Netflixでついに配信が始まった『今際の国のアリス シーズン3』。待ちわびたファンが最も知りたいのは、「第1話で何が起きるのか?」ではなく、「何が変わってしまったのか?」だ。
この第1話は、前作のラストで帰還したはずの“現実”が、記憶喪失という檻に閉じ込められた世界であることを静かに突きつける。そして、あのジョーカーのカードが新たな“死のゲーム”の招待状となる。
この記事では、『今際の国のアリス3』第1話のネタバレを含めつつ、物語に仕込まれた伏線、そして“再び命を賭ける理由”を深掘りする。
- アリスが再び今際の国に戻る理由と心理構造
- ジョーカーカードが持つ意味と選択の象徴性
- 記憶の空白が人間関係に与える不安と再構築の可能性
ジョーカーのカードが示すのは「死後の世界」ではなく“再選択の地”だった
ジョーカー。それは、トランプにおいて唯一「何者にもなれる」カード。
そして『今際の国のアリス3』第1話で明かされたのは、このカードが“ただの切り札”ではなく、「世界の狭間を越える鍵」であるということだった。
だが鍵が開けたその先にあったのは、天国でも地獄でもない。記憶を剥がされたまま、再び選択を迫られる者たちの、もう一つの試練だった。
リュウジの臨死ゲームが映す新世界の入り口
物語の“開幕の扉”を開けたのは、賀来賢人演じる車椅子の助教授・リュウジ。
彼が導かれるように参加するのは、紹介制の“臨死体験セミナー”。
そこに用意されていたのは、神秘や癒しではなく、命を賭けたジョーカー・ババ抜きだった。
参加者8人。カードの中にはジョーカーが1枚。
最後までジョーカーを持っていた者のみが勝利し、それ以外は電気椅子で処刑。
命を張ったこのゲーム自体が、“今際の国”への入国審査だったのだ。
ここで重要なのは、「死の瞬間に人は“どこ”へ行くのか?」という問いかけ。
リュウジはそこに“科学”で触れようとした男であり、ジョーカーという存在が、死と生の間にある「観測者の象徴」として描かれている。
バンダという謎の男(磯村勇斗)がリュウジに語ったのは、「カードを持てば行ける」ではなく、「選んだ者だけが行ける」というメッセージだった。
つまりジョーカーとは、“選択を迫る存在”であり、再試験の宣告者なのだ。
「夢を見ていた」——記憶を剥がされたアリスとウサギの現在
一方で、現実に“戻った”はずのアリスとウサギ。
彼らは渋谷の隕石事故の生還者として生きているが、その記憶には深い霧がかかっている。
今際の国での死闘は「夢だった」と処理され、記憶は封印されたままだ。
この“記憶の封印”という状態が実に不気味だ。
なぜなら、それは「選ばされたことを忘れさせられた」者たちという構造に繋がる。
それでも、ウサギは断片的に記憶を取り戻し、アリスに「会ったことがある」と語る。
記憶の破片が疼き出す。
偶然訪れたリゾート地“シーサイドパラダイス”で、ウサギは失われた記憶の“感覚”を取り戻し、過去と現在が再接続される。
その後の彼女の失踪、そして意識不明の状態で見つかるという展開は、もはやただの事故ではない。
これは“記憶に導かれた者”が、再び試練の扉を開けた証だった。
注目すべきは、アリスが警察で監視映像を確認し、ウサギがリュウジと接触していたことを知る場面だ。
この交点で、物語の“因果”が立ち上がる。
そして、アリスがバンダから受け取るジョーカーのカード。
それはただのゲームの参加証ではなく、“記憶と命をもう一度賭ける意思の象徴”なのだ。
この瞬間、視聴者は思い知る。
今際の国とは、“記憶を失った者たちの再選択の地”であると。
そこでは、過去を思い出せるかではなく、「思い出す覚悟があるか」が問われる。
ウサギが語った「父がいるなら悪夢でいい」の本当の意味
『今際の国のアリス3』第1話の中で、最も静かで、最も刺さる台詞があった。
それはウサギが残した言葉──「父がいるなら悪夢の中にいたい」だ。
この一文にこそ、物語全体が抱える“記憶と選択”という二重螺旋のテーマが凝縮されている。
記憶を封じられた者たちの“感情の亡霊”
シーズン1〜2を通じて、ウサギの物語は「喪失」に支配されていた。
父の自死。なぜ父は命を絶ったのかという問いと、その痛みが、彼女の原動力であり傷だった。
だが第3シーズンでは、その記憶は封じられたままだ。
それでも、彼女の感情の奥には、“触れられない何か”が今も疼いていた。
記憶という“理性のカーテン”が下ろされていても、感情だけが亡霊のようにさまよい続ける。
そして彼女は、その亡霊に導かれるように、リゾートホテルへ足を運び、記憶の断片に触れてしまう。
このシーンで描かれているのは、実は“記憶の再生”ではなく、“感情の残響”が記憶を引き戻す瞬間だ。
夢だったはずの今際の国が、まるで前世の記憶のように、じわじわと蘇る。
「これは夢だった」と言い聞かせてきた世界が、むしろ“今ここ”よりもリアルだったのではないか?
そう気づいたとき、人は“悪夢”の中に戻りたくなる。
ウサギの失踪と、リュウジの研究室に残された映像の真意
ウサギはその後、突然失踪し、意識不明のまま発見される。
そして警察が辿った先には、あのリュウジの姿。
大学教授としての顔の裏に、“今際の国”の構造を解明しようとする狂気の観察者がいた。
彼の研究室に残されていたのは、ウサギへのインタビュー映像。
そこには、彼女が記憶の深層に沈みながら語る、ある種の告白が記録されていた。
「父がいるなら、悪夢の中にいたい」
この言葉の背景には、次のような構造がある。
- 現実の世界は、ウサギにとって“父がいない世界”=喪失の世界
- 今際の国は、喪失を越えて戦った記憶の世界=再生と選択の場
だからこそウサギにとっての“幸せ”は、「現実」ではなく「悪夢」の中にあるというパラドクスが生まれる。
これは、記憶を失った世界が必ずしも“救済”ではないという、鋭い問いでもある。
「忘れることで生きやすくなる」わけではない。
むしろ、人間は、苦しみの中でも“つながっていたい人”がいるなら、その痛みすら選ぶのだ。
リュウジの視点から見れば、これは“人間の純粋な再選択”の証拠であり、科学的好奇心の対象かもしれない。
だが、視聴者である我々には、それがあまりにも“生身の選択”として迫ってくる。
つまりこのセクションは、「記憶を奪われた者たちが、再び“自分で選ぶ”場所へ向かう理由」を語っている。
ウサギの言葉はその象徴であり、彼女の“悪夢”は、決して過去の亡霊ではない。
むしろ、自分の意志で向き合いたい“現在の選択肢”として、再び彼女をゲームの世界へと連れ戻したのだ。
なぜ彼らは“もう一度”ゲームに挑むのか?——再帰する罪と選択
普通の物語なら、死のゲームから“生還”した者は、もう挑まない。
だが『今際の国のアリス3』の主人公たちは、なぜか再び“命の賭け場”に戻っていく。
それは、ただ記憶を失ったからではない。
彼らが戻る理由は、「もう一度選び直すべきもの」が心の奥底に眠っていたからだ。
カウンセリングシーンに潜む、心理学的“再演”のメタファー
第1話で印象的なのは、アリスが心理学を学びながら、カウンセラーとしてクライアントと向き合っている場面だ。
彼の前に現れたのは、かつて“今際の国”で共に死線をくぐり抜けた仲間・アン(三吉彩花)。
アンは記憶を失いながらも、「あなたに会ったことがある」と言い残す。
ここで描かれているのは、“記憶の回復”ではなく、“心の再演”だ。
心理学には「再演(re-enactment)」という概念がある。
人は過去に経験したトラウマや葛藤を、無意識に繰り返す傾向がある。
まるで、「あのとき選べなかった何か」を、今度こそ選ぶために。
アリスが見せる沈黙もまた、“過去を取り戻したい”という意識ではなく、“過去と向き合いたい”という無意識の選択に見える。
これはただの記憶喪失の物語ではない。
人間の深層心理が、「再び同じ舞台に立つことで、別の選択肢を試そうとする」物語なのだ。
「救うには今際の国へ行くしかない」アンの選択の重さ
やがて、ウサギが意識不明のまま発見される。
アリスはその理由を探る中で、アンと再会し、衝撃的な提案を受ける。
「救うには、今際の国へ行くしかない」
その言葉に、アリスは迷うことなく応じる。
この時点で、彼はすでに“記憶”ではなく、“愛と責任”で行動している。
アンが差し出すのは、「死後の世界へ行ける薬」。
アリスは、それを自ら注射する。
この選択は、彼が「現実」に絶望しているのではなく、“今際の国”でしかできないことがあると理解しているからに他ならない。
そして注射のあと、昏睡状態となり、目を覚ますと再び「今際の国」にいた。
だが、そこにはアンも、ウサギもいない。
あるのは、指示書と氷川神社の案内。
これはまさに、“自分自身の選択で、死の試練へと足を踏み入れた”物語の再開だった。
アリスの行動には、前作までにはなかった“能動性”がある。
それは、外的状況に巻き込まれていた過去と異なり、今回は「自ら選び、自ら再び命を懸ける」強さに変わっている。
この変化が、シーズン3の核心テーマにつながっていく。
「本当に選びたかったものは何か?」
それが、今この瞬間にも、彼らの中で試されている。
そして視聴者にも問われる。
あなたがもし、大切な人を救える“もう一度のチャンス”があるとしたら、過去を思い出すことなく飛び込めるか?
『今際の国のアリス3』の恐ろしさは、ゲームの残虐さではない。
“過去を思い出す勇気”と“再び傷つく覚悟”を問われることだ。
1話のラストで始まる“神の試練”──舞台は氷川神社、神は沈黙する
昏睡状態のアリスが目を覚ますと、そこは“今際の国”。
だが、前シーズンまでの世界とは明らかに“質”が違っている。
ウサギもアンもいない。
ただ一人、指示書を手にして向かった先は、氷川神社という異様なまでに静かな舞台だった。
ここから始まるのは、もはや“娯楽としてのゲーム”ではない。
魂の重さが試される、“神の沈黙”の中でのサバイバルである。
神社=「裁きの場」への招待状、そして再び始まる孤独なゲーム
氷川神社は、東京・大宮に実在する由緒正しき神社。
だが、『今際の国のアリス3』におけるそれは、信仰の象徴ではなく、「裁かれる場」として立ち現れる。
“神は何も語らない”。それが、観る者に突きつけられる恐怖だ。
第1話のラスト、ここで始まるゲームは、ただの頭脳戦でも肉体戦でもない。
「運」と「判断」と「罪」が交錯する、精密に設計された“運命の装置”である。
参加者は数十名。アリスの他に、テツ(大倉孝二)、カズヤ(池内博之)、サチコ(須藤理彩)らが集う。
そして皆が、かつて今際の国で“生き延びた”記憶をどこかに持っている。
この配置だけで、すでに“偶然”ではない。
すべてが「何かに導かれたように、再び集まってきた」感覚がある。
そして、神社という神聖な舞台で、“人が人を裁く”ゲームが始まることが、皮肉として鮮烈だ。
神がいるはずの場所で、神はただ沈黙し、ルールだけが絶対になる。
それはまるで、“神の不在”を前提とした、倫理の実験場のようだった。
なぜ第1ステージが“おみくじ”なのか?偶然に見せかけた必然の罠
最初のゲームは「おみくじ」──という一見“運任せ”のテーマ。
参加者は一人ずつおみくじを引き、そこに書かれた問いに数値で答える。
正解と答えのズレに応じて、その誤差の本数だけ火矢が降り注ぐ。
地球の人口、象の記憶時間、最高気温など、問われるのは“知識”と“勘”の狭間。
だが、本当に問われているのは「自分の感覚を信じ切れるか」という恐ろしい自己判断力だ。
アリスは、最後の問題で「地球の総人口」を1億人ズレて答え、1億本の火矢に囲まれるという演出は、もはや宗教的とも言える。
ここで象徴的なのが、最初にテツが引いた「大吉」おみくじに書かれていた「北西に道あり」という文言。
アリスはそこから、神社の地下に“避難所”があることを読み取り、仲間と共に火矢を逃れてゲームをクリアする。
つまりこのゲームは、「偶然に見せかけた必然の罠」だった。
運も、知識も、そして仲間との信頼も、すべてを同時に試す。
このステージが神社で行われたのは偶然ではない。
神の名のもとに、人は自分自身で“最適解”を探すしかない。
しかも、参加者の多くは“かつての生還者”たち。
記憶の奥底で、すでにこの「死の感触」を知っている者たちだ。
その上でなお、彼らはまた選ばれ、また試されている。
これは「新しいゲーム」ではなく、「再選択の儀式」なのだ。
そう思い至ったとき、神の沈黙が、いちばん重くのしかかってくる。
神は何も語らない。だが、選び直すのはいつだって、人間自身なのだ。
「記憶が抜けた人間関係」が一番こわくて、一番切ない
この物語の怖さは、ゲームの残酷さでも、死の演出でもない。
“よく知っているはずの相手”と再会したとき、自分の中にあるはずの記憶がスコーンと抜け落ちていて、それでも何かが心をざわつかせてくる——そんな瞬間のほうが、よっぽど不気味で、やるせない。
ウサギがアリスに向かって「あなたに会ったことがある」とつぶやいたあの場面。それは、記憶よりも先に感情が動いてしまった瞬間だった。
名前を知ってる。でも、心が通じない。この距離感がいちばん苦しい
アリスとウサギの関係性は、シーズン1〜2を観てきた視聴者にとっては“知っている二人”だ。
でも、本人たちは忘れてしまっている。名前も、出来事も、交わした言葉も。
だけど身体のどこかに、気配だけが残ってる。言葉にならない温度とか、目が合ったときの呼吸とか、そういう曖昧なものばかり。
これがリアルで、地味に刺さる。
久しぶりに再会した友人と話が噛み合わなくなっているときの感じに近い。話題もズレるし、笑うタイミングもちょっと違う。でも「この人と仲良かったはず」っていう前提だけが、やたらしつこく残ってる。
だからこそ、距離を詰められないまま話し続けるのがいちばんしんどい。
記憶を失うというのは、相手を忘れることじゃない。自分と相手の“関係の履歴”が消えてしまうことなんだ。
人は、もう一度つながれるのか? 記憶のないまま、それでも
ウサギは、アリスを見て何かを感じていた。でも言葉にはできない。
アンも同じ。記憶のかけらだけを頼りに、アリスのもとを訪ねてきた。
そこにあるのは「知ってるはずなのに、思い出せない」という感情の不協和音。
でも、それでも近づこうとしてしまうのはなぜか?
それは、“思い出すため”じゃない。
もう一度、関係を始めるためだ。
記憶が戻らなくても、もう一度この人と関係を作り直せるかもしれない。そんな無謀で、でもどこか必死な希望がにじんでた。
思い出を辿るのではなく、今この瞬間に“関係を再起動する”という選択。
それって、過去を大事にしてた人間ほど苦しい。でも、一番誠実な選び方でもある。
『今際の国のアリス3』が描くのは、「忘れたから終わり」じゃない世界だ。
むしろ、忘れてしまったからこそ——もう一度、選び直せる。
「今際の国のアリス3」第1話ネタバレを振り返りながら“記憶”と“選択”を読み解くまとめ
『今際の国のアリス3』の第1話は、派手なアクションや奇抜なゲームではなく、「なぜまたこの地に戻ってきたのか?」という、深い問いを視聴者に突きつけてきた。
あのジョーカーのカードが導いたのは、死後の世界ではない。
記憶を奪われ、再び選ばされる“第二の現実”だった。
“ゲーム”ではなく“記憶”が彼らの敵になる
この第1話で最も象徴的なのは、「記憶が戻らないままに、ゲームが始まっている」という構造だ。
アリスもウサギも、そして他のプレイヤーたちも、かつて命を懸けて戦ったあの世界の記憶を失っている。
だが、感情だけが、体のどこかに残っている。
リゾート地で立ち尽くすウサギ。
カウンセリングで言葉に詰まるアン。
無意識に死のゲームに魅かれていくリュウジ。
これらはすべて、“忘れたはずの記憶に心が引き寄せられている”証だ。
つまり、本当の敵はゲームではない。
自分自身の記憶、自分自身の過去の決断、それこそが今回の敵なのだ。
この構造はまるで、視聴者の心にも問いかけてくる。
「あなたが忘れたいもの、本当にそれは“終わった”のか?」
「もう一度、違う選択をしたいと願ったことはないか?」
“記憶のなかの亡霊”との対話こそが、今作の本質的なテーマだと感じた。
ジョーカーが意味するのは混沌ではなく“起動装置”
トランプにおけるジョーカーは、しばしば「混沌」「例外」「破壊の象徴」として扱われる。
だが『今際の国のアリス3』においては、それはむしろ“再起動の鍵”である。
リュウジが勝ち取ったジョーカーカード。
アリスが渡されたそのカード。
それは、誰かに与えられた「運命」ではなく、自ら選ぶ「再挑戦」の意思表示なのだ。
このカードを持つ者は、単なるプレイヤーではない。
自分の人生を、自分で“もう一度書き換えたい”と願った者だ。
そしてそれこそが、アリスが再び“今際の国”に足を踏み入れた理由であり、シーズン3の物語を牽引する燃料である。
これはゲームではない。
生きることの意味をもう一度問い直すための、“魂の再起動”なのだ。
だからこそ、視聴者は第1話を観終えたあと、こう思わずにいられない。
「自分なら、再びあのカードを選べるか?」
それが、ジョーカーが投げかけてくる最も静かで、最も残酷な問いなのかもしれない。
- 第1話は記憶を失ったアリスが再び“今際の国”へ
- ジョーカーのカードは再選択を促す“鍵”だった
- リュウジの臨死ゲームが今際の国への導線となる
- ウサギは過去の記憶の“感覚”に導かれ失踪
- 「父がいるなら悪夢でいい」という台詞の重み
- 記憶よりも“感情”が人を再び引き寄せていく構造
- 第1ゲーム「おみくじ」は信頼と判断を試す罠
- 神社での裁きの場は“神の沈黙”が支配する
- 人間関係の空白こそが最も残酷な問いになる
- 記憶をなくしても、再び関係を選び直せるという希望
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