2025年NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第37話「地獄に京伝」では、松平定信の寛政の改革が文化人や町人に深刻な影響を及ぼしていきます。
春町の自害、喜三二の離脱、そして政演の筆の迷い──文化の灯が次々と消えかける中で、蔦屋重三郎は出版文化を守ろうと必死にあがきます。
一方で歌麿は肉筆画の依頼を受け、個としての画業に光を見出しますが、その喜びすら時代の荒波に飲み込まれそうに…。この記事では第37話のあらすじを整理しつつ、史実の「山東京伝筆禍事件」と重ねてドラマの本質に迫ります。
- 第37話「地獄に京伝」のあらすじと主要な出来事
- 史実の山東京伝筆禍事件との関わり
- 蔦重とていの対立が示す理想と現実の葛藤
べらぼう第37話「地獄に京伝」のネタバレあらすじ
第37話「地獄に京伝」は、物語の空気が一段と冷たく、重く沈む回だ。
人の命が消えていく重さと、文化の火が揺らぎかける不安。
そしてその狭間で、それでも作品を生み出そうとする者たちの必死な息遣いが描かれる。
春町の死と戯作者たちの離脱
冒頭で衝撃的なのは、恋川春町の自害だ。
武士でありながら筆一本で笑いを生み出してきた男が、結局は時代の重圧に耐え切れずに命を絶つ。
これは単なる登場人物一人の死ではない。江戸の戯作文化そのものが大きな柱を失った瞬間である。
さらに朋誠堂喜三二も江戸を去り、残された蔦重の周囲からは次々と筆の担い手が消えていく。
出版文化を支えてきたクリエイターが失われていく喪失感は、画面を通してこちらの胸までえぐってくる。
実際に江戸時代の出版文化も、寛政の改革による取り締まりで作家たちは萎縮し、声を失っていった。
蔦屋重三郎は焦る。頼みの綱は北尾政演だが、彼もまた幕府の目を恐れ、筆を執ることをためらっている。
文化を繋ぐはずの戯作者が一人、また一人と去っていく様子は、まるで暗闇の中で灯が次々に吹き消されていくようだった。
「地獄」という言葉は大げさではない。この回の冒頭はまさに出版界の地獄絵図の始まりなのだ。
歌麿に届いた肉筆画の依頼と一瞬の光
しかしそんな闇の中で、一筋の光が差し込む。それが歌麿への肉筆画の依頼だ。
栃木の豪商から屋敷に飾る一点物を任されたという知らせに、歌麿は目を輝かせる。
版下絵ではなく、自分の筆一本が直接評価される――それは一人の画家として最も誇らしい瞬間だ。
彼はその喜びを、伴侶であるきよに報告する。
そこには、芸術家としての自負と、未来を信じたいという希望が滲んでいた。
この場面は第37話全体の中で、唯一「心が呼吸できる」瞬間だったのではないだろうか。
だが同時に、その光は危うさを孕んでいる。
時代の流れは文化人を次々と押し潰し、歌麿の成功すら幕府の規制や倹約令に飲み込まれる可能性が常に漂っているからだ。
視聴者は「良かったね」と安心する一方で、「この喜びは長く続かないのではないか」と背筋が冷たくなる。
そしてこの光と闇のコントラストこそが、第37話を息苦しくも忘れ難い回にしている。
春町の死という喪失と、歌麿の依頼という希望。
二つの出来事が並置されることで、視聴者の心は強烈に揺さぶられる。
文化が消えゆく地獄の中で、それでも人は筆を持つ。
第37話の前半は、その切実な矛盾と美しさを描き出しているのだ。
定信の棄捐令・倹約令がもたらす暗雲
春町の死と歌麿の喜びが交錯した直後、物語の空気をさらに重くするのが松平定信の改革だ。
彼は寛政の改革を徹底し、まず「棄捐令」を布告する。
借金に苦しむ旗本や御家人を救うために札差へ債務の放棄を命じる政策──一見すると救済だが、その実、札差や町人の経済基盤を破壊する苛烈な手である。
さらに定信は中洲の歓楽街を取り壊し、大奥にまで倹約令を徹底させる。
遊興を断ち切り、華やかさを奪うその改革は、文化そのものを締め上げる行為に等しい。
視聴者の目に映るのは、ただの経済政策ではない。笑いや色気、絵や本が育ってきた江戸の土壌を根こそぎにする冷たい刃だ。
特に「吉原」の動揺は深刻だ。豪奢な遊郭は経済と文化の両輪を担っていたが、倹約の風はその存立を揺るがした。
女郎屋の値崩れ、見番の機能停止、芸者の安全すら危うくなる──その姿は「江戸の華」が「江戸の地獄」へと転落していく過程の縮図である。
文化が呼吸できなくなる瞬間を、ドラマは丹念に描き込んでいる。
吉原の存亡と蔦重の新たな挑戦
この暗雲のただ中で立ち上がるのが、蔦屋重三郎だ。
彼は吉原の衰退を黙って見過ごすわけにはいかない。
政演と歌麿に新たな企画を依頼し、文化の火を絶やすまいと動き出す。
ここに蔦重の矛盾が凝縮されている。幕府の統制が厳しさを増していることは百も承知だ。
それでも彼は「本を出す」という行為で抗おうとする。
まるで洪水に流されそうになりながら、なお火種を両手で必死に守ろうとする姿だ。
しかし、その挑戦に真っ向から反論するのがていである。
彼女は女性の視点から、蔦重の行動が「ただの市井の本屋の思い上がり」ではないかと突きつける。
「あなたは世界を救う英雄ではない」という冷酷な現実を、ていは蔦重に浴びせかけるのだ。
このシーンは、観る者の胸を締め付ける。
蔦重の理想に共感する一方で、ていの指摘にも痛いほどの真実が宿っているからだ。
理想と現実の衝突──それはまさにこの大河の核心である。
吉原を救いたいという情熱と、幕府の圧力を前にした無力感。
この二つの力がせめぎ合う場面は、文化を支え続ける者が背負う「矛盾の十字架」を象徴している。
文化のために命を削る者と、それを止める者。
第37話の後半は、この対立を通じて、江戸の出版文化がいかに危うい綱渡りで成り立っていたかを描き出している。
そして同時に、蔦重という男の「無謀なまでの執念」を浮かび上がらせるのだ。
観終えた後に残るのは、「本を作る」という行為が、ただの商売ではなく、時代そのものへの挑戦だったという強烈な余韻である。
史実とリンクする「京伝の地獄」とは?
ドラマの第37話タイトル「地獄に京伝」は、決して大げさな表現ではない。
そこには実在した戯作者・山東京伝が味わった筆禍事件の記憶が重ねられている。
フィクションと史実が交錯することで、視聴者は「これはただの物語ではない」と強く意識させられるのだ。
黒白水鏡事件と幕府の出版統制
京伝が最初に幕府の鉄槌を受けたのは、寛政元年(1789年)の「黒白水鏡事件」だった。
洒落本『黒白水鏡』に含まれていた風刺が、当時暗殺された田沼意次の子・意知を連想させると幕府に睨まれた。
その結果、著者の石部琴好は江戸追放、京伝自身も罰金を科される。
つまり笑いや風刺という庶民の娯楽が、幕府には「秩序を揺るがす毒」として映っていたのである。
ドラマの政演が筆を執ることを恐れる姿は、まさにこの史実をなぞっている。
「筆一本で命が削られる」という緊張感が、第37話全体に漂っているのだ。
洒落本摘発と手鎖50日の刑罰
黒白水鏡事件の後も、幕府の監視は緩むどころかさらに強まった。
寛政2年(1790年)、京伝は洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹篩』を出版する。
遊郭の実態を生々しく描いたこれらの本は、庶民には熱狂的に支持された。
だが幕府は「風紀を乱す」として摘発、京伝に科したのはなんと手鎖50日という重罰だった。
両手に鉄の手錠をかけられ、自宅謹慎を命じられるという屈辱的な刑罰。
しかも版元の蔦屋重三郎にも過料が科され、文化を生み出す側と支える側が同時に打ちのめされた。
この史実を踏まえると、第37話で描かれる「蔦重が政演に仕事を依頼する」場面は、ただの創作依頼ではない。
それは命を賭けた契約であり、火の粉を浴びにいく行為なのだ。
黄表紙文化が狙われた理由
なぜ幕府は、庶民に笑いを届ける戯作をそれほどまでに恐れたのか。
その理由は、黄表紙や洒落本が単なる娯楽にとどまらなかったからだ。
江戸の庶民にとってそれは、「日常を批評する鏡」であり、「権力を笑い飛ばす小さな武器」だった。
幕府にしてみれば、戯作者や版元が庶民の心を掴めば掴むほど、自らの権威が揺らいでいく。
だからこそ黄表紙文化は徹底的に締め上げられ、笑いと風刺の筆は「地獄」へと突き落とされたのである。
第37話で描かれる政演の逡巡、蔦重の挑戦、ていの警告。
これらはすべて、史実の京伝が経験した「文化を守ろうとする者が罰せられる」構図と重なっている。
観る者は、史実を知ることでドラマの緊張感をより鮮烈に感じ取ることができるのだ。
そして思わず心の中でつぶやく。
「笑いを書くことが、なぜここまで罪になるのか」と。
ていの助言が突きつける“市井の限界”
第37話の白眉は、やはりていの助言だろう。
蔦屋重三郎が「文化を守るために立ち上がる」と燃える一方で、ていは冷や水を浴びせる。
その冷徹さは視聴者の心を刺し、彼女の台詞は鋭利な刃物のように残響する。
陶朱公の逸話が意味するもの
ていが持ち出すのは、中国春秋時代の商人・陶朱公(范蠡)の逸話だ。
忠臣として勾践を支え呉を滅ぼしたのち、功績を誇ることなく去り、商人として巨万の富を築き、再び地位や財を手放して姿を消した。
その生き方は「富を得ても名を上げすぎるな」という教訓として後世に語り継がれた。
ていはこの故事を蔦重に重ね、こう訴える。
「あなたは陶朱公のように身を引くべきではないか」と。
つまり、蔦重が「市井の一書店主」であることを自覚しろ、と突きつけているのだ。
ここで描かれるのは、理想と現実の残酷な距離感だ。
文化を守りたいという志は尊い。
だが志だけで幕府の圧力に抗えるのか──ていはその矛盾をえぐり出してみせる。
韓信の股くぐり──屈辱に耐える覚悟
さらにていは「韓信の股くぐり」を引き合いに出す。
将来の大望のために、少年時代に群衆の前で股をくぐる屈辱を受け入れた韓信。
それは一時の恥を耐え忍ぶことで未来を切り開くという故事だ。
ていはこの言葉を通じて、蔦重に「今は耐えるべき時だ」と訴える。
戦うことが勇気ではなく、耐えることこそが勇気だと。
その論理は冷酷だが、同時に的を射ている。
視聴者はここで強烈な二律背反に直面する。
- 蔦重の理想=文化を守りたい、笑いや色を絶やさない
- ていの現実=身の程をわきまえ、時には退くことで命と未来を守る
この対立は正解がない。
だからこそ、この場面の台詞が「刺さる」のである。
ていの冷静な助言は、単なる反論ではなく、文化を守りたい者が必ず通る葛藤を凝縮しているのだ。
観終えたあと、胸に残るのは「理想を叫ぶ声」と「現実を見据える声」の二重の残響。
どちらが正しいのか、答えはない。
だが一つだけ確かなのは、このシーンが第37話を単なる史劇から、現代にも響く普遍的な物語へと昇華させたということだ。
第37話の見どころと感情の湿度
大河ドラマ『べらぼう』第37話「地獄に京伝」の見どころは、史実の重さと人間の感情が絡み合い、空気そのものが湿っていく感触にある。
春町の死から始まり、定信の改革、ていの助言──すべてが「笑いを奪われていく」過程として描かれ、視聴者の心をじわじわ締めつける。
ここではその湿度を帯びた見どころを、三つの視点から切り取ってみたい。
「笑い」が消える瞬間の空気感
かつて江戸の町を彩った戯作や洒落本の笑いは、もはや響かない。
春町が筆を絶ち、喜三二が江戸を去る──その空白は単なる人の不在ではなく、町全体から笑い声が消える瞬間を象徴している。
このシーンの空気感は湿っている。重苦しい沈黙、肩にのしかかる圧力。
視聴者は「笑いがない世界」の不気味さに気づかされる。
文化が奪われるとは、つまり日常から笑いが奪われることなのだ。
だからこの回は、ただのネタバレや歴史描写ではなく、感情の温度が数度下がるような体感を残していく。
歌麿の喜びと不穏さの対比
一方で、歌麿が肉筆画の依頼を受けた場面には、一瞬だけ光が射す。
画家としての矜持、自分の筆がまっすぐ評価される歓び──これは視聴者にとっても救いとなる。
きよに報告する彼の表情は、ほんの短い間だけ江戸の未来を明るく見せてくれる。
しかし同時に、この喜びは不穏さと背中合わせだ。
幕府の統制が強まる中で、この光もすぐに奪われるのではないかという予感が漂う。
「歓びの背後に忍び寄る影」──この構図が第37話の湿度をさらに濃くしている。
視聴者の胸を抉る“出版の灯”の行方
そして極めつけは、蔦重の「挑戦」とていの「諫言」の対立だ。
文化を絶やすなと叫ぶ蔦重。市井の限界を突きつけるてい。
この応酬は、視聴者に強烈な問いを投げかける。
文化の火を守るために命を削るのか、それとも未来のために屈辱を耐えるのか。
どちらも正しいし、どちらも苦しい。
だからこそ、この場面は胸を抉る。
出版の灯が揺らぎ、今にも消えそうになる瞬間。
その儚さと、それでも守ろうとする人間の執念。
「地獄に京伝」というタイトルの重さは、史実の引用にとどまらず、この回全体の空気を一言で言い表している。
観終えたあと、心に残るのはカラカラに乾いた絶望ではない。
むしろ湿った重さ、息苦しいほどの圧力。
そしてその湿度の中で、それでも燃え続ける文化の小さな火。
第37話の真価は、この「湿度を帯びた余韻」にあるのだ。
蔦重とてい――理想と現実の狭間に揺れる二人
第37話を語るうえで外せないのが、蔦重とていの対峙だ。文化を守りたいという志は同じなのに、そこから導き出す答えはまるで違う。燃え尽きても突き進もうとする蔦重と、冷静に立ち止まる勇気を促すてい。同じ景色を見ているのに視点がずれることで、二人のあいだにどうしようもない溝が生まれていく。その緊張感は、ただの夫婦喧嘩や意見の食い違いではなく、時代の荒波を生き抜く術そのものをめぐるぶつかり合いに見えた。
同じ景色を見ているのに違う結論にたどり着く
第37話を見ていて一番刺さったのは、蔦重とていの対立だった。二人は決して敵同士じゃない。むしろ同じ方向を向いている。文化を守りたい、人の暮らしを豊かにしたい。その願いは共有しているのに、辿り着く結論が真逆になる。
蔦重は火の中でも筆を差し出すタイプ。燃えるのは自分でもかまわない、文化を次に繋げるなら本望だと考える。対してていは、燃え尽きてしまったら元も子もないと知っている。火の粉を避けることもまた生き抜く術だと理解している。理想か現実か──答えのない二択が、二人の距離を広げてしまう。
この構図って、職場や日常でもよくある。挑戦し続ける人と、安全を第一に考える人。どちらも正しいのにぶつかってしまう。見ていて胸がザワつくのは、自分の中にもその両方が住んでいるからだ。
言葉のナイフと、沈黙の重み
ていの放った言葉はナイフのように鋭い。「あなたはしょせん市井の一本屋に過ぎません」──冷酷とも取れるフレーズなのに、そこには愛が潜んでいる。彼女は蔦重を見放したいんじゃない。ただ、燃え尽きる前に立ち止まってほしい、それだけなんだ。
一方で、蔦重が沈黙する場面の重みがすごい。反論したい気持ちは山ほどあるのに、何も言えない。その沈黙の裏には、自分でも気づいている“限界”がある。理想を掲げるほどに、自分の立場の脆さが浮かび上がってしまう。だからこそ観る側は苦しい。あの沈黙は、見ている者の胸の奥まで届く。
理想を叫ぶ者と、それを止める者。実はどちらも同じくらい孤独なんだと、このシーンが教えてくれる。だからこそ第37話は単なる政治や改革の話じゃなく、人と人との心の擦れ合いとして刺さってくる。
べらぼう第37話「地獄に京伝」まとめ
第37話は、春町の死から始まり、政演の逡巡、歌麿の一瞬の歓び、そして定信の改革による圧迫と、文化の火が次々に揺らいでいく様を濃密に描いた回だった。
蔦重が抗おうとする姿は勇ましいが、ていの冷徹な助言が現実を突きつけ、観る者の胸を締めつける。
「文化を守るか、命を守るか」──この二択は、江戸の時代劇を超えて、現代に生きる私たちにも突き刺さる問いだ。
史実の山東京伝が味わった筆禍事件を下敷きに、ドラマは「笑いを奪われる世界」の不気味さを濃厚に描き出した。
笑いが消えると、文化は死ぬ。
その当たり前すぎる真実を、湿度を帯びた映像で体感させられるのが、この第37話の最大の功績だろう。
次回、第38話は「地本問屋仲間事之始」。
文化を守るために団結する者たちが描かれるが、それは果たして光明なのか、それとも新たな地獄の始まりなのか。
蔦重と仲間たちの挑戦が、さらに大きな荒波へと飲み込まれていく予感がする。
観終えたあと、心に残るのは乾いた感想ではなく、湿った余韻だ。
第37話は、その余韻ごと、次の物語へと視聴者を押し流していく。
- 春町の自害と喜三二の離脱で出版界が揺らぐ
- 歌麿は肉筆画依頼に歓びを見出すも影が差す
- 定信の棄捐令・倹約令で吉原や町人文化が危機に
- 蔦重は文化を守ろうとするが、ていが冷徹に諫言
- 史実の京伝筆禍事件と重なる「地獄」の重み
- 理想と現実の衝突が人間ドラマの核心を描く
- 文化を守るか、命を守るかという普遍的な問い
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