日本テレビ系で放送中の土曜ドラマ『良いこと悪いこと』が話題沸騰中です。特に第5話以降、謎の人物“博士”の正体や「仲良し7人組」の真実に関する考察がネット上で加速しています。
ドラマの随所に仕込まれた『ポケモン』モチーフや、イマクニの名前、黒塗り卒アル、タイムカプセル、さらには主題歌「アゲハ蝶」までが複雑に絡み合い、視聴者を深い考察沼へと誘っています。
この記事では、「博士=岡本説」や「イマクニは何者なのか?」といったSNSを中心に浮上した注目の仮説をもとに、7人目の正体やドラマの核心に迫る伏線を徹底的に解説します。
- 7人目“博士”の正体に関する伏線と考察
- OP映像・夢の絵・アゲハ蝶の歌詞に隠された意味
- 善悪の境界を問うドラマの本質と視聴者への問い
7人目=博士の正体は岡本?イマクニ?複数の伏線から徹底考察
ドラマ『良いこと悪いこと』が最も視聴者を惹きつけているのは、“7人目”の存在を巡るミステリーだ。
黒塗りされた6人の卒業アルバムと、ネット掲示板に現れた謎の「博士」。
そして、その博士の記憶を唯一保持していた「ちょんまげ」の存在が、この物語の鍵を握っている。
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掲示板の書き込みと「ちょんまげ」だけが覚えていた存在
ちょんまげが偶然見つけた小学校の電子掲示板「鷹里小の森」。
そこで目にした「誰一人覚えてないんだ」という書き込みは、画面越しに突き刺さる孤独の叫びだった。
それに対し「覚えてるよ、博士だよね?」と返したちょんまげに、即座に「もしかして、ちょんまげ?」と返信が届く。
ちょんまげだけが博士の存在を覚えていた。
この瞬間、博士が“存在していた過去”が確定した。
けれど、この「覚えてる/覚えてない」の二項対立は、それだけで終わらない。
博士の一人称が「俺」だったり「僕」だったりと、投稿者の人格の揺らぎを感じさせる点も、考察者たちの好奇心に火をつけた。
果たして博士とは誰なのか。 “忘れられた同級生”という哀しき存在が、この物語の罪と復讐の中心にいるのは間違いない。
卒業アルバム未掲載の岡本と“改名説”の今國の関係性
「7人目=博士」としてまず浮上したのが、卒業アルバムに載っていない岡本という名前の人物だ。
1話放送前の予告映像では、教室の日直欄に「岡本」の文字が映っており、視聴者の間で話題になった。
しかもこの岡本、劇中に登場するスナック「イマクニ」の店主・今國一成と同一人物ではないかという“改名説”が浮上した。
今國は「イマクニ」という店名について「僕の名前からとっている」と説明。
さらに、自分の名前を冠した“151種類目のお酒”という演出からも、視聴者はある共通点に気づく。
1990年代のポケモン文化。 今國の名前は、あの「イマクニ?」と一致している。
しかし、SNSではこの説に対するカウンターも登場した。
公式Instagramにアップされた「いまくにかずなり」と記された絵には、幼少期の今國の絵と一致する情報が含まれており、岡本と今國は別人である可能性が高くなった。
ポケモン・イマクニとの符号とミスリードの可能性
それでも、脚本家・ガクカワサキ氏の「記憶を150個くらい思い出しました。いや、151かな?」というX投稿が、ポケモンの初代151匹にかけているのは明らかだった。
そしてイマクニのポケモンカード効果は「自分のバトルポケモンをこんらんにする」。
この“混乱”というキーワードこそ、視聴者を攪乱させる装置=ミスリードの象徴なのかもしれない。
つまり、今國というキャラ自体が「博士=犯人では?」と視聴者に思わせるために配置された存在――ノイズとしての登場人物である可能性が高い。
劇中でも常に距離を保ち、核心には踏み込まず、どこか語り手のようなポジションに立っている今國。
彼が語る「151種類目のお酒」や、「僕の名前=イマクニ」は、視聴者に真実から目を逸らさせるための“仕掛け”と捉えるべきだ。
この作品における“博士”とは、ただのキャラではなく、物語の「忘却と記憶」「善と悪」の狭間に生きたもう一人の“被害者”なのかもしれない。
だからこそ、ちょんまげだけが覚えていたという事実は、友情の最後の灯火として、私たちの胸に強く残る。
なぜ7人目は“消された”のか?黒塗り卒アルの真相と犯人の目的
「卒業アルバムに存在しない」――この設定は、ただの演出ではなく、誰かが意図的に“記録”からある人物を排除した痕跡だ。
6人の顔が黒く塗りつぶされた卒業アルバムと、それを巡るタイムカプセルの謎。
7人目=博士の存在を意図的に抹消した人物は、一体何を隠そうとしているのか。
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校長の不可解な行動と掘り起こされたタイムカプセルの謎
第5話で明らかになったのは、“卒業アルバムだけが校長室の棚に存在しなかった”という異様な事実。
元担任であり、現校長の大谷典代が、タイムカプセルを預かり、2025年に掘り起こすという発言。
その音声が22年後の声に差し替えられていたという演出は、彼女自身がすでに過去に掘り返していた可能性を強く示唆している。
ではなぜ、今さら「夢の絵」と「卒業アルバム」をカプセルに再び戻す必要があったのか?
そこには“記録の改ざん”があった。 ――卒業アルバムの中で、あるはずの顔が“消された”理由。
考察勢の中では、校長が何者かに脅されて動いていたという説が強い。
机に置かれた家族写真。その“静かな重圧”が、教師としての罪の記憶と重なり、彼女を動かしていたのだろう。
名誉を守るために、夢の絵のビデオ映像やアルバムを一度回収し、意図的に内容を編集して再度埋めた――その動機は「教え子を守るため」ではなく「自分を守るため」だった。
「知らなかったでしょ?」委員長のセリフに込められたダブルミーニング
5話で、委員長・小林紗季が猿橋園子に向けた一言。
「知らなかったでしょ?」という問いかけが、SNSでは“大きな地雷”として爆発的な反響を呼んだ。
表向きは、当時の恋心やいじめを見て見ぬふりしたことの告白。
しかし、その裏にはもう一つの意味が隠されていた可能性がある。
「私が体育倉庫に閉じ込めたことを――“知らなかったでしょ?”」
委員長は“傍観者”ではなく、いじめの構造の内側にいた加担者だった。
それでも、あくまで“謝罪”としての態度を崩さない彼女の冷静さが、むしろ恐ろしさを際立たせている。
彼女のセリフは、謝っているようで、責任は認めていない。
それどころか、「私は知ってたよ。あなたは知らなかったでしょ?」という
記憶と罪の“主導権”を握るマウントとも取れる。
つまり、委員長は“すべてを知っていた”可能性がある。
犯人ではないかもしれないが、“共犯”であるという疑いは濃厚だ。
そして今、もう一度あの言葉を思い出す。
「知らなかったでしょ?」という一言に、物語のすべてが詰まっていた。
それは、記憶の線を引き直す合図であり、“7人目”が消された本当の理由を暴くための鍵だった。
アゲハ蝶の歌詞とオープニング映像が暗示する“死の順番”
ドラマ『良いこと悪いこと』のオープニング映像には、視聴者への挑戦状のような“違和感”が散りばめられている。
そこに流れる主題歌はポルノグラフィティの「アゲハ蝶」。
この楽曲と、登場人物の“夢の絵”、さらには変化するOPの構図が、犠牲者の“順番”と深く結びついているという説が急浮上している。
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夢の絵と連動する殺害方法、モチーフに隠された意味
作中で回収されるタイムカプセルには、6年1組の生徒たちが描いた「将来の夢の絵」が入っていた。
しかし、この“夢”が次々と“死”に変換されていく――。
例えば、武田(貧ちゃん)は「空を飛ぶ夢」を描いたが、ビルから転落死。
桜井(カンタロー)は「消防士」の夢を描いたが、火災に巻き込まれて焼死。
高木(キング)の夢は「悪を倒すヒーロー」。だがそれは、“自分自身が正義だと信じていた過去の象徴”だった。
この構図は、夢=死という構造にとどまらない。
むしろ、子どもたちが描いた理想が、大人の現実の中で破壊されていく物語なのだ。
夢が“叶えられなかったもの”として断罪されるこの構成は、犯人の動機が「過去の記憶への報復」であることを暗示している。
つまり犯人は、夢の絵を記憶していた者――あるいは一度掘り起こして確認した者である可能性が高い。
第1話から変化しているOP映像の“空いた一枠”に走る7人目の影
OP映像の後半、グラウンドを走る子どもたちの姿。
第1話では、ちょんまげを含む全員が走り終わった後、画面左に不自然な“空白”があった。
まるで、そこに誰かが入り込む予定だったかのような余白。
そして最新話では、その位置に“新たな影”が走り出すような演出が加えられている。
これは明らかに“7人目”の登場を暗示するサインだ。
アニメーションのようなOPの中で、この変化は非常に静かで目立たない。
だが、視聴者の記憶と感覚には確実に“何かがおかしい”という違和感として残る。
さらに「アゲハ蝶」の歌詞に注目すると、次のような一節がある。
あなたに会えた それだけでよかった
世界に光が満ちた
このフレーズは、本来の“出会い”が肯定的なものであることを示しているが、ドラマ内ではむしろ“再会=悲劇の引き金”になっている。
光ではなく、過去の影が溢れていく。
アゲハ蝶という存在そのものが“美しいものほど脆く壊れやすい”象徴であることも含めて、この主題歌が物語と密接に結びついているのは間違いない。
オープニングの映像は“名簿”であり、“予告状”でもある。
7人目が加わったことで、次に消えるのは誰なのか。
そして、最後に走り出す者が「犯人」なのか、「救済者」なのか。
その答えは、最終回のOPでしか見えない。
ラストの“空白”に走るのは、あなたの記憶から消えたあの子かもしれない。
剛力演じる“ゆっきー”は共犯か?委員長・トヨとの三角構造
登場時は目立たなかった剛力彩芽演じる“ゆっきー”こと土屋ゆきが、物語が進むにつれて“共犯者”として浮上しはじめている。
その背景には、委員長・小林紗季や、クラスのムードメーカーだったトヨとの微妙な関係が見え隠れする。
ゆっきーはただの脇役ではない。 死のグループの並び順、言動の節々、そして「嫉妬」という感情が、彼女を物語の核心へと導いている。
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死のグループの並び順と行動パターンから浮かぶ疑惑
オープニング映像の「走るグループ」は、物語が進行するごとに並びが変更されている。
最新話では、キング・貧ちゃん・カンタロー・ちょんまげ・ターボー・委員長・ゆっきー・トヨ・どの子という並びが確認された。
この順序は、視聴者の間で“死の予告”ではないかとされている。
注目すべきは、委員長・ゆっきー・トヨの3人が常に固まって行動している点だ。
委員長は猿橋に対して何重もの感情を抱き、トヨはどの子を守るかのような素振りを見せる。
そして、ゆっきーはその両者と行動を共にしながらも、ほとんど感情を表に出さない。
この沈黙こそが、もっとも不穏な伏線ではないかと、多くの考察が指摘している。
相合傘・ペンケース・週刊誌リークの裏に見える嫉妬心
ドラマの細部においても、ゆっきーの“感情の揺らぎ”が描かれている。
たとえば、道路に書かれていた相合傘の“どの子の名前”が消されていたシーン。
消したのは委員長かとも思われたが、眼鏡をかけていた描写や仕草から、ゆっきーの可能性も高まっている。
また、廊下のゴミ箱に捨てられていたどの子のペンケース。
それを拾って備品倉庫に隠した後、どの子が閉じ込められたという一連の流れにも、ゆっきーの関与を疑う声が多い。
直接的な描写こそないが、委員長に代わって“汚れ役”を担っているような空気すら感じさせる。
さらに疑惑を強めたのは、「週刊アポロ」への内部リーク。
どの子をターゲットにしたバッシング記事が連続して出ており、記事内容の詳細さは“内部の誰か”によるものと考えられている。
編集長の五十嵐か、新人記者の松井かと見せかけて、委員長・ゆっきー・トヨのグループ内のリーク説も浮上している。
特にゆっきーは、感情を表に出さない分、内に渦巻く“羨望”や“疎外感”を抱えていたとすれば、猿橋への執着や嫌悪も筋が通る。
物語の中盤、特に猿橋とトヨが接近し始めたあたりから、ゆっきーの立ち位置は完全に“観客”ではなくなった。
行動の裏にある“心の揺れ”が、次の事件を導く導火線になるかもしれない。
博士=堀遼太説も浮上?ドの子・どの子・30人目の謎
物語が進むにつれて浮かび上がってきたのは、“博士”という存在が単なるあだ名ではなく、消された“30人目の生徒”そのものであるという疑惑だ。
さらに視聴者の間で話題になっているのが、「どの子」と「ドの子」は別人だったのではないかという、通称“2人説”。
このセクションでは、“堀遼太=博士説”を軸に、記憶と視覚に仕掛けられたトリックを解き明かしていく。
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“ドの子”は実在する別人?転校・記憶操作・2人説を検証
第4話の回想でちょんまげが語った、体育倉庫のピアノの工作を壊した人物。
このシーンの字幕には、“ドの子”という表記が使われており、猿橋園子(どの子)とは明確に区別されていた。
この描写が、“どの子”と“ドの子”が別人である証拠ではないかと、SNSで爆発的に拡散された。
可能性①:ドの子は転校していった別の女子生徒
作中では、佐竹亜由美というピアノ好きの少女が夢の絵に「花屋」と書いていたが、現在は所在不明。
佐竹が“ドの子”だったとすれば、彼女を忘れた同級生たちに対し、犯人が「記憶を思い出せ」と復讐を始めているのかもしれない。
可能性②:ドの子=博士という性別・名前のクロスオーバー説
劇中では、“博士”という名前の生徒の夢の絵に「昆虫博士」と記載があったことが示唆されており、当時からその呼び名で認識されていた人物がいた。
しかし、生徒の名前一覧には“堀遼太”の名前があるだけで、現在の登場人物に該当する者はいない。
つまり、博士=堀遼太=30人目の生徒という構図が、限りなく真実に近づいている。
正体不明のキャラとポスターの左上に映る人物の共通点
視聴者の間で「未確認人物」としてたびたび話題になるのが、番組ポスター左上の“顔の見えない人物”。
髪型、服装、姿勢などから女性のようにも見えるが、“ロン毛男子”である可能性も捨てきれない。
このキャラが、卒アルに載っていない=30人目の生徒なのではないかと推測されている。
考察勢が導き出した候補のひとつが、斉藤菜月。
卒業時には「バドミントン選手になる夢」を持ち、現在はYouTuberまたは予備校講師として活動している。
過去の映像をAIで加工して現在の姿に変換したという制作側の手法を踏まえると、彼女が“犯人陣営の最後のピース”という可能性もある。
もう一人、ちょんまげの記憶にだけ存在していた“見切れた人物”もいる。
誕生日会の記憶の中、キングやターボーと一緒にいたはずのその人物は、誰の記憶にも残っていない。
これが“博士”だとすれば、視聴者だけでなく物語世界の中でも“完全に消された存在”ということになる。
そして、もしこの“消された博士”が何らかの理由で記憶を操作されていたとしたら――。
事件の始まりは「忘れられたことそのもの」にある。
忘却は暴力であり、記憶こそが復讐の動力源なのだ。
つまり、このドラマが描いているのは「覚えていること」の価値ではない。
“忘れてしまったことの責任”を、私たちに問うている。
「良いこと悪いこと」というタイトルが示す、善悪の境界線
タイトル『良いこと悪いこと』は、あまりに単純な言葉の組み合わせに見えるかもしれない。
だがこの作品において、それはもっとも複雑で、もっとも危険なテーマだ。
誰が“良い子”で、誰が“悪い子”だったのか?
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“良い子”と“悪い子”の定義が揺らぐ構造的ミステリー
作中ではたびたび、「あの子は良い子だったよね」「あの頃は悪い子だったよね」というセリフが飛び交う。
その評価は、誰の目線によるものなのか。
大人になった“今”と、子どもだった“当時”の評価軸がズレている点に、この作品の深さがある。
たとえば、委員長の小林紗季は「良い子」だったと語られる。
だが、猿橋園子を体育倉庫に閉じ込めた可能性が高く、いじめの主犯であった可能性すらある。
一方、キングこと高木は、問題児として扱われていたが、実際には「自分の正義」を持って行動していた。
この“価値の逆転”が、視聴者の倫理感を試してくる。
良いことのように見える行動が、実は誰かを傷つけていた。
悪いことのように思えた行動が、誰かを守るためだった。
この構造は、視聴者自身の“過去の記憶”にも問いを投げかけてくる。
私たちは本当に「良い子」だったのか?
それとも、ただ“忘れられていただけの悪いこと”があったのか?
高木の夢の絵に描かれた「クマを倒すヒーロー」の意味
高木(キング)が描いた夢の絵には、“ヒーローがクマを倒している姿”があった。
それは子どもなりの“正義”の表現だった。
だが、その絵に登場する「クマ」が何を象徴していたのか――そこに注目すべきだ。
クマ=悪者とは限らない。
クマはただ、目の前の森を歩いていただけかもしれない。
なのに、ヒーローはそれを“悪”と断定し、倒す。
これは、キングの中にあった“勘違いの正義”を表している。
つまり、子どもたちの正義は純粋だが、未熟だった。
未熟だからこそ、誰かを排除したり、黙らせたり、消したりした。
そしてその“過ち”に気づいた時、彼は夢の絵を誰にも見せたくなくなった。
それは、彼が自分の“良いこと”が、実は“悪いこと”だったのかもしれないと感じ始めた瞬間だったのだ。
このように『良いこと悪いこと』というタイトルは、ただの対比ではない。
物語全体が「本当に良いこととは?悪いこととは?」という問いで構成されている。
そしてその答えは、きっと一人ひとりの心の中にしかない。
あなたが「良い子」だった記憶は、誰かにとって「悪い子」の記憶だったかもしれない。
“忘れられた側”の痛みが動かすもの――記憶の空白に潜む「もう一人の犯人」
ドラマ『良いこと悪いこと』を見ていると、どうしても目が離せなくなる瞬間がある。
それは、犯人の手口でも、伏線の巧妙さでもなくて、“誰も覚えていない人”の存在が画面の隅にふっと浮かぶときだ。
あの無言の「空席」や、会話の中で一瞬だけ出てくる名前のない“誰か”。
それこそが、この物語で一番恐ろしいテーマ――“忘却の暴力”の象徴だと思う。
罪は、やった側よりも“忘れた側”に根を下ろす
いじめを題材にした作品は数多くあれど、『良いこと悪いこと』が異質なのは、加害者の罪よりも「記憶の劣化」に焦点を当てているところにある。
人は、罪を犯した瞬間よりも、それを“忘れた瞬間”に本当に悪くなる。
あのとき、自分が誰かを笑ってしまったこと。
止めなかったこと。
気づかなかったふりをしたこと。
それらは、もう記憶の奥底で“なかったこと”になっている。
でも博士――つまり“忘れられた側”の視点から見れば、その沈黙こそが第二の加害だ。
復讐は、怒りよりも「もう一度思い出してほしい」という切実な祈りから始まるのかもしれない。
“犯人”という言葉が壊してしまうもの
考察の世界では、どうしても「誰が犯人か」という一点に意識が集まる。
でも、このドラマを見ていると、そんな単純な答えを出した瞬間に、物語が壊れてしまうような気がする。
なぜなら、この作品における“犯人”とは、個人ではなく構造そのものだからだ。
忘れる人、見て見ぬふりをする人、そして「自分は悪くない」と信じて疑わない人。
その集積が“社会の博士”を生んだ。
つまり、誰もが少しずつ犯人であり、誰も完全な被害者ではない。
“良い子”でいることの残酷さ
大人になった登場人物たちは、みんな“良い子”のフリが上手い。
社会でうまくやる術を覚え、清潔な笑顔で“あの頃”を過去にした。
でもその「良さ」は、かつての“悪さ”を忘れるための仮面だった。
本当の“良いこと”は、過去を無かったことにすることじゃない。
見て見ぬふりをしてきた時間を、正面から見つめ直すことだ。
だからこそ、このドラマを見ていてゾッとするのは、犯人が暴れる場面じゃない。
笑顔で「昔のことだよ」と言いながら、誰かの記憶を再び消していく瞬間だ。
“良いこと”のフリをして、“悪いこと”を上書きする。
それこそが、いまを生きる私たちのリアルな罪かもしれない。
『良いこと悪いこと』は、視聴者に静かにナイフを突きつける。
――あなたは、誰を忘れて生きてきた?
良いこと悪いことの考察を総まとめ|7人目の正体とドラマの本質とは
ここまで『良いこと悪いこと』に散りばめられた無数の伏線、記憶、そして問いに向き合ってきた。
物語はまだ完結していないが、いくつかの核心が少しずつ浮かび上がってきた。
“7人目”は誰か? 博士とは何者か? そしてこのドラマが本当に描きたかったのは、犯人探しではないかもしれない。
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/記憶と赦しのドラマ、ついに終幕。\
岡本=博士説とイマクニの位置付けを整理
最も有力な仮説として浮かび上がったのが、“岡本=博士”説だ。
卒業アルバムに掲載されず、黒塗りされた席表にもその名はなく、しかしタイムカプセルにあった“博士”という投稿者は実在していた。
岡本は、唯一“ちょんまげ”の記憶にだけ存在していた。
だが、一部ではスナック「イマクニ」の店主・今國一成こそが博士ではないかという説もあった。
“イマクニ”という名前の響き、151という数字、ポケモンモチーフ。
しかしこれは、おそらく視聴者を撹乱するための巧妙なミスリードだった。
今國は語り部であり、観察者だ。
彼は博士ではなく、“博士を忘れた側の大人”として物語の中に存在している。
つまり、岡本=博士という説は、“記憶から消された者”の象徴であり、
ドラマの核心=「忘却された過去が、現代を侵食する」という構造にもっとも適している。
ドラマが描こうとする“善悪のグラデーション”を読み解く
『良いこと悪いこと』というタイトルが象徴するように、この作品は“善と悪”の2極構造を拒絶している。
委員長は悪人か? キングはヒーローだったか?
その問いに明確な答えはない。
それどころか、視聴者の“今の視点”と“当時の価値観”がぶつかることで、
ドラマは常に「どちらとも言えない」というグレーゾーンを歩み続けている。
夢の絵は、その象徴だ。
子どもたちが信じた未来が、誰かにとっては脅威だった。
誰かを救うためにとった行動が、別の誰かを追い詰めた。
この“連鎖”を描くことで、ドラマは犯人探しという表面的なスリルではなく、
「記憶とは何か」「赦されるとは何か」を私たちに問い続けている。
そして最後に残るのは、犯人の名前ではない。
それは、あなた自身が“誰を忘れていたか”という記憶の空白だ。
このドラマの本当のラストシーンは、テレビの中ではなく、
あなたの記憶と良心の中に用意されている。
だからこそ、この物語を見届けるということは、
“7人目”を思い出すことと同義なのだ。
- “博士”の正体と7人目の存在の謎
- 岡本とイマクニの正体に関する考察
- 夢の絵と死の連動、暗示された伏線
- アゲハ蝶の歌詞とOP映像の意味
- 委員長・ゆっきー・トヨの三角関係の闇
- “ドの子”と“どの子”の混同と2人説
- 消された記憶と30人目の存在の考察
- 「良い子」と「悪い子」の境界の曖昧さ
- 記憶と忘却がもたらす罪と復讐の構造
- 視聴者自身の過去を問い直す構成




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