「良いこと悪いこと」子役が映した“純粋と残酷”の境界線──小さな瞳が見た22年前の罪

良いこと悪いこと
記事内に広告が含まれています。

ドラマ「良いこと悪いこと」は、過去と現在を交錯させるノンストップミステリー。

しかしこの物語の本当の震源は、“小学生時代”を演じる子役たちの眼差しにある。

まだ「良いこと」と「悪いこと」の違いを知らぬ年齢で、善悪を演じる。その無垢さこそ、この物語が放つ最大のリアリティだ。

この記事を読むとわかること

  • ドラマ「良いこと悪いこと」で子役たちが果たした重要な役割
  • 善悪の境界を描く中で、子役たちの“無垢な演技”が作品を動かす理由
  • 子どもの視線を通して浮かび上がる、人間の記憶と感情の構造
  1. 「良いこと悪いこと」子役たちが演じた“善悪のはじまり”
    1. 22年前、小さな教室で生まれた“嘘の種”
    2. 善意が悪意に変わる瞬間──彼らの演技が物語るもの
  2. 主要キャストの幼少期を支えた10人の子役たち
    1. キング役・野林万稔:支配ではなく、正義を信じた少年
    2. 園子役・鈴木礼彩:静かな転校生が映した「他者の痛み」
    3. 森優理斗・本屋碧美・渡邉櫂…それぞれの“記憶の断片”
  3. 子役パートが物語の鍵──「過去」がすべてを暴く
    1. 塗りつぶされた卒業アルバム、“6人の黒い顔”の意味
    2. 子供時代の行動が、34歳の現在を支配する構図
  4. 演出が仕掛けた“子どもの目線”の恐ろしさ
    1. 監督が狙った「純粋=狂気」という対比
    2. なぜ大人ではなく子役が“真実”を語るのか
  5. キャスト紹介:無垢の演技で時を越えた10人の名
    1. 野林万稔(間宮祥太朗・幼少期)──静かな支配者“キング”
    2. 鈴木礼彩(新木優子・幼少期)──“どの子”と呼ばれた転校生
    3. 森優理斗/本屋碧美/渡邉櫂/湊/松岡夏輝/渡邉斗翔/和田愛海/川野結太──記憶を繋ぐ群像
  6. 「演じる」じゃなく「生きる」──子役たちが見せた“記憶の構造”
    1. 感情を再現するのではなく、拾い上げる
    2. 教室という舞台は、社会の縮図ではなく“人間の設計図”だった
  7. 「良いこと悪いこと」子役たちが問いかけたもの──まとめ
    1. “正しいこと”は、いつから“良いこと”になったのか
    2. 無垢な演技が映した、私たちの心の鏡

「良いこと悪いこと」子役たちが演じた“善悪のはじまり”

ドラマ「良いこと悪いこと」を観るとき、視聴者の多くは大人たちの関係性やミステリーの構図に目を奪われる。

しかし、本当の“物語の震源”は、22年前のあの教室――まだ声変わりもしていない子どもたちの眼差しにある。

子役たちはただ「過去を再現するための装置」ではない。彼らの演技が、善と悪の境界線を初めて踏み越える瞬間を、視聴者の記憶に刻みつけるのだ。

22年前、小さな教室で生まれた“嘘の種”

「良いこと悪いこと」の始まりは、6年1組というありふれた教室。

黒板の粉の匂い、消しゴムの削れた跡、そして子どもたちの笑い声――。

その日常の中に、わずかな“歪み”が生まれる。ほんの小さな嘘。悪気のない冗談。仲間はずれ。それらが連鎖して、22年後に殺意へと姿を変える。

この教室での時間を演じるのが、野林万稔、鈴木礼彩、森優理斗、本屋碧美たち。

彼らの演技は“再現”ではなく“再生”だ。彼らが息をするたび、過去の空気がスクリーンの中で再び脈打つ。

たとえばキング役の野林万稔。彼の静かな視線は、支配ではなく「正義を信じていた少年」の純粋さを湛えている。

その正義が、ほんの少し歪むだけで“命を奪う力”に変わることを、彼の無言が教えてくれる。

一方、転校生・園子を演じる鈴木礼彩は、感情を抑えた淡い演技で「他者の痛み」を伝える。

彼女の沈黙は、言葉以上に語る。“悪意を知らない者が、悪意を受けた瞬間”の心の揺らぎを、たった一度のまばたきで見せる。

彼らは脚本の意図を超えて、「なぜ人は悪に手を染めるのか」という普遍的な問いを演じている。

それは大人の俳優がいくら技巧を凝らしても届かない領域――“純粋さが残酷さを映す鏡”のような場所だ。

善意が悪意に変わる瞬間──彼らの演技が物語るもの

この作品において、善と悪はコントラストではない。

むしろ、どちらも“他人を思う心”から始まっている。

子役たちはその矛盾を、わざとらしくなく、ただそこに“在る”だけで体現する。

森優理斗が見せる表情の変化には、嘘をつくことの痛みと快楽が同居している。

本屋碧美の笑顔は、他人を救おうとして、かえって誰かを傷つけてしまう“優しさの罠”を象徴している。

そして渡邉櫂の一瞬の沈黙。彼の瞳の奥にあるのは、善悪を超えた“恐怖”そのものだ。

彼らは演技をしているのではない。人間の中に芽生える“初めての罪悪感”を、体で覚えていく。

監督はそれを利用するのではなく、寄り添うように撮っている。

カメラが静かに揺れるたび、視聴者はあの教室に立ち戻り、自分がかつて見逃した誰かの涙を思い出す。

「良いことをしたつもりだったのに、誰かが傷ついていた」――その体験は誰にもある。

このドラマは、その記憶を再生する。子役たちが、その鍵を握っている。

彼らの小さな手が握りしめた“善意のかけら”は、時を越えて物語の爆心地になる。

だからこそ、視聴者は彼らをただの回想パートとして見過ごすことができない。

彼らが泣いた瞬間、物語は「過去」ではなく「現在」になる。

それが、「良いこと悪いこと」における子役たちの真の役割だ。

彼らは“過去を演じる俳優”ではなく、“罪の原点を生きる証人”なのだから。

主要キャストの幼少期を支えた10人の子役たち

「良いこと悪いこと」の過去パートには、10人の子役が登場する。

彼らは単なる“再現要員”ではない。大人になった登場人物たちの“心の根っこ”を生きる存在だ。

彼らの表情、声、歩き方、沈黙のタイミング。そのすべてが、22年前の教室を現在へと引きずり戻す。

キング役・野林万稔:支配ではなく、正義を信じた少年

野林万稔が演じる高木将――あだ名は「キング」。

リーダーとして皆をまとめる少年だが、その“強さ”の裏に潜むのは、「誰かを守りたい」という幼い使命感だ。

彼の眼差しは、支配ではなく信頼を求めている。

野林の演技は驚くほど静かだ。大人びた台詞回しも、過剰な感情表現もない。

それでも教室の空気が一瞬で引き締まるのは、彼が発する“無意識の圧”がリアルだからだ。

まるで、子どもが初めて「正義」という言葉を口にした瞬間の緊張が、画面越しに伝わってくるようだ。

監督は彼に「支配するように振る舞わなくていい」と指示したという。

その言葉どおり、野林のキングは“命令する王”ではなく、“秩序を保ちたい少年”。

しかしその正義感が、やがて誰かを追い詰めてしまう。“良かれと思った行動”が悲劇を呼ぶ――このドラマの根幹が、彼の存在で描かれる。

一瞬の眉の動き、一呼吸の間。それらが視聴者に問いを残す。

「正義って、誰のためにあるんだろう?」と。

園子役・鈴木礼彩:静かな転校生が映した「他者の痛み」

鈴木礼彩が演じるのは、転校生・猿橋園子。

クラスの中で「どの子」と呼ばれるほど、印象の薄い少女。

しかし、その“目立たなさ”こそが彼女の存在の意味だ。

鈴木は、感情を声ではなく身体の“温度”で表現する。

彼女の手の置き方、足のそろえ方、視線の揺れ。

それらが、園子の孤独と観察者としての立場を描く。

特に印象的なのは、彼女が初めて笑うシーンだ。

その笑顔には、仲間に受け入れられた安堵と同時に、「これが最後の笑顔になるかもしれない」という儚さが滲む。

鈴木の演技は、感情の起伏よりも“余白”が美しい。

彼女が沈黙する場面こそ、物語の中で最も強いメッセージを放っている。

監督が園子のキャラクターを「物語を見つめる鏡」と位置づけたのは、そのためだろう。

彼女は善悪を判断できないまま、ただ世界を観察する。

そしてその観察が、22年後の事件を“記憶の奥”で記録していたのだ。

森優理斗・本屋碧美・渡邉櫂…それぞれの“記憶の断片”

物語を構成するもう一つの要素は、脇を固める子役たちだ。

森優理斗は「ちょんまげ」こと羽立太輔役で、リーダーに憧れながらも、自分の居場所を探す少年を演じる。

彼の早口なセリフ回しには、子どもの焦りと承認欲求が滲む。

本屋碧美が演じるニコちゃんは、誰よりも優しく、誰よりも傷つきやすい存在。

彼女の笑顔の下にある小さな不安が、物語の“優しさの罠”を象徴している。

そして渡邉櫂の「トヨ」は、理屈で世界を理解しようとする少年。

彼の演技は静かで、理性的で、どこか達観している。

だが、その冷静さが崩れた瞬間、“人間の脆さ”が一気に流れ出す。

この三人がいることで、物語は単なる回想ではなく、“記憶の群像劇”として成立する。

彼らはそれぞれ異なる痛みを持ち寄り、過去という舞台でひとつの“集合的罪”を描き出す。

10人の子役たちの演技を通して、視聴者は“善悪の種”がどう芽吹いたのかを知る。

彼らは小さな俳優ではない。物語の記憶を代弁する、時間の証人なのだ。

そしてその記憶が、今も私たちの心のどこかで静かに疼いている。

子役パートが物語の鍵──「過去」がすべてを暴く

「良いこと悪いこと」の物語は、常に“過去”に引き戻されていく。

その引力の中心にいるのが、子役たちの存在だ。

彼らの笑い声や涙は、ただの回想ではなく、現在の登場人物たちの心を支配する“記憶の亡霊”として生きている。

塗りつぶされた卒業アルバム、“6人の黒い顔”の意味

物語の象徴的なモチーフとして登場する、卒業アルバムの6人の黒い塗りつぶし

それは一見すると単なる不気味な演出だが、真実はもっと静かで、もっと深い。

この“黒”は、誰かが故意に隠した「記憶の空白」であり、同時に、子どもたちが無邪気に撒いた“罪の影”の跡なのだ。

小学校の教室という閉じた空間の中で、彼らは知らず知らずのうちに線を引いてしまう。

「良い子」と「悪い子」――たったそれだけの分類。

けれどその分類が、22年後の彼らを引き裂く刃となる。

子役たちはその“黒い顔”の裏側を、セリフではなく身体の反応で演じている。

たとえば、写真撮影のシーン。カメラのシャッター音に合わせて、ひとりが一瞬だけ目を伏せる。

その瞬間、視聴者は直感的に理解する。「この子は何かを知っている」と。

演出は緻密だ。音楽も照明も最小限。子どもの表情の揺れだけが真実を語る。

そして、塗りつぶされた黒が象徴するのは「誰かの悪意」ではなく、“誰もが犯した無意識の罪”だ。

それを可視化する役を担うのが、まさに子役たちなのである。

彼らの無垢な顔が映るたびに、視聴者は自分の小学生時代を思い出す。

何気ない冗談、見て見ぬふり、誰かを笑いものにした午後。

このドラマが怖いのは、事件そのものではなく、「あの頃の自分も同じだったかもしれない」という記憶を呼び覚ますことだ。

子供時代の行動が、34歳の現在を支配する構図

大人たちの物語は、すべて子ども時代の“わずかな選択”から始まっている。

そしてその選択を演じたのは、野林万稔や鈴木礼彩をはじめとする子役たちだ。

彼らの一つひとつの表情が、現在の登場人物たちの行動原理に重なっていく。

たとえば、野林演じる“キング”が見せる小さな裏切りの瞬間。

それは間宮祥太朗が演じる現在の高木将の「正義への執着」へと変換される。

子どもの何気ない罪悪感が、大人になって“贖罪の執念”になる。

鈴木礼彩の園子が見せた沈黙は、やがて新木優子の園子が抱える「他人を信じられない性質」へと繋がる。

つまり、子役の演技が、そのままキャラクターの現在を形づくっているのだ。

監督は子役パートを“過去の映像”としてではなく、“記憶の中の現在”として撮っている。

だから視聴者は、過去と現在を行き来するたびに、どちらが本物かわからなくなる。

それはまるで、自分自身の記憶を覗き込んでいるような錯覚だ。

さらに興味深いのは、子役たちの演技が“脚本の余白”を埋めている点だ。

セリフにない感情、脚本に書かれていない動き。

たとえば、授業中に机の角を指でなぞる仕草。

それは、彼らが無意識に描いた「後悔」の前触れだ。

監督はその無意識を逃さない。

ほんの数秒の動作を拡大し、音を消し、時間を止める。

その瞬間、視聴者は気づく。“罪”は行動ではなく、忘却の中で育つものだと。

子どもたちが犯した“良かれと思ったこと”。

それこそが、大人になった彼らを苦しめる“悪いこと”の始まりだった。

このドラマは、子役たちが生きる「過去」を通して、“善悪とは何か”という問いを、私たちの現在に突きつける。

過去は終わらない。彼らの演技がある限り、私たちはその記憶を生き続ける。

演出が仕掛けた“子どもの目線”の恐ろしさ

ドラマ「良いこと悪いこと」の恐ろしさは、決して血や悲鳴ではない。

それは“子どもの目線”というカメラアングルに潜んでいる。

観る者を不意に過去へと引き戻し、心の奥に眠っていた小さな罪悪感を呼び覚ます仕掛けだ。

監督が狙った「純粋=狂気」という対比

監督はこの作品で、意図的に「純粋」と「狂気」を同じ画角に置いた

たとえば、子どもたちが笑いながら走るシーン。画面は明るく、音楽も軽やかだ。

しかしその笑顔の奥に、どこか不穏な“静寂”が流れている。

カメラは彼らの視線の高さに合わせて低く構えられ、世界を“下から見上げる”形で撮られる。

この構図こそが恐怖の正体だ。

大人が見下ろしていた世界を、子どもたちは“見上げる”ことで歪ませてしまう。

純粋な瞳が見ているのは、美しい道徳ではなく、矛盾に満ちた現実だ。

教師の笑顔の裏にある苛立ち。友達の優しさに潜む支配欲。

それらを子どもの無垢な視点で映すことで、監督は「善」と「悪」がいかに隣り合わせかを描き出している。

特に印象的なのは、放課後の教室を俯瞰で撮るシーン。

夕陽に照らされた黒板、机に残るチョークの粉。静けさの中で、誰もいない椅子がひとつ揺れる。

そのわずかな揺れが、まるで誰かの“心の震え”のように見える。

監督は説明を排し、視覚と言葉の間の“余白”で恐怖を語る。

純粋さが狂気に変わる瞬間――それを演じるのは、演技の技術ではなく「無意識のまなざし」だ。

子役たちはその“無意識”を演じていない。ただ、そこに生きている。

だからこそ、視聴者は彼らの瞳の奥に「理解不能なもの」を感じ取る。

それは悪ではなく、ただの“まっすぐさ”だ。

しかし、そのまっすぐさが、ときに残酷さよりも深く心をえぐる。

なぜ大人ではなく子役が“真実”を語るのか

「良いこと悪いこと」は群像劇でありながら、その核を語るのはいつも子どもたちだ。

彼らが発する言葉の一つひとつは、善悪の理屈を超えた“感情の真実”を宿している。

たとえば、野林万稔の「でも、いいことしたじゃん」という一言。

その“じゃん”の軽さが、物語全体を支配する。

それは正当化であり、祈りでもあり、赦しでもある。

大人の俳優が同じ台詞を言えば、理屈や後悔がにじむ。

だが、子どもが言うと、それは世界の根源的な無邪気さとして響く。

“良いこと”と“悪いこと”の境界を最も曖昧にするのは、無垢な声なのだ。

演出面でも、子役パートには大人のシーンにない“間”がある。

沈黙が長く、セリフは短い。照明はやや青みがかっており、時間の流れがゆっくりだ。

それは監督が意図的に作った“記憶の速度”。

子どもたちが感じる時間は、大人のそれよりも長く、そして深い。

視聴者はそのゆるやかな時間の中で、自分の過去の後悔を静かに思い出す。

まるで、罪悪感そのものが画面の中で呼吸しているようだ。

そして気づく――このドラマにおいて、真実を語るのは探偵でも被害者でもない。

それは、あの教室にいた子どもたちのまなざし。

彼らは大人になっても忘れられなかった「問い」を、無言のまま投げかけ続けている。

善悪の物語を動かすのは、知識でも経験でもない。

それは、“まだ世界を信じていた頃の私たちの目”なのだ。

だからこそ、視聴者は怖いのだ。

あの子役たちの視線の中に、いまの自分が映っている気がするから。

そしてそれこそが、「良いこと悪いこと」が描きたかった“人間の真実”なのだ。

キャスト紹介:無垢の演技で時を越えた10人の名

「良いこと悪いこと」の過去パートを支える10人の子役たちは、物語の土台を静かに支える存在だ。

彼らの名前は、単なるキャストリストではない。

それぞれが22年前の“記憶の破片”を握りしめ、現在の登場人物たちの心へと繋ぐ“感情のパイプ”になっている。

野林万稔(間宮祥太朗・幼少期)──静かな支配者“キング”

野林万稔が演じる「キング」こと高木将は、物語の象徴だ。

彼はクラスの中心に立ちながらも、誰よりも孤独だった。

仲間を守るためにルールを作り、正義を信じるために嘘をついた少年。

野林の演技の最大の武器は、“静けさ”だ。

他の子役が感情を外へ出す中で、彼だけは抑制の中に火を灯す。

その火が一瞬燃え上がるとき――視聴者は彼の中に潜む“危うい正義”を感じ取る。

大人になった間宮祥太朗の演技が深く響くのは、野林が築いた「少年の正義感の残滓」が物語の奥底で生き続けているからだ。

彼の一挙手一投足が、作品全体の倫理観の起点になっている。

野林は“演じる”のではなく、“信じる”ことでこのキャラクターを成り立たせた。

その純粋さが、作品にリアリティという名の狂気を与えている。

鈴木礼彩(新木優子・幼少期)──“どの子”と呼ばれた転校生

鈴木礼彩が演じる猿橋園子――あだ名は「どの子」。

転校してきたばかりの彼女は、誰にも覚えられず、誰にも嫌われなかった。

だが、彼女の存在が教室の空気を変えた。

鈴木の演技には、“沈黙の勇気”がある。

台詞を少なく、目線の動きと間で感情を語る。

彼女が教室の隅でノートを閉じるだけで、世界が静まり返る。

園子というキャラクターは、善悪を判断できない存在だ。

それゆえに、彼女の中には「純粋」と「罪悪感」が同居する。

鈴木はその二重構造を、ひとつのまなざしに封じ込めた。

新木優子が演じる大人の園子がどれほど冷静でも、その内側で眠っているのは、あの少女の眼差しなのだ。

監督が彼女を“物語の観察者”に据えた理由が、ここにある。

森優理斗/本屋碧美/渡邉櫂/湊/松岡夏輝/渡邉斗翔/和田愛海/川野結太──記憶を繋ぐ群像

このドラマの底流を流れるのは、脇を固める8人の子役たちの存在感だ。

彼らは物語の“音のない記録者”。それぞれが違う形の記憶を抱え、22年後の世界に届く“波紋”を作っている。

森優理斗(羽立太輔)は明るく見えて、実は最も恐れている少年を演じる。

彼の笑い声には、「群れにいなければ自分が消える」という焦燥が混じる。

本屋碧美(ニコちゃん)は、優しさが過剰な少女。

彼女の笑顔は希望のように見えて、他人を救えない自分への苛立ちでもある。

その複雑さを、彼女は目の奥の“微かな震え”で表現する。

渡邉櫂(トヨ)は理屈で世界を理解しようとする少年。

彼の静かなトーンは、物語の中で“理性”を担うが、やがてそれが崩れる瞬間に人間味があふれる。

湊(貧ちゃん)は小さな体で誰よりも感情の振れ幅を見せる。

彼の涙は悲しみではなく、戸惑いの象徴。世界が崩れる音を聞いた子どもの泣き方だ。

松岡夏輝(委員長)は“ルールを守ることで安心する少女”。

渡邉斗翔(ターボー)は“元気でいたいと願う優しい少年”。

和田愛海(ゆっきー)は“演じることを天職にしている少女”。

川野結太(カンタロー)は“誰よりも現実を見ている子ども”。

それぞれが違う方向から“善悪の輪郭”を照らしている。

彼らは大人の物語の外で、静かに世界のバランスを支えているのだ。

10人の子役の存在は、ドラマ全体の“呼吸”を決めている。

もし彼らのどれかが欠けていれば、物語の血流は止まっていた。

それほどまでに、彼らの演技は作品の心臓そのものだった。

彼らが演じたのは「子ども」ではなく、「記憶」だったのだ。

「演じる」じゃなく「生きる」──子役たちが見せた“記憶の構造”

子役たちを見ていて感じたのは、「演技」という言葉では足りないということ。

彼らはセリフを覚えて演じているのではなく、“人の感情がどうやって生まれるか”をその場で体験しているように見える。

それがこのドラマを、ただのサスペンスから“記憶の再構築劇”にしている。

感情を再現するのではなく、拾い上げる

子どもたちの演技を見ていると、まるで記憶の底から感情を掘り出しているように感じる。

それは大人の俳優の「技術」とは真逆の方向にある。

たとえば、森優理斗が涙をこらえるシーン。

あの一瞬、彼の中では「悲しいから泣く」ではなく、“何かが壊れた音を確かめている”ような時間が流れていた。

泣くことが目的じゃない。感情の正体を見つめている。

それは、私たちが日常の中で見ないふりをしている心の動きに近い。

だからこそ、子役の演技が心を突く。見たことのないリアルを、私たちは“知っている気がする”のだ。

教室という舞台は、社会の縮図ではなく“人間の設計図”だった

このドラマで描かれる小学校は、単なる過去の舞台装置ではない。

そこには、人間が「他人を理解しようとする過程」がそのまま詰まっている。

そしてその複雑な構造を体で再現しているのが、10人の子役たちだ。

キングは“支配と守護”の狭間で立ち尽くし、園子は“沈黙の観察者”としてその歪みを見つめる。

彼らが交わす何気ない会話が、実は人間関係の最小単位になっている。

笑いあうときも、争うときも、彼らの動きには「誰かを理解しようとする意思」がある。

それが失敗すると、悪意に見える。成功すると、愛になる。

このグラデーションを、子役たちは無自覚のまま体現していた。

つまり彼らは、“社会を演じた”のではなく、“人間そのものを構築していた”。

この感覚こそが「良いこと悪いこと」の根底に流れる恐怖であり、魅力でもある。

観終わったあとも、あの教室の空気が抜けないのはそのせいだ。

子どもたちが作った“感情の設計図”が、心のどこかにまだ貼りついている。

――彼らが演じたのは、過去の自分たちではない。

いまも心の奥でうずく「人間の最初のかたち」だった。

「良いこと悪いこと」子役たちが問いかけたもの──まとめ

ドラマ「良いこと悪いこと」は、事件の真相を暴く物語ではない。

それは、22年前の教室に取り残された“心の揺らぎ”を、ひとりずつ掘り起こしていく物語だ。

その作業の中心にいたのが、子役たちだった。

彼らは過去を演じるのではなく、「人が悪に染まる前の瞬間」を生きていた。

まだ罪を知らず、悪意を理解できない純粋な存在が、なぜか“悪の種”を持ってしまう。

この矛盾こそが、ドラマ全体の主題だった。

“正しいこと”は、いつから“良いこと”になったのか

この作品を観ていると、何度も自問する瞬間がある。

「正しいこと」とは何だったのだろう。

子どもたちは、“先生が言ったから”“親が褒めたから”という理由で「良いこと」を信じる。

だが、その“良いこと”が、誰かを傷つけるときがある。

たとえば、告げ口。たとえば、正義感からの仲間外れ。

大人になれば、それを“仕方なかった”と片づける。

けれど、あの教室では、それがすべてだった。

野林万稔演じるキングが、クラスを守るためについた嘘。

鈴木礼彩演じる園子が、黙って見過ごした友達の涙。

それらはどちらも“良いこと”のつもりだった。

でもその先に待っていたのは、22年後の“悪いこと”。

この構図を成立させているのは、脚本でもトリックでもない。

子役たちが宿した“正義の無垢さ”だ。

彼らがまっすぐに「いいこと」を信じた瞬間、物語は歪み始める。

視聴者はその純粋さに胸を締めつけられながらも、どこかで羨ましさを感じる。

――あの頃の自分も、確かに「良いこと」を信じていた。

そして今、大人になった私たちは、その言葉を簡単には使えなくなっている。

無垢な演技が映した、私たちの心の鏡

「良いこと悪いこと」に登場する子役たちは、誰もが“鏡”の役割を担っていた。

彼らの笑顔を見て懐かしさを感じるのは、そこに自分の過去を見ているからだ。

しかし、その笑顔が一瞬にして“恐怖”に変わるとき、鏡は砕ける。

それは作品の中だけの出来事ではない。

私たちの中にも、あの頃の笑顔と恐怖が同居している。

森優理斗が見せた“気づかない残酷さ”。

本屋碧美が浮かべた“誰にも届かない優しさ”。

渡邉櫂の沈黙、湊の涙、和田愛海のまっすぐなまなざし。

その一つひとつが、私たちの心の奥の“片づけていない記憶”を揺らしていく。

だからこの作品は、見終えた後も静かに疼き続ける。

謎が解けても、心の痛みは終わらない。

むしろ、痛みこそが真実なのだと気づかされる。

善と悪の境界を演じたのは、子どもたちの無垢な演技だった。

それは技術や経験では再現できない。

たった一度の笑顔、たった一滴の涙。その“瞬間の真実”が、22年の時間を超えて物語を貫く。

――良いことをしたつもりで、誰かを傷つけていなかっただろうか。

この問いが、視聴者の心に残る。

それこそが、「良いこと悪いこと」という作品が、子役たちを通して描きたかった答えだ。

子どもたちが演じたのは「過去」ではない。

私たちがまだ“良い人間でいたかった頃”の記憶。

その記憶が、静かに、そして確かに、今を生きる私たちの心を照らしている。

この記事のまとめ

  • ドラマ「良いこと悪いこと」は、子役たちの“無垢な演技”が物語の核心を形づくる
  • 野林万稔や鈴木礼彩をはじめ、10人の子役が過去と現在を繋ぐ“記憶の証人”として描かれる
  • 小学校時代の善意や嘘が、22年後の“悪いこと”を生むという構図
  • 監督は「純粋=狂気」の対比で、子どもの視線に潜む恐怖を映し出した
  • 子役たちは“演じる”のではなく“生きる”ことで、人間の根源的な感情を体現
  • 彼らの沈黙や眼差しが、善悪の境界を曖昧にし、視聴者の記憶を揺さぶる
  • 作品を通じて問いかけられるのは、「正しいこと」は本当に“良いこと”なのかという根源的な疑問
  • 無垢さの中にある残酷さが、人間の“最初のかたち”を映す鏡として機能している

読んでいただきありがとうございます!
ブログランキングに参加中です。
よければ下のバナーをポチッと応援お願いします♪

PVアクセスランキング にほんブログ村
にほんブログ村 テレビブログ テレビドラマへ にほんブログ村 アニメブログ おすすめアニメへ
にほんブログ村

コメント

タイトルとURLをコピーしました