「良いこと悪いこと」第7話ネタバレ “バトン”——友情という名の罪は、誰に渡されたのか

良いこと悪いこと
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第7話「バトン」で描かれたのは、“過去”を繋ぐ手のぬくもりではなく、“罪”を手渡す冷たい指先だった。忘れ去られた7人目・森博士が再び姿を現し、同級生たちの心に沈んでいた傷が一斉に疼き出す。

リレーのように繰り返される後悔。止まることのできない善意と、救えない現実。ちょんまげの死は、単なる事件の進行ではなく、彼らの「正義」が崩壊する音だった。

“いい人”とは何か。“悪い人”とは誰か。——その境界を問い直す夜の物語を、いま解体していく。

この記事を読むとわかること

  • 『良いこと悪いこと』第7話「バトン」が描く“罪の継承”の意味
  • 森博士とちょんまげ、二人の死と赦しに隠された構造
  • 沈黙・共犯・優しさが交錯する、人間の善悪の境界線
  1. 7人目・森博士の正体と、“罪のバトン”が渡された瞬間
    1. 忘れられた同級生が象徴する「記憶の欠落」
    2. 博士=森が背負わされた役割と、操られる善意
  2. ちょんまげの死——赦しを求めて走り続けた男の最期
    1. 「終わらせなければ」という呪いの言葉
    2. 首を刺された理由が示す、“正義の代償”
  3. ターボーの潔白——沈黙の中の「善意の証明」
    1. 独り言が語る、無実のリアリティ
    2. 恐怖の演技ではなく、心の反射としての反応
  4. “バトン”が意味するのは記憶の継承か、罪の継承か
    1. 命を繋ぐのは希望ではなく、後悔かもしれない
    2. 走り続けることが贖罪になるなら、人は止まれない
  5. 犯人は二人いる——協力という名の共犯関係
    1. 見えないもう一人が操る、事件の構造
    2. “森を利用した者”が浮かび上がる伏線
  6. 「良いこと悪いこと」第7話・真意と、光の在り処
    1. “普通”という言葉に隠された暴力
    2. 善悪の境界を超えたところに、ほんとうの人間が立っている
  7. 赦せないという優しさ——「見ない」という選択の裏側で
    1. 優しさはときに残酷で、正義はときに盲目だ
    2. 「見ない」という形の愛も、確かにそこにあった
  8. 「良いこと悪いこと」第7話・感情と構造のまとめ
    1. 博士=森は加害者であり、被害者でもある
    2. ちょんまげの死は、友情の終焉ではなく「罪の継承」
    3. バトンはまだ落ちていない。——それを拾うのは、視聴者だ。

7人目・森博士の正体と、“罪のバトン”が渡された瞬間

この物語の第7話は、忘れ去られた一人の少年を思い出すことで始まる。森博士。かつて同じ教室にいたのに、誰もその存在を覚えていなかったという残酷な設定は、ただのサスペンスの仕掛けではない。人が「記憶から誰かを消す」ということは、その人の痛みを無かったことにする行為でもある。

森は、“いじめ”という名の輪の外にいた存在だった。輪の中の者たちは、彼を「見なかった」ことで平穏を保った。だが、忘却は罪を無効化しない。時間を越えて、彼は“博士”という影の名をまとい、再び彼らの前に姿を現した。これは復讐ではなく、罪のバトンが手渡された瞬間だ。

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忘れられた同級生が象徴する「記憶の欠落」

「もう一人いたんだ」という一言が、画面の空気を変える。6人組の物語が、実は7人組だった。その事実が、観る者の胸の奥に静かに沈殿する。なぜ誰も彼を思い出せなかったのか。なぜ歌の中に「森」という名前が隠されていたのか。——それは、人が“自分の加害”を忘れるようにできているからだ。

この記憶の欠落は、個人の無意識ではなく、社会的な構造の反映でもある。見えない人声を上げない人は、存在しなかったことにされる。森が再び現れるということは、その“抹消された存在”が、物語の中心に戻ってきたということだ。

思い出すという行為は、同時に、罪を再び引き受ける行為でもある。彼を忘れていた全員が、今度はその重さを手に取らされる。バトンは、光ではなく影のように手渡されたのだ。

博士=森が背負わされた役割と、操られる善意

7話では、森が単なる“犯人”ではなく、誰かに利用されていた存在である可能性が示唆される。彼は走って逃げる。追われる。けれどその瞳の奥にあるのは怯えではなく、“やめられない義務”のような光だった。彼が抱えるのは「怒り」よりも「責任」だ。過去の痛みを整理できないまま、誰かに“復讐の理由”を与えられてしまった。

つまり森は、操られた善意の象徴でもある。彼の行動は、正しさを奪われたまま“正義”の言葉で装飾される。人は誰かに「お前は悪くない」と言われたとき、自分の怒りに免罪符を与えてしまう。その瞬間、復讐と救済の区別が消える。

森が映像の中で見せた表情——それは泣いているようで、笑っているようでもあった。きっと彼は、どちらでもなかったのだろう。感情が死に、ただ“使命だけが残る”とき、人は最も壊れた存在になる。そうして彼は、気づかぬうちに新しい“加害者”に仕立て上げられていった。

だからこのエピソードの核心は、“誰が犯人か”ではなく、“誰が森を犯人にしたのか”だ。忘却と善意の連鎖の中で、罪のバトンは今も回り続けている。

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ちょんまげの死——赦しを求めて走り続けた男の最期

リレーの続きを走ろうとした彼は、もう誰のために走っていたのだろうか。ちょんまげ=羽立太輔。彼の死は、事件の転換点であると同時に、登場人物たちの「正義」が音を立てて崩れ落ちる瞬間でもあった。

彼の口から繰り返されたのは、「終わらせなければ」という言葉。それは使命感というより、呪文に近い。森博士との間に何があったのかは描かれない。けれど、彼が“終わらせる”ことで何かを償おうとしていたことだけは、はっきりと伝わる。

しかしこの「終わらせる」は、決して解放を意味しない。むしろ、赦しを与えられなかった人間が、自らに下す最期の刑だったのかもしれない。

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「終わらせなければ」という呪いの言葉

“終わらせる”という言葉は、優しさと暴力のあいだに立っている。彼にとってそれは、森に対しても、自分に対しても向けられた祈りのような刃だった。

過去を見ようとしない仲間たちの中で、唯一、森を覚えていたのがちょんまげだった。だからこそ、彼は罪の中心に最も近い位置にいた。忘れなかった人間は、忘れた者たちのぶんまで苦しむ。その痛みが“正義”と呼ばれる瞬間、物語は狂い始める。

リレーを思い出しながら走る彼の姿は、懺悔の儀式のようだった。足音は焦燥で、息は祈りに似ていた。だがその祈りが届く前に、彼の首にナイフが突き立つ。音もなく倒れ、血の赤が床を染める——それは“終わり”ではなく、“次の走者”への合図のようだった。

首を刺された理由が示す、“正義の代償”

ちょんまげは腹ではなく首を刺された。これは単なる演出ではない。首は「声」の場所だ。彼が“真実を語ろうとした者”であることを象徴している。沈黙させられたのは、肉体ではなく「語る意志」だった。

正義とは、語ることで生まれる。しかし同時に、語ることは他者を暴く行為でもある。森を救おうとしたその口が、森の罪を暴く刃になったのだとしたら——彼の死は、善意が牙をむいた瞬間だった。

視聴者の多くは「彼が死ぬなんて」と悲しんだだろう。だがこの死は、物語のバランスにとって“必要悪”のように配置されている。赦される側が生き、赦そうとした側が死ぬ。この反転構造こそ、第7話の最大の皮肉だ。

血の色は鮮やかだが、彼の死の余韻は静かだった。静寂の中で響くのは、まだ終わらない「バトン」の音。——彼の命が途切れても、走り続ける者がいる。その誰かが、次の罪を背負う。

ターボーの潔白——沈黙の中の「善意の証明」

この物語で最も“普通”に見えるのがターボーだ。彼はいつも場を和ませ、冗談を言い、誰かの陰に立つ。だが第7話でその“普通”が揺らいだ。ちょんまげの死を前に、彼が一人つぶやいた言葉が、物語の空気を変えた。

「アイツどこにいんだよ」——その独り言は、脚本の中で最も小さな声なのに、最も大きな真実を語っていた。もし彼が犯人なら、この言葉は出ない。嘘をつく者は沈黙を恐れ、演技で埋めようとする。だがターボーの沈黙は自然だった。無実の人間だけが持つ“間”がそこにあった。

第7話の彼は、ずっと“聞く側”に回っている。ゆっきーやトヨの話に耳を傾けながら、誰よりも表情が動く。信じたい、でも怖い。その葛藤が、彼を“善意の観察者”にしていた。

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独り言が語る、無実のリアリティ

人は嘘をつくとき、言葉を整える。だが本心は整わない。ターボーの独り言には、呼吸の乱れ、声の震え、間の迷いがあった。それは演技ではなく、感情の反射。まるでカメラの前に立つ俳優ではなく、事件の中に取り残された“人間そのもの”の声だった。

ターボーは“真実を知る側”でも、“操作する側”でもない。彼は常に「理解しようとする側」にいる。だから、彼のリアクションには一切の仕掛けがない。純粋で、危うい。それが彼の強さであり、同時に弱さでもある。

この作品は、沈黙をどのように扱うかで人物の深度を測っている。ちょんまげは語りすぎて死に、森は語れずに壊れ、ターボーは沈黙の中で生き延びる。この三者の対比こそ、第7話の“人間実験”のような構造を生み出している。

恐怖の演技ではなく、心の反射としての反応

ターボーの「怖がり方」は、他のキャラクターと違う。悲鳴もない。走りもしない。代わりに、目の奥だけが一瞬にして震える。恐怖が外に出ないのは、心が本能的に守りに入っているからだ。人は極限状態では、声を出すよりも先に“世界の音”を聞こうとする。ターボーの静けさは、戦いの姿勢なのだ。

第7話の中で、彼の目線が何度もカメラに対して外れる。視聴者と視線を合わせない演出。——それは、彼が“まだ何かを見たくない”という拒絶のサインでもある。だが、その拒絶は臆病さではない。人間の限界としての優しさだ。

恐怖を演じないこと。悲しみを見せないこと。それは冷たさではなく、誠実さの一形態だ。ターボーの沈黙は、罪の世界で唯一“救い”として響く。彼が生き延びることは、正義がまだ死んでいない証明でもある。

“バトン”が意味するのは記憶の継承か、罪の継承か

第7話のタイトル「バトン」は、単なるリレーの比喩ではない。それは、誰かの痛みを次の誰かが受け取るという“感情の継承”を意味している。『良いこと悪いこと』というタイトルそのものが示すように、このドラマは善悪の境界を曖昧にしながら、人が何を受け取り、どう生きるのかを問い続けている。

第7話では、リレーの記憶と殺人事件が同じ構造で描かれる。子どもの頃に交わした「次は勝つ」という言葉が、大人になった今、“次こそ償う”という形で再生される。だが、その“バトン”が渡されるたびに、誰かが傷つき、誰かが消えていく。希望ではなく、後悔の連鎖としての継承。それこそがこのエピソードの核だ。

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命を繋ぐのは希望ではなく、後悔かもしれない

人は希望よりも後悔で繋がる。『良いこと悪いこと』の登場人物たちは皆、過去に後悔を抱え、それを回収するように再会していく。高木、ちょんまげ、ターボー、そして森博士。誰もが“やり直したい”と願いながら、結局は“もう遅い”という現実に追いつかれてしまう。

バトンは希望の象徴ではなく、過去を手放せない人間たちの証として描かれる。ちょんまげが命を落とした瞬間も、その手には「誰かに渡そうとしていた記憶」が握られていた。血の中に落ちたその想いを、次に拾うのは誰か。それがこのドラマを観る者への問いでもある。

希望は眩しすぎて、時に人を盲目にする。だが後悔は暗闇の中で光る。痛みを知ることでしか見えない道がある。“良いこと”の裏には、いつも“悪いこと”が潜んでいる。それを認めたとき、人はやっと“普通の人”に戻れるのかもしれない。

走り続けることが贖罪になるなら、人は止まれない

工場跡で繰り返されるリレーの再現シーンは、象徴的だ。かつての運動会では勝てなかった“次”を、彼らは今も走り続けている。だがその“次”は、もう誰のためのものでもない。勝ち負けのないレースで、彼らはただ走ることだけを続ける。

走ることは、逃げることでもあり、祈ることでもある。贖罪は静止できない行為だ。止まってしまえば、罪の重さに押しつぶされる。だから人は、走る。転んでも、誰かの名を呼びながら。

バトンを受け取るということは、責任を背負うことではなく、痛みを引き継ぐことだ。『良いこと悪いこと』の世界では、走る者=生き残る者という方程式が成立する。彼らは勝利のためではなく、罪を風化させないために走り続けている。

リレーのゴールは存在しない。あるのは、途切れそうで途切れない“線”。その線が、人間の業のように物語を繋ぎ止めている。『良いこと悪いこと』というタイトルが示すとおり、善悪の境界を走り抜けた先にあるのは、ただ“生きている”という痛みだけだ。

犯人は二人いる——協力という名の共犯関係

『良いこと悪いこと』第7話は、ついに事件の奥底にある「二人組の影」を見せる。犯人は二人いる。それはただのどんでん返しではなく、物語の根幹にある“共犯という構造”を暴くための仕掛けだ。ひとりが手を汚し、もうひとりがその手を導く。——その歪んだバランスが、この作品の“人間の形”そのものになっている。

「協力」という言葉は、このドラマでは最も危険な響きを持つ。人は誰かのために行動するとき、知らず知らずのうちに「共犯者」になる。森博士が利用されていたという展開は、その構造の象徴だ。彼は加害者の一人に見えながら、実は誰かに“正義の指示”を与えられていただけなのかもしれない。

この“二人”の構造は、表面的な犯罪だけでなく、登場人物たちの心の中にも存在する。人はみな、自分の中にもうひとりの自分を飼っている。善悪の境界を踏み越えるその一歩の裏側に、常に誰かが囁いている。「やっていいんだ」と。「それが正しい」と。だからこそ、この回の“共犯”は恐ろしいほど日常的なのだ。

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見えないもう一人が操る、事件の構造

物語上、森の行動には一貫して“誰かの意図”が見え隠れする。工場跡の照明がついていたこと、掲示板への書き込みが森の筆跡ではなかったこと。——それらは、もう一人の存在が彼を操っていた証拠だ。つまりこの事件は、ひとつの殺人劇ではなく、“二重に構成された罪の劇場”だったのだ。

視聴者が見ているのは表層であり、真犯人は裏側の“編集者”として存在している。リレーの映像を撮る手。書き込みを操作する手。まるで過去の記録を再生するように、彼らの記憶を操る。『良いこと悪いこと』というタイトルが皮肉なほど響くのは、そこに“行動の正しさ”と“意図の悪さ”が分離して描かれているからだ。

高木たちが“森を追う者”として動いていた一方で、森自身もまた“追われる誰か”に導かれていた。人間関係の階層が何重にも折り重なり、誰もが誰かの操り人形になっていく。犯人が二人いるという設定は、人間が一人で罪を作れないことの比喩でもある。

“森を利用した者”が浮かび上がる伏線

この回で提示された最も不穏な要素は、森を利用した人物の存在だ。アルファードでの送迎シーン、映像を撮るもう一人の影、そして“森が持っていたはずのスマホ”が途中で暗転する演出。これらは偶然ではなく、“森を使って罪を演出した者”の存在を示唆している。

もし森がただの操り人形だったとしたら、真の犯人は「人の心を操作すること」に長けた人物だ。暴力ではなく、言葉で人を動かす者。善意を悪意に変える術を知っている者。——それは、現実の私たちにも共通する恐怖だ。

そして、その“もう一人”が誰なのかは明かされないまま幕を閉じる。だが、作品の構造上、その人物はすでに画面に映っている。観る者の想像を誘うように、監督はあえてヒントを散らしている。「誰かを信じること」が、この物語における最大のリスクなのだ。

第7話の終盤、再びリレーの映像が重ねられるとき、走る者の姿が誰なのか分からなくなる。二人が交差し、ひとつの影になる。そこにはもう、個人の罪も動機もない。あるのは、共犯関係という“形を持たない怪物”だけだ。『良いこと悪いこと』は、その曖昧な闇の中で、人がどこまで正義を信じられるかを試している。

「良いこと悪いこと」第7話・真意と、光の在り処

『良いこと悪いこと』というタイトルは、ドラマのすべてを言い表している。人は生きていくうちに、良いことも悪いことも、意識せずに積み重ねていく。だが第7話で描かれたのは、そのどちらも“他者の中で形を変える”という残酷な真実だ。善意が悪意に変わる瞬間悪意が誰かを救う瞬間——その狭間で人は立ち尽くす。

このエピソードの登場人物たちは、誰も“正義”を持たない。持っているのは、それぞれの後悔と、赦されたいという切実な欲求だけだ。彼らは犯人を追っているようでいて、実際には自分の中の“犯人”を探している。リレーで繋がれたのはバトンではなく、痛みの記憶だった。

そして、それでも走る。誰かの名を呼びながら、誰かの背中を追いながら。彼らの姿は、正しさを求める現代の私たちそのものだ。

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“普通”という言葉に隠された暴力

第7話の根底には、“普通の人でありたい”という願いがある。だが、“普通”という言葉ほど暴力的なものはない。社会が定めた「普通」は、他人の痛みを見ないことで成り立っている秩序だ。森博士が忘れられたのも、ちょんまげが孤立したのも、その“普通”の外にいたからだ。

誰かを排除し、見ないふりをすることで保たれる平和——それが“良いこと”として語られる世界で、真実はいつも悪の側に追いやられる。『良いこと悪いこと』は、視聴者にその構造を突きつける。「あなたの普通は、誰かの痛みの上に立っていないか?」という問いを。

だからこそ、このドラマの登場人物たちは極端なまでに“不器用”だ。正しくなろうとするたびに傷つき、優しくなろうとするたびに壊れていく。だがその不器用さの中に、人間の尊厳が宿っている。

善悪の境界を超えたところに、ほんとうの人間が立っている

『良いこと悪いこと』は、善か悪かを決める物語ではない。むしろ、その境界を超えた場所に“ほんとうの人間”が立つことを描いている。森も、ちょんまげも、ターボーも、結局は同じ場所に辿り着く——「自分は何者なのか」という問いの前だ。

そこには光も闇もない。ただ“生きる”という行為があるだけだ。罪を背負っても、赦されなくても、それでも人は生きる。それこそが、最も“普通でありながら最も尊い”ことなのかもしれない。

ラストシーンで流れる「アゲハ蝶」の旋律が、静かに夜を包み込む。光のない場所にも、音だけは残る。——その音こそが、この物語の希望だ。『良いこと悪いこと』第7話は、“誰も完全な悪ではないし、誰も完全な善でもない”という、痛みと赦しの真理を描き切った。

だからこそ、私たちはもう一度問われる。「良い人」になろうとする前に、「人であること」を、やり直せるかと。

赦せないという優しさ——「見ない」という選択の裏側で

『良いこと悪いこと』第7話を見ていて、いちばん胸に刺さったのは“誰も怒らなかった”ことだ。森が現れても、ちょんまげが死んでも、誰も真正面から怒らない。代わりに、曖昧な沈黙と視線の揺れだけが残る。まるで、怒ること自体が誰かをまた傷つけてしまうことだと、全員が知っているみたいだった。

このドラマの残酷さは、怒りが暴力ではなく、優しさとして機能してしまうことにある。赦したい。けれど赦せない。忘れたい。けれど忘れたら誰かが消えてしまう。その矛盾が、ずっと登場人物の中で渦を巻いている。

第7話は「バトン」という言葉で、人が罪を繋ぐ構造を描いた。でも同時に、それは“見ないふりの連鎖”でもあった。誰も真正面から森の痛みを見なかった。彼を思い出しても、優しさで包み隠した。——それが彼をもう一度、孤独にした。

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優しさはときに残酷で、正義はときに盲目だ

ちょんまげが死ぬ直前、森に向けて言った「終わらせよう」という言葉。あれは止めの一撃ではなく、救いのつもりだった。だけどその優しさが、結果的に刃物を呼んだ。人を救おうとした手が、人を追い詰める。それが、このドラマが突きつける現実だ。

ターボーもゆっきーも、結局は誰かを「守ろう」として行動している。けれどその“守り方”が、相手の痛みを奪ってしまうことに気づいていない。人はときに、優しさで他人の声を奪う。だからこそ、森の存在が怖い。彼は“優しさの被害者”だからだ。

善人たちの世界で、いちばん深く傷つくのは、悪人ではない。誰かの優しさに耐えられなかった人間だ。第7話は、その事実を容赦なく見せつけてくる。

「見ない」という形の愛も、確かにそこにあった

怒らず、責めず、ただ黙っている——それもまたひとつの愛の形だった。高木も園子も、森の存在に向き合いきれなかった。けれどその“見ない”は、逃避ではなく保留のようにも見えた。人は、誰かを赦す準備ができるまでの時間を必要とする。それが沈黙という名の愛だ。

この作品がすごいのは、その“見ない”を肯定も否定もしないところ。ドラマの中で、それはただ〈ある〉。視聴者がどんなに歯がゆく感じても、登場人物たちはそのままの不器用な形で生きている。だからこそリアルだし、美しい。

第7話は、怒りや涙よりも“沈黙”で記憶に残る回だった。誰も声を荒げないまま、空気だけが震える。赦すことよりも、赦せないままそばにいること。その痛みに耐えること。それこそが、この物語における“人間の優しさ”の最終形なのかもしれない。

「良いこと悪いこと」第7話・感情と構造のまとめ

『良いこと悪いこと』第7話「バトン」は、ただの事件回ではなかった。そこには、人間が抱える〈記憶の曖昧さ〉と〈赦されたい衝動〉が、複雑に絡み合っていた。物語を見終えた後、観る者の胸に残るのは「誰が悪かったのか」ではなく、「なぜ誰も救われなかったのか」という問いだ。脚本はその“答えのなさ”こそを真実として描いている。

登場人物たちは皆、正義と後悔のはざまで揺れている。だからこそ、このドラマの感情構造は“多層的”だ。被害者が加害者になる瞬間善意が他人を傷つける瞬間が幾度も重なり、そのたびに視聴者の価値観を静かに崩していく。第7話はその象徴であり、物語全体の縮図と言える。

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博士=森は加害者であり、被害者でもある

森博士という存在は、この作品の“人間とは何か”というテーマを体現している。彼は他者を傷つけたが、それは自らの傷から逃れるためでもあった。加害と被害の境界が、ひとりの人間の中で曖昧になる。その曖昧さを、ドラマは断罪せず、ただ映し出した。彼の苦しみは、単なる動機ではなく「記憶に置き去りにされた痛み」そのものだ。

森を“悪”と断定できないのは、彼が視聴者自身の鏡だからだ。誰かを忘れたこと、見なかったこと、無意識にすれ違った過去——それらのすべてが小さな“共犯”なのだと、物語は告げている。森の存在は、「人間は誰もが誰かの記憶を欠いて生きている」という現実の象徴である。

ちょんまげの死は、友情の終焉ではなく「罪の継承」

ちょんまげが命を落とした瞬間、友情は終わらなかった。むしろ、そこから始まったのだ。彼の死は、仲間たちが過去を見つめ直すための“儀式”のように描かれている。彼が流した血は、過去の罪を洗い流すものではなく、その痛みを次へと繋ぐための「印」だった。

友情は綺麗なものではない。ときに残酷で、ときに自己満足的で、それでも人を繋ぎ止める。ちょんまげの死は、その“人間らしさの証明”である。彼が残した言葉「終わらせなければ」は、事件の終わりではなく、人間の赦しの始まりを意味していた。

バトンはまだ落ちていない。——それを拾うのは、視聴者だ。

第7話のラストで流れるリレーの映像。それは過去の回想でありながら、現在の私たちへのメッセージでもある。物語の登場人物が抱えていた“罪のバトン”は、今や視聴者の手の中にある。あなたはその痛みを見て見ぬふりをするのか、それとも拾い上げるのか。その選択が、作品の続きになる。

『良いこと悪いこと』は、事件を解決する物語ではなく、“人を見つめ直す”ための物語だ。森の涙も、ちょんまげの沈黙も、ターボーの戸惑いも——すべてが私たちの中にある。だからこそ、バトンはまだ落ちていない。誰かが拾い、また走り出す。その誰かこそ、スクリーンの外にいる私たちだ。

そして、走る理由はもう問わなくていい。良いことも、悪いことも、ただ“生きる”という同じレーンの上にあるのだから。

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この記事のまとめ

  • 第7話「バトン」は“罪の継承”を描く核心回
  • 森博士は加害者であり被害者という二重性を象徴
  • ちょんまげの死は赦しではなく、痛みの引き継ぎ
  • 犯人は二人存在し、人間の共犯構造を浮き彫りに
  • ターボーの沈黙が「善意の証明」として輝く
  • 工場跡と音の演出が“止まった時間”を可視化
  • 「赦せない」という優しさがテーマの裏側に潜む
  • “普通”という言葉の暴力が、登場人物を縛る
  • 善悪の境界を越え、ただ「人間」として生きる姿を描いた
  • バトンはまだ落ちていない——それを拾うのは視聴者だ

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