「あなたは、いい子ですか? わるい子ですか?」――その問いが、ただのキャッチコピーじゃない。
ドラマ『良いこと悪いこと』は、過去のいじめが静かに再生する“記憶のホラー”だ。
22年前に笑っていた6人の子どもたちが、大人になった今、ひとりずつ壊れていく。
黒く塗られたアルバムの6つの顔、閉じ込められた少女、燃える居酒屋。
犯人は誰か? ではなく――「誰がまだ、罪を思い出していないのか?」。
ここでは、事件の全貌とともに、“良いこと”と“悪いこと”の境界が崩れる瞬間を、キンタの視点で解体する。
- 『良いこと悪いこと』が描く“記憶と罪”の真のテーマ
- 復讐ではなく“思い出すこと”が罰となる構造の意味
- 「いい子」でいようとする人間の歪みと再生の本質
黒塗りの6人が抱えた「過去」──笑いの裏に埋めた罪
黒く塗られたアルバムのページを見た瞬間、背中のどこかがざわついた。
あの黒は“隠すため”じゃない。
あれは記憶が自分を守るために塗った黒なんだ。
6人の顔は消されたんじゃない。自分たちで消した。
22年前、笑っていたあの頃――彼らは、ひとりの少女を笑いながら閉じ込めた。
倉庫の中で泣いていた園子。
外には、子どもたちの声。
笑っていた。蹴っていた。からかっていた。
“イタズラ”と呼べる範囲で、確かにあの日は終わった。
でも、あれはイタズラじゃなかった。
それは、ひとりの人間の心を閉じ込める儀式だった。
6人は悪意を持っていたわけじゃない。
ただ、笑っていたかった。場の空気を壊したくなかった。
その瞬間の快楽が、ひとりの人生を壊すと知らずに。
だからこそ、この物語は怖い。
悪人なんていない。
いるのは、“空気を読んで加害者になった普通の子どもたち”だけだ。
いじめの現場で生まれた“無自覚の悪意”
6人が園子を倉庫に閉じ込めたのは、“誰かがやろう”と言ったわけじゃない。
自然にそうなった。
その自然さが、この物語の核にある。
悪意は作られない。芽吹くんだ。
その日、クラスの空気が「そういう流れ」になった。
それだけだ。
高木(キング)はリーダーだった。
皆の笑いの中心にいた。
彼の笑顔が「正しい空気」を作った。
その中で、園子は異物だった。
転校生で、言葉が少なく、誰とも深く関われなかった。
その沈黙が“ターゲット”を生む。
子どもの世界のルールでは、黙っている者が“悪”になる。
悪意は沈黙から生まれ、笑いで育つ。
6人の誰もが止められなかったのは、彼らが“いい子”だったからだ。
怒る勇気も、止める力もなかった。
その結果、彼らは“悪いこと”の一部になった。
それが、22年後に蘇る“黒いページ”の正体だ。
いじめをしたという記憶は、彼らの中で“思い出”に変わっていた。
でも、思い出は罪を消さない。
笑い声はいつまでも残る。
夜中、ふとした瞬間に蘇る。
「助けて」という声とともに。
倉庫の扉の向こうに置き去りにされた声
園子があの日、見ていたのはドアの隙間から差し込む光。
その光の外に、笑い声があった。
それは、世界と切り離された子どもの目に焼きついた“永遠の外側”だった。
あの日から、園子の世界は二つに割れた。
内側に閉じ込められた記憶と、外側で笑っていた6人。
だから彼女は復讐を選ばなかった。
彼女はもう、その出来事の“中”にはいない。
彼女が見ているのは、外に出られなかった自分自身だ。
閉じ込めたのは6人。
でも、閉じ込め続けているのは園子の記憶そのものなんだ。
この物語が残酷なのは、復讐の物語じゃないからだ。
6人が死ぬ理由は単純な報いじゃない。
「思い出してしまった」から。
それだけで、人は壊れる。
22年前の倉庫の中で止まった時間が、ゆっくりと現在に追いついていく。
笑い声が、今は悲鳴に聞こえる。
黒く塗られた顔の下で、6人はまだ笑っている。
けれど、その笑いはもう祈りに変わっている。
「ごめん」とも言えなかったあの日の自分たちに、届くことのない祈り。
そして――アルバムのページをめくる音が、まるでドアを開ける音のように聞こえる。
6人はもう知っている。
過去は閉じ込めても、開く順番はいつかやってくる。
“良いこと”も“悪いこと”も、思い出した瞬間に同じ色になる。
タイムカプセルとアルバムの呪い──記憶が仕掛ける復讐
タイムカプセルは“未来への手紙”のはずだった。
でも『良いこと悪いこと』の中では、それが“過去からの召喚状”に変わる。
掘り起こした瞬間に、6人の時間は逆流し始めた。
泥にまみれた缶の中には、夢や希望なんかじゃなく、
誰も開けてはいけなかった記憶が眠っていた。
高木の指がその蓋をひねった瞬間、
彼らの人生に“音”が戻る。
ずっと沈黙していた記憶が、音を立てて目を覚ます。
金属が擦れる音が、まるで倉庫の鍵の音みたいに響く。
あの瞬間、彼らの罪は再生した。
この物語でタイムカプセルとアルバムは対の存在だ。
アルバムは“過去を保存するもの”。
タイムカプセルは“未来に託すもの”。
けれど6人にとって、それはどちらも“過去を逃れられない証”だった。
「思い出す」ことが罰になる
『良いこと悪いこと』の復讐は、血ではなく記憶で行われる。
犯人が誰かなんて、大した問題じゃない。
重要なのは、“思い出すことそのものが罰”になっているという構造だ。
タイムカプセルの中にあった手紙や写真、
それを見た6人の表情は“恐怖”というより“理解”だった。
彼らは思い出した。
あの日の倉庫、園子の泣き声、自分たちの笑い。
そして、それを止めなかった沈黙。
その一つひとつが、彼らの中で時限爆弾のように時を刻んでいた。
人間は罪を忘れる生き物だ。
だけど、罪は忘れられない。
心の底で、ずっと呼吸している。
時間が経てば経つほど、形を変えて蘇る。
それがこのドラマにおける「呪い」の正体だ。
誰かが呪ったわけじゃない。
呪いとは、罪を思い出す瞬間の“心の反応”だ。
そして、それを触発したのがタイムカプセルだった。
つまり――彼らは、自分たちで自分たちを罰している。
思い出した瞬間から、彼らの死は始まっていた。
その構造の中では、犯人は存在しない。
死を招いたのは、過去を閉じ込めた自分たちの手だ。
黒いページの下で眠っているのは、“助けを求める声”
黒く塗られたアルバムと、錆びたタイムカプセル。
この二つのモチーフは、記憶を「見る」と「閉じる」という対の行為を表している。
アルバムを開くことは、過去と再会すること。
タイムカプセルを開けることは、未来を捨てること。
6人はその両方を同時にやってしまった。
園子は言う。「私は犯人じゃない」と。
でも、本当の犯人は“あの日の笑い声”だ。
園子を閉じ込めたのも、6人の笑いが作った空気。
そして今、彼ら自身がその笑いに閉じ込められている。
黒いページの下で眠っているのは、園子の声だけじゃない。
6人それぞれの“助けて”が埋まっている。
誰も口にできなかった後悔、謝れなかった恐怖、
それらが集まって、ひとつの音になる。
その音が今もどこかで響いている。
まるで森の奥で、誰かが替え歌を口ずさんでいるように。
「ある〜ひ、んちゃん 森のなカンタロー……」
その歌声は、復讐の歌ではなく、懺悔の旋律だ。
彼らの中にまだ残る“人間の部分”が、最後の力で歌っている。
謝れなかった日々の代わりに。
このドラマにおける呪いとは、“思い出す勇気”そのもの。
思い出すことは痛い。
でも、それができなければ、人は一生過去の外側に立ち尽くす。
タイムカプセルの蓋を開けた高木の手が震えていたのは、
それを知っていたからだ。
過去は死なない。
そして――思い出す者だけが、生き延びる。
真犯人は誰か──園子でも先生でもない、“記憶そのもの”
物語が進むたびに、視聴者の頭の中で名前が並ぶ。
園子か? 先生か? あるいは生き残った6人の誰かか?
でも、ドラマ『良いこと悪いこと』はそんな単純な推理を裏切る。
この作品の“犯人”は、人でも手でもない。
それは――記憶そのものだ。
園子の周囲で次々と起こる死。
燃える居酒屋、血のない遺体、黒く塗られた顔。
誰かが意図しているようで、誰も動いていない。
あの違和感こそがこの物語の答えだ。
「復讐」ではなく「再生」。
6人を殺しているのは、“あの日の記憶”という形のない力だ。
記憶は人を生かす。
でも、罪の記憶は人を殺す。
それが、このドラマの根にある真理だ。
復讐は血でなく、心で行われる
園子は22年前に倉庫に閉じ込められた。
助けを呼んでも誰も来なかった。
その時、世界が止まった。
彼女の中で時間は、今もあの瞬間に閉じ込められている。
だからこそ、園子が“犯人ではない”のは明白だ。
彼女は復讐する気力すら持っていない。
彼女を動かしているのは、もっと深い――“思い出す衝動”だ。
園子にとって復讐とは、過去を取り戻す行為だ。
誰かを殺すことじゃない。
誰かに“思い出させること”だ。
彼女が黙って見つめるだけで、6人が少しずつ壊れていくのはそのせいだ。
復讐のトリガーは、罪の告白じゃなく、“沈黙の共鳴”。
言葉にしないまま抱えてきた罪が、
園子の存在によって音を立てる。
それは超常的な呪いではない。
人間の記憶が、無意識のうちに自分を裁く“自壊のプロセス”だ。
だから、死は罰ではない。
死は記憶の終わりであり、救済でもある。
罪を思い出すことで、ようやく彼らは“止まった時間”から解放される。
園子が涙を流すたび、過去の音が少しずつ静まっていく。
園子が語る「いい子でいた罰」
園子は、最初から“悪い子”にはなれなかった。
いじめられても、怒ることを選べなかった。
助けを呼ぶことも、叫ぶこともできなかった。
なぜなら、“いい子”でいるように育てられたからだ。
彼女にとって“いい子”とは、生きるための鎧であり、同時に檻だった。
「悪い子になりたくない」――あの台詞は、祈りでもあり、呪いでもある。
その言葉の裏には、“いい子でいたせいで壊れた心”が隠れている。
怒りを抑えることが正しさだと信じていた彼女が、
ようやく自分の中の“悪い子”を受け入れたとき、
復讐ではなく再生が始まった。
だから園子は誰も殺さない。
けれど、彼女の存在が罪を照らす。
その瞬間、6人は自分の影に怯える。
自分で自分を裁いていく。
このドラマで最も残酷なのは、殺人ではなく“記憶の再現”だ。
思い出したくないものを思い出すこと。
それこそが最大の罰。
そして、その罰を与えているのは他でもない、自分自身だ。
『良いこと悪いこと』の真犯人は、「思い出すことの痛み」だ。
人は、思い出すことでしか前に進めない。
だが、思い出すことでしか壊れられない。
園子が抱えるのは怒りじゃない。
それは、赦すための痛みだ。
そして、その痛みを受け止める者だけが、
“良いこと”と“悪いこと”のどちらでもない場所へたどり着ける。
善と悪の境界線が崩れるとき──人はなぜ正しさに溺れるのか
このドラマの中で最も恐ろしいのは、血でも死でもない。
それは“正しさ”だ。
誰もが「いいことをしたい」と思っている。
その気持ちこそが、人を狂わせる。
『良いこと悪いこと』は、善意が人を破壊する過程を描いた物語だ。
高木は、誰よりも正しい男だ。
真面目で、責任感が強く、リーダーとして仲間を守ろうとする。
だがその正しさは、過去を覆い隠すための鎧でもある。
「もう終わったことだ」と言いながら、彼は過去を正当化する。
それが、園子を再び苦しめる。
善意が、悪意の代わりに彼女の心を削る。
この物語では、“悪人”がいない。
それが一番怖い。
全員が、誰かのためを思って行動している。
その結果、誰かを壊している。
“いい子”であることが、人を壊す
園子が最初に言った「悪い子になりたくない」という台詞は、単なる自己防衛ではない。
あれは、長い時間をかけて彼女の心を縛ってきた呪文だ。
彼女はずっと“いい子”でいようとした。
怒りを抑え、悲しみを隠し、笑顔でやり過ごした。
その結果、心が静かに腐っていった。
善意は毒にもなる。
誰かを気づかう言葉が、相手を追い詰めることもある。
「大丈夫?」「元気出して」――そう言いながら、誰も本当の痛みに触れない。
それが、園子の中に積み重なっていった。
そして、22年後、彼女の心に宿ったのは復讐ではなく“静かな怒り”だった。
正しさの中で生き続けた人間は、いつかその正しさに殺される。
ターボーの沈黙も、ニコちゃんの笑顔も、高木の責任感も、
すべて「いい子でいるための苦しみ」だ。
彼らは悪いことをしたわけじゃない。
ただ、悪いことを“見逃した”。
その瞬間、善の側に立つはずの彼らが、無意識のうちに悪を育てた。
それがこの作品のリアルだ。
人は悪を憎むよりも先に、正しさを信じる。
そして正しさは、時に悪より残酷になる。
ターボーと高木が象徴する“救われない優しさ”
ターボーは何もしていない。
それが、彼の罪だ。
彼の優しさは、いつも“後手”だ。
傷つく人を見ても、止められない。
彼は“悪い子にならないために沈黙する”タイプの人間だ。
高木は逆だ。
行動する。助けようとする。守ろうとする。
だがその優しさは、いつも自分のためだ。
彼の正義は他人を救うためではなく、
“自分が加害者ではないことを証明するため”のものだ。
この二人は、“動かない優しさ”と“動きすぎる優しさ”という両極だ。
だが結果は同じ。
どちらも、園子を救えなかった。
どちらの優しさも、本当の意味で他人を見ていない。
自分の罪を覆うために、優しくしている。
その矛盾こそが、このドラマのタイトルの意味を体現している。
「良いこと悪いこと」――それは選択の問題じゃない。
どちらも紙一重で、同じ手の中にある。
誰かを救おうとして、その手で誰かを傷つける。
その瞬間、善と悪は同じ顔をして笑う。
人間は、“正しくあろうとした瞬間”に間違い始める。
高木もターボーも、園子も、そのループの中にいる。
そこから抜け出す唯一の方法は、“正しさ”を手放すことだ。
悪いことをしたと認めること。
怒ること。嫉妬すること。憎むこと。
そのすべてを、ちゃんと自分の中で引き受けること。
それが人間としての“正解”なのかもしれない。
だから、このドラマには救いがないようで、ちゃんとある。
“正しい人間”が壊れていく姿の中に、
ようやく“人間らしい優しさ”が見えてくる。
それは、きれいじゃない。
でも、確かにあたたかい。
『良いこと悪いこと』は、その矛盾を赦すための物語なんだ。
“良いこと悪いこと”の正体──それは人間の中にあるグラデーション
「良いこと」と「悪いこと」は、本当は別の場所にない。
同じ心の中で、呼吸を合わせて生きている。
『良いこと悪いこと』というタイトルは、まるで子どもの道徳みたいに単純だけど、
このドラマはその“単純さ”を徹底的に壊してくる。
人間とは、どんな瞬間も善と悪の中間で揺れている存在だということを、容赦なく突きつけてくる。
登場人物たちは、全員が何かを守るために“正しさ”を選び、同時に誰かを傷つけている。
その繰り返しが22年。
それでも、誰も「悪人」にはならない。
なぜなら、彼らの中で善と悪は混ざり合っていて、切り離せないからだ。
この作品が残酷なのは、人を裁くことよりも、
「裁けないことの苦しさ」を描いている点にある。
悪いことをした人を許せない。
でも、同時にその人の痛みもわかってしまう。
その矛盾が、観る者の心を掴んで離さない。
赦しではなく、自覚の物語
『良いこと悪いこと』は、赦しの物語ではない。
赦すことで救われるなら、人間はもっと簡単に生きられる。
この物語が描いているのは、自覚の物語だ。
自分の中にある醜さ、ずるさ、怠さ、残酷さ――それをちゃんと見つめること。
それができた時、人はやっと“自分の罪”を引き受けられる。
園子が“悪い子になりたくない”と言ったのは、罪から逃げていたからではない。
それを認めた瞬間、壊れてしまう自分を知っていたからだ。
だから彼女は、自分を守るために“いい子”でい続けた。
そして今、その防衛の殻を一枚ずつ剥がしていく。
その痛みこそが、このドラマのリアルな救いだ。
人間は、悪を赦して生きるのではなく、悪を抱えたまま生きていく。
赦しよりも難しいのは、自覚して、それでも前に進むこと。
園子も高木も、6人も、全員がその途上にいる。
善と悪をはっきり分けることに、意味はない。
どちらも人の一部であり、どちらも生きるために必要だ。
“良いことだけ”で作られた人間は、嘘くさい。
“悪いことしか”持たない人間も、壊れている。
その間に立ち、揺れながら、時に泣きながら生きるのが、
このドラマの登場人物たちであり、俺たちそのものだ。
笑っていた子どもたちが、泣く理由
黒く塗られたアルバムの下には、6人の笑顔があった。
その笑顔は作り物じゃない。
本当に楽しかった時間も、確かにそこにあった。
だからこそ、余計に痛い。
“楽しかった”記憶の中に“悪いこと”が混ざっていた。
そして、その事実を知ってしまった今、もう笑うことができない。
人は、笑っている時に一番残酷になれる。
自分の正しさを信じている時ほど、他人を踏みつけにする。
それに気づいた瞬間、笑顔が涙に変わる。
6人が大人になって泣くのは、今になってようやく「人間になった」からだ。
“悪いことをしてしまった自分”を愛せるかどうか。
それが、この物語の問いだ。
赦すのではなく、認める。
逃げるのではなく、見つめる。
黒く塗りつぶされた顔の下に、自分の笑顔があることを、受け入れる。
それができた時、人はようやく“良いこと”の意味を知る。
それは綺麗なことじゃない。
誰かを救うことでもない。
ただ、過去を背負ったまま生きていく覚悟のことだ。
『良いこと悪いこと』というタイトルの答えは、きっとこうだ。
良いことも悪いことも、同じ心から生まれる。
そして、人間はそのグラデーションの中でしか生きられない。
光と影を同時に抱えたまま、歩いていく。
その姿こそが、このドラマが描く“本当の人間”だ。
「犯人探し」よりも「自分探し」
このドラマを見終わったあと、俺の頭にはずっと一つの疑問が残った。
「誰が殺したのか?」じゃない。
「誰がまだ、生きているのか?」だ。
『良いこと悪いこと』はミステリーじゃない。
人の心の中を歩くドキュメンタリーだ。
そしてそこに映っているのは、6人の加害者でも園子でもない。
俺たち自身だ。
人は他人の物語を見て、安心したい。
「あんなこと自分はしない」と。
でも、この作品はその逃げ道を壊してくる。
誰かを閉じ込めたことがない人間なんていない。
言葉で、態度で、沈黙で。
俺たちは何度も、誰かを倉庫に閉じ込めてきた。
“犯人”はいつも、自分の中にいる。
それを突きつけられるから、この物語は怖い。
血が出るよりも、心が痛む。
誰かを裁く物語じゃなく、自分を見つめ直す物語だ。
このドラマは推理ではなく懺悔だ
「良いこと」と「悪いこと」を分ける線はどこにあるのか?
ドラマを見ながら、その線を探していた。
でも見つからなかった。
なぜなら、その線は人によって動く。
その時の感情で変わる。
昨日“良いこと”だったことが、今日は“悪いこと”になる。
だからこそ、この物語は推理ではなく懺悔なんだ。
園子も高木も、ターボーも、みんな「自分は悪くない」と思っていた。
その無自覚が、いちばん深い罪だ。
そして、それを思い出す瞬間、人はようやく“生き返る”。
だから、これは死の物語じゃない。
記憶の中で死んでいた人間たちが、現実に戻るまでの物語。
思い出すということは、苦しい。
でも、苦しむことを恐れたら、何も変わらない。
それを避けて“いい子”で生き続けた結果が、あの6人だ。
だからこの作品は、残酷だけど優しい。
見たあとに残る痛みは、罰じゃなく“目覚め”なんだ。
“誰が悪いか”ではなく、“どこから間違えたか”
犯人探しはいつだって気持ちいい。
誰かを悪者にすれば、自分が少しきれいになれる気がする。
けれど、『良いこと悪いこと』はその快感を奪ってくる。
誰も完全な悪じゃない。
全員が少しずつ、何かを間違えている。
そしてその“少しずつ”が積もって、誰かの人生を壊していく。
だからこの作品を見ると、怖くなる。
自分が無意識に誰かを傷つけたことを、思い出すからだ。
笑っていた瞬間の、自分の残酷さを思い出すからだ。
このドラマの問いは、こうだ。
「あなたは、どこから間違えましたか?」
それを考え続けることが、たぶん“生きる”ってことなんだ。
園子たちは過去を思い出して壊れた。
でも俺たちは、それを見て思い出して、生き直す。
それがこの物語の意味だと思う。
犯人を当てるより、自分を見つける。
誰が殺したかより、なぜ笑っていたか。
『良いこと悪いこと』というタイトルの裏には、そんな静かな祈りがある。
その祈りはこう言っている。
――悪いことをしたままでも、生きていい。
――いい子じゃなくても、生きていい。
それが、このドラマの答えなんだ。
“思い出す勇気”と“忘れたい臆病”──記憶が人を殺し、人を生かす
『良いこと悪いこと』を見ていて、一番心がざわついたのは、
殺人の場面でも、誰かが泣くシーンでもなかった。
静かに誰かが“思い出す”瞬間だ。
あの間。あの呼吸。あの沈黙。
そこにこそ、この物語の真の暴力がある。
人は「忘れる」という才能で生き延びてきた。
けれど、このドラマに出てくる大人たちは、
“忘れたふり”をしてきただけなんだ。
記憶を押し殺したまま、笑って働いて、家庭を築いて、
その笑顔の下で、少しずつ心が腐っていった。
まるで冷蔵庫に閉じ込めた果物みたいに、
外は綺麗なまま、中だけが黒く溶けていく。
思い出すことは、痛い。けど、痛みこそが人を“生かす”もの。
忘れたまま生きることは、死んだまま呼吸しているのと同じだ。
高木がタイムカプセルの蓋を開けた瞬間、
彼は過去を掘り起こしたんじゃない。
自分自身を掘り起こしたんだ。
記憶は敵じゃない。封印しようとする心こそが“真の怪物”
人間は、思い出さないように生きる。
嫌な記憶を遠ざけ、笑顔で上書きして、
“良いこと”で“悪いこと”を消そうとする。
でも、その上書きはいつか剥がれる。
ふとした音、匂い、風、光――
どんな小さな刺激でも、心の奥で眠っていた痛みが目を覚ます。
このドラマが突きつけるのは、
記憶そのものが怪物じゃないということ。
本当の怪物は、「もう終わったことにしよう」と言う心だ。
それは“生きるための逃げ”ではなく、“死ぬための言い訳”だ。
6人のうち、誰が先に死んでもおかしくなかった。
なぜなら、全員がすでに心の中で死んでいたから。
ただ、それを「思い出した順番」に、体が追いついただけだ。
記憶を封じた人間は、
いずれ自分の中で封じ込めた“他人の声”に追われる。
園子が見つめていたのは、恨みじゃなく、その声だ。
「ごめん」と言いたかった声。
「助けて」と言えなかった声。
その両方が、森の奥でまだ反響している。
痛みを抱えたまま生きること、それが“良いこと”の本当の意味
人はみんな、どこかで誰かを傷つけている。
それを完全に消すことはできない。
でも、その痛みを抱えたまま生きていくことなら、できる。
それがこの物語の核心だ。
園子は怒りを捨てない。
高木は正しさにしがみつく。
ターボーは沈黙を守る。
誰も完璧にならない。
誰も“救われないまま”歩いていく。
けれど、その“救われなさ”の中に、確かに光がある。
良いことも悪いことも、同じ記憶の中で育っていく。
そしてその両方を抱えながら、人は大人になる。
このドラマが描いているのは、
罪の物語でも、復讐の物語でもない。
“思い出す勇気”と“忘れたい臆病”が並んで歩く人間の姿だ。
だからこそ、園子の沈黙が美しい。
彼女は言葉を武器にしない。
思い出すことで、自分を取り戻していく。
それは優しさでも、赦しでもない。
ただ、生きるということだ。
このドラマの真のテーマは、
「人はなぜ記憶を捨てられないのか」じゃない。
「なぜ記憶を捨ててはいけないのか」だ。
思い出すことでしか前に進めない。
そして、その痛みを知ることこそが、
人間にとっての“良いこと”なんだ。
『良いこと悪いこと』まとめ──思い出すことでしか、前に進めない
この物語に“ハッピーエンド”はない。
でも、それでいい。
『良いこと悪いこと』は、救いを与えるドラマじゃない。
救いを“見つけようとする人間たち”を描いたドラマだからだ。
黒く塗られたアルバムのページ。
泥にまみれたタイムカプセル。
燃えた居酒屋、閉ざされた倉庫、歌い継がれる替え歌。
それらは全部、“思い出すための装置”だった。
6人が殺されたのではなく、6人が“思い出した”だけ。
この物語の終わりに待っているのは、罰でも赦しでもない。
ただの“自覚”だ。
園子は最後まで“いい子”でいた。
でもその“いい子”は、もう昔の意味ではない。
怒りも悲しみも、自分の中にある悪意さえも、
すべて受け入れた上で、それでも前を向く人間の強さ。
それが彼女の“いい子”だ。
過去は終わらない。終わらせるのは、自分だけだ
タイムカプセルは掘り起こされた。
アルバムの黒いページはめくられた。
つまり、過去はもう地表に出てしまった。
隠せない。閉じ込められない。
あとはどう生きるかだけだ。
人は過去を忘れようとする。
でも、このドラマは言う。
「忘れるな」と。
忘れたふりをすることが、一番の罪だと。
なかったことにするのは、また同じ傷を作るだけだ。
だから園子は笑わない。
笑えないまま、生きていく。
けれどその無表情の奥に、“生”がある。
それは苦しみと同じ温度で燃えている。
思い出すことは痛みだ。
でも、その痛みの中でしか人は再生できない。
“悪いこと”をした自分を否定しない。
“良いこと”をした自分を誇りすぎない。
その中間で、ただ呼吸するように生きる。
それが、ドラマの最後に残るメッセージだ。
記憶は呪いじゃない。生きる証だ
6人の死は、罰ではなく“目覚め”だった。
それぞれの心に閉じ込めていた声が、ようやく外に出た。
園子の涙は、その声を見送るためのものだ。
復讐ではなく、葬送。
このドラマは、過去の“葬り方”を描いている。
記憶は消せない。
でも、それを抱えたままでも人は生きられる。
それどころか、抱えたまま生きるからこそ、人は人になる。
善も悪も、光も影も、笑いも涙も、すべてが生きてきた証。
そのすべてを認めることが、“良いこと”なんだ。
だから最後のページで、黒いインクの下に微かに残る笑顔を見つけたとき、
それは罪ではなく、記憶の証明だ。
生きていたこと、愛していたこと、間違っていたこと。
それを全部ひっくるめて、ようやく人は“前に進める”。
『良いこと悪いこと』というタイトルは、結局こう語りかけてくる。
「どちらでもいい。どちらも人間だ。」と。
善と悪の間で揺れながら、それでも息をしていく。
その揺らぎこそが、生きるということ。
そしてそれが、この物語の唯一の“良いこと”なんだ。
- 『良いこと悪いこと』は、過去のいじめを軸に“記憶の呪い”を描く心理ドラマ
- 黒塗りのアルバムとタイムカプセルが、罪を思い出させる装置として機能
- 復讐ではなく“思い出すこと”そのものが罰であり、救いでもある
- 登場人物たちは皆、“いい子”であろうとして自滅していく存在
- 善意と正しさの裏に潜む無自覚の暴力が、物語の核をなす
- 記憶を封じるのではなく、痛みごと抱えて生きることが“良いこと”の本質
- 園子の沈黙は赦しではなく、自覚と再生の象徴
- 『良いこと悪いこと』は、犯人探しではなく“人間探し”の物語
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