22年前、笑っていた6人がいた。校庭でふざけ合い、秘密を共有し、未来を描いた。けれど、その笑顔の裏には、ひとりの少女の涙があった。
ドラマ『良いこと悪いこと』で、卒業アルバムの中に黒く塗りつぶされた6人──それは偶然ではない。あのとき倉庫の扉を蹴った音が、今になって彼らを追い詰めている。
この記事では、6人の正体と彼らを狙う理由、そして“良いことと悪いこと”の境界に立つ人間の心理を解剖していく。
- 『良いこと悪いこと』で黒塗りにされた6人の正体と罪の構図
- タイムカプセルと替え歌に隠された“記憶の罰”の意味
- 「いい子」でいようとする大人たちの偽善と再生の物語
黒塗りの6人とは誰か──アルバムの闇が映す「過去の罪」
卒業アルバムは、過去を閉じ込めるタイムカプセルだ。
けれど、『良いこと悪いこと』に登場するアルバムのページは、記憶を閉じ込めるどころか、むしろ罪を呼び覚ます装置になっている。
黒く塗りつぶされた6人の顔。
その黒は、墨ではなく“後悔の色”だ。
ページを開いた瞬間、そこにいた高木将(間宮祥太朗)は息を飲んだ。
そこに塗りつぶされていたのは、彼自身の顔だったからだ。
誰が、何のために黒く塗ったのか。
その問いの前に、彼の心が先に答えを出していた。
「心当たりがある」――そう、彼はあの日の倉庫を覚えている。
閉じ込められた少女・猿橋園子(新木優子)の叫び。
そして、笑っていた6人の少年たち。
アルバムに塗られた黒は、22年前に“見なかったことにした罪”の色だった。
高木・カンタロー・ターボー・貧ちゃん・ちょんまげ・ニコちゃん──“6人の罪”の構図
顔を塗られた6人の名は、それぞれに意味を持っている。
高木将(キング)、桜井幹太(カンタロー)、小山隆弘(ターボー)、武田敏生(貧ちゃん)、羽立太輔(ちょんまげ)、中島笑美(ニコちゃん)。
この6人は、子どもの頃の教室で“中心”にいた。
明るく、強く、人気者で、誰も逆らえなかった。
そして――園子をいじめていた。
彼らは暴力をふるったわけじゃない。
だが、それよりも残酷な方法で彼女を追い詰めた。
「無視」「笑い」「沈黙」。
この三つが、彼らの“武器”だった。
教室の中で、誰もが笑っていたとき、一人が泣いていた。
その構図を作り出したのが、この6人だった。
それぞれのあだ名には、当時の関係性が滲んでいる。
「キング」はリーダーで、「カンタロー」はその右腕。
「貧ちゃん」は弱さを笑われ、「ニコちゃん」は空気を読んで笑う役を担った。
彼らは互いに立場を補い合いながら、“集団の秩序”を作り出していた。
そして、その秩序の中で、園子は排除された。
それが「良いこと」だったのか「悪いこと」だったのか――当時の彼らには区別がつかなかった。
笑いながらやったことが、誰かにとっての傷になる。
子どもたちはそれを知らない。
けれど、知らなかったことは、罪を軽くする理由にはならない。
22年後、その報いが黒いインクになってアルバムに滲み出した。
倉庫の扉を蹴った日、笑っていた彼らの正体
園子が閉じ込められた倉庫の中は、暗くて、冷たくて、何より静かだった。
外では、6人の笑い声が響いていた。
その音が、彼女にとっての“悪夢のメロディ”になった。
キングは「冗談だよ」と言いながら扉を蹴った。
カンタローは煽り、ニコちゃんは笑った。
そして、誰も助けなかった。
その時、彼らは“いじめ”をしている意識などなかっただろう。
ただの遊び、ただの悪ふざけ。
でも、園子にとってそれは、世界が閉じる音だった。
“無自覚の悪意”ほど恐ろしいものはない。
それは刃物よりも鈍く、ゆっくりと相手の心を削り取っていく。
だからこそ、このドラマで描かれる復讐は、血ではなく“記憶”を介して行われる。
黒いアルバム、タイムカプセル、替え歌――それらはすべて、過去を再生するための装置だ。
彼らの罪は過去に置いてきたはずだった。
だが、時間は優しくも正義でもない。
時間は、隠された罪を熟成させる。
そしてある日、誰かがその蓋を開ける。
それが“良いこと”なのか、“悪いこと”なのか。
誰にも、まだわからない。
「いじめの過去」が生んだ呪い──タイムカプセルの中で眠っていたもの
タイムカプセルを掘り起こすシーンを見て、最初に感じたのは“懐かしさ”ではなかった。
そこに漂っていたのは、土に混ざった錆びた記憶の匂い。
22年前の「楽しかった日々」が、突然「誰も触れたくなかった時間」へと変わる瞬間だった。
『良いこと悪いこと』のタイムカプセルは、子どもたちが未来に残した手紙ではなく、罪を封じた棺だ。
そしてその蓋を開けたのは、よりにもよって“加害者のリーダー”である高木将だった。
笑い声が罪に変わる瞬間──園子が見た“外の光”と“中の闇”
倉庫の中で泣く園子の記憶は、時間が経つほど鮮明になっていく。
暗闇の中から見えたのは、ドアの隙間から差し込む光。
外の世界には、笑い声があった。
その笑い声が、彼女にとっての「悪魔のコーラス」になった。
彼女が今でも閉所恐怖症に苦しむのは、空間そのものよりも、あの“音”が蘇るからだ。
笑い声、足音、ドアを蹴る音。
それらが混ざり合って、彼女の中で「人を信じること」を壊していった。
タイムカプセルを開いたとき、園子はその音を再び聞いたのかもしれない。
耳ではなく、心の奥で。
だから彼女は復讐しない。
彼女はただ“思い出す”。
そして、その“記憶”が6人を殺していく。
復讐者は人ではなく、記憶そのもの。
それがこの物語の真の恐怖だ。
笑いながら誰かを傷つけた瞬間、それは消えない。
年月を経て形を変え、誰かの運命を壊す力になる。
園子の視線の奥にあるのは、怒りではない。
それは、誰も謝ってくれなかったことへの静かな絶望だ。
黒く塗られた顔は、「見たくなかった自分」への告発
アルバムの黒い塗りつぶしは、ただの犯行予告ではない。
あれは6人自身の“自己否定”の象徴だ。
人は、過去の自分を見たくない時、写真を破る。
でも彼らは破らなかった。
破る勇気もなく、ただ黒く塗りつぶした。
まるで自分の罪を“匿名化”するように。
6人に共通しているのは、“あの出来事を誰も話題にしなかった”ということだ。
それぞれ大人になり、家庭を持ち、仕事を得て、社会的には成功している。
だが、心の奥では全員が気づいている。
「自分たちは、誰かの人生を壊した。」
良いことを積み重ねても、悪いことは消えない。
だからこそ、あのアルバムは“人生の反転”を意味している。
ページを開くたびに、6人は自分の過去と向き合わざるを得ない。
そこに映っていたのは、他人ではなく“見たくなかった自分”なのだ。
高木がページを見つめるときの震える手。
あの仕草の中に、彼のすべての罪が凝縮されている。
彼は被害者ではなく、被害の再生装置。
タイムカプセルを掘り起こしたその瞬間に、自らの罰を呼び覚ましたのだ。
タイムカプセルとは、子どもの未来への手紙ではない。
彼らにとってそれは、“過去からの召喚状”。
22年の時を経て、黒いインクの封が解かれた。
その封の向こう側で、園子は静かに笑っているのかもしれない。
「良いこと悪いこと」――そのタイトルの意味を、6人が最も痛感するのは、これからだ。
狙われる6人の共通点──誰もが加害者であり、被害者でもある
6人の名前が塗りつぶされた理由は単純じゃない。
それは「いじめの加害者だったから」という表面的な説明で終わる話じゃない。
この6人は、子どもの頃に“悪いこと”をしてしまった大人たちであると同時に、
今は“生きるために自分を守っている”被害者でもある。
このドラマの真髄はそこにある。
善と悪が一方向ではなく、互いに反射しあう。
誰もが「自分は悪くなかった」と思い込み、
誰もが「どこかで間違えていた」と気づいている。
だから“黒く塗られた6人”とは、ひとつの集団ではなく、6つの鏡だ。
彼らを見つめる園子の目は、彼ら自身の心を映している。
いじめた側のトラウマ──“悪い子”のまま大人になった人々
人は、誰かを傷つけた記憶を都合よく忘れる。
けれど、忘れたふりをしただけで、その傷は心の奥に沈殿し続ける。
高木将(キング)は、リーダーだった頃の自分を今も引きずっている。
家族を愛し、誠実に生きようとするほど、
その“誠実さ”がかつての“支配の記憶”を思い出させる。
正義感の裏に、「自分は悪い子ではない」と必死に証明したい心理が隠れている。
カンタロー(桜井幹太)は明るさを装うタイプの“無自覚な加害者”だ。
彼は悪意なく人を笑う。
だが、その無邪気さが誰かを傷つけることを知らない。
そのタイプこそ、最も罪深い。
そしてニコちゃん(中島笑美)。
彼女は“いじめの傍観者”であり、いつも笑顔で場を保ってきた。
しかし、その笑顔こそが園子を孤立させた要因のひとつだった。
彼女の「何もしてない」は、最も重い「したこと」だった。
この6人には共通して、“罪を抱えながら生き延びてきた”という事実がある。
いじめの加害者であると同時に、罪悪感という形のない罰に縛られた被害者でもある。
彼らが“狙われる”という構図は、ただの復讐劇ではなく、内なる裁きのメタファーなのだ。
誰かが手を下さなくても、人は自分の罪に殺される。
その痛みをこのドラマは丁寧に描いている。
園子を苦しめたのは誰か、そして今、誰が彼らを裁こうとしているのか
物語が進むほど、園子の表情には“犯人らしさ”が消えていく。
むしろ、彼女はこの物語の中で最も“赦し”に近い場所にいる。
「復讐したら、あの子たちと同じ悪い子になってしまう」
そう呟く園子の言葉は、復讐の否定ではなく、自己否定だ。
彼女は怒りよりも、悲しみを抱えている。
だから、園子がこの連続事件の黒幕ではないとしたら、
“誰が彼らを裁いているのか”という問いが浮かび上がる。
その答えは、もう提示されている。
裁いているのは、過去そのものだ。
22年前の倉庫の中、あの瞬間に生まれた“悪意の粒”が、
今になって芽を出しただけの話だ。
時間が経っても罪は死なない。
それどころか、人の中で静かに育っていく。
園子の記憶をきっかけに、6人のそれぞれの罪が再生する。
タイムカプセルを開けた高木は、無意識のうちにその“再生ボタン”を押してしまったのだ。
この物語の真犯人は、人ではなく「記憶」だ。
記憶が人を狂わせ、心を裂き、現実を操作していく。
復讐を望まなくても、思い出すこと自体が復讐になってしまう。
だから、6人の共通点はただひとつ。
彼ら全員が、「過去を思い出した瞬間に死ぬ運命」にある。
この物語の残酷さは、
“人を殺す犯人”ではなく、“人を思い出させる出来事”にある。
それこそが、『良いこと悪いこと』が描く最もリアルな地獄だ。
6人の中に潜む裏切り者──ターボーが持つ“沈黙の秘密”
6人の中で最も影が薄い男――それが小山隆弘、通称ターボーだ。
彼は子どもの頃から“真面目で優しい”と言われてきた。
声を荒げることもなく、争いを嫌い、みんなの仲を取り持つタイプ。
けれど、その「優しさ」が、最も深い罪の形をしていた。
ターボーは、いじめに加担していない。
でも、止めなかった。
園子が倉庫に閉じ込められた日、彼は確かに現場にいた。
そして、何も言わずに立ち尽くしていた。
その“沈黙”こそが、彼の罪だ。
タイムカプセルにいなかった男──罪から最も遠くにいた者
6人が再び集まった夜、ターボーは少し遅れて現れる。
その遅れは偶然ではなく、まるで彼自身が“距離を取っている”ように見えた。
彼は罪の中心にはいない。
だが、外側で全てを見ていた。
見ていながら、何も変えなかった。
傍観者は、加害者よりも静かに人を殺す。
園子が倉庫に閉じ込められたとき、扉を蹴ったのは高木。
鍵をかけたのはカンタロー。
笑っていたのはニコちゃん。
そして、見ていたのはターボーだった。
彼はそのとき、助けようとしなかった自分を一番嫌っている。
だから、大人になっても「優しい人間」でいようと必死に生きている。
弱者の味方を装うことで、過去の罪を上書きしようとしている。
だが、それは偽善の鎧だ。
彼の優しさは、他人のためではなく、自分を守るためのもの。
“悪い子”にならないために選んだ沈黙が、
結果的に一番残酷な結末を生んでしまった。
この沈黙の連鎖が、ドラマ全体の軸にある。
ターボーが再び替え歌を口ずさむとき、その声はもう笑っていない。
あれは、過去の自分に対する鎮魂歌だ。
「いい人」の仮面をかぶったまま、誰よりも深い闇を抱える存在
ターボーは今も「良い人」として生きている。
職場では信頼され、友人からも慕われる。
けれど、その穏やかな笑顔の裏にあるのは、“助けなかった自分”への怨念だ。
罪悪感というのは、他人に見せない。
人を刺す刃ではなく、自分の内側を削る錆のようなもの。
ターボーの沈黙は、その錆を20年以上抱えたまま生きてきた証拠だ。
視聴者が見逃してはいけないのは、
彼の言葉よりも“喋らない間”に流れる時間だ。
言葉を選ぶように間を置く。
それは優しさではなく、ためらいだ。
彼は誰よりもあの日を覚えている。
ドラマ内で、ターボーの過去が明らかになるたびに、
「いい人」という言葉の残酷さが浮き彫りになる。
彼のように“正しい側”に立つことで、どれだけの人間が罪を見過ごしてきただろう。
沈黙も暴力だ。
言わないこと、止めないこと、笑って流すこと。
それらはすべて、加害の形をしている。
ターボーは、自分の罪に名前をつけられないまま大人になった。
だからこそ、今になって“歌”という形で吐き出しているのだろう。
「ある〜ひんちゃん、森のなカンタロー……」
その歌声に混じるのは、後悔のノイズだ。
笑って歌っていたあの頃とは違う。
今の彼にとって歌は祈りだ。
自分の罪が許されるように、誰にも届かない森の奥で、
ただひとり歌い続けている。
ターボーの沈黙は、叫びよりも重い。
そして、その沈黙こそが――6人の物語を終わらせる“鍵”になる。
“良いこと悪いこと”が描く、人間の二面性──善意も悪意も同じ場所にある
『良いこと悪いこと』というタイトルは、あまりにも素朴だ。
だけど、このドラマが描いているのは、「善と悪のあいだで揺れ続ける人間の姿」だ。
誰もが“良いこと”をしたいと願いながら、
その手で誰かを傷つけている。
その矛盾の中で人は生きている。
この作品の登場人物たちは全員、二面性を抱えている。
高木は誠実な男だが、過去を隠している。
園子は被害者でありながら、怒りを抑えきれない。
ニコちゃんは笑顔の仮面を被りながら、心の中で他人を見下している。
そしてターボーは、優しさの下に沈黙という罪を隠している。
この作品は、彼らの“心の表と裏”を交互に映し出す鏡だ。
その鏡を覗くたびに、観る者自身の中の“良いこと”と“悪いこと”が反射する。
許しと復讐の境界線に立つ園子の苦悩
園子はずっと「良い人」であろうとした。
彼女は、いじめた6人を憎みながらも、憎む自分を許せなかった。
「復讐したら、あの子たちと同じ悪い子になってしまう」
――その言葉の裏には、“怒りを持つことさえ許されない女性”の痛みがある。
人は「許すべきだ」と言う。
でも、本当に許せる人なんていない。
許すとは、憎しみを忘れることじゃない。
憎しみを抱えたまま、生きていくことだ。
園子はその真実に気づいている。
だから彼女の表情には常に静かな揺らぎがある。
涙をこらえるその瞬間、彼女の中で“善”と“悪”がせめぎ合っている。
そのバランスの危うさが、このドラマの核心だ。
復讐とは、他人を罰することではなく、自分の心を救う行為。
園子が復讐を選ばないのは、善だからではなく、まだ“憎みきれない”からだ。
その曖昧さこそが人間だ。
彼女は被害者でもあり、加害者でもある。
いじめの記憶に縛られたまま、誰かを愛し、誰かを傷つける。
“良いこと”の裏に“悪いこと”があり、
“悪いこと”の中にしか、本当の優しさは生まれない。
“良いこと”の中に潜む“悪いこと”のリアル──それは誰の心にもある
ドラマを観ていて気づくのは、
「悪い人」は一人もいないということだ。
誰もが自分の正義を信じて行動している。
それでも結果的に、誰かを傷つけている。
たとえば、高木は「みんなを救いたい」と言う。
けれどその優しさが、園子の傷をえぐる。
彼は過去の自分を否定したいだけなのに、
その行動が“善の押しつけ”になっている。
人の心は、光と影を同時に抱えている。
「良いこと」をしたいと願うほど、「悪いこと」に近づいていく。
それは人間の構造上の矛盾だ。
“良いこと”と“悪いこと”は、別々の場所にあるんじゃない。
同じ場所で、同じリズムで鼓動している。
このドラマが恐ろしいのは、犯人が人を殺すことではなく、
人の心の中に“善と悪が共存している”ことを突きつけてくるからだ。
私たちは誰もが、少しずつ“良い人”であり“悪い人”なのだ。
園子が微笑むとき、そこには悲しみがある。
高木が怒るとき、そこには優しさがある。
その反転の美しさが、この物語の根にある。
『良いこと悪いこと』は、
“正しい答え”を探す物語じゃない。
むしろ、“正しさの不在”を描く物語だ。
誰が正しくて、誰が間違っているのか。
それを決めるのは視聴者自身だ。
ドラマの登場人物たちは、
その問いを突きつけるために存在している。
そして僕たちは、画面を見つめながら、
いつの間にか“自分の中の悪意”と向き合わされる。
『良いこと悪いこと』というタイトルの真意は、
「どちらでもない場所で、人は生きている」という現実。
善も悪も、選ぶものじゃない。
どちらも背負って、歩くしかない。
その曖昧さの中に、僕たちのリアルがある。
“いい子”でいることの呪い──大人になっても終わらない教室のルール
このドラマを観ていて、一番ざらりと心に刺さるのは、6人の誰もが“いい子”のまま大人になってしまったということだ。
それぞれ違う人生を歩んでいるように見えて、心の奥ではまだあの頃の教室に閉じ込められている。
誰かに嫌われないように、空気を読んで、場の空気を壊さないように。
その慎重なバランス感覚は、社会で生きる術になった。
でも同時に、それが人間としての感情を鈍らせている。
『良いこと悪いこと』は、“いい子でいること”の美徳を、ゆっくりと壊していくドラマだ。
「正しい行動」を重ねても、「正しい自分」にはなれない。
それが、6人の姿を通して見えてくる。
「正しさ」にしがみつくほど、人は壊れていく
ターボーの沈黙、高木の責任感、ニコちゃんの笑顔。
それらは全部、“いい子の延長線”にある。
怒りや嫉妬を見せないことが「大人」だと思っている。
でも、それは成熟じゃなく、麻痺だ。
園子はその麻痺から逃れた数少ない人間だ。
彼女は怒りを知っている。悲しみを知っている。
そして何より、他人を許せない自分を認めている。
それこそが、生きることのリアルだ。
人は正しさを掲げると、心の柔らかい部分を殺していく。
「良い人でいよう」とするほど、他人にもそれを求める。
それが歪みを生み、関係を壊す。
教室でも、職場でも、家庭でも、それは変わらない。
“いい子”のルールは、成長とともに形を変えて社会に残る。
それが“空気を読む”とか、“波風を立てない”という名の礼儀になっていく。
でも、その正しさの裏で、誰かが静かに傷ついている。
「いい子のまま死ぬな」──キンタが感じた、この物語の警鐘
6人の中で誰が生き残るのか。
それはもう重要じゃない。
このドラマが問いかけているのは、
“いい子でいることに、何の意味がある?”ということだ。
人は、怒ることでしか救われない瞬間がある。
嫉妬や恨みの中にこそ、本当の自分がいることもある。
園子のように、自分の心の汚れを見つめた人間だけが、前に進める。
「いい子でいること」をやめた瞬間、人はようやく“生きる”ことを始める。
この物語の6人は、まだ生きているようで、生きていない。
正しさの中で呼吸を止め、過去に埋めた罪の上に立っている。
彼らが本当に再生するには、もう一度“悪い子”になるしかない。
怒って、泣いて、間違えて、それでも自分を責めずに立ち上がる。
それが「良いこと」でも「悪いこと」でも構わない。
人間は、きれいなままでは生きられない。
『良いこと悪いこと』は、“いい子の亡霊たち”の再生劇だ。
彼らがその亡霊を超えるとき、ようやくあの日の森に風が吹く。
もう一度、誰かが歌うだろう。
「ある〜ひ、森のなか――」
それは、呪いではなく、赦しの歌として。
『良いこと悪いこと』6人の物語まとめ──笑っていた子どもたちが大人になって泣く理由
6人の顔を黒く塗りつぶしたアルバムを見たとき、
それはただの“犯人の印”ではなく、彼らの人生の写し鏡だと感じた。
あの日、笑っていた子どもたちは、
大人になってもずっと“笑いの罪”を背負っている。
彼らの笑顔の下には、言葉にできない後悔が眠っている。
そして、その後悔がようやく表に出たのが、この物語の始まりだ。
『良いこと悪いこと』は、
単なる復讐劇ではなく、“成長できなかった大人たち”の告白録だ。
黒塗りのアルバムは、過去を閉じ込めるためのものではなく、暴くためのもの
タイムカプセルとアルバム。
それは、過去をしまうためのものではなく、
過去に向き合わせるための仕掛けだ。
子どもの頃、彼らは「いい子」でいようとした。
でも、いい子であるために“悪い子”を作った。
その構図の中で園子が傷ついた。
そして22年後、その傷が蘇り、6人の人生を少しずつ崩していく。
黒く塗られたページは、
「もう見たくない」という拒絶であり、
同時に「見なければならない」という告発でもある。
人間は、過去を忘れることで生き延びる。
けれど、このドラマが描くのはその逆――過去を思い出すことでしか前に進めない人間たちの姿だ。
だからこそ、アルバムは呪いの象徴であると同時に、希望の象徴でもある。
黒で塗りつぶされたページの下には、
確かに笑っている子どもたちの顔がある。
その笑顔をもう一度見られるようになることが、
彼らにとっての“赦し”なのだと思う。
“良い子になれなかった大人たち”が、もう一度やり直すための物語
『良いこと悪いこと』の登場人物たちは、全員が“良い子”になろうとした。
高木は責任感で過去を償おうとし、
園子は憎しみを抑えようとし、
ターボーは沈黙の中で罪を隠し、
ニコちゃんは笑顔で全てをごまかした。
でも、その“いい人の努力”が、逆に彼らを苦しめた。
人は、“良い人”を演じるほど、本当の自分から遠ざかっていく。
彼らが苦しむのは、悪いことをしたからではない。
本当の自分を隠したまま生きてきたからだ。
そして、その仮面が剥がれ落ちた今、ようやく彼らは人間になった。
泣き、怒り、後悔しながら、それでも前を向く。
それが“良いこと”でも“悪いこと”でも構わない。
ただ、ようやく“生きている”と言える。
この物語の本当のテーマは、「赦し」ではなく「自覚」だ。
人は、自分の中にある悪意を認めたとき、
初めて他人を赦せるようになる。
笑っていた子どもたちが、大人になって泣くのは、
その涙がようやく“本音”だからだ。
彼らの涙は懺悔でもあり、祈りでもある。
「良いこと悪いこと」――
そのタイトルは、結局のところ、人間という存在そのものを指している。
善と悪のどちらにも振り切れず、
間に立ちながら、それでも誰かを愛そうとする。
その不器用さこそが、生きるということだ。
黒いアルバムを閉じるとき、
僕たちはきっと、自分の心のどこかにも
ひとつの黒いページを見つけてしまう。
でも――それでいい。
その黒こそが、僕たちの“人間らしさ”なんだから。
- 『良いこと悪いこと』は、22年前のいじめと黒塗りの6人の罪を描く群像劇
- タイムカプセルや替え歌が“記憶による裁き”の装置として機能している
- 6人は加害者でありながら、罪悪感という罰を受け続ける被害者でもある
- ターボーの“沈黙の罪”が物語の核心を握る鍵となる
- 園子の「悪い子になりたくない」という台詞が善悪の曖昧さを象徴
- 善意と悪意は同じ場所から生まれる、人間の二面性が描かれる
- “いい子でいること”が生む抑圧と偽善の構造をキンタの視点で暴く
- 過去を忘れることではなく、見つめ直すことでしか人は再生できない
- 黒塗りのアルバムは、罪を閉じるためではなく、赦しへ向かうための扉
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