「人を呪い殺す力なんて、本当にあるのか?」
そんなオカルトめいた噂から始まった『相棒season17 第8話・微笑みの研究』。だが、物語はただのホラーで終わらなかった。
そこには“共感力”という名の見えない刃と、科学の名を借りた倫理崩壊が、静かに仕組まれていた。微笑む助教・川村里美の正体、そして右京が辿り着いた真実とは──この記事では、視聴者の心をざわつかせたその深層を読み解いていく。
- 「共感力」が事件を引き起こす仕組み
- 倫理なき研究が人を壊す過程
- 右京が見抜いた“微笑”の真意
川村里美の「微笑」は何を意味していたのか──最初に結論を語る
この物語のすべては、彼女の「笑顔」から始まっていた。
犯人を追う特命係の捜査線上で、ほんの一瞬だけ浮かんだ“違和感の笑み”。それは何よりも雄弁に、心の裏側を語っていた。
「なぜあの時、微笑んだのか?」この一問が、呪いと殺意と共感をつなぐ糸になっていく。
“呪い”ではなく“共感”が殺意を誘導した
「教授は呪い殺された」──そんなネット上の噂を聞きつけ、右京と冠城が調査を始める。
そして現れるのが、助教・川村里美。教授を睨み、「死ね」と呟いたとされる張本人。
だが、ここでまず注目すべきは、彼女が“誰かを直接手にかけてはいない”という事実だ。
川村は、教授が亡くなった瞬間には完璧なアリバイを持っていた。
にもかかわらず、事件は確かに「彼女の感情の波紋」から始まっている。
そしてそれは、ただの偶然や被害妄想ではなく、彼女の持つ“エンパス”という能力と密接に絡み合っているのだ。
エンパス=共感力の異常な高さ。
川村は、人の感情を“肌で感じ取ってしまう”特異な共感体質を持っていた。
猪瀬という名の倫理なき准教授は、その力を「研究対象」として観察し、憎しみ合う二人──高野と宇佐美教授の間に彼女を配置した。
その結果、里美は相手の“怒り”“恨み”“恐怖”といった負の感情を同時に浴び、まるで自分の意志かのように他者の殺意を体内に取り込んでいく。
そして、言葉にならない“感情の暴力”にさらされた彼女は、思わず口にする。「死ね」と。
この一言は呪いではない。しかし、「共感」という刃を渡された者が無意識に振るった、感情のナイフだった。
右京が見抜いた「不自然な笑顔」の理由とは
右京は知っていた。“心が動いた瞬間にだけ生まれる微細なサイン”を。
事件性がないと伝えられたとき、川村の頬に一瞬だけ浮かんだ微笑。
それは安心でも、喜びでもなかった。
「そうなるように仕向けた」ことへの満足、あるいは「まだ誰にも気づかれていない」という安堵だった。
右京は、この“タイミングのズレた笑顔”にこそ、真実が宿ることを感じ取っていた。
微笑みとは、本来、心の余白に生まれるものだ。
だがこの物語の笑顔は、悲鳴を押し殺すための仮面だった。
共感という名の呪いを背負い、「他人の感情」を背負って壊れていく女性の、精一杯の防衛反応だったのだ。
「あの微笑の意味がわかってしまった時、背筋が冷たくなった」
そんな視聴者の声が多かったのも納得だ。
表情は時に、言葉よりも深い真実を語る。
この一話は、それを証明する、極めて痛烈な“人間ドラマ”なのだ。
呪いから科学へ──オカルトがリアルに変わる瞬間
この物語は、「呪いから始まり、科学で終わる」構造を持っている。
だがそれは、“オカルト否定”ではない。
「人間の心の仕組み」こそが最大のオカルトだと、このエピソードは静かに語っていた。
冒頭の呪術演出と霊能者の正体
第8話は、不気味な呪術の場面で幕を開ける。
炎の揺らぎ、祈祷の手つき、真顔の霊能者──まるでホラー映画のイントロのような映像。
「これは本当に『相棒』か?」と視聴者が目を疑うほどの異質な始まりだ。
しかし、そこに潜む真意は「霊の存在」ではない。
このパフォーマンスに立ち会っていたのが、助教・川村里美だったことが、すべての導線を変えていく。
霊能者・政道神大は、「人を呪い殺す力がある」と豪語する。
それを聞いた学生たちは恐怖に震え、SNS上では「本当に教授が呪われた」との書き込みが広がっていく。
だが、右京は冷静に断言する。
「この現象には、科学的根拠がありますよ」
霊能者の“能力”は、単なる話術と観察力の複合体だった。
コールドリーディングとバーナム効果で崩れる“超常現象”
「あなたには大きな心の傷がありますね」
「最近、夜眠れないことが増えていませんか?」
こんな漠然とした言葉に、人はなぜかドキッとする。
そのカラクリが、“コールドリーディング”と呼ばれる心理テクニックだ。
相手の服装、言葉遣い、態度から得たわずかな情報を元に、あたかも“心を読んだ”ような台詞をぶつける。
受け取る側は「この人は何かを見抜いている」と錯覚する。
相手が“自分から情報を差し出す”よう誘導する技術でもある。
そしてもう一つが、“バーナム効果”。
「誰にでも当てはまるような曖昧な記述を、自分だけに当てはまると錯覚してしまう心理現象」だ。
星占いや血液型診断が、まさにその代表例だろう。
「最近、気づいてるんじゃないですか? 本当のあなたの役割に」
こんな言葉に、誰もが「自分だけに言われた」と感じてしまう。
霊能者・政道の“力”は、まさにこれらのテクニックの結晶だった。
だが、それを信じていた川村里美や学生たちは、“思い込み”によって現実をねじ曲げられていたのだ。
オカルトは、超常現象ではなく、人間の「信じたい」という欲望の映し鏡だった。
右京が解明したのは、霊の存在ではない。
「人は“科学ではない何か”を信じることで、不安から逃れようとする」という、人間心理の盲点そのものだった。
だからこそ、今回の“呪い”は、科学がもたらした現代の怪談だったとも言える。
信じた者が壊れ、信じさせた者は笑う。
この回が描いた“恐怖”とは、幽霊ではなく、人の心が生み出す幻想の暴走だったのだ。
共感の暴走──エンパスという“呪い”の正体
このエピソードの本質は、「呪い」でも「殺人トリック」でもない。
心の奥深くに隠れた──“共感の暴走”にある。
犯人は、誰だったのか?本当に罪を犯したのは、誰だったのか?
エンパスとは何か?共感力がもたらす苦悩
“エンパス”という言葉を、あなたは聞いたことがあるだろうか。
エンパスとは、非常に高い共感能力を持つ人を指す。
相手の感情や空気を、まるで自分のことのように“感じてしまう”。
怒りが伝染する。悲しみが胸を刺す。恐怖が皮膚の下を這う。
普通の人ならスルーできる感情の波が、彼らには“生々しい痛み”として襲いかかる。
川村里美が抱えていたのは、まさにこの“共感力の病”だった。
彼女は、宇佐美教授の傲慢さも、高野准教授の怒りも、猪瀬准教授の欺瞞も──
すべてを感じ取っていた。
「他人の感情を、拒否できない体」──それが、彼女の正体だった。
そして猪瀬は、そんな彼女の特異性に気づき、“観察者”として行動を起こす。
高野の怒りと、宇佐美の高圧的態度。
その2人の“間”に、エンパスである川村を配置し、感情の衝突が彼女に与える影響を「研究」しようとしたのだ。
感情を読みすぎる者が抱える「静かな地獄」
では、そんな彼女は「加害者」だったのか。
確かに、アズリチンが盗まれた研究室で、彼女の指紋が見つかっている。
そしてその薬品が、宇佐美教授の死因となる。
しかし、薬を使ったのは高野だった。
そしてその行動を選ばせたのは──川村が“無意識に誘導した”からだ。
「人の感情を感じ取れる」者が、他人の怒りや絶望に染まり、それを再構築し、
「行動へとつなげる言葉」を発してしまう。
それは、まるで共犯。
だが、共犯と呼ぶにはあまりにも無垢で、
“心の暴風に巻き込まれた犠牲者”でもあった。
誰もが気づかなかった。
彼女の「微笑み」が、自己防衛であることに。
彼女の「無表情」が、心を閉じるための仮面だったことに。
右京は言う。
「本来なら、彼女のような人こそ、救われるべきだった」
だが、現実は冷たい。
人は“異常”を理解しない。
「見えない苦しみ」は、罪か病かのどちらかに振り分けられてしまう。
この物語が描いたのは、“感情を感じすぎた人間の末路”だ。
そしてそれは、フィクションではなく、今もこの世界のどこかに存在しているかもしれない。
共感力──それは人間関係を潤す力だと思われがちだ。
しかし、限度を超えた共感は、むしろ人を破壊する。
この第8話『微笑みの研究』が投げかけたのは、まさにそこだった。
「心が読めるなら、幸せになれるのか?」
──答えは、否だ。
彼女は心を読めたが、誰からも心を読んでもらえなかった。
研究の名を借りた実験──倫理を超えた科学者たち
この事件の裏には、もうひとつの“殺意”が存在していた。
それはナイフでも、薬でもない。
「観察」という名の暴力だった。
准教授・猪瀬の狂気「実験として人を配置する」
猪瀬啓吾──栄光大学の准教授にして、認知科学の研究者。
彼は、“エンパス”という特異体質の人間を、研究材料として見ていた。
そして、それを「観察対象として配置」するために、川村里美を宇佐美教授と高野准教授の間に据えた。
憎しみをぶつける高野。
威圧と傲慢で支配する宇佐美。
その間に、“共感力の化身”である里美を投げ込んだ。
それはもう、人としての行動ではない。
人間関係をラボのシャーレに見立てた、残酷な実験だった。
右京は猪瀬に言い放つ。
「あなたは、共感という能力を、他人を壊す道具として使ったんですよ」
だが猪瀬は悪びれもしない。
むしろ、得意げにこう言う。
「貴重な結果が得られました」
倫理の不在が、ここに極まる。
この台詞は、科学の名を借りて、人の心を弄んだことの証明でもある。
科学は正義か?──違う。
正義にするためには「倫理」が必要なのだ。
操られた鞠子と共犯にされた里美の哀しみ
猪瀬が糸を引いたことで、最も傷ついたのは二人の女性だった。
一人は、高野鞠子。
彼女は、過去に教授の研究で自殺者が出た経験から、宇佐美を憎んでいた。
だが、それでも殺意を持っていたわけではない。
そんな彼女に、川村里美は語りかける。
「アズリチン、使えるんじゃないですか?」
この何気ない“雑談”が、鞠子の心に火を灯した。
──いや、火を灯された。
この言葉は、共感によって引き出された「他人の殺意の模倣」だった。
そして鞠子は、薬を用意し、コーヒーに混ぜ、教授を殺害した。
ここには明確な共犯関係はない。
だが、誰の心にも「お前が言ったからだ」と囁く声が残ってしまった。
もう一人の犠牲者は、川村自身。
彼女は操ったのか?
いいや、自分もまた“操られていた”。
高野の怒り。
宇佐美の支配欲。
猪瀬の期待。
それらすべてが、彼女の心に“他人の意志”として流れ込み、
「言わされているのに、自分が言ってる」感覚に、彼女を追い込んでいた。
だから彼女は、事件性がないと聞いた瞬間、ほっとして微笑んだ。
「もう、誰にも踏み込まれない」と思ったから。
だが、その笑顔はすぐに暴かれ、罪もないのに“関与者”として名が挙がってしまう。
この結末を、誰が望んだ?
──答えは一人だけ。「実験が成功した」と満足した、あの研究者だ。
『微笑みの研究』とは、誰の研究だったのか。
里美の微笑を“観察”していたのは、犯人である猪瀬その人だった。
この話は、彼の論文にはならなかった。
でも、私たちの記憶には、倫理を欠いた科学の末路として刻まれた。
右京の怒りが届かなかった結末──倫理では裁けない罪
この事件は、物理的には「解決」している。
毒を用いた殺人犯・高野は逮捕され、里美の関与も解明された。
だが──この回を観た誰もが、胸の奥に「解決していない」という違和感を残す。
それは、法が裁けない“もうひとつの罪”が、確かに残っていたからだ。
犯人は捕まった、それでも心は解決しない
右京は、猪瀬と対峙する。
冷静を装っていた右京が、その語調を荒げる。
それは、長年『相棒』を観てきた視聴者にとっても、珍しい瞬間だった。
「あなたのような人間が、研究者を名乗る資格はありません」
それは怒りというより、呆れと、深い哀しみに近かった。
猪瀬は、法には触れていない。
彼は誰も殺していないし、薬品にも手をつけていない。
だが、感情の連鎖反応を設計し、人を壊し、他人の手で“殺させた”。
そのやり方が、あまりにも冷たく、静かで、誰の心にも届かない。
右京が憤ったのは、そこだった。
共感を研究しながら、他人の心に一切“共感”していないという、倒錯した存在。
人の感情を「数値」と「因果関係」でしか捉えない者。
その冷徹さは、法では罰せられないが、誰よりも罪深い。
“正義”が通用しない場面で、右京が見せた人間味
右京は基本的に理性の人だ。
証拠を積み重ね、論理をもって真実へと至る。
だが今回は、その理性が“限界”を超えた。
正義では裁けない罪が、目の前にある──その無力感に、彼は強く怒る。
「実験だったんです」
そう誇らしげに言う猪瀬に、右京は強く言い返す。
「それは“他人の人生”を壊した結果に過ぎない」
だが、猪瀬は悪びれずに答える。
「成果が得られたのは事実です」
──この瞬間、右京は“怒り”ではなく“絶望”を感じた。
法が届かない場所で、人はどこまで“自由”でいられるのか。
倫理が崩れた瞬間、科学はどこまで人を傷つけるのか。
この話が「後味が悪い」と言われる理由は、現実がそこにあるからだ。
人は裁かれなくても、他人の人生を壊すことができる。
それは恐怖であり、この物語の“本当の呪い”なのだ。
最後に右京が静かに言い残す。
「微笑んでいたのは、あなたではなく、彼女でしたよ」
この台詞の意味は深い。
“人間らしさ”を失った猪瀬は、笑う資格すら持たなかった。
あの時の里美の微笑は、傷ついた心の防御であり、祈りでもあった。
右京はそれに、最後まで寄り添おうとした。
この回が特別だったのは、事件の構造だけではない。
「正義が届かない世界に、どう向き合うのか」
その問いに、右京が“人間味”で答えた──それこそが、この物語の答えだったのだ。
感情が伝染する職場──「共感力」は武器か、呪いか
この回を観たあと、ふと頭をよぎったのは職場での“あの空気”だった。
誰かが怒ってると、周囲もなんとなくピリつく。
逆に、楽しそうな笑い声が聞こえてくると、ほんの少し場が緩む。
あの“空気”──実は、川村里美と同じ「共感の感受」が職場でも起きてるんじゃないかと。
「他人の感情を受け取る」って、日常でもしんどい
川村が持っていた「共感力の暴走」。これは特殊能力に見えて、実は日常にも潜んでる。
あの人が不機嫌だとこっちまで胃が痛くなるとか、上司の空気を読んで笑顔を貼り付けるとか。
「あ、自分、今日ちょっと“共感しすぎ”かも」って気づけたら、それだけで心が楽になるかもしれない。
感情の“受信機”を全開にしてると、いつか壊れる。
だからこそ、鈍感力って実はすごく大事なバランスなのかもしれない。
優しい人が壊れていく理由
今回の川村は、直接手を下していないのに、周囲の感情に巻き込まれ、自分を責めてしまった。
「気づいた人」が「何もできないこと」で苦しむ。
これって、優しい人ほど陥りがちな“共感疲労”だと思う。
怒鳴る人より、沈黙で泣く人のほうが、人の感情を背負ってる。
そして、その優しさを誰も拾えなかったとき、人は黙って壊れていく。
もし職場や日常で「あの人、最近元気ないな」って思ったら。
声をかけるのが難しくても、ちょっと視線を送るだけでも違うかもしれない。
共感の火花が飛び交う中で、誰か一人が“見てる”ってことが、
「それでも生きていこう」って思わせる小さな灯になる。
“微笑みの研究”が問いかけるもの──共感と孤独の物語まとめ
この物語には、わかりやすい勧善懲悪もなければ、スカッとする結末もない。
だが、残る。
観た人の心に、ずっと残る。
共感力は力なのか、呪いなのか
川村里美が持っていたもの、それは“特別な能力”ではない。
むしろ、現代の人間関係において、誰もが少しずつ抱えている“共感の過敏さ”だった。
空気を読む。
感情を先取りする。
人の傷に反応して、自分も沈んでしまう。
共感とは本来、人と人を繋ぐ橋だ。
でも、それが“渡りすぎる”と、橋は壊れる。
誰かの怒り、誰かの悲しみが、自分の中に侵食してきたとき、それはもう“優しさ”ではなく、“侵略”に変わる。
「共感力が高い=素晴らしい」という単純な話ではなかった。
これは「共感という名の呪い」をテーマにした、人間のリアルだった。
人の心に触れるすべての者へ、問いかけるエピソード
この第8話が優れていたのは、ただ“謎解き”を超えて、観る者自身を顧みさせる力があったからだ。
自分は誰かの感情に振り回されてないか。
誰かを無意識に、共感させすぎていないか。
それとも、誰の心にも気づかない“鈍さ”の中にいるのか。
この物語の問いは、右京にも向けられていた。
あの冷静で論理の人が、今回は感情をあらわにし、叫び、立ち尽くした。
それはきっと、「正義で救えないものもある」と知ってしまったからだ。
この回は事件の記録ではない。
“人の心の壊れ方”を描いた研究レポートだった。
そしてその結論は、まだ誰も書き終えていない。
誰かが今日も、誰かの感情に押し潰されそうになってる。
もしそれに気づいたら、正義じゃなくていい。
「そっと見てるよ」と微笑むだけで、救われる命もある。
──『微笑みの研究』が、私たちに残した一番の答えは、たぶんそこだ。
右京さんのコメント
おやおや…随分と冷たい“実験”でしたねぇ。
一つ、宜しいでしょうか?
この事件で最も看過できなかったのは、「感情」という極めて個人的な領域が、“研究対象”として扱われていた点です。
川村里美さんは、高い共感力──いわゆる“エンパス”の持ち主でした。
ですが、准教授・猪瀬氏は彼女を被験者として利用し、感情の衝突を“観察”という名目で放置していた。
結果、他者の憎悪を写し取り、言葉を通じて殺意を誘発してしまったのです。
つまり、この殺人は「意志によるもの」ではなく、「感情の伝染による暴走」だったわけです。
なるほど。そういうことでしたか。
ですが、だからといって倫理が免責されるわけではありませんねぇ。
いい加減にしなさい!
人の心を実験道具のように扱い、他人の破滅を“成果”と称するような姿勢。
それこそが、今回の事件の真に罪深い部分です。
科学の名を借りて人間性を切り捨てるなど、到底看過できません。
それでは最後に。
紅茶を一杯淹れながら考えましたが……。
他人の痛みに寄り添うという行為は、数値では測れません。
共感とは、人と人を繋ぐ橋であると同時に、最も脆く壊れやすい“絆”なのです。
- 大学教授の死に潜む「呪い」と「科学」の交錯
- 共感力の暴走=エンパスが事件の鍵となる
- 川村里美の「微笑」は罪の意志ではなく心の悲鳴
- 准教授・猪瀬が仕組んだ“感情の実験”が引き金
- 感情を誘導された高野鞠子が毒殺を実行
- 右京は「倫理で裁けぬ罪」に怒りと無力を覚える
- 法では裁けぬ“人間の冷酷さ”が残された
- 共感の光と影を描くヒューマンサスペンス
- 優しさが呪いに変わる、その危うさを問いかける
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