『良いこと悪いこと・考察』主題歌“アゲハ蝶”が照らす、罪と救いのゆらめき

良いこと悪いこと
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それは、“懐かしさ”の中に潜む違和感から始まった。

2025年秋。日本テレビ系ドラマ『良いこと悪いこと』の主題歌に、ポルノグラフィティの名曲『アゲハ蝶』が流れた瞬間、SNSがざわめいた。

「なぜ今、この曲なのか?」──その問いの裏に、誰も気づかなかった深い意味が隠されている。

この物語は、過去のいじめ事件と現在の殺人事件が交錯する、“善と悪の境界線”を描いたサスペンス。

だがその奥に潜むのは、単なる犯人探しではない。

“良いこと”をしようとした誰かが、“悪いこと”をしてしまう――その人間の矛盾を暴く物語だ。

主題歌『アゲハ蝶』の歌詞に刻まれた「逢えた、それだけでよかった」という一節は、犯人の祈りであり、私たち自身の記憶でもある。

この記事では、ドラマ『良いこと悪いこと』のタイトルに込められた二重の意味と、『アゲハ蝶』が映し出す“罪と救いの構造”を、考察と感情の両面から深掘りしていく。

──善悪の境界に立つのは、あなたかもしれない。

この記事を読むとわかること

  • ドラマ『良いこと悪いこと』に隠された善悪と贖罪の構造
  • 主題歌『アゲハ蝶』が犯人の心と物語を結ぶ伏線である理由
  • 懐かしさ・沈黙・記憶が生む“現代の罪”の正体

「良いこと悪いこと」に仕掛けられた“二重の鏡”

ドラマ『良いこと悪いこと』というタイトルを聞いたとき、多くの人はきっと「善と悪の物語」だと直感するだろう。

だがその響きには、もっと深い層が潜んでいる。これは“出来事”の善悪だけでなく、“人間そのもの”の評価を映す鏡でもある。

つまり、このタイトルは「良い事/悪い事」と同時に、「良い子/悪い子」という二重の意味を抱えているのだ。

過去の“良い子”と“悪い子”が、今も息をしている

第1話で描かれるのは、22年前のいじめ事件を発端にした連続殺人だ。小学生時代、教室という小さな世界の中で誰かを閉じ込め、笑っていた子どもたち。その罪は、時間の流れとともに消えていったように見えた。

だが、「過去の悪いこと」は、誰かの中で“現在”として生き続けている

主人公・高木将は、かつて“キング”と呼ばれた人気者だった。だがその輝きの裏に、園子への加担という“影”があった。人は自分を「良い子」だと信じて生きる。その信仰のような記憶が、最も残酷に自分を刺す。

園子の「私はあのことを一度も忘れたことはない」という言葉は、ただの被害者の台詞ではない。それは“加害者が忘れている間も、記憶は生き続けていた”という事実の告発だ。

善悪が反転する、ねじれた構造

このドラマの怖さは、明確な“悪人”が存在しないことだ。いじめを止めなかった人も、笑って見ていただけの人も、誰もが「自分は悪くない」と信じていた

だが、その“信じる”という自己防衛が、善と悪をねじらせる。良い子は賞賛されるが、その陰で泣いていた誰かを無視した瞬間、善は悪へと変質する。

第1話で映し出された卒業アルバムの「黒く塗られた顔」は、その象徴だ。過去の評価が反転し、善悪の立場が入れ替わる瞬間を見せつける。

そして、もう一つの鏡がある。「良いこと」とは誰のための“良い”なのかという問いだ。

助けたいと思う気持ちも、誰かを裁きたいという衝動も、根は同じ場所にある。人間の“良心”と“欲望”の境界線は、驚くほど曖昧だ。

つまりこのタイトルは、「過去に見えた“良い子”が本当に良かったのか?」「悪いことをしたとされた子が、実は誰かを守っていたのではないか?」という、価値の反転構造を物語全体に仕掛けている。

園子のトラウマは、単なる記憶の残滓ではない。それは“他者の正義”によって押しつけられた痛みだ。彼女の沈黙の中に、「良いこと」をした側の傲慢がこだまする。

だからこそ、『良いこと悪いこと』というタイトルは、ドラマの根幹にある哲学を突きつけてくる。

善と悪は、選択ではなく“視点”の問題なのだ。

誰かにとっての「良いこと」は、別の誰かにとっての「悪いこと」かもしれない。

この残酷な真実が、物語全体を静かに軋ませている。

そして私たち視聴者も、気づかぬうちにその鏡の前に立たされている。

「あなたは、どちらの側に立っていますか?」──そう問いかけながら。

主題歌『アゲハ蝶』──犯人の心を映す、歪んだ祈り

ドラマ『良いこと悪いこと』の主題歌に『アゲハ蝶』が流れた瞬間、多くの視聴者がざわついた。

なぜ、令和のミステリードラマに、平成初期の名曲を選んだのか?

それは懐かしさのためではない。この歌が“犯人の心そのもの”を代弁しているからだ。

「あなたに逢えた、それだけでよかった」──贖罪の原点

『アゲハ蝶』の歌詞は、一見すると恋愛の歌に聞こえる。だが、よく聴くとそこには“執着”と“祈り”が同居している。

「あなたに逢えた、それだけでよかった」というフレーズ。これは、愛の表現ではなく、罪悪感の告白に近い。

かつて園子をいじめから救えなかった“誰か”──その人物が、今になって過去を取り戻そうとする。その想いは“愛”というよりも“償い”の衝動だ。

彼は夢で彼女を見続ける。謝りたい、許されたい、ただそれだけでいい。

でも、時間は22年も経ってしまった。現実の中で届かない想いは、“復讐”というかたちに変質する。

つまりこの歌詞は、「犯人の願い」そのものなのだ。彼は愛されたいのではない。許されたいのだ。

アゲハ蝶=犯人の象徴

アゲハ蝶は、美しく、そして儚い。だが、その羽の動き一つで嵐を呼ぶ。

この存在が、犯人そのものを象徴している。蝶の羽ばたきが小さな風を起こし、やがて世界を揺るがすように、犯人の小さな“後悔”が連続殺人という嵐を生んだ

『良いこと悪いこと』は、バタフライ・エフェクトの物語だ。善意も、悪意も、ほんのわずかな差で“事件”に変わる。

彼がアゲハ蝶のように園子の周囲を舞うのは、未練ではなく“存在証明”のためだ。誰かに気づいてほしい、自分がここにいると知ってほしい。

それはまるで、光を求めて窓にぶつかる蝶のようだ。痛みを知りながら、止まれない。

歌詞にある「夢で逢えるだけでよかったのに、愛されたいと願ってしまった」という一節。

この「愛されたい」は、犯人の欲望ではなく、“救われたい”という心の叫びだ。

自分の罪を誰かに見つけてほしい。罰してほしい。そうすれば、ようやく終われるからだ。

平成の歌が、令和の罪を照らす

『アゲハ蝶』が2001年にリリースされた時、時代は“優しさ”を信じていた。だが2025年の今、それは“無関心”へと変わっている。

このドラマがあえて平成の楽曲を使う理由は、“かつての優しさが、誰かの傷の原因だった”という皮肉を描くためだ。

懐かしいメロディが流れる瞬間、観る者の中で記憶が蘇る。あの頃の教室、笑い声、そして見て見ぬふりをした誰かの顔。

『アゲハ蝶』は、過去と現在の境界を溶かす“記憶の鍵”になっている。

そして、その曲を聴くすべての人が、心のどこかでこう呟く。

「もしかして、あの時の自分も──誰かの罪の一部だったのか?」

このドラマの本当の怖さは、犯人が誰かではない。“自分が犯人側の心に共鳴してしまう瞬間”にある。

『アゲハ蝶』が主題歌として選ばれた意味は、そこにある。

それは、誰かの贖罪の歌であると同時に、観る者すべての“鏡”だからだ。

──そして、静かに問いが残る。

「あなたの中の“良いこと”は、本当に良いことですか?」

夢が死を呼ぶ──第1話に隠された“バタフライ効果”

『良いこと悪いこと』第1話で、最も不気味だったのは“偶然の一致”だ。

22年前、小学生たちは卒業を前に「将来の夢」を絵に描いてタイムカプセルに閉じ込めた。

そして今、大人になった彼らが次々とその“夢のかたち”で死んでいく。

空を飛ぶ夢を描いた少年は転落死し、消防士を夢見た者は炎に包まれた。

それはまるで、子ども時代の“希望”が、22年後に“呪い”として帰ってきたかのようだった。

夢が叶う瞬間、命が消える皮肉

夢とは、本来「生きるための羅針盤」のはずだ。

だが、このドラマの世界では、夢は「死へのシナリオ」として機能している。

なぜなら、描かれた夢のひとつひとつが、“あの日の罪”を象徴しているからだ。

たとえば、空を飛ぶ夢を描いた武田。彼は園子を閉じ込めた日の夜、「俺は空を飛べる」と笑っていた。

その言葉が、22年後、転落死という“天罰”として返ってくる。

この構図に、偶然はない。夢が、罪を形に変えるスイッチになっているのだ。

つまり、“夢”という希望を描いた瞬間、彼らはすでに“死の種”を埋めていた。

第1話の構成は、その事実を観る者に静かに突きつけてくる。

タイムカプセルを掘り返すたび、ひとつずつ命が消えていく。

それはまるで、過去の記憶を掘り起こすこと自体が“罪”であるかのようだ。

バタフライ効果──小さな悪意が連鎖を生む

『良いこと悪いこと』は、“小さな行動が未来を狂わせる”という現象を物語全体に仕込んでいる。

アゲハ蝶の羽ばたきが嵐を呼ぶように、ひとつの無関心が、誰かの人生を破壊する

いじめを止めなかった。見て見ぬふりをした。笑って流した。

その小さな選択が、22年後に“命の消失”という形で戻ってくる。

この物語のバタフライ効果は、偶然ではなく“人間の因果”を描いている。

ドラマの構造自体が蝶のように対称だ。

過去と現在、加害者と被害者、善と悪──それぞれが左右に羽ばたき、中心にあるのは“償い”という名の軸。

園子は、加害者たちの「夢」を覚えていた。

だからこそ、誰かがその夢を利用して裁きを下している。

犯人の動機は、単なる復讐ではない。

「あの時止められなかった自分を罰してほしい」──その願いが暴走しているのだ。

夢と死をつなぐ“記憶の蝶”

アゲハ蝶のモチーフが、ここで再び意味を持つ。

蝶は羽化の瞬間、美しく生まれ変わる。しかしその過程で、幼虫の姿を完全に失う。

それはまるで、「過去を捨てなければ未来へ行けない」という寓話のようだ。

だが、『良いこと悪いこと』の登場人物たちは、誰一人として“過去を脱皮できていない”

だから彼らは再生ではなく、“死”という形で羽化を迎える。

その残酷な法則が、第1話からすでに提示されている。

夢という無垢な願いが、死という現実を呼び寄せる。

そしてその構造の中に、視聴者自身の“記憶の蝶”が舞い込んでくる。

小さな後悔。言えなかった言葉。誰かの涙を見て見ぬふりをした瞬間。

その一つ一つが、時を経て新たな“悪いこと”を生むのかもしれない。

だから、このドラマを観る時、私たちは問われている。

「あなたの夢は、誰かの悪夢になっていませんか?」

──『良いこと悪いこと』は、希望と後悔の羽ばたきを、静かに描く悲劇だ。

夢を見るという“良いこと”が、誰かを壊す“悪いこと”へ変わる。

その揺らぎの中で、蝶は今日も、羽ばたくことをやめない。

いじめの記憶と、赦されない時間

22年前、猿橋園子は体育倉庫に閉じ込められた。

その日、笑っていた子も、泣いていた子も、皆が“あの瞬間”を心のどこかに閉じ込めたまま、大人になった。

だが、誰もが「忘れたこと」にしている間も、その記憶は園子の中で生き続けていた。

彼女にとって、過去は“過ぎたこと”ではなく、今も続く現在形だった。

「閉じ込められたのは、私だけじゃない」

園子は今、閉所恐怖症を患っている。狭い場所に入るだけで、息ができなくなる。

けれど、彼女が閉じ込められているのは、倉庫ではない。記憶という名の空間だ。

第1話で彼女がつぶやいた「私はあのことを一度も忘れたことはない」という言葉は、痛みの記録であり、時間への抵抗でもある。

一方で、彼女を加害した側の人間は、過去を“思い出”として処理している。

その落差が、この物語を動かしている。

人は、被害者でいる限り過去を終わらせることができない。

そして加害者は、「謝るタイミングを逃した」瞬間に、永遠に赦されなくなる。

このねじれた時間軸が、『良いこと悪いこと』の心臓部だ。

“見て見ぬふり”という最も重い罪

いじめの構造で、最も恐ろしいのは「加害者」ではない。

それを見て、笑って、通り過ぎた者たちだ。

彼らは“直接的な悪”を犯していないと信じている。

だが、無関心こそが、最も静かな暴力だ。

第1話で描かれた「黒く塗りつぶされた卒業アルバム」は、その象徴だった。

黒で塗られた顔たちは、いじめを止めなかった者、傍観者、そして“見て見ぬふり”をした全員だ。

その黒は、過去の記録ではなく、今も続く“罪の現在形”を示している。

園子にとって、加害者は一人ではない。

声を上げなかったクラス全員が、あの日の共犯者だった。

だからこそ、復讐の矛先は曖昧で、すべてに向けられている。

「誰が悪いのか?」ではなく、「誰も悪くないと思ったこと」こそが悪だった。

赦しは、終わりではなく始まり

この物語の中で、赦しは救いではない。

それは、真実と向き合うための“痛みの入り口”だ。

高木将が、かつて自分がいじめに加担していたことを思い出した瞬間、彼の人生は崩壊する。

だが同時に、そこからしか、本当の「良いこと」は始まらない。

赦されることを望む人間は、自分の罪を直視できない。

赦さないと決めた園子は、誰よりも“生きる覚悟”を持っている。

なぜなら、赦さないという行為は、忘れないという宣言だからだ。

ドラマが描く「赦し」は、聖なるものではない。

それは泥のように重く、冷たく、時に人を蝕む。

それでも、誰かがその泥に足を踏み入れなければ、過去は終わらない。

『良いこと悪いこと』というタイトルの意味が、ここで再び反転する。

赦すことは「良いこと」ではなく、真実を見続けるという“悪いこと”を引き受ける勇気なのかもしれない。

園子が抱えるトラウマは、痛みの記録であると同時に、記憶を忘れさせないための警鐘だ。

そしてその鐘の音は、過去に関わったすべての人間の心に鳴り響いている。

「あなたは、誰かを閉じ込めたまま、生きていませんか?」

それが、このドラマの最も静かで、最も鋭い問いだ。

なぜ今、『アゲハ蝶』なのか──懐かしさが孕む恐怖

『アゲハ蝶』が流れた瞬間、多くの視聴者は懐かしさとともに、説明のつかない寒気を覚えたはずだ。

2001年に生まれた曲が、なぜ2025年の今、ミステリードラマの主題歌として蘇るのか。

それは単なる時代のノスタルジーではない。“懐かしさそのもの”が物語の毒だからだ。

平成という記憶が生む、優しさと恐怖

平成という時代は、どこか「優しさ」が支配していた。

「頑張らなくてもいい」「みんな同じでいい」──そんな言葉が、心の傷を覆うように流通した。

だがその“優しさ”が、実は“無関心”に変わっていったことを、私たちはいつの間にか見逃していた。

『アゲハ蝶』が選ばれた理由は、この「優しさの裏にある恐怖」を可視化するためだ。

第1話の映像演出は、その構造を巧妙に使っている。

懐かしい学校、古びたアルバム、タイムカプセル、そしてあの曲。

本来なら“温かい記憶”であるはずの情景が、冷たい違和感として迫ってくる。

まるで、過去の空気そのものが罪を孕んでいるかのように。

懐かしさが不気味さへと変わる瞬間

『アゲハ蝶』のイントロが流れる時、視聴者の心は反射的に“懐かしい”と感じる。

だが、その後に訪れる映像は、血の色、雨の匂い、暗闇のざらつき。

懐かしさの感情が、不安と恐怖に変質していく。

「心地よさ」と「不穏さ」を同時に刺激する演出こそ、このドラマの最大の仕掛けだ。

つまり、『アゲハ蝶』はBGMではなく“記憶のトリガー”なのだ。

視聴者の脳に埋め込まれた“平成の幸福感”を呼び起こし、それを裏返して恐怖に変える。

懐かしいと思った瞬間、その感情は罠に変わる。

──その違和感を、ドラマは狙っている。

「時間の流れ」がもたらす祈りと絶望

ボーカルの岡野昭仁は、かつて『アゲハ蝶』を「時間とともに育った曲」と語っていた。

この言葉は、まるでドラマの主題そのものだ。

22年という歳月の中で、誰もが“何かを忘れたまま”大人になった。

そして今、その忘れたものが、ひとりの命を奪う形で戻ってきた。

『アゲハ蝶』の歌詞にある「旅人に尋ねてみた、どこまで行くのかと」というフレーズは、まるで犯人自身の心の声のようだ。

“贖罪の旅”を続ける者に、終わりはない。

それでも歩く。償う。もう一度あの時に戻れるならと、翼を広げる。

だがその翼は、もはや蝶ではない。焼け焦げた記憶だ。

過去の映像と現在の悲劇が重なる瞬間、視聴者は気づく。

「懐かしさ」は“再生”ではなく、“記憶の墓標”なのだと。

『アゲハ蝶』が流れることで、画面の中と視聴者の心がシンクロする。

あの時代を生きた人ほど、この曲に胸を締め付けられる。

それは曲の美しさではなく、“過去に触れてしまった痛み”の記憶が蘇るからだ。

だからこそ、この選曲は完璧だ。

懐かしさの中に潜む恐怖こそ、現代のサスペンスが最も描きたかった“人間の記憶の闇”だから。

そしてその闇は、私たちの心の中にもある。

「思い出したくない記憶ほど、美しい音で蘇る。」

『アゲハ蝶』が今、再び羽ばたいたのは、私たち自身の罪を映すためだ。

「良いこと悪いこと」が問いかける、救いの定義

『良いこと悪いこと』というタイトルを、あなたはどんな意味で受け取っただろうか。

単なる“道徳”や“正義”の物語ではない。

このドラマが描こうとしているのは、「救いとは何か」という問いそのものだ。

善も悪も、過去の中で形を変える

物語を貫くテーマは、善悪の二元論ではなく、「どちらも同じ場所から生まれる」という現実だ。

誰かを助けたいという気持ちも、誰かを傷つけたいという衝動も、その根には“痛み”がある。

犯人が抱いた歪んだ正義もまた、かつて守れなかった自分を贖うための手段だった。

だが、その瞬間に彼は気づく。「正義が人を救うとは限らない」ということに。

園子は、自分の中に生きる“過去の私”を殺すことができない。

高木将もまた、かつての“悪い子”としての自分を赦せずにいる。

この二人の歩みが交わるとき、ドラマは一つの答えを突きつけてくる。

「救いは、他者に赦されることではなく、自分の罪を見つめること」なのだと。

償いと報われなさの狭間で

『アゲハ蝶』の歌詞には、「もしも届けられるなら、あなたに届けばいいと思う」という一節がある。

その祈りのような言葉は、犯人の心にも、園子の心にも、そして私たちの心にも響く。

誰もが誰かに許されたい。誰かに理解されたい。だがその想いは、しばしば届かない。

このドラマは、その届かない祈りの“美しさ”と“残酷さ”を同時に描く。

園子を傷つけた人々は、22年という歳月の中でそれぞれの人生を生きてきた。

家庭を持ち、子を育て、笑い、働き、そして──忘れていた。

だが忘却は救いではない。むしろ、それこそが“新たな悪”だ。

誰かの痛みの上に築かれた日常は、いつか崩れ落ちる。

だからこのドラマは、視聴者に静かに問いを投げかける。

「あなたの幸せは、誰かの苦しみの上に立っていませんか?」

それが、ドラマの語る“良いこと”の本質だ。

真実に向き合うことが、唯一の「良いこと」

最終的に、「良いこと」とは何か──その答えは、道徳でも法律でもなく、“覚悟”の問題だ。

高木将が過去の罪を認めた瞬間、彼はようやく“生きることの痛み”を引き受けた。

園子もまた、復讐ではなく真実の追及を選ぶことで、自分の中の悪意と向き合う。

彼女が語る「私は赦さない」は、決して憎しみの言葉ではない。

それは、「もう逃げない」という宣言だ。

『良いこと悪いこと』というタイトルは、視聴者に向けられた鏡である。

人は誰もが、どちらか片方の側で生きているわけではない。

今日の“良いこと”が、明日の“悪いこと”になるかもしれない。

その曖昧さの中で、それでも誰かを救おうとする意志こそが、唯一の希望なのだ。

この物語が本当に問いかけているのは、たった一つ。

「あなたは、誰を救いたいと思っていますか?」

そしてその問いに答えようとする瞬間、私たちは気づく。

“救い”とは他人のためのものではなく、自分の中の闇と向き合う勇気のことなのだと。

──『良いこと悪いこと』は、人間の善悪を裁く物語ではない。

それは、自分の中にある「良いこと」を、もう一度信じるための物語だ。

沈黙の連鎖──誰もが少しずつ加害者になる世界

このドラマを見ていて、どうしても気になってしまう人たちがいる。
それは、事件の中心にいない「周囲の人たち」だ。

園子をいじめたわけでも、誰かを殺したわけでもない。
でも、彼らの表情にはずっと“言えなかった言葉”が貼りついている。

そう、沈黙もまた、行為なんだ。

それをこのドラマは静かに描いている。

“何もしなかった”という選択の罪

第1話で高木将が過去を思い出す場面。
誰も声を上げなかった、あの体育倉庫の前。
「止めたかったのに、怖くて動けなかった」──その言葉は、きっと多くの人が抱えたことのある感情だ。

けれど、動けなかった時間の中で、誰かの人生は変わってしまう。
自分では何もしていないのに、“何もしなかった”という記憶だけが、心の中で腐っていく。

その腐敗臭を隠すように、人は「もう終わったこと」と言う。
でも、それは終わってなどいない。
時間が経てば経つほど、沈黙は重くなる。
そしていつの間にか、誰もが“加害者の影”を少しずつ持つようになる。

この作品が鋭いのは、罪を行動ではなく“心の記憶”として描いているところだと思う。
だから怖い。
声を上げなかった過去は、何度でも今を侵食してくる。

職場にもある、沈黙の構図

ふと、職場の風景が重なった。
誰かが理不尽に怒られているとき、
「かわいそう」と思いながら、何も言わずにパソコンに向かう自分。
あの瞬間の空気は、教室の沈黙と何も変わらない。

このドラマは、過去のいじめを描きながら、現代の“見えない無関心”を映している。
笑って流す、聞こえないふりをする、関わらない。
そのどれもが、小さな悪意の種になる。

人はよく、「正義は難しい」と言う。
でも本当は、“優しさを怖がる”ことこそが悪なのかもしれない。

もしこのドラマを観て胸がざわついたなら、それは過去に似た沈黙を経験しているからだろう。
誰かの痛みに、ほんの一瞬でも気づいていたはずなのに、見なかったふりをした自分がいた。
それを覚えている限り、まだ取り返せる。

『良いこと悪いこと』の怖さは、殺人ではなく、
その“沈黙の連鎖”が現代にも続いていることを突きつけてくるところにある。

犯人探しよりも前に、問いがある。
「あの日、あなたは何を見て、何を見なかった?」

その答えが出るまで、この物語は終わらない。

「良いこと悪いこと」が映す、私たち自身の鏡──まとめと終章

『良いこと悪いこと』は、単なる復讐劇でもサスペンスでもない。

それは、人間が生きることの矛盾──“良いことをしようとした結果、誰かを傷つけてしまう”という現実を描いた物語だ。

そして主題歌『アゲハ蝶』は、その矛盾を静かに包み込む祈りのように響いている。

タイトルが示す「良いこと」と「悪いこと」は、二つの道ではなく、一つの輪だ。

その輪の中で人は何度も過ちを繰り返し、誰かを赦せず、自分を赦せず、それでも前に進もうとする。

善と悪の境界は、線ではなく呼吸のように揺れている。

園子は過去を忘れない。
高木将は過去を認める。
犯人は過去に囚われる。

それぞれが違う形で、“罪”と“救い”を抱きしめている。

『アゲハ蝶』の旋律が流れるたび、視聴者の胸の奥で何かがざわめく。

それは音楽ではなく、自分の中に眠る過去の声だ。

あの時言えなかったひと言、助けられなかった誰か、閉じ込めたままの記憶。

ドラマはそのすべてを、光と影の間で優しく照らし出していく。

結局、“良いこと”とは何か。

それは正しさではなく、誰かの痛みに目を逸らさないことだ。

“悪いこと”とは何か。

それは、見て見ぬふりをしたまま、何も感じなくなることだ。

『良いこと悪いこと』というドラマは、観る者一人ひとりにその定義を委ねている。

だからこそ、この物語の真の主人公は“私たち自身”なのだ。

誰かの痛みを想像すること。
過去を見つめ直すこと。
そのどれもが、“良いこと”の始まり。

そして──

「善と悪は、別の人間の話じゃない。
それは、昨日の自分と今日の自分の違いだ。」

『良いこと悪いこと』は、そう語りかけながら終わる。

静かに、しかし確かに、心の奥に残る。

“あなたの中のアゲハ蝶は、今も羽ばたいていますか?”

この記事のまとめ

  • 『良いこと悪いこと』は、過去のいじめと現在の殺人が交錯する“善悪の鏡物語”
  • タイトルは「良い事/悪い事」と「良い子/悪い子」の二重構造を示す
  • 主題歌『アゲハ蝶』が犯人の贖罪と歪んだ祈りを象徴している
  • 登場人物の“夢”が死を招く、因果と記憶のバタフライ効果
  • いじめの被害者・園子のトラウマが、赦しと時間のテーマを浮き彫りにする
  • 平成のノスタルジーが懐かしさと恐怖を同時に呼び起こす仕掛け
  • 沈黙と無関心が最も重い罪として描かれ、観る者の良心を試す
  • “良いこと”とは他者を救うことではなく、自分の罪を見つめる覚悟
  • 善と悪の境界は曖昧であり、過去を見つめることこそ本当の“良いこと”
  • 『アゲハ蝶』は観る者の心に潜む罪を映す鏡であり、救いへの鍵

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