力の思惑と策略
- 恋と信頼が交差する人間模様と物語の転換点
ていが蔵を守る理由と蔦重の決意が交差する!
店を売る。そこに並ぶ本も、捨ててしまうかもしれない。
そんな「合理的な選択」を前にして、一人の女が、敢えて非効率な道を選ぼうとする。
第24話で語られた「ていの信念」と「蔦重の覚醒」は、まさに物語の心臓部だった。
ていの信念:本を「紙屑」ではなく「希望」として扱う覚悟
本堂の静寂の中、ていの口から紡がれた言葉には、どんな武器より強い意志が込められていた。
「本は子どもたちの手に渡れば、“知”を伝える者となる」。
この言葉の裏には、ただの蔵を守るというレベルを超えた、“思想”としての覚悟があった。
ていは、自分の過ちを悔いていた。店を傾け、夫を失い、選択肢は限られていた。
だが彼女は、自分の価値観を売らなかった。本をただの資産として処分するのではなく、「知の火種」として町に残すことを選ぼうとした。
この瞬間、「てい」はただの本屋の娘ではなく、「日本橋の矜持」を背負う語り部となったのだ。
「店を売る=文化の終焉ではない」。
ていが守ろうとしたのは、建物や商品だけじゃない。読み書きできる子どもが増えること、知識で人生が変わる未来。彼女の視線は、10年後、100年後を見ていた。
蔦重の気づき:「書を以て世を耕す」精神の復活
その姿を陰から見ていた蔦重は、胸を撃たれる。
彼女の言葉の中に、かつての恩師・源内の言葉が蘇る。
「書を以て、世を耕すんだ」。
金のために本を売るでも、評判のために出版するでもない。
「世を耕す」ために本があるのだと、原点の理念が蔦重の胸に戻ってくる。
自分は、何のために耕書堂をやってきたのか? 何を日本橋に持っていこうとしているのか?
蔦重は、その時はじめて、店ではなく、“てい”自身を説得しなければ意味がないと気づく。
策では勝てない。演技でも、金でも、駆け引きでも。
心で勝つしかないと理解した。
そしてその「心」を持つにふさわしい自分になることが、“べらぼう”な挑戦であり、自分に課せられた「物語」だと気づく。
この第24話は、ていと蔦重が「言葉ではなく、魂で会話した」記念すべきエピソードだった。
本を“紙屑”と見るか、“希望”と見るか。
ていは、蔦重の未来を揺さぶった。そして蔦重は、その揺れの中から、自分の芯を再び掘り起こした。
覚悟は、言葉ではなく、眼差しに宿る。
ていの真っ直ぐな背中と、蔦重の覚醒。その交差点から、新しい物語が動き出す。
鶴屋の策略が発動!丸屋をめぐる表と裏の駆け引き
本屋を買う──それは土地を買うことでも、建物を得ることでもない。
信用と看板と、“人”を買うことだ。
蔦重と吉原勢がそれを“策”で得ようとした時、既に鶴屋は“信頼”で攻め入っていた。
鶴屋の誘導:上方書肆・柏原屋との契約とその裏の意図
第24話で一気に存在感を増したのが、地本問屋・鶴屋喜右衛門。
彼の手際は見事だった。
柏原屋──名のある上方の本屋を早々に連れてきて、ていと契約直前まで漕ぎつける。
この動きに対して、蔦重は“出遅れた”というより、完全に“後手”を踏んでいた。
鶴屋はただの取引相手ではない。
通油町という土地と、地元の矜持を守る「自治意識」の代弁者でもあった。
彼が言う。「蔦屋が来れば町の格が下がる」──それは単なる偏見ではなく、“この町を吉原の延長にしない”という意志だった。
つまりこの構図は、ただの買収劇ではない。
文化と文化のぶつかり合い。そしてその最前線に立たされたのが、女将・ていだった。
証文の嘘を暴く!ていの鋭い指摘に亀屋の若旦那しどろもどろ
そんな鶴屋の戦略に対抗するべく、蔦重たちは“名義貸し”で勝負に出る。
亀屋という茶問屋の名義を借りて、表向きは吉原と無関係な者が丸屋を買うように見せかける。
だが──この策は、ていのたった一言で崩壊する。
「この証文、裏に細工があるのでは?」
誰もが黙った。亀屋の若旦那はしどろもどろ。
あの瞬間、重ねてきた交渉も、紙のようにペラペラと破られた。
“てい”という存在は、ただの店主ではない。場を読む力、言葉の力、そして正義感を持つ人物として描かれていた。
交渉という名の舞台において、男たちは手段に頼り、女一人が本質を突いたのだ。
ていの眼差しは、誰よりも“本と町の未来”を見ていた。
そしてその視線は、蔦重の「策」より先に、“心の中の矛盾”を見抜いていた。
ここにあるのは、静かな知略戦。
だがこの回を観終えた後に残るのは、複雑な策よりも、ていの真っ直ぐな言葉と、それに負けた男たちの姿だった。
鶴屋、てい、柏原屋──この構図は、蔦重にとってまさに「文化の壁」。
そしてそれを超えるには、「べらぼうな策」よりも、「べらぼうな覚悟」が必要だということを、彼はまだ気づいていない。
蔦重陣営、再び日本橋へ突撃!親父たちの無鉄砲作戦とは
この回の中盤、空気が一変する。
あの吉原の連中が、真昼間の日本橋に現れるのだ。
風体も言動も、ここには似つかわしくない。
だが、その「似つかわしくなさ」こそが、蔦重たちの最後の勝負だった。
立札を抜いて突入!吉原勢、白昼の地元問屋会所に現る
日本橋・地本問屋の会所は、地元の本屋たちの牙城だ。
上方との流通、格式、秩序──すべてがここを軸に回っている。
そこに、吉原の町役とその仲間たちが堂々と乗り込む。
表の立札を抜いて突撃する姿は、もはや時代劇のワンシーン。
「べらぼう」というタイトルが、これほど似合う瞬間はなかった。
だがこの突入、ただの荒っぽい演出ではない。
蔦重たちが抱える“吉原という出自”そのものを、正面からぶつけた瞬間だった。
つまりこれは、「対話」のための乱入だった。
話し合いの席にも呼ばれないのなら、こちらから土足で入ってやる──。
その無茶苦茶さこそ、吉原勢の覚悟だった。
ていの冷静な講釈と地元民への影響力
この騒動の中、誰よりも冷静だったのが女将・てい。
騒ぎ立てる問屋衆、吠える吉原の面々。
その場を治めたのは、ていの一言だった。
「どんな本屋がこの町にふさわしいか、それは私たちが決めることではありません」
“私たち”──その主語に含まれていたのは、町民、読者、そして未来の子どもたちだった。
ていの言葉は、「町の主権は本を読む者にある」という宣言でもあった。
問屋衆が黙る。鶴屋も一歩退く。
蔦重が声を荒げるまでもなく、ていはすでに“地元の信用”を手にしていたのだ。
これは一種の“反転”だった。
攻め入ったはずの蔦重が、結果的にはていの言葉に救われる。
吉原者としての自分ではなく、「誰にとっての書店主がふさわしいか」を見極める声が、町の中に確かに存在していた。
この構図が胸を打つのは、“べらぼう”な者たちが、“まっとう”な想いを通そうとしたからだ。
それは暴力でも、買収でも、裏工作でもない。
「顔を見せ、声を届ける」という、もっとも原始的なやり方だった。
第24話のこの場面。
「やり方が乱暴すぎる」と言う人もいるだろう。
だが、守りたい信念がある者の行動は、時に秩序を壊す。
それでも壊す価値があると信じたとき、人は動く。
蔦重たちは、町を壊しにきたのではない。町の未来に触れにきたのだ。
田沼意次の息子・意知の仕掛けが裏で動く!抜荷取引の思惑
表で吉原勢が日本橋に風穴を開けていたその裏で、静かに、しかし確実に「政治の闇」が動いていた。
それが、田沼意次とその息子・意知が絡む「蝦夷地利権」と「琥珀抜荷」の構図だ。
第24話は、「商売の話」だけに見えて、その奥底では“国家レベルの取引”が渦を巻いていた。
東作の空振り報告と村上との接触、絵図の所在は?
上方から戻った東作は、思わぬ“手ぶら報告”をする。
蝦夷錦も絵図も見つからなかった──
だが、そこに落胆する田沼意知ではなかった。
むしろ東作が語った、“村上”という名の廻船問屋の存在に、意知の目が光る。
「抜荷の中継地が動いた。ならば、次はそこに糸を垂らせばよい」。
この場面、見逃しがちだが、田沼家の“情報ネットワーク”の精密さが垣間見えるシーンでもある。
地図もない。証拠もない。だが、商人の動きから利権の流れを読む。
しかも意知は、父・意次とは違って、表に出ず“影で動く”スタイルだ。
この差異が、後の大きな策略へと繋がっていく。
表で目立つ父、裏で仕掛ける息子──
この“田沼の二重奏”が、幕末の混沌を体現していた。
松前廣年を餌にした意知の大博打が始まる
松前藩主・道廣が頭を抱えるほど厄介な存在、それが遊び好きの放蕩息子・廣年だ。
その廣年を“餌”に使ったのが、田沼意知と誰袖の策だった。
女郎屋「大文字屋」で、誰袖が“偶然を装って”接近。
そして、琥珀の直取引の話を持ち出す。
「吉原で松前藩が琥珀を捌けば、双方が儲かる」。
金に目がない廣年はすぐ食いつき、道廣も「藩の財政難を救うなら…」と色気を見せる。
だがその裏では、すべて田沼意知が仕込んだ筋書きが展開していた。
実はこの時点で、抜け荷=違法取引を知る“証人”を意知は確保したも同然だった。
あとは、絵図か証文の一点が揃えば、松前藩を一網打尽にできる。
つまり、松前廣年は“生け贄”として選ばれたのだ。
しかもそれを仕掛けたのが、花魁・誰袖という“愛”を語れる策士であるという構図。
視聴者としては、「誰袖は本気で廣年を思っているのか、それとも利用しているだけか」と揺さぶられる。
この“揺れ”こそが、第24話の政治サイドの妙味であり、愛と策略の境界線だった。
表の世界では、蔦重とていが「本屋」を巡ってぶつかっていた。
だがその裏側では、「琥珀」という金と情報がうごめいていた。
このドラマが持つ“二重構造”の面白さが、ここで一気に炸裂した。
誰袖の手腕が炸裂!松前廣年を抜荷に導く巧みな説得
吉原には、金では買えないものがある。
それは「信じさせる力」だ。
色も嘘も承知の上で、それでも“この人は自分だけを見ている”と思わせる。
その極地にいたのが、花魁・誰袖(たがそで)。
そしてその力が、ついに“抜け荷”という政争を動かし始めた。
純粋すぎる廣年の葛藤と、誰袖の巧みな嘘と愛情演出
松前廣年は、このドラマの中でも際立って“純粋すぎる”キャラクターだ。
放蕩三昧。女郎遊び。だがその背後にあるのは、父に認められたいという子どものような承認欲求。
そんな彼の心を、誰袖はまるで古典落語のように、巧みにほぐしていく。
「貴方には、藩を背負う覚悟がある」
「大儲けではなく、町の子どもたちを救える琥珀です」
一見、無邪気なセリフに見えるが、その背後には意知の策が透けて見える。
誰袖は「愛」という名の衣を着た諜報員だ。
だが、それでも彼女の目に“本心”がにじんで見えるのはなぜだろう?
芝居なのに、真実が混じっているように感じる。
この“虚と実の溶け合い”が、彼女の最大の武器だった。
東作の口八丁が加わり、抜荷交渉がついに前進?
誰袖だけではなかった。
そこに加わるのが、“調子よすぎる策士”東作である。
彼の立ち位置は極めて絶妙だ。
政治の裏を読めるが、行動は軽い。信念はあるようで、利も忘れない。
そんな東作が廣年に向けて放つ言葉は、実にズルく、そして効果的だ。
「松前藩が今、江戸の経済の中にどう居場所をつくるか──その鍵は廣年様にございます」
このひと言が、廣年の目を変えた。
それは“父のため”から“藩の未来のため”へと動いた瞬間だった。
意知の意図、誰袖の演出、東作の仕上げ──すべてが「廣年を動かす」一点に向けて機能していた。
だがそれでも、視聴者の心に残るのは、最後の誰袖の表情。
廣年が店を出てからの、ほんの一瞬の憂い。
そこには、計算ではない“感情の染み”がにじんでいた。
“抜け荷交渉”という政治の道具にされた男と、道具にした女。
だけど、その間に生まれた一瞬の通い合いが、このドラマを「物語」へと引き上げている。
策が策を呼ぶ中で、たったひとつの嘘だけは、本当であってほしい。
そう願わせるのが、誰袖というキャラクターの“底知れなさ”である。
道廣と治済の危険な遊びと、田沼意次の芝居劇
政治と遊びが混ざるとき、それは「策略」ではなく「狂気」に変わる。
松前道廣と一橋治済が交わした“余興”は、笑えない危うさを孕んでいた。
この回、画面の空気が変わった瞬間──それは“庭の熊”が現れたときだった。
庭で熊と人間の見極めショー!?恐怖の道廣
「あれは熊か、人か?」
庭に放たれたのは、熊に扮した男。
道廣と治済がそれを“見極める”という形式の余興。
だがその実態は、「人を人として扱わない」権力者たちの狂宴だった。
笑っていない目、無感情に命を賭け事の材料にする態度──
あれは、権威が常識を超えてしまった人間の顔だった。
なぜこのシーンが描かれたのか?
それは、“藩主たちの精神状態”を視覚的に、強烈に提示するためだ。
政治の舞台裏にあるのは、理性ではなく衝動。
この熊の演出は、まさにその象徴だった。
廣年の「吉原通い」疑惑で詰問される悲劇
そんな狂気の只中に放り込まれたのが、廣年だった。
松前家の内情に疎い彼は、吉原の遊びの余韻も冷めぬうちに、道廣に詰問される。
「吉原で湯水のように金を使っているそうだな」
問い詰める声に、廣年の表情が一瞬で曇る。
女郎・誰袖の名前を挙げかけ、慌てて言葉を飲み込む。
彼は何に怯えているのか。
それは、“父の怒り”でも、“失脚”でもない。
信じた女を守れない自分の無力さ──それこそが、彼の恐怖の正体だった。
道廣の怒声の中で、彼はまるで“庭の熊”のように扱われていた。
権力の中において、若さや優しさは何の役にも立たない。
それでも廣年は、女をかばおうとした。
この小さな“勇気”が、彼をただの放蕩息子ではなく、“物語の鍵”に変えた。
一方、そんな芝居を全て見透かしている男がいた。
田沼意次。
庭での熊の余興も、廣年の破綻も、彼にとっては“計画通り”の段取りだった。
すべてを見て、笑いもせず、語りもせず。
ただ黙って“演者たち”の動きを観察するその姿は、まさに「舞台裏の演出家」。
この第24話で、物語は2つの顔を持ち始めた。
- 吉原と日本橋、本屋を巡る「表の商戦」
- 蝦夷地、琥珀、藩と幕府の利権を巡る「裏の政戦」
そして道廣と治済の狂気を前にして、視聴者は「善悪」という単純な軸では測れない人間の深淵を突きつけられる。
この世界では、狂っている者が勝つのか?
それとも、狂気に抗う「小さな誠実」が最後に灯をともすのか──。
女将・ていという人物像と、蔦重の恋の芽生え
「賢くあろうとする人間には、孤独がつきまとう」
第24話で描かれた女将・ていの姿には、そんな静かな痛みが滲んでいた。
彼女は本屋の娘として、蔵を背負い、文化を守り、そして“言葉”の力を誰よりも信じていた。
本と知の守り手としての誇りと、ていの心の痛み
ていが口にする言葉には、どれも“重さ”があった。
「本はただの紙束ではない。誰かの救いになり得る」
そう語る彼女の横顔に、蔵に眠る数千冊の本が重なった。
だが、それは信念と同時に、“負い目”でもあった。
父の死、店の経営の傾き──ていは誰にも責められない代わりに、自分をずっと責めていた。
「本が好きだったから、夫を死なせてしまったのかもしれない」
この独白には、視聴者の多くが胸を締めつけられたに違いない。
それは、正しいことを信じて進んだ者にしか届かない、静かな後悔だった。
蔵を売るか、守るか。
それは経済の話ではなく、「自分がこれまで何を信じてきたか」を問う、魂の決断だった。
蔦重が惹かれる理由──女郎とは違う「松ぼっくり」な女
蔦重がていに心を寄せる理由は、誰袖や吉原の女たちに抱く情とはまったく異なる。
そこには、色や艶ではなく、“知”と“矜持”への敬意がある。
ていは女将でありながら、町の「知の番人」でもあった。
本の価値を知り、言葉の責任を知り、それでいて他人を傷つけない距離を保てる。
そんな彼女を見たとき、蔦重の中で何かがほどけたのだ。
蔦重が語った「松ぼっくり」──これは彼なりの“恋のメタファー”だった。
「派手ではない。でも芯があって、どこか香ばしい」
ていは、その言葉のとおり、強く、静かに、そして深く心に残る存在だった。
だからこそ、蔦重は「買う」ではなく、「守りたい」と思った。
彼にとって“蔵”とは、商売の拠点ではなく、ていの心そのものに他ならなかったのだ。
この回での二人の会話には、まだ“恋”という言葉は出てこない。
だが、目の奥に宿る光、呼吸の間合い、言葉の余白──
そうした非言語の表現が、むしろ強く“惹かれ合い”を示していた。
誰かを守りたいと思うこと。
誰かの信念を壊したくないと願うこと。
それはすでに、恋の始まりなのだ。
蔦重にとって、ていという存在は「本屋の女将」では終わらない。
それは、自分の人生観そのものを照らし返す“もう一人の自分”かもしれない。
だからこそ、恋は“ときめき”ではなく、“気づき”から始まるのだ。
「心が近づく」ってどういうこと?距離を測りかねる人たちの“もどかしさ”
この第24話、商売、政争、恋愛と盛りだくさんだったけど、ふと気づくとどの登場人物も「距離感」に迷ってた。
ていと蔦重、誰袖と廣年、意次と意知、道廣と治済──どこかで心がすれ違いそうで、でもギリギリ届きそうな距離にいる。
この“縮まりそうで縮まらない感”が、見てるこっちの感情をめちゃくちゃ揺さぶってくる。
蔦重の“手の届かない”優しさ
蔦重って基本、策士だし調子のいい男なんだけど、ていに向ける視線だけは別格だった。
ただ、あの人、「近づき方」がヘタ。
優しさも、気遣いも、照れ隠しで全部“策”に見えちゃう。
ていはていで、それが本心か見えないから突き放す。
ふたりとも、自分の感情より「相手にどう見えるか」を気にしてる。
で、そのせいで一歩踏み込めないまま、お互いが“いい人”で止まっちゃう。
この感じ、すごく現代的。
本気で誰かを想ったとき、逆に下手になる──そんな不器用な感情を、蔦重は見せてくれた。
誰袖と廣年――“愛してる”とは言わない関係
一方で誰袖と廣年は、言葉にしない関係。
廣年はたぶん、本気で誰袖に惹かれてる。
でもそれを自覚しないように、遊びの範囲に留めてる。
誰袖も、廣年を利用しながら、完全には突き放せない。
「これが仕事」って線引きしてるけど、心のどこかで揺れてる。
言葉じゃなく、表情とか、間とか、タイミングでしか気持ちを伝えられないふたり。
その曖昧さが、かえってリアルだった。
「好き」と言わない恋愛のほうが、余白があって切ない。
この話数、誰かと誰かが「ちゃんと通じ合った」瞬間は、実はほとんどない。
でも“ちゃんと伝えたい”という気持ちだけは、どの人物もむき出しだった。
それが見てて痛いし、愛おしい。
「距離感のある会話」が多かったこの回、だからこそラストのちょっとした眼差しの変化が沁みた。
心の距離は、近づこうとすることそのものが物語になる。
【まとめ】べらぼう第24話のネタバレと感想から見えた、蔦重とていの心の距離と策謀の転換点
蔦重は、もともと策を使って生きてきた。
言葉の才、商才、人心掌握──すべてを武器にして、この江戸という都市を泳ぎ続けてきた。
だが、第24話で彼は「策」では動かせないものに直面した。
ていの覚悟と、揺るがない意志。
恋か策か、それとも両方か──蔦重の選択は?
蔦重がていに惹かれているのは、もう明らかだ。
けれどその感情が「恋」なのか、「共鳴」なのか、彼自身が分かっていない。
だからこそ、行動が鈍る。
好きになった女の想いを利用してまで、蔵を手に入れる気にはなれない。
一方で、何もしなければ町も、信念も、想いも手に入らない。
この“はざま”で揺れる蔦重は、これまでになく人間くさかった。
恋も策も、どちらかを選ぶんじゃない。どちらにも誠実でいようとする。
それが今の彼の選択だ。
それが通じるかどうかは、これからの物語が証明してくれる。
ていの覚悟が物語の軸を変えた回として注目
そして今回の主役は、間違いなくていだった。
彼女は“語られない声”を、ひとつずつ代弁した。
町の本屋の誇り、父の遺志、未来を担う子どもたちへのまなざし。
そのどれもが、蔦重や田沼のような男たちの論理とは違う次元で動いていた。
ていの一言で、柏原屋との契約が揺れ、亀屋の策が崩れた。
たった一人の女が、町全体の“温度”を変えてしまった。
それは、力ではない。権威でもない。
言葉と姿勢と、生き方が生む“信頼”の力だった。
この回で、物語は大きく軸足を変えた。
- 男たちの戦略ゲームから、
- “人が人をどう思うか”という、より感情的で複雑な戦いへ。
その変化を生んだのは、誰でもない、ていの「たたずまい」だった。
第24話は、蔵の行方を巡る話のようでいて、実は「信じたい相手を信じられるか」という、信頼と覚悟のドラマだった。
そしてその覚悟が、恋を動かし、町を揺らし、国家の利権までも侵食していく。
静かな声が、物語の心臓を撃ち抜いた。
- 丸屋の買収を巡り、蔦重と鶴屋が激突
- ていの信念が策を覆し、物語の鍵に
- 田沼意知と誰袖による抜荷の裏交渉が進行
- 廣年が愛と野心の間で揺れる葛藤
- 権力者・道廣の狂気と廣年の孤独が交差
- 蔦重とていの心の距離が少しずつ近づく
- “策”よりも“言葉”が人を動かした回
- 「心の距離」がテーマに浮かび上がる構成
- 商い・政治・恋愛が交錯する濃密な一話
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