アリスが再び目覚めた“今際の国”は、前とは違う顔をしていた。
第2話で始まる「ゾンビ狩り」のゲームは、生き残るための知略ではなく、信頼と裏切りの境界線をあぶり出す構造になっている。
この記事では、『今際の国のアリス3』第2話のネタバレを含め、ゾンビゲームの仕掛け、参加者の心理、そして「なぜ再び人は疑い合うのか」を深掘りしていく。
- 第2話「ゾンビ狩り」のルールと心理構造
- 信頼・疑念・記憶が交錯する人間関係の罠
- 現実社会にも通じる“評価とレッテル”の怖さ
第2ゲーム「ゾンビ狩り」は信頼を試す装置だった
このゲームの恐ろしさは、“死ぬこと”じゃない。
自分の信じた誰かが、自分を殺す側だったと気づく——その瞬間にある。
『今際の国のアリス3』第2話で描かれる「ゾンビ狩り」は、生き残りの知略ゲームではない。信頼を武器にするか、罠にするか、それを見極める装置だ。
ゲームルールに潜む“予測不能な正義”の構図
プレイヤー全員に7枚のトランプカード。1対1で20ターンのバトル。
手札を使い切った者は脱落。勝てば相手のカードを1枚奪える。
これだけ聞くと、単純な戦略ゲームに見える。
だが、本当の核はそこではない。
このゲームには3種類の“特別なカード”が紛れている。
- ゾンビカード:相手をゾンビに変える
- ワクチンカード:ゾンビを人間に戻す
- ショットカード:ゾンビを殺す
問題は、このカードが最初から偏って配られていることだ。
つまり、誰が最初からゾンビなのか? 誰が人間なのか? 誰が潜伏しているのか?
——誰にもわからない。
ここに、このゲームの本質がある。
この「ゾンビ狩り」は、“人を信じてはいけない”ゲームではない。
“人を信じた上で、自分の判断で撃て”という矛盾の上に成り立っている。
信じること=安全、ではなく。
信じても殺されるかもしれないし、疑っても救えるかもしれない。
この“正義の曖昧さ”が、ゾンビゲームをただのサバイバルではなく、心理実験としての地獄にしている。
人間とゾンビの境界は“行動”ではなく“カード”で決まる
ゾンビゲームでもう一つ怖いのは、「ゾンビかどうか」は行動じゃ判断できないという点。
誰が誰を疑っているか、誰が誰に近づいたか、どんな目をしていたか。
それらはすべて、“演技”や“戦略”で簡単に偽装できる。
つまり、ゾンビかどうかは“本質”じゃなく、“配られた役割”でしかない。
これがエグい。
本人に悪意がなくても、最初からゾンビカードを持っていたら“加害者”になってしまう。
そしてそれを知らない誰かが、信じて、裏切られる。
この構図、現実社会にもめちゃくちゃ似ている。
職場や家庭で「悪意がないのに、結果的に傷つけてしまう関係」なんて山ほどある。
ゾンビカードは、そうした“無自覚な加害者”を象徴してる。
さらに、信頼し合っていたメンバーの中に、最初からゾンビカードを持っていた者がいる。
でも本人にはその意図はない。
あるのは、ただ「自分がそうだった」という“事実”だけ。
このとき、人はどこまで相手を責められる?
自分だったら信じていられるか?
この問いが、ゲームの最中に視聴者の胸にもぶっ刺さってくる。
「ゾンビかどうかはカードで決まる」
でも、人として信じていいかどうかは、自分で決めなきゃいけない。
その“判断を委ねられる苦しさ”が、ゾンビ狩りの一番深い罠だった。
レイの“信頼バリケード”戦術に潜むリーダーの孤独
集団戦の中で最も難しいのは、敵を倒すことじゃない。
味方を信じるふりをしながら、味方に殺されないように立ち回ることだ。
第2話で登場したレイ(玉城ティナ)は、その地獄を誰よりも理解しているキャラだった。
彼女が打ち出したのは、“信頼バリケード”という戦術。
プレイヤーたちをできるだけ一つの場所に集め、ゾンビを見張り、協力しながら情報を可視化する。
一見すると合理的、戦略的、そして“善意に基づく提案”のように見える。
だが、その根底にあるのは、「信じたほうが動きやすい」という合理的な諦めだった。
ゾンビを狩る側と疑われる側、二重スパイの心理戦
レイが設計したのは、戦術というよりも“システム”だ。
誰かが暴走しないように、誰かが逃げないように。
それは、信頼によって築かれた秩序ではない。
疑念によって成立した“脆い平和”だった。
このゲームには、明確な「裏切り者」が存在しない。
ゾンビカードを持っていたからといって、裏切ったわけじゃない。
でも、人はすぐに疑う。
ちょっとした挙動、沈黙、視線の揺れ……。
不安はどんどん“推測の物語”を作り始める。
レイはそれを理解していた。
だからこそ、「人間は、信じたいから信じるのではなく、疑うと自滅するから信じる」という現実的選択をさせた。
その結果、プレイヤーたちは一時的に安定する。
だが、その秩序は、「一人でも嘘をつけば全てが瓦解する」という前提の上に成り立っている。
信頼のように見えて、実は“緊張”の上で揺れている。
仲間を信じる戦略と、裏切りを恐れる本能のせめぎ合い
レイのバリケード戦略には、もう一つ大きな意味がある。
それは、「リーダーが孤独であることを隠すためのシステム」でもあるということ。
誰かに判断を任せるとき、人は責任を押しつける。
でも、誰にも判断させずに、“仕組みで動かす”とき、リーダーはひとりで全部を背負うことになる。
レイは、リーダーという役割を表面的には自然にこなしている。
だが、彼女が一番怯えていたのは、信じた人間に裏切られることじゃない。
信じた人間が、自分の判断で人を傷つける瞬間を見なければならないことだった。
ゾンビゲームでは、「信じていたのに…」という悲しみは起きない。
なぜなら最初から、誰も完全には信じていないから。
それでも、誰かと共に動かなければならない。
だからリーダーは、誰よりも早く諦める。
全員を守れないという現実も、誰かが犠牲になるという結末も。
諦めたうえで、それでも最適解を模索する。
レイの戦術にある冷静さは、その“孤独な計算”から生まれていた。
それは、命を奪わないように見えて、信頼の重さで人をじわじわと追い詰めていく残酷な仕組みでもあった。
このゲームに、勝者なんていない。
あるのは、「信じなかったことを後悔する者」と、「信じて傷ついた者」のどちらかだけ。
なぜ今、このタイミングで“ゾンビ”なのか?──記憶なき人間関係の隠喩
“ゾンビ”はただの敵役じゃない。
『今際の国のアリス3』で描かれるゾンビは、人の形をした「わからなさ」の象徴だ。
そしてそれは今作のメインテーマでもある、“記憶の剥奪”と“再び人を信じられるか”という問いと深くリンクしている。
ゾンビ=関係が死んだ人間、でも身体はそこにいる
このゲームの中で、ゾンビにされた者たちは突如として“敵”になる。
でもそれは、行動や意思で選んだ結果じゃない。
配られたカードが変わっただけで、人格は同じままなのだ。
これはまさに、現実の人間関係でも起こり得る構造。
以前は仲が良かったのに、立場が変わった瞬間に“敵”のように扱われる。
信頼していた相手が、気づけば別の輪にいて、自分を排除しようとしてくる。
でも本人には、悪気も敵意もない。状況がそうさせただけ。
ゾンビという存在は、まさにその「関係が死んだ人間」の象徴だ。
記憶を失ったアリスたちにとって、自分がかつて誰を信じていたか、誰とどんな関係だったかはわからない。
だからこそ、今目の前にいる“ゾンビ”が、かつては味方だったかもしれないという哀しみが生まれる。
そして同時に、「味方のフリをしている誰かが、すでにゾンビかもしれない」という疑念も育つ。
そこには、「関係を再構築できる可能性」と「すでに関係が壊れていたという絶望」が同居している。
過去を知らない人間同士が“協力”できるかという実験
今際の国に再び呼び戻されたプレイヤーたちは、かつて生還者だった。
でも、その記憶は封じられている。
つまり、彼らは「関係性の履歴」が白紙の状態で、このゲームに挑んでいる。
これは、物語の中で仕掛けられたもうひとつの実験だ。
「過去を知らない人間同士は、どこまで信頼を構築できるのか?」
過去がないからこそ、純粋な判断ができるという可能性もある。
一方で、過去がないからこそ、どんな小さな“違和感”も拡大してしまう。
たとえば、ゾンビカードを渡された者は、行動を変えずにいればバレない。
でもその“変わらなさ”こそが、逆に「不自然」に見える。
過去の記憶という文脈がない今、あらゆる行動が「疑いの材料」に変わる。
ゾンビが象徴するのは、「意識ではなく、文脈の欠如」で敵と味方が切り替わってしまう現象。
つまり、このゲームの最大の敵は“他者”ではなく、“意味のわからなさ”なのだ。
記憶を失った彼らが再びゲームに戻されたのは、再び“信じる”という選択をするためなのかもしれない。
過去に裏切られた記憶がない今、もう一度、信じることは可能か?
それとも、信じるという行為そのものが、やはり愚かな幻想なのか?
ゾンビ狩りは、ただの生き残り戦ではなかった。
それは、“関係の死”をどう乗り越えるかを問う、もうひとつの再選択ゲームだった。
“ゾンビ狩り”はアリスたちの記憶を呼び起こすスイッチだった
このゲームは、ただのデスゲームじゃない。
ゾンビ狩りというルールの中に、“記憶のトリガー”が仕込まれていた。
それは偶然でも演出でもない。必然的に、「思い出させるため」の装置として設計されていた。
全員がかつてゲームの生還者だったという事実の重み
ゾンビ狩りの最中、アリスたちは気づき始める。
この参加者たち、全員が「一度、今際の国を生き延びた者たち」だということに。
だが記憶はない。名前も、過去も、感情も、ほとんど覚えていない。
それでも、ゲームが進むにつれて、感覚だけが蘇ってくる。
この既視感、逃げ方の勘、誰かを守りたいという衝動。
それは記憶というより、“魂の中に沈んでいた意志”だった。
そしてそれが一人ではなく、複数人に起きていた。
このことが意味するのは、ゾンビ狩りというゲーム自体が、「思い出すきっかけ」になるようにデザインされていたということだ。
バンダがジョーカーカードを渡した理由も、ここで繋がってくる。
彼らにとって“もう一度の試練”は、命のやりとりではない。
「かつての自分を取り戻すこと」こそが本当のゲームだった。
ジョーカーのステージ=記憶と選択を取り戻す地
ここで明かされるのが、このゲームが“ジョーカーステージ”であるという情報だ。
シーズン1・2での絵札ゲームでは、各キャラが個別に試されていた。
だが、ジョーカーステージは違う。
これは「記憶」と「選択」を両方同時に取り戻すためのラウンドだ。
ゾンビ狩りというルールの残酷さは、記憶がない状態で信頼や裏切りを強制されるところにある。
その極限の状況で、人はどうするのか。
本能で動くのか、感覚を頼るのか、過去を信じるのか。
つまりこれは、「記憶が戻っていない今だからこそ、本質的な自分の判断が試される」ゲームでもある。
記憶がないまま、誰かを守る。
記憶がないまま、誰かを信じる。
その行動こそが、過去の自分に最も近い選択なのではないか?
そしてその瞬間、プレイヤーたちは記憶以上の“何か”を思い出し始める。
それは、かつての誓い、怒り、愛情、そして諦めきれなかった命。
ジョーカーステージは、混沌の象徴じゃない。
むしろ、最もパーソナルで、最も本質的な選択を迫られる“再起動の場所”なのだ。
アリスがゾンビ狩りを通して直面したのは、他者への疑念ではなかった。
「自分が何を選びたいのか、どんな人間でありたいのか」
それを、記憶なしで選ばなきゃいけない。
だからこのゲームは苦しい。
でも、その苦しみの中にしか、“本当の選択”はない。
“誰が決めたか分からないレッテル”が人をゾンビにする
第2話のゾンビ狩りゲーム、あれって冷静に見るとゾンビそのものよりも怖いのは、「自分の正体が他人の認識で決まってしまう」っていう地獄なんだよな。
ゾンビにされた本人にはその意識がない。でも周りは勝手に警戒しはじめる。言葉も態度も、全部が“疑念フィルター”を通して見られる。
本人の中身は変わってないのに、“もう違う存在”として扱われてしまう。
あれってもう完全に、現代社会の縮図なんじゃないかと思った。
ゾンビ化=自分じゃなく、他人の目が決める現実
このゲーム、ゾンビになる瞬間に派手な変身演出があるわけじゃない。
カードを通して、ただ「役割」が変わるだけ。
でも、その変化を周囲が気づくと、一気に空気が変わる。
“あの人、ゾンビかもしれないよ”って一言。
それだけで、関係が変わる。
笑顔も、気遣いも、冗談も全部「演技かも」として見られる。
そしてその疑念は、じわじわと感染していく。
これって、たとえば職場で誰かが「ミスが多い人」って噂され始めたときの空気とめちゃくちゃ似てる。
本人の能力関係なく、「そう見える」というだけでフィルターがかかる。
もう一度信頼を得ようとしても、その“疑念の目”からは逃れられない。
ゾンビ化って結局、「自分の意思とは関係ない“評価”で、自分が変質してしまう」ことのメタファーなんだよ。
ラベルで人を見る世界の中で、“自分を保つ”ってどういうこと?
この話、アリスたちにとっては命がかかってる。
でも現実の俺らにも、“命”じゃないにしろ、他人からの評価で削られてく感覚ってあるよな。
「あいつ最近あの人と仲良いよね」
「なんか最近、雰囲気変わったよね」
そうやって、自分じゃどうにもできない見え方で、自分の立場が変わっていく。
それに抗おうとすればするほど、“なんでそんなに必死なの?”って逆に疑われる。
ゾンビゲームの中でもそうだった。
「自分は人間だ」と主張すればするほど、浮く。
静かにしてればしてたで、「怪しい」となる。
結局、正解のふるまいなんてない。
じゃあ、どうする?
信頼されるまで何もしないか?
それとも、疑われても“自分のやりたい行動”を貫くか?
たぶん、このゲームの肝はそこにある。
「他人の評価」に飲まれるのか、自分の判断を信じて動くのか。
ゾンビになっても人間であることを証明する方法なんて、ない。
でも、それでも誰かに近づく。
「信じてもらえないかもしれないけど、信じたくなる存在」であろうとする。
それが、今際の国でも現実でも、“ゾンビにならない”唯一の方法なんじゃないか。
『今際の国のアリス3』第2話のネタバレ考察まとめ|信じることが一番危険なゲーム
この第2話で描かれたゾンビ狩りは、ただの“感染サバイバル”じゃない。
信じるという行為そのものが、一番危険な選択肢として描かれていた。
それでも、誰かを信じることでしか前に進めないという現実も突きつけられる。
ゾンビ化するのは肉体ではなく“疑心”そのもの
ゾンビゲームの構造は残酷だった。
ゾンビになると、自分の意思とは関係なく“裏切り者”になる。
でも一番恐ろしいのは、その状態を「信じていた相手が見抜けないこと」だ。
そして逆に、自分自身もまた、誰かから疑われ始める。
「なぜこの人はこんなに冷静なんだ?」
「さっきカードを出す手が少し震えていた」
——そうやって、人は理屈の皮を被った感情の暴走で他人を断罪していく。
つまり、本当にゾンビになっていたのは、身体じゃない。
疑うことで、心そのものがゾンビ化していく。
誰も信用できない。
誰も助けられない。
それでも、自分だけは生き延びようとする。
その瞬間、人間は“人間ではなくなる”。
そしてこのゾンビ狩りは、それをプレイヤーだけじゃなく視聴者にも突きつけてくる。
「自分だったら、誰を撃つ?」「誰を信じる?」
この問いが、画面の向こうからじわじわ迫ってくる。
最後に生き残るのは、疑ってでも手を差し伸べた者
ゾンビ狩りの終盤、記憶を完全には取り戻していない状態でも、アリスたちは「協力」を選んだ。
そこには確信はなかった。
信じたいという意志だけがあった。
この作品が問うのは、「何を信じるか」じゃない。
「信じる行為を、どのタイミングで選べるか」だ。
そしてその選択は、ほとんどの場合、リスクしかない。
信じた結果、裏切られるかもしれない。
信じた相手が、すでに“ゾンビ”かもしれない。
それでも、その瞬間に手を差し伸べられる人間だけが、この国を抜け出せるんじゃないかと思えてくる。
疑うのは簡単だ。守るのも簡単。
でも、信じるという行為だけは、最も難しく、最も孤独で、最も美しい。
だからアリスは、この国で何度も「信じ直す」ことを迫られている。
記憶がなくても、何度裏切られても。
“ゾンビになる”というのは、人間性を疑念に飲まれること。
それを拒否する唯一の方法が、“信じる”という選択だった。
第2話はそういう話だったと、俺は思っている。
- 第2話は「ゾンビ狩り」ゲームが舞台
- ゾンビ化は「疑念」の感染を描く装置
- 信じることの危うさと希望を同時に描写
- レイの戦術は“信頼を装った支配”
- 他人の評価で人間性が変質する恐怖
- 記憶を失ったままの“再選択”というテーマ
- ジョーカーステージ=記憶と意志の再起動
- 裏切りの構造は現代社会にも通じる
- 信じるという行為の尊さと孤独が滲む
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